旅人の手記 二冊目 - 蝉海夏人のブログ -

2015-03-15

『ずるさ』のあるズレたコード――『ベネズエラ・ビター・マイ・スウィート』

ベネズエラ・ビター・マイ・スウィート (MF文庫J)

ベネズエラ・ビター・マイ・スウィート (MF文庫J)

 ありがちなようで不思議な物語を読んだ。或いは、全てのコードがちょっとずつズレている。しかし、間違いなく面白い。どれだけエクリチュールを重ねても妥当とはいえないが、その中でまず伝えたい本書の初読の感想はこんなところだと思う。
 本作は一体、どのようなジャンルの小説といえるのだろう。青春もの、音楽もの、ホラー、ミステリー、恋愛、バトル・ロワイヤルサヴァイヴ)もの……それぞれの定番の要素はきちんと踏まえている。けれども、それらが少しずつズレていきながら、この奇妙な物語は綴られるのだ。音楽の用語で言うならば「ミクスチャー」や「オルタナティヴ」という表現がふさわしいように思える。

 勿体ぶってないで、物語の概要に軽く触れることにしよう。
 舞台は現代日本。しかし作中の世界では、普通の人間の中に二つの異界の存在が紛れ込んでいる。一つは、死ぬとこの世から存在した形跡が抹消されるが、死体は腐らず数年後に復活する「イケニエビト」。二つ目は、彼らを殺して記憶を奪う能力を持つ「タマシイビト」。けれども、イケニエビトの存在の抹消には例外があって、そのイケニエビトがかに殺された場合、その加害者だけが彼・彼女のことを憶えているという。
 本編では、栄原実祈(さかえばらみのり)というイケニエビトの女の子を主軸として、左女牛明海(さめうしあけみ)と神野真国(こうのまくに)という、三人の恋愛とも友情ともとれない関係がメインに描かれていく。物語の始まりは、高校生の明海が同学年の真国にある日、「中学のとき、一緒にバンドを組んでいた女の子を殺したことがある」と告白されたところから始まる。すると明海のほうも「自分も小学校のときに同じ子を殺した」と打ち明けたのだ。そして彼らは、実祈が埋まっている場所へ掘り出しにいくのだが……。

 以下、本編の内容を踏まえながら、思弁的な考察を綴っていきたいと思う。


・ コードのズレが激しくも淡々と進む「プロローグ〜一章」

ひとつ、イケニエビトは殺した人だけがそのことを覚えてる。
ふたつ、イケニエビトは殺してもたったの数年でよみがえる。
みっつ、タマシイビトは人の記憶をむしゃむしゃ食べる。
よっつ、タマシイビトはイケニエビトを好んで食べる。
いつつ、イケニエビトの歌は遠い国からやってくる
むっつ、イケニエビトは自然とこの世に紛れ込む。
ななつ、タマシイビトは歌声聞いてやってくる。

森田季節ベネズエラ・ビター・マイ・スウィート』(以下同)

 本作は「プロローグ+本編四章+エピローグ」という構成になっており、この文句はプロローグの前に付記されたものである。何も分からない状況でこうしたルーリングが唐突に叙述されているところから、一瞬「バトル・ロワイヤルもの+ホラー」ではないかと錯覚させられる。しかし、そのような先読みは一章目のエピソードで完全に粉砕される。
 最初に述べたように、本作では様々なジャンルのコード(共通認識要素)を横断しながら物語が展開されていく。イケニエビト・タマシイビトという奇怪な存在はホラー、またそれらの謎に迫っていくのはミステリー、その設定の下地にあるものはバトル・ロワイヤルものとの親和性があり、日常描写におけるバンド活動や恋愛感情は青春もの、といった風にだ。そして、この触れ幅は一番デカいのが一章である。
 まず最初に出てくる、視点主人公の明海の言葉が意味深だ。

「焼いたフルーツってずるい味がする」

 上記のセリフは、焼きパイナップルを食べる明海が同級の男子に言った感想である。この一文は、作品全体の雰囲気を体現しているといってよい。明海は「要領を得ていない表現」と本文中で述べているが、そのような「要領を得ていないこと自体」を、「計算高く(ずるく)」本作は構成だてられているのである。
 まず「ずるい」という言葉だが、これは「狡猾」(計算性)とも「不正」(ズレ)という意味とも両方取れる。そして「焼いたフルーツ」が「『死』のメタファー」であることは、プロローグ及びその前のイケニエビトのルーリングを読むに、ほとんどの読者が気付くであろう。だが、それ自体にこのセンテンスの「ずるさ」がある。焼かれることが「死」なら、生のまま食される果物は、果たして「生のメタファー」と単純にいえるのか。これは、衛生学的な条件でないことは言うまでもなく、想像力の問題である。この「生と死が矛盾し合い、両義性を提起するもの」としての「フルーツ」というメタファーは、本作全体における「計算された矛盾」や「ズレるジャンルのコード」を暗喩しているのではないかと、私は考える。
 私情を挟むと、私はこの一文を読んで直感的に「この作品は確かに受賞作だ」と閃くものがあった。そしてその直感は、最後まで読んで確信に変わった。「小説は冒頭によって、その出来の良さが左右される」という話はよく耳にするが、著者がそれを計算した上でこのような一文を冒頭に持ってきたのだとすれば、まさに「ずるく」そして心憎いセンテンスであるといえよう。

 話を本編に戻す。この「ズレ」としての「ずるさ」が最も露骨に表れているのが、一章なのである。このズレは、明海と真国が実祈を掘り出す場面で頂点に達する。普通、こうしたオカルティックな設定の作品ならば、序盤に「埋めてあった場所に死体がない」などといった、大きな事件起こす(「起」から「承」へつなげる第一の山場)ものだ。しかし本作では、そのイケニエビトの少女はごく普通に起き上がるのだ。そして、真国も淡々と反応する。

 神野君は無言で汚れた頬に手をあてた。それを合図にするように実祈の目がぱちっとひらいた。
 実祈の第一声は「ふわ〜あ」ちいうあくびだった。
「烏子*1、久しぶり。三年ぶりだね」
 神野君は割と冷静に言葉をかけた。そこには見知った者同士の心
安さがあった。

まるで、友人をうたたねから起こしたとでもいわんばかりの会話だ。一応この場面の前に、明海の「涙腺がゆるみかけ」たという独白はあるのだが、実祈の起きたときの印象が強烈過ぎて、薄れてしまっている。この圧倒的な「脱構築的構造性」に、私はここまで読んで次の展開が予想できなくなった。次はどう「ズラされるのか」と。


・ ズレの修正と再振幅「二章〜三章」

 けれども、ここまでの強烈な振り幅は二章で一旦収まることになる。
 二章では、明海の実祈との出会いと別れが回想されるのだが、そこでは「日常のなかに飛び込んできた非日常と冒険し、また日常に変える小さな少女」という至って正統派のジュブナイルが描かれる。夏の学校で引き起こされる陰湿なイジメのシーンや、転じてタマシイビトが作り出した誰も居ない結界の街で明海と実祈が遊びまくるエピソードなども、この手のジュブナイルでは定番の描写だ。
 その後、二章〜三章の前半で描かれる明海と実祈のやり取りや、真国を交えた学校生活や趣味の音楽の描写も、「青春モノ+ちょっと不思議」の範疇を出ていない。唐突に挿入される「藤原君」の怪談(後述)を除いて。これはまるで、一章の揺さぶりを鎮めて、読者を安心させるかのような構成である。

 そしてこのような、少しおかしくも楽しい日常は三章の後半で再び揺さぶられることになる。「藤原君」の生まれ変わりが真国で、彼はイケニエビトだったという真相の発覚。そして、真国に迫る二人のタマシイビトの存在。直後、この世から生きた証が抹殺され、明海の記憶から真国の存在が完全に消される(ここでプロローグとつながる)という、怒涛の展開が待ち受ける。
 しかし、ここでそれまでの「イケニエビトの死」の描写とは明らかに違う現象が起こる。実祈だけは、真国のことをおぼろげに憶えていたのだ。そして、手元に残された「コウノマクニ」と名前が入ったライブチケット。これらの情報から明海は、真国の死を「タマシイビトの仕業」と直感し、真国が存在したという実感が湧かないまま、タマシイビトに対する怒りだけが高まっていくのであった。
 そして明海と実祈は真国の仇を取るため、タマシイビトへの復讐を計画するのである。「コウノマクニ」という存在を都市伝説として流布し、彼のことを歌った楽曲を阿弥陀峰の中腹で演奏して。


・ ズレが意志によって収斂される「四章」と再びズレ始めて終わる「エピローグ」

 そしておびき寄せたタマシイビトを殺して復讐を達成した二人は、「コウノマクニ」のライブチケットを埋葬することにした。けれどもそのとき、チケットの入った封筒に手紙があることに実祈は気付き、それを読み上げた。明海は未だに真国のことが思い出せないのだが、手紙を読み上げる実祈を見て、何故か涙が溢れてきた。

 私は泣いていた。悲しくもなんともないのに泣いていた。神野君の顔も思い出せないんだから。涙は無責任に私の頬を垂れて、土にしみこむ。
 私は魔性の女だな。
 悲しくもないのに泣くなんて。
 悲しくもないのに泣くなんて。
 悲しくなくたって泣いてやろう。神野君のために。

ここでも「ズレ」は機能している。憶えてない人物のために、悲しみも覚えられないのに泣く明海という描写と、その後の独白からは「意志の脱境界性」が読み取れる。根拠・事実の「ある・なし」に関わらず、感情ではなく意志が明海の肉体を動かすのだ。意志はそれ自体が根拠となる。この場面はそれまで描かれてきたコードのズレが、収斂されているようだ。コードがズレても、物語は奏でられると主張せんばかりに。

 だが、終結部(コーダ)を迎えたように思えるこの物語は、最後に思わぬポスト・コーダが加わり、読者は再び揺さぶられ、宙に浮かされるのだ……。タマシイビトの復活と、明海に対する予想外の謝罪によって。そして、明海と実祈の日常はこれからも続くことを暗示し、この物語は終わる。


・ 総括になっていない総括

 本編の構造的なズレを追ってきたが、やはり本作は捉えどころのなさを感じずにはいられない。あらゆるジャンルの定番要素を詰めておきながら、それらが全て少しずつ「ずる」く「ズレ」ていくために、どうまとめていいかわからない。しかし、最初にも述べたように明らかにこの作品は面白く、そして極めて精緻な文章がその魅力を支えている。これもまた、「耐久度のあるテクスト」を湛えた作品の一種であろう。
 本作におけるズレは、「ジャンル論争」という外部の自称に対しても、オルタナティブ効用を発するのではないかと私は考えている。この物語のアンチジャンル性は「『ただのラノベ』ではない」という分かっているようでまるで具体性のない凡庸な雑感も、それに反応して「テンプレ」の押し売りをする自称批評家、その両者にアイロニックな返答をしているように、私は考える。
 プログレ的な転調を繰り返す上質なミクスチャー、或いはオルタナティブ・ロックを聴いているような一冊だったように、私は振り返らずにはいられない。

(BGM:ベネズエラ・ビター『イケニエビト』)

*1:実祈が神野と出逢ったときに使った別名。

2015-03-01

No music. No whiting.

こんばんは、蝉海です。
このところ記事が充実していなくてすみません。
小説の原稿はラストスパートに入っており、
今週の半ばには書きあがるので
そうしたら少しはまともな更新ができると思います。

ところで今日は、
よく私のブログの記事の末尾に書いてある
(BGM:『』)についてお話したいと思います。
このBGMなんですが、
その楽曲がかかっている間に文章を書き上げているとか
そういうわけではなく、
単にその時のノリで「あ。これBGMということにしよ」と、
何となく書いているだけなのです。
記事の内容とかちょっとだけ鑑みて、ね。
ぶっちゃけると、
ブギーポップ』などで知られる上遠野浩平先生が
よくあとがきでやっていることを、真似ているだけです。

で。今までどんな曲をBGMにしてきたのか、
ふと気になったのでちょっと列挙してみたいと思います。
名前順に揃えるのメンドいので時系列順に。

Stratovarius『Forever』
Janne da arcDestination
黒夢『Walkin' on the edge』
Nightwish『Wishmaster』
Lost Witness『7 colors』
KAZU『ミトコンドリア
HIIH『feels like HEAVEN(X TRA Soundscape mix)』
Yngwie J. Malmsteen『Far Beyond The Sun』
小沢健二『さよならなんて云えないよ(美しさ)』
浅岡雄也『君がいれば』
じん(自然の敵P)『サマータイムレコード』
Hammerfall『The Dragon Lies Bleeding』
BUCK-TICK夢魔 - The Nightmare』
the FIELD OF VIEW『Dreaming Always
Rhapsody of Fire『Emerald Sword』
KUKO『前を向いて歩こう』
上原あずみ『無色』
the FIELD OF VIEW『Real Prayer』
The Beach Boys『California Girls』
ZARD『あの微笑みを忘れないで』
ASIAN KUNG-FU GENERATION『サイレン』
MELL『砂漠の雪』
See-Saw『君がいた物語』
KAZU『dear...』
Kalafina『ひかりふる』
ATOLS『キメラ』(歌ってみた:TAMA
the FIELD OF VIEW『青い傘で』

……う〜ん、こうして並べてみると想像以上にカオス。。。
自分でも全然法則性が見えない(^^;;
強いていえばパワー・メタルV系が多いかな?
何というか、上に挙げたアーティスト全部好きって人、
そうそういなさそう……。
もっというと「メジャー/インディーズ」「邦楽/洋楽」グチャグチャで、
全部分かる人すら、いるかどうか怪しい。

まあ。今日はそんなサムい自分語りでお茶を濁させて頂きました。
それでは。また。

(BGM:takoyaki_o『over the rave』)

2015-02-15

歳を取るごとに冬が嫌いになっていく

((((;ω;))))ガチガチガチガチガチガチ

というわけで、今回は近況だけ。
新人賞に送る原稿をずっと書いているので、
来週もまたこんな感じになると思いますが、ご容赦を。
最近ですが、CASCADEのTAMAさんがニコニコで公開している
「歌ってみた」シリーズにはまっています。

D

元々シンセポップ的なミックスを得意としている方なので
ボカロ曲との相性が非常に良く、ついつい聴き入ってしまいます。

TAMAさんのマイリスト「歌ってみた」

ではでは。

(BGM:ATOLS『キメラ』(歌ってみた:TAMA))

2014-10-26

「カゲロウプロジェクト」のメドゥーサ観――「見る≠所有する」というアンチテーゼ


※ 以下の作品について、核心的な部分についてのネタバレがあります。
 
 マンガ『カゲロウデイズ』1〜5
 (著・じん 作画・佐藤まひろ 刊・メディアファクトリー)1〜5
 小説『カゲロウデイズ』1〜5(著・じん 刊・エンターブレイン)
 アニメ『メカクシティアクターズ』


 「カゲロウプロジェクト」は〈邪眼〉というモティーフから出発し、メタ的なレヴェルにおける「見る」という行為に際し本性的に備わる暴力性やエロスに対して批判的な視座を与え、「見る」という概念を脱構築・再構成しよう試みた物語である。そのことが最も端的に表れているのが、本作におけるメドゥーサ像においてであるのだ。
 以下、「カゲロウプロジェクト」における視覚とその象徴たるメドゥーサ像をめぐる、思弁の遁走を始めたいと思う。


・ メドゥーサ=「視覚と触覚→所有欲」のメタファー

 メドゥーサという怪物は、「見る」ことの暴力性やエロティシズムを象徴する存在として、芸術作品のモティーフとして描かれてきた。カラヴァッジョの『メドゥーサ』やルーベンスの『メドゥーサの首』など、メドゥーサをグロテスクな、猟奇的なイメージを伴い描かれてきた作品を挙げていけば、枚挙に暇がない。このようなメドゥーサ観は大衆文化にも、強く根付いている。RPGでメドゥーサは定番のモンスターであるが、彼女らの持ち得る能力を思い起こしてもらいたい。味方パーティを「石化」させる力はもちろん、そして味方パーティを「ゆうわく」(味方パーティを混乱と同様の状態にする)させる力を持っていることも珍しくないはずだ。このようにハイ・カルチャーからポップ・カルチャーに至るまで、メドゥーサという怪物にはどうしても好戦的・好色的なイメージがつきまとう。そしてそのようなメドゥーサ像が一般的であることは、「カゲロウプロジェクト」の作中でも次のように触れられている。

物語の中なんかじゃいつも 怖がられる役ばかりで
(じん『想像フォレスト』より)

 それはメドゥーサが「視覚」の象徴であり、「見ること」は本性的にエロティシズムや暴力性を備えているからである。澁澤龍彦曰く「見るということは、所有すること*1」であるという。暴力もエロスも両方とも、絶対的に他者を必要とする。しかしこの両概念は、他者を必要としていながら他者の人格を否定する志向性を持つ。他者を物象化したいと欲するのだ。つまり、他人を「もの」として欲する。それは「視覚」が、自己を拡張しようとする性質を持つからである。欲しいものが目に入ったら手を伸ばすように、視覚は所有欲を誘因する本性を持っており、自己の身体を拡張するよう促すのだ。ここに「触覚」との連関性が生まれる。相手を所有するには、相手に触れなければならない。バイオレンスにしてもエロスにしても、その現実に発言させるには「触覚」の助けを借りずにはいられない。視覚したものを触覚しようとする、そこには所有欲が絡んでいるのだ。
 さて。話をメドゥーサに戻すが、メドゥーサの石化の邪眼は、まさしく「視覚と触覚の親和性」及びそのことがもたらす「所有欲」を暗喩した概念であるといえる。何故なら彼女の邪眼は、相手を腕ずくで組み伏せる(触覚)ことなく、見るだけで(視覚)永遠に静止させてしまう。「もの化」させてしまうのだから。


・ メドゥーサ≠「視覚と触覚→所有欲」というメタファー

 けれども「カゲロウプロジェクト」におけるメドゥーサ観は、前述のような好戦的・好色的なメドゥーサ像とは大きく異なっている。「カゲロウプロジェクト」に出てくるメドゥーサの一族(アザミの直系)とその能力の保持者からは、「見る≠所有すること」というテーゼはほぼ剥奪されている。そればかりか、そうした危険性に登場人物自体が自覚的で、積極的に距離を置こうとすらしている。上述したような視覚論に対して批判的なテーゼを、物語全体を通じて描写している。それは「蛇」の力を持った能力者達が自分の能力を全編通じて忌避しており、能力者同士が「蛇」の力を取り消す方法を探すためにメカクシ団を結成するという物語の大筋からも明らかなことである。この物語は、「見る」ことに伴う暴力性やエロティシズムに対して自覚的であり、かつ否定せんがために批判的視座さえ置いているとすらいってもいい。
 作者であるじんがこのようなメドゥーサ観をどこから得たのか。それは、神話上のメドゥーサの物語にその根拠を求めることができる。何故なら、原典のメドゥーサはそもそも好戦的・好色的な怪物「ではない」からである。むしろ、前述の「視覚の暴力性・エロス」を向けられる対象、「見られる」側であったのだ。
 美貌のゴルゴン三姉妹の三女であるメドゥーサはある日、アテナの神殿でポセイドンに強姦されてしまう(欲望の対象として「見られる」)女神アテナは、神殿を穢した罪としてメドゥーサを咎め、頭髪を全て蛇にしてしまう。(軽蔑の対象として「見られる」)現代の倫理観に当てはめてみればとんでもない話なのであるが、とにかく神話の上におけるメドゥーサの物語はそうなのだ。ここからは、ご周知の通りペルセウスのメドゥーサ退治の物語へと続くのである。
 このメドゥーサを襲った二つの理不尽について、美学者の谷川渥は著書『鏡と皮膚 芸術のミュトロギア』において次のように説いている。

 メドゥーサは、二重の意味でヴァルネラブルな存在なのだ。その彼女は、以後、見られることにおいて見る存在となる。つまり、彼女はあくまでも見られるという受け身のあり方で見るという攻撃性を手に入れる。石化は、だから自分のあまりにおぞましい姿を見られることの拒否として結果するのだということもできる。

谷川渥『鏡と皮膚 芸術のミュトロギア』筑摩書房 P87

この「ヴァルネラブル vulnerable」というのは訳しにくい言葉であるのだが、おおよそ「迫害されやすいこと・傷つきやすいこと・被害者的」という意味を示していると考えてくれればいい。このメドゥーサのヴァルネラビティは、カゲロウプロジェクトの全編に渡って貫徹されている。文字通りメドゥーサの一族であるアザミの直系は当然のこととして、メドゥーサの能力(「蛇」の力)を持つ能力者全員は、何らかの形によって迫害を受けている。そもそも、能力を得る条件が「生死の境界(=カゲロウデイズ)」に触れることであり、かつ能力は自分の意志で所得したわけではない。受け身なのだ。彼らは、皆ひとしくヴァルネラブルな存在といえる。
 そもそも「メカクシ団」という名称からして、自分たちが「見られる」存在であり、その視線には先ほど述べたような攻撃性が備わっていることに、彼らが自覚的であることを示唆しているではないか。「カゲロウプロジェクト」とは、谷川の言葉を借りれば「見られるという受け身のあり方で見る」ことによって、「見ること」の攻撃性を否定(自分の能力の消失を願う)する物語であるのだ。


・ ゴルゴネイオンとしての女王マリー

 だがこの物語には「見ること=所有すること」という、メカクシ団が忌避するテーゼを肯定し、実行する登場人部が存在する。〈邪眼〉の暴力性やエロティシズムを積極的に肯定し、メカクシ団と敵対し、本作最大の悪役でいえる存在、目が冴える蛇(黒コノハ)だ。彼の作中での描写は、その嗜虐性もさることながら、「見るということは、所有すること」という澁澤の視覚観と完全に合致している。故に、目が冴える蛇はその行動をとっても目的をとっても、「『見る』という行為に際し本性的に備わる暴力性やエロス」を忌避するメカクシ団にとって最大の敵であり、かつ本作最大の悪役になりうるわけだ。
 ここで、目が冴える蛇の姦計に嵌り覚醒したマリー(女王マリー)について、注目したい。マリーの能力は、アザミより渡された10個の「蛇」が全て結集させ、一つの願いを叶える能力(目を合わせる力)である。これはまさしく「見ること=所有すること」というテーゼをダイレクトに表現している。願いが叶えられると消えてしまう目が冴える蛇は、マリーにその力を使わせてループを引き起こさせ、自分を生き永らえさせようと唆すのである。
 さて。ここで見て欲しいのは、この女王マリーの容姿である。蛇の鱗、羽のような流線型の浮遊体、――短くなった髪の毛。鱗については祖母であるアザミの特徴であり、羽は天使のように超越した存在を表すシンボルであるから、これも図像学的に解釈すれば分かる範囲である。しかし短髪になる理由、これがどう考えても分からないというユーザーは多いはずだ。私もいま一つ納得のいく説が思いつかなかったが、こう考えると合点がいった。それは、「斬首されたメドゥーサのメタファー」という解釈だ。
 神話のメドゥーサはペルセウスに首を落とされたあと、化け鯨を倒す道具として利用された。これを図像解釈学の用語で「ゴルゴネイオン」と呼ぶのだが、人格を剥奪され、冴える蛇に道具として使用される女王マリーはまさしくゴルゴネイオンと零落したメドゥーサであると考えられる。利用するということは、所有するということと同義である。繰り返しになるが、目が冴える蛇は、全てを「合わせる=所有する」女王マリーを所有しようとする、「見ること=所有すること」というテーゼを肯定的に捉えた世界におけるヒエラルキーの頂点に立つ存在であり、まさしくそのアンチテーゼを提唱しようとするメカクシ団の最大の敵としてふさわしい存在といえるのである。

 「カゲロウプロジェクト」はメドゥーサ=邪眼の能力者をモティーフとし、「見ること=所有すること」という従来のメドゥーサ像に重ねられていたテーゼに対し、原典のメドゥーサにおけるヴァルネラビティに立ち返ることによって、「見ること≠所有すること」というアンチテーゼを提唱して戦わせる――そうして、「見ること」に新たなイマジネーションを表現して「見せた」作品群であると言えはしないだろうか。

*1:澁澤龍彦「眼の欲望」(収録『エロティシズム』中央公論社 P29)

2014-09-14

芸大の大学祭に行ってきました

こんにちは、蝉海です。
バイトで忙しいのと今日は用事があるため、軽い近況だけです。

先週、知り合いの方の公演を観にいくため、
とある芸術大学の大学祭に行って来ました。
芸大って初めて行ったのですが、イメージ通りでしたね。
音楽学部の校舎はまんま『のだめカンタービレ』のような世界でしたし、
美術の方はよく写真で見るアトリエそのままで、
画材のにおいに満ちていました。
「こういうところで勉強しているのだ」という雰囲気を、
よくよく感じ取れて良い経験になりました。

全体的に、人がかなり多かったです。
大学祭は、前に在籍していた國學院と、高校のときに行った一橋大学とで、
これまでに二校ほど行っているのですが、
今回のところが一番盛況していましたね。
昼は、カンジャ(トマトと鶏肉のリゾットみたいなもの)と
焼き鳥&生ビールのセット。
滅多に食べないけれど、出店のご飯はやっぱりおいしいです。

それでは、今日はこの辺で。

(BGM:Hammerfall『The Dragon Lies Bleeding』)