旅人の手記 二冊目 - 蝉海夏人のブログ -

2015-02-15

歳を取るごとに冬が嫌いになっていく

((((;ω;))))ガチガチガチガチガチガチ

というわけで、今回は近況だけ。
新人賞に送る原稿をずっと書いているので、
来週もまたこんな感じになると思いますが、ご容赦を。
最近ですが、CASCADETAMAさんがニコニコで公開している
「歌ってみた」シリーズにはまっています。

D

元々シンセポップ的なミックスを得意としている方なので
ボカロ曲との相性が非常に良く、ついつい聴き入ってしまいます。

TAMAさんのマイリスト「歌ってみた」

ではでは。

(BGM:ATOLS『キメラ』(歌ってみた:TAMA))

2014-10-26

「カゲロウプロジェクト」のメドゥーサ観――「見る≠所有する」というアンチテーゼ


※ 以下の作品について、核心的な部分についてのネタバレがあります。
 
 マンガ『カゲロウデイズ』1〜5
 (著・じん 作画・佐藤まひろ 刊・メディアファクトリー)1〜5
 小説『カゲロウデイズ』1〜5(著・じん 刊・エンターブレイン
 アニメメカクシティアクターズ


 「カゲロウプロジェクト」は〈邪眼〉というモティーフから出発し、メタ的なレヴェルにおける「見る」という行為に際し本性的に備わる暴力性やエロスに対して批判的な視座を与え、「見る」という概念を脱構築・再構成しよう試みた物語である。そのことが最も端的に表れているのが、本作におけるメドゥーサ像においてであるのだ。
 以下、「カゲロウプロジェクト」における視覚とその象徴たるメドゥーサ像をめぐる、思弁の遁走を始めたいと思う。


・ メドゥーサ=「視覚と触覚→所有欲」のメタファー

 メドゥーサという怪物は、「見る」ことの暴力性やエロティシズムを象徴する存在として、芸術作品のモティーフとして描かれてきた。カラヴァッジョの『メドゥーサ』やルーベンスの『メドゥーサの首』など、メドゥーサをグロテスクな、猟奇的なイメージを伴い描かれてきた作品を挙げていけば、枚挙に暇がない。このようなメドゥーサ観は大衆文化にも、強く根付いている。RPGでメドゥーサは定番のモンスターであるが、彼女らの持ち得る能力を思い起こしてもらいたい。味方パーティを「石化」させる力はもちろん、そして味方パーティを「ゆうわく」(味方パーティを混乱と同様の状態にする)させる力を持っていることも珍しくないはずだ。このようにハイ・カルチャーからポップ・カルチャーに至るまで、メドゥーサという怪物にはどうしても好戦的・好色的なイメージがつきまとう。そしてそのようなメドゥーサ像が一般的であることは、「カゲロウプロジェクト」の作中でも次のように触れられている。

物語の中なんかじゃいつも 怖がられる役ばかりで
(じん『想像フォレスト』より)

 それはメドゥーサが「視覚」の象徴であり、「見ること」は本性的にエロティシズムや暴力性を備えているからである。澁澤龍彦曰く「見るということは、所有すること*1」であるという。暴力もエロスも両方とも、絶対的に他者を必要とする。しかしこの両概念は、他者を必要としていながら他者の人格を否定する志向性を持つ。他者を物象化したいと欲するのだ。つまり、他人を「もの」として欲する。それは「視覚」が、自己を拡張しようとする性質を持つからである。欲しいものが目に入ったら手を伸ばすように、視覚は所有欲を誘因する本性を持っており、自己の身体を拡張するよう促すのだ。ここに「触覚」との連関性が生まれる。相手を所有するには、相手に触れなければならない。バイオレンスにしてもエロスにしても、その現実に発言させるには「触覚」の助けを借りずにはいられない。視覚したものを触覚しようとする、そこには所有欲が絡んでいるのだ。
 さて。話をメドゥーサに戻すが、メドゥーサの石化の邪眼は、まさしく「視覚と触覚の親和性」及びそのことがもたらす「所有欲」を暗喩した概念であるといえる。何故なら彼女の邪眼は、相手を腕ずくで組み伏せる(触覚)ことなく、見るだけで(視覚)永遠に静止させてしまう。「もの化」させてしまうのだから。


・ メドゥーサ≠「視覚と触覚→所有欲」というメタファー

 けれども「カゲロウプロジェクト」におけるメドゥーサ観は、前述のような好戦的・好色的なメドゥーサ像とは大きく異なっている。「カゲロウプロジェクト」に出てくるメドゥーサの一族アザミの直系)とその能力の保持者からは、「見る≠所有すること」というテーゼはほぼ剥奪されている。そればかりか、そうした危険性に登場人物自体が自覚的で、積極的に距離を置こうとすらしている。上述したような視覚論に対して批判的なテーゼを、物語全体を通じて描写している。それは「蛇」の力を持った能力者達が自分の能力を全編通じて忌避しており、能力者同士が「蛇」の力を取り消す方法を探すためにメカクシ団を結成するという物語の大筋からも明らかなことである。この物語は、「見る」ことに伴う暴力性やエロティシズムに対して自覚的であり、かつ否定せんがために批判的視座さえ置いているとすらいってもいい。
 作者であるじんがこのようなメドゥーサ観をどこから得たのか。それは、神話上のメドゥーサの物語にその根拠を求めることができる。何故なら、原典のメドゥーサはそもそも好戦的・好色的な怪物「ではない」からである。むしろ、前述の「視覚の暴力性・エロス」を向けられる対象、「見られる」側であったのだ。
 美貌のゴルゴン三姉妹の三女であるメドゥーサはある日、アテナ神殿ポセイドン強姦されてしまう(欲望の対象として「見られる」)女神アテナは、神殿を穢した罪としてメドゥーサを咎め、頭髪を全て蛇にしてしまう。(軽蔑の対象として「見られる」)現代の倫理観に当てはめてみればとんでもない話なのであるが、とにかく神話の上におけるメドゥーサの物語はそうなのだ。ここからは、ご周知の通りペルセウスのメドゥーサ退治の物語へと続くのである。
 このメドゥーサを襲った二つの理不尽について、美学者の谷川渥は著書『鏡と皮膚 芸術のミュトロギア』において次のように説いている。

 メドゥーサは、二重の意味でヴァルネラブルな存在なのだ。その彼女は、以後、見られることにおいて見る存在となる。つまり、彼女はあくまでも見られるという受け身のあり方で見るという攻撃性を手に入れる。石化は、だから自分のあまりにおぞましい姿を見られることの拒否として結果するのだということもできる。

谷川渥『鏡と皮膚 芸術のミュトロギア』筑摩書房 P87

この「ヴァルネラブル vulnerable」というのは訳しにくい言葉であるのだが、おおよそ「迫害されやすいこと・傷つきやすいこと・被害者的」という意味を示していると考えてくれればいい。このメドゥーサのヴァルネラビティは、カゲロウプロジェクトの全編に渡って貫徹されている。文字通りメドゥーサの一族であるアザミの直系は当然のこととして、メドゥーサの能力(「蛇」の力)を持つ能力者全員は、何らかの形によって迫害を受けている。そもそも、能力を得る条件が「生死の境界(=カゲロウデイズ)」に触れることであり、かつ能力は自分の意志で所得したわけではない。受け身なのだ。彼らは、皆ひとしくヴァルネラブルな存在といえる。
 そもそも「メカクシ団」という名称からして、自分たちが「見られる」存在であり、その視線には先ほど述べたような攻撃性が備わっていることに、彼らが自覚的であることを示唆しているではないか。「カゲロウプロジェクト」とは、谷川の言葉を借りれば「見られるという受け身のあり方で見る」ことによって、「見ること」の攻撃性を否定(自分の能力の消失を願う)する物語であるのだ。


ゴルゴイオンとしての女王マリー

 だがこの物語には「見ること=所有すること」という、メカクシ団が忌避するテーゼ肯定し、実行する登場人部が存在する。〈邪眼〉の暴力性やエロティシズムを積極的に肯定し、メカクシ団と敵対し、本作最大の悪役でいえる存在、目が冴える蛇(黒コノハ)だ。彼の作中での描写は、その嗜虐性もさることながら、「見るということは、所有すること」という澁澤の視覚観と完全に合致している。故に、目が冴える蛇はその行動をとっても目的をとっても、「『見る』という行為に際し本性的に備わる暴力性やエロス」を忌避するメカクシ団にとって最大の敵であり、かつ本作最大の悪役になりうるわけだ。
 ここで、目が冴える蛇の姦計に嵌り覚醒したマリー(女王マリー)について、注目したい。マリーの能力は、アザミより渡された10個の「蛇」が全て結集させ、一つの願いを叶える能力(目を合わせる力)である。これはまさしく「見ること=所有すること」というテーゼをダイレクトに表現している。願いが叶えられると消えてしまう目が冴える蛇は、マリーにその力を使わせてループを引き起こさせ、自分を生き永らえさせようと唆すのである。
 さて。ここで見て欲しいのは、この女王マリーの容姿である。蛇の鱗、羽のような流線型の浮遊体、――短くなった髪の毛。鱗については祖母であるアザミの特徴であり、羽は天使のように超越した存在を表すシンボルであるから、これも図像学的に解釈すれば分かる範囲である。しかし短髪になる理由、これがどう考えても分からないというユーザーは多いはずだ。私もいま一つ納得のいく説が思いつかなかったが、こう考えると合点がいった。それは、「斬首されたメドゥーサのメタファー」という解釈だ。
 神話のメドゥーサはペルセウスに首を落とされたあと、化け鯨を倒す道具として利用された。これを図像解釈学の用語で「ゴルゴイオン」と呼ぶのだが、人格を剥奪され、冴える蛇に道具として使用される女王マリーはまさしくゴルゴイオンと零落したメドゥーサであると考えられる。利用するということは、所有するということと同義である。繰り返しになるが、目が冴える蛇は、全てを「合わせる=所有する」女王マリーを所有しようとする、「見ること=所有すること」というテーゼ肯定的に捉えた世界におけるヒエラルキーの頂点に立つ存在であり、まさしくそのアンチテーゼを提唱しようとするメカクシ団の最大の敵としてふさわしい存在といえるのである。

 「カゲロウプロジェクト」はメドゥーサ=邪眼の能力者をモティーフとし、「見ること=所有すること」という従来のメドゥーサ像に重ねられていたテーゼに対し、原典のメドゥーサにおけるヴァルネラビティに立ち返ることによって、「見ること≠所有すること」というアンチテーゼを提唱して戦わせる――そうして、「見ること」に新たなイマジネーションを表現して「見せた」作品群であると言えはしないだろうか。

*1澁澤龍彦「眼の欲望」(収録『エロティシズム』中央公論社 P29)

2014-10-12

『ノーライフキング』と周縁作品に関する断想

 先週の日曜日だが、ゆりいかさんが開催された読書会に参加した。課題図書は前に申し上げたとおり『ノーライフキング』(いとうせいこう)である。

「あの夜(よ)の読書会 開催のお知らせ」
「ハロー・ブンガク・グッドバイ」

 大学のゼミを髣髴とさせるような雰囲気で互いに意見を交し合う、大変充実した時間を過ごせたように思う。
 ただ、題材となる作品が非常に難解な内容であり、時間ギリギリまで物語の読解でほぼ手一杯となってしまった。そのため類似作品や後発に見られる影響といった系譜論的な推論、その他メタレヴェルの考察まで十分な発言をすることができなかった。本作は物語的な面白さやプロットの構成力・ドラマツルギーなどの技巧的な拙さは数多くあれど、大変射程の広い作品ということができ、系譜論的に見ても様々な論点を展開することが可能である。そこで個人的な補遺として、考えていたけれどあの場ではちょっと言えなかったことを、ここでまとめたい。


・子どものカルチャー・ホビーにおける解釈の必要性

 本作『ノーライフキング』が発売された1988年前後という時代におけるテレビゲームというものは容量も少なく、ゲームの中で語られる世界観というのは限界があった。結果プレイヤーに解釈を必要とするものが多く存在していた。本作はそのような時代背景がダイレクトに反映され、かつメインストーリーの肝として織り込まれている。
 読者は本作を読んでいて『ドラゴンクエスト』や『ゼルダの伝説』など、当時の様々なタイトルが頭の中に浮かんだことであろうが、ここでは少し視点を変え「解釈」という点に注目し、テレビゲーム以外の同時代的にヒットしていたある商品について少し触れたいと思う。「解釈」の要素がヒットの原動力となった「ビックリマンシール」である。
 物語がシールのイラストと、その裏面に書かれているわずかなテクストによって、ごく断片的に語られない「ビックリマンシール」(正確には「10代目・悪魔VS天使シール」「11代目・スーパービックリマン」)は、1980年代後半から1990年代初頭にかけて一大ムーブメントを築き上げた。物語の断片を求めてシールを買い子どもたちだけで意見を交換し合うという状況と、本作におけるメインモティーフとなるゲームソフト「ライフキング」を取り巻く様相との類似点を見出すことは容易い。おまけに「ライフキング」には複数のバージョンがあってそれぞれによってレアリティが異なるといった「射幸心を煽る」点まで一致している。
 このような物語で描かれる消費の仕方は、まさしく大塚英志の物語消費論に当てはまるところであり、またそこから派生した東浩紀のデータベース消費論などを引き合いに出してくれば、一層面白い議論を展開することができるであろう。ただ今回はそのような論点は少し脇におく。本作が登場した当時の子どもの文化において「『解釈』を肝としたヒット商品」があり、それを取り巻く構造は『ノーライフキング』の物語に色濃く反映されていること、基本的なことではあるが、それをしっかり踏まえておかなければ、本作以後の後発作品についてその類似性や影響について深く論じることができなくなるのだ。


・セカイ系やJホラーなど、後発作品に与えた影響について
 
「第一回ちょこっと読書会 いとうせいこう『ノーライフキング』を読み解く(2ページ目)」

以上のリンクは、2年前ゆりいかさんがtwitter上で主催された『ノーライフキング』の読書会のまとめである。この2ページの後半で掲載されている、山川賢一(しんかい36)さんの発言を以下に引用する。

セカイ系?とかのルーツの一つはノーライフキングだと思うんだけど、これDVDないのかよ。http://t.co/6nlC91WA 電柱写りまくる無機質な都会の描写、日常の裏で営まれる、子供達だけが知ってる非日常のサバイバルゲーム、「リアル」というキーワード、などなど

ノーライフキングは呪われたテレビゲームの話で、リングよりも二年くらい早いはず。おそらく影響も与えていると思う。

Jホラーとセカイ系?とか言われる作品(ブギーポップあたりを含めて考える場合)は意匠がよく似ているんだけど、わりと同時発生的でどういう影響関係なのかよくわからなかった。ノーライフキングがすべての出発点にあり、そこから双方が別個に進化したという仮説はどうだ。いけるんじゃないか

Jホラーやセカイ系作品と関連付けて考察するしんかいさんの発言は、私の問題意識とかなり近いものがある。私も『ノーライフキング』を読んでいて、真っ先に思い浮かんだのが『リング』(鈴木光司)だった。「テレビゲームのカセット」にしろ「ビデオカセット」にしろ共通していえることは、二者とも当時最新のメディア媒体であるということだ。そして、その内容について解釈すること、そしてその解釈が現実にかけられた呪いを説くカギになるという点まで、この二者は一致している。虚構が「呪い」という摩訶不思議な概念を以って、現実に対してダイレクトに影響を与える。そして現実の登場人物が、虚構の内容を「解釈」することで「解呪」する方法を探る。二作品に共通するこの物語の構造は明らかに「虚構と現実の脱構築」をプリミティブに志向しており、「虚構と現実の相互境界侵犯性」を読者は意識せざるを得ない。「呪い」がもたらす「死」というモメントを前に右往左往する物語に沿って織り込まれたこのような構造性を目の当たりにした読者が必然的に「実存の危機」というテーマを見出すことは、想像に難くない。
 ただし、二者には「物語の明瞭性」という相違点があることを抑えておく必要がある。『ノーライフキング』においては「呪い」と「死」の因果関係が曖昧で、そもそも何を以って「呪い」とするのかすら曖昧なまま物語が終わる。一方『リング』は「七日間という時間制限のうちに「呪い」を解かなければ、ビデオを見たものが死ぬ」と最初からはっきりと明示されている。ドラマツルギーも明瞭で、登場人物の言動もリアリズムを踏襲している。二者は構造こそ似ていれど、「解釈」と「死」という二つのモメントの関連性、及び「呪い」という概念の定義がまるで違うのである。
 分かりやすくいうと、後者のほうが明らかに「エンターテイメント」を意識した作風になっているということだ。一つの作品がエンターテイメントとして成立する要件というものは人によって様々だと思うが、私なりにある程度普遍的に認められていて共通し、かつ重要と考えられるものとしては「物語のプロットが明瞭であること」「登場人物に感情移入できること」の二つがとりわけ挙げられる。『リング』はその点がはっきりと前面に描かれており、それが本作の完成度に貢献し、多くの読者を牽引した原動力となったことは詳述するまでもない。けれども『ノーライフキング』は先に述べたように、こうした要件を忠実に守っているとは到底言い難い。(故に、「『ライフキングを解釈する子どもたち』という物語を解釈する読者」というメタ構造が生まれ、それが『ノーライフキング』という作品の特異性を浮き彫りにしているといえるのであるが)この差異性は興味深い。何故なら、上のセクションで挙げた『ビックリマン』にしろ、このセクションを挙げている『リング』にしろ、本作の周縁作品として挙げた作品は「エンターテイメントとしての完成度」という点で、本作と真逆のベクトルを志向しているからだ。このことは本作より十年後より開始された『ブギーポップシリーズ』(上遠野浩平)などにも共通することである。両者は「『死』と『子どもたちだけのウワサ』」というモティーフを核にした物語という点で一致しつつも、「プロット構成の巧みさ」「読者の自意識をくすぐる心理描写(=感情移入)」というエンターテイメント性を備えているか否かという点で両者はまるで異なる。

 まとめると、『ノーライフキング』は構造とモティーフにおいて「死にまつわるウワサと解釈、箱庭的世界観」という魅力的な要素を示し、後発のクリエイターはそれを継承しつつも、同時にエンターテイメント性を加えることでオリジナリティを確保して、「Jホラー」「セカイ系」「現代伝奇」といったジャンルとして独自の進化を遂げていった、といったところだろうか。

2014-05-25

『コミティア30thクロニクル 第1集』読みました




先日『コミティア30thクロニクル 第1集』(編・コミティア実行委員会)を読了しました。
感想を書こうと思ったのですが、大変多くの作品が収録されているため、
気になったいくつかの作品だけ言及したいと思います。
全体の感想については読書メーターの方に上げているので、こちらを参照ください。


※『作品名』(作者名/サークル名)

『サンディと迷いの森の仲間たち』
(内藤泰弘/鴨葱スウィッチブレイド)

『トライガン』で知られる内藤泰弘さんが初めて作った同人誌より。
私が初めて読んだのは、一昨年出た個人誌総集編『S.Flight』だった。

真に素晴らしいエンターテイメント作品である。
ハイセンスなデザイン、緻密な世界設定、エシカルなテーマと、
現在の氏のエッセンスは、初作品において既に顕然としている。
前にティアズマガジンで中村さんが絶賛していたが、
この作品を最初に掲載したのはベストな判断だったと思う。


『メイドさんは魔女』
(武内崇/竹箒)

あのTYPE-MOONの武内崇氏が『月姫』発表とほぼ同時期に発表したコメディ。
率直に言って、指や手のデッサンや背景がかなり不安定。
『月姫』と同時進行だったことを考慮しても、これはきびしい。
特長であるシンプルながらもキャッチーなキャラデザは良いのだが……。
内容は可もなく不可もなく。
氏の特徴である、メイド愛だけはしかと分かった。

あとオノマトペや書き文字のセリフに、内藤泰弘氏の影響を感じた。


『開けっ!』
(あらゐけいいち/ヒマラヤイルカ)

『日常』(角川書店)で有名なあらゐさんが、連載前に発行した同人誌。
内容は、ほとんどが小説家志望の少女の独白で占めている。
この手のモティーフはともすれば、著者の自意識に比重がかかり過ぎて、
作品としての完成度を阻害してしまう危険性も高いのだが、
これは演出が上手く、充分に一つのエンターテイメントとして成立している。
最後のモノローグがタイトル・表紙につながっているという構成も良い。

余談だが本誌はこの作品の他にも、
『同人誌を作ってみた。』(双見酔/下り坂道)
『シマウマにはシマがある』(BELNE/アートファクトリィ)
『R.P.E』(TAGRO/放送塔)など、
クリエイティブな趣味や職業をテーマにしたものが多い。


『余命100コマ』
(おーみや/Happa)

評判が良くしょっちゅうタイトルを耳にするので、気になっていた一遍。
死神に余命100コマと告げられた女の子のコメディ。

一言でいってしまうと、発想の勝利といったところ。
この手のメタ的なモティーフは作者の自己満足に陥り易い危険性があるが、
本作はネタとして巧く本筋に落とし込んでいる。
マンガという表現媒体の可能性の拡張に挑戦した、秀作。


『SUMMER SONG』
(南研一/Parking)

まったく予備知識なしで読んだ。
あとがきによると著者は現在、マンガを描いていないようだ。

内容は一昔前に流行ったようなディストピアSFに、
青春の葛藤と自意識を絡ませたようなストーリー。
灰色の世界において、青年達が「物語」を求め
青臭く身勝手で純粋な意志を尖らせていくドラマツルギーは、
ポストモダン的というか脱構築的というか――、
まあこのあたりからも80〜90年代的なニオイがする。
けれども、だからこそ創作同人らしいというか、
「コミティアらしさ」を感じる作品であるとも思った。
本作を最後に掲載した意図はなんとなく分かった。

2013-09-02

マンガ・ラノベ・J-POPで誤用される『自閉症』『コミュ障』

※ この記事はマンガ・アニメ・小説・音楽作品、及びそのユーザーの間で用いられる「自閉症」「コミュニケーション障害」といった病気に対する事実誤認について言及した文章です。取り上げている各作品のクォリティについて批評・評価した文章ではありませんので、その点をご留意下さい。

 先日、『ブギーポップ・アンバランス ホーリィ&ゴースト』(上遠野浩平 アスキー・メディアワークス 2001年)という小説を読んだのですが、作中で気にかかる描写がありました。

 それに、夕方の彼は将来サラリーマンになるであろう普通の学生でも、そういう勤め人人生から脱落した自閉症の人間でもない。なんでもない存在だから、ただそういう空間の雰囲気の中をさまようだけだ。(P23)

 彼とは、本編の登場人物である高校生の結城玲治(ゆうきれいじ)のことです。この文章は物語冒頭で結城が、何の当てもなく漠然とした気持ちでビジネス街を彷徨う場面を描写した箇所です。
 ここで「自閉症」という言葉が使わられていますが、文脈からして「知的障害としての自閉症」を指しているのではないことは、分かりますよね。さしずめ「消極的で意欲に欠ける人」「排他的で自分の世界にこもりがちなこと」「コミュニケーションを不得手とする人」といったニュアンスで「自閉症」という言葉を使っているのでしょう。
 言うまでもなくこのような使い方は誤用です。ご周知の通り、自閉症は先天的な認知障害であり、後天的に本人の生活習慣や精神状態が原因で発病するような病気ではありません。

「自閉症 - wikipedia - ♯病気概念」

 一昔前は、よくこういう誤用を見かけました。冬目景さんのマンガ『僕らの変拍子』(幻冬社 1994年)でも同様のニュアンスでこの言葉が使われていましたし、ロックバンドである黒夢の楽曲などでは、ずばりそのまま『autism-自閉症-』(1994年・抗議を受けて現在は再録禁止)という曲がありました。
 こうした誤った意味合いで病名を使うことは、その病気を持つ人々に対する偏見や差別を助長することにつながりかねず、クリエイターは厳に戒めるべきことだと思います。

 現在では、自閉症という病気が周知されるようになったため、マンガ作品やJ-POPなどで、このような誤用を見かけることはほぼなくなりました。
 けれども、今度はまた別の病気が同じような誤解を受けるようになりました。最近よく耳にする「コミュニケーション障害」という病気です。

 ネットスラングにおける「コミュニケーション障害」(コミュ障)はしばしば、自己愛的傾向、消極性、経験不足、社交性の欠如等、本人の性格による問題として語られることが多いですが、これは明らかな誤認といえます。言語聴覚士の治療対象となり、ICD(疾病及び関連保健問題の国際統計分類)にも記述されているれっきとした病気であり、「自閉症に対する誤用」と同様の現象だといえるでしょう。

「コミュニケーション障害|心の病気」―「健康・医療館」

 話は少し変わります。
 今大人気を博しているアニメ『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』(原作 谷川ニコ 刊 スクウェア・エニックス)の主人公黒木智子(もこっち)について。
 作中で描かれる、人とのコミュニケーションが過度に苦手な彼女の言動を指して、ネット上ではよく「コミュ障」と呼ばれることがあります。(作中においてはそのような言及はありません)調べてみる限り、コミュニケーション障害の症状と類似する描写が作中において複数存在するため(吃音、単語の単複、過度の身体的緊張、音の延長など)、あながち間違った形容とは言い切れません。
 また、一部の視聴者からは「社会不安障害(SAD)」という病気なのではないか、という指摘・解釈もされています。

「『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』の主人公黒木智子が激しくSADであることについて思う」―「社会不安障害と向き合う」

 けれども、果たしてこのキャラクターを指して「コミュ障」と形容している人たちが、「この主人公は精神疾患を患っている」と認識しているのかどうかとなると、かなり怪しいところであると思います。単に内向的で排他的な性格を指して「コミュ障」と呼んでいるだけなのではないかというのが、私の所感です。

 一昔前は「自閉症」で今は「コミュニケーション障害」 何故、ポップ・カルチャーにおいて知的障害や精神疾患は、こんなに誤解を招くような表現が一部に見受けられるのでしょうか。そして、こうした状況を問題提起する姿勢が、ポップ・カルチャー界隈から見受けられることが少ないのでしょうか。
 そこにはやはり、こうした障害・疾患を患う人、または内向的・排他的と評価される人々(いわゆる引きこもりやニート)に対する無理解が根底にあるのでしょう。そうして、こうした病気に対する誤解、引いては社会的に弱者とされる内向的な人々に対する無理解が、延々と続いているという、一つの証左ではないでしょうか。

 そんなことを少し考えてしまいました。