旅人の手記 二冊目 - 蝉海夏人のブログ -

2015-03-08

怠惰のカルタ(3)

さ 三時のおやつ

バナナはおやつに入りません。


し 集中力

私に最も賭けているもの。


す すみません

私の口癖。


せ セカイ系

 「傷つくヒロインと無力なボク」……と整理するべきジャンルというか傾向。ありがちな「中間項(経済活動など)の喪失」という括りだと、膨大な数の作品が入ってしまうので。


そ 「そういえば」

私の口癖パート2。


た 怠惰

私の病。


ち 千鳥足

酒呑んでも、なったためしがない。どんな足? 


つ 罪

反対語は蜜。


て 哲学

科学と好対照を為す学問。畢竟、この世は「自分を対象にする」哲学と「他者を対象にする」科学との、二つの学に収斂される。


と トンマ

って、最近聞かないね。

2014-11-02

作品における作者の自意識の発露と読者の共感について悶々

(前略)たとえば、ある作品を見て、「この作家は子どものときに傷ついている」などといわれてしまうのは駄目な作品だと思うんです。じゃあ何がいい作品なのかをいうのは難しいですが、向こうを、遠くを見せる作品と言うか、カント的にいえば「星を見つめさせる」作品ではないでしょうか。難しくいうなら、アルケオロジック(始原論的)ではなく、エスカトロジック終末論的)な、ということですが。

谷川渥『書物のエロティックス』右文書院 P277
(美学者塚原史氏との対談においての発言)

この谷川先生の発言の前後には具体例が無いので、
「『この作家は子どものときに傷ついている』と分かってしまう作品」というのが、
どういう作品のことを指しているのかが、いま一つ分かりません。
ただ、その手がかりとなるんじゃないかという箇所はあって、
それは、本書の前のページにおける諏訪哲史氏との対談の一部分です。

 日常生活をちょっと切り取ってうまく書けているとか、そういうリアリズムというのかな、感慨とか心情とかがうまくかけているとか、そういう小説はもう読みたくないんです。

谷川渥『書物のエロティックス』右文書院 P216
小説家諏訪哲史氏との対談においての発言)

ようするに、こういうことじゃないかと私は思います。
「作者が、作者の自意識が、『分かってくれよ』という声が透けてみえてしまう」
というような作品というのは拙い、と。

ただ、多くの人に受け入れられるような作品って、
映画でもアニメでも小説でも音楽でもマンガでも、
ユーザーの「共感」を呼ぶような作品じゃないかと思うんです。
私がこのところずっと「カゲロウプロジェクト」なんて、
まさしく「自意識と共感」によって成り立っているムーブメントといえます。
勿論そうであるがゆえに、
そうした大衆娯楽は文学・藝術足りえないともいえますが……。

また、そもそも自意識を剥き出しにすることだって突き詰めれば、
太宰治などの新戯作派を例に取り上げるまでもなく、
立派に文藝足りえるものなのではないでしょうか。

全くまとまらないままですが、そんな、
我ながら未熟で拙劣な思弁を延々とめぐらしている今日この頃であります。

では、季節の変わり目に体調を崩されぬよう。

書物のエロティックス

書物のエロティックス



(BGM:上原あずみ『無色』)

2014-08-18

怠惰のカルタ(2)

か カイロス(ΚΑΙΡΟΣ)

 私が「か」から始まる言葉を一つ何か言うとしたら、やっぱりこれしかないだろう。
 普段、私達が気にかける時計の針が示す客観的な時間「クロノス」に対し、個人個人それぞれが異なって感じる時間、主観的な時間のことを「カイロス」と呼ぶ。

 ……なぜなら、それは「人間の人生もしくは宇宙の進行における転換点となる短い決定的な瞬間」をあらわすものだからである。ギリシア語の「カイロス」(Kairos)はラテン語では「機会」を意味する「オカシオ」(occasio)に相当するが、パノフスキーはカイロス=オカシオの図像学的表現を、両肩と両踵にそれぞれ翼をもち、走り過ぎる裸体の、禿頭ではあるが前髪だけをつけた若者として説明している。
(中略)いずれにせよ、「カイロス」は「瞬間」を意味論的核としながらも、単なる世事的な「機会」から宇宙論的な終末の「時機(とき)」までをも包括する、まことに豊穣な時間概念なのである。

谷川渥『形象と時間 クロノポリスの美学』(白水社)p.183,185


 このカイロスは、そのアトリビュートとして「剃刀」を携えて表現される。私が思うに、この剃刀は他者のカイロスを切断する。カイロスとは、そもそも「切断する」という意味を示す言葉なのだ。もっというと、この世界はカイロスの相克から成立しているとすらいえる。クロノスは、絶えず繰り返されるカイロスのカミソリ同士の衝突を歯止めをかけ、その調和を図り秩序を保つ概念とは、考えられないだろうか。

 え。アイオーン? なにそれ、おいしいの?


き kiss

 カイロスとカイロスの癒着。

 
く 苦痛

 クロノス、と来ると思った? 甘いね。


け 研鑽

 今の私から縁遠い言葉。脆弱な思弁にまみれ、ただそのまま底で蹲っている私に、ダイモーンの光は届くまい。


こ これで終わりにしよう。

 といいつつ、またやってしまいそうな気もする。

2014-06-22

怠惰のカルタ(1)


 怠惰というものは、全く恐ろしい。最悪「生きることすら面倒くさい」と考えるに至るからだ。その道は、他の罪業に比べれば安易で、誰にでも陥りやすい。
 そして私の中に、どうしようもなく物心ついたときよりまとわりつく悪癖――もはや不治の病といえる――と云えば、やはりこれであろうと思う。
 よく小説やマンガなどで題材にされるから皆さんもご存知であろうが、キリスト教には「七つの大罪」という概念がある。人間はこの罪の源を必ず持っているというが、その傾向、すなわちどの罪を多く持っているかということは、人によって異なるであろう。そして、私はこの中でひとつ選ぶとすれば、「怠惰 sloth」以外にないであろうなと思う。私の背後には、ベルフェゴールが憑いているに違いない。
 本当は、いろいろと語りたい主題もあるのだけれど、いざ筆を執らんとする――この場合は、キーボードなのであるが――と、どうしても論証性というものを鑑みてしまい、それを考えると時間のかかることと労力を惜しんでしまい、何もしないでいるということに陥ってしまう。批評など、簡単にできるものではない。拘り過ぎるともいう? いやはや、そんな高尚なものではない。物臭なだけなのである。事実、私はこの文章を打ち始めるのに、一時間要している。
 もうやめてしまえば、とも思う。実際、読書メーターやTwitterもあるし、そっちをメインにしてもいいのだ。ブログである必要性は、もはや無きに等しい。はっきりいって、ブログが書けなくなったのはそっちで顕示欲を小出しにしてしまっているからだ。ブログに書く意欲と意味が、相対的に薄れてしまったのだろう。
 しかし、とはいえ、やはり拠点のようなものが全くなくなってしまい、そこが完全に認識されず、閑散としてしまうのは、やはり勿体無い。というか、この上さらに怠惰へ、懶惰へと拍車をかけることになるだろう。
 この手のものはやはり一度投げると、もう一度手につけるのに時間がかかってしまうのだ。何度か更新することを停止して、それはいやでも身についた。
 果てさて、本当にどうしようかと考えた挙句、思いついたのは散文である。

 散文。云うのは簡単。書くのは難し。

 さて。以前も更新に困ったとき、何をしたかをちょっと思い出してみた。そうだ。「お題」を答えたのだ。

 一昔前、「お題配布」なるものが流行った。それは配布元へリンクを張ることを条件として、その「お題」と称された単語(文章の場合もある)の羅列をコピーして、自由に小説やイラスト、随想などを書くというものである。まあ、どんな感じだったかは見てみたほうが早い。
 しかしこれ、苦労しても、自分で書いておきながら、その文章を自由にしがたく、満足感が余り得られないものである。やはり、もう余りやりたいとも思わない。さあ、どうしようかと。
 そこで思いついたのは「あいうえお順」で適当に思いついた単語について、適当に述べるという手法である。懸命な読者の方は――もしかして冒頭からお気づきかもしれないが、これ、はっきりいうと太宰治『懶惰の歌留多』そのままである。いろは順があいうえお順になっただけである。
 ええい、だらしない。でも、やはり書かなくてはならないのであるから、書くしかあるまい。私の無能さと馬鹿さ加減も書かねば、自分にも他人にも分からぬのだから、やはり書くしかないのだ。うん。

 
 Aisthesis

 英語のEstheticの語源である。古代ギリシア語で「知覚」の意味。ただしそれは受け取った感覚を何であるかが分かるとか、そうした狭い意味での知覚だけに留まらず、非常にその射程は広い。美学の分野でよく使われる。現象学でも使われる。
 正直、鬼の子なのだ。この概念。バウムガルテンの『美学 Aesthetica』以降、この概念は専ら美意識の問題において取り上げられるようになったが、「感性/理性」という二元論が崩れ始めた「反哲学(マルクス主義、ニーチェ思想、分析心理学等のこと)」登場以後、哲学の分野において、単なる「表面的な美」や「感覚」という狭い意味以上に、この言葉は捉えられるようになる。
 私たちに分かりやすいように云えば「美的直観」とでも云えばいいのだろうか。正直、未だに私はこの言葉の扱いに苦慮する。


 イデア界

 背後にある本当の世界のこと。ソクラテスとプラトンが考えた。精霊(ダイモーン)を媒介として、私達はイデアを想起する。ダイモーンを統括する絶対存在が創造主(デーミウルゴス)である。絶対神の存在が、ユダヤの思想(ヘヴライズム)と親和性を持ち、新プラトン主義とかに発展する。だから、ぶっちゃけ、ヤオヨロズの我が国には馴染みのなく、煙たがられる思想である。
 
 しかし、別にこれ、私的哲学語辞典を作りたい訳じゃないんだけど、二つ続けて真っ先に出たのが、これであった。何とも、想像力のないことよ。話題変えるか?


 「五月蝿い! もう黙れ!」

 うん。そうだよね。そういいたくなるよね。でも、やめない。


 ええかっこしい

 過ぎると八方美人になる。私の事である。


 「雄々しく」とか「男らしく」とか

 私の事ではない。無縁である。というか忌避している。するようにしている。
 こういう状態を他人に無理強いする人間は、やばい幻想に憑かれているとしか思えない。ジェンダー論? いや、そういう問題じゃあない。勝手な幻像を思い描いて、自分がそうなるよう努めるのならば、個人の自由であるが、それを強要したら、人格の否定である。

 ううん。これ、いつもよりも時間かかっているんじゃないか。続けるのか。まあ、続きはまた、どん詰まったときにでも。次回は、たぶん、いつもどおり普通の記事だよ。多分。