旅人の手記 二冊目 - 蝉海夏人のブログ -

2015-03-15

『ずるさ』のあるズレたコード――『ベネズエラ・ビター・マイ・スウィート』

ベネズエラ・ビター・マイ・スウィート (MF文庫J)

ベネズエラ・ビター・マイ・スウィート (MF文庫J)

 ありがちなようで不思議な物語を読んだ。或いは、全てのコードがちょっとずつズレている。しかし、間違いなく面白い。どれだけエクリチュールを重ねても妥当とはいえないが、その中でまず伝えたい本書の初読の感想はこんなところだと思う。
 本作は一体、どのようなジャンルの小説といえるのだろう。青春もの、音楽もの、ホラー、ミステリー、恋愛、バトル・ロワイヤルサヴァイヴ)もの……それぞれの定番の要素はきちんと踏まえている。けれども、それらが少しずつズレていきながら、この奇妙な物語は綴られるのだ。音楽の用語で言うならば「ミクスチャー」や「オルタナティヴ」という表現がふさわしいように思える。

 勿体ぶってないで、物語の概要に軽く触れることにしよう。
 舞台は現代日本。しかし作中の世界では、普通の人間の中に二つの異界の存在が紛れ込んでいる。一つは、死ぬとこの世から存在した形跡が抹消されるが、死体は腐らず数年後に復活する「イケニエビト」。二つ目は、彼らを殺して記憶を奪う能力を持つ「タマシイビト」。けれども、イケニエビトの存在の抹消には例外があって、そのイケニエビトがかに殺された場合、その加害者だけが彼・彼女のことを憶えているという。
 本編では、栄原実祈(さかえばらみのり)というイケニエビトの女の子を主軸として、左女牛明海(さめうしあけみ)と神野真国(こうのまくに)という、三人の恋愛とも友情ともとれない関係がメインに描かれていく。物語の始まりは、高校生の明海が同学年の真国にある日、「中学のとき、一緒にバンドを組んでいた女の子を殺したことがある」と告白されたところから始まる。すると明海のほうも「自分も小学校のときに同じ子を殺した」と打ち明けたのだ。そして彼らは、実祈が埋まっている場所へ掘り出しにいくのだが……。

 以下、本編の内容を踏まえながら、思弁的な考察を綴っていきたいと思う。


・ コードのズレが激しくも淡々と進む「プロローグ〜一章」

ひとつ、イケニエビトは殺した人だけがそのことを覚えてる。
ふたつ、イケニエビトは殺してもたったの数年でよみがえる。
みっつ、タマシイビトは人の記憶をむしゃむしゃ食べる。
よっつ、タマシイビトはイケニエビトを好んで食べる。
いつつ、イケニエビトの歌は遠い国からやってくる
むっつ、イケニエビトは自然とこの世に紛れ込む。
ななつ、タマシイビトは歌声聞いてやってくる。

森田季節ベネズエラ・ビター・マイ・スウィート』(以下同)

 本作は「プロローグ+本編四章+エピローグ」という構成になっており、この文句はプロローグの前に付記されたものである。何も分からない状況でこうしたルーリングが唐突に叙述されているところから、一瞬「バトル・ロワイヤルもの+ホラー」ではないかと錯覚させられる。しかし、そのような先読みは一章目のエピソードで完全に粉砕される。
 最初に述べたように、本作では様々なジャンルのコード(共通認識要素)を横断しながら物語が展開されていく。イケニエビト・タマシイビトという奇怪な存在はホラー、またそれらの謎に迫っていくのはミステリー、その設定の下地にあるものはバトル・ロワイヤルものとの親和性があり、日常描写におけるバンド活動や恋愛感情は青春もの、といった風にだ。そして、この触れ幅は一番デカいのが一章である。
 まず最初に出てくる、視点主人公の明海の言葉が意味深だ。

「焼いたフルーツってずるい味がする」

 上記のセリフは、焼きパイナップルを食べる明海が同級の男子に言った感想である。この一文は、作品全体の雰囲気を体現しているといってよい。明海は「要領を得ていない表現」と本文中で述べているが、そのような「要領を得ていないこと自体」を、「計算高く(ずるく)」本作は構成だてられているのである。
 まず「ずるい」という言葉だが、これは「狡猾」(計算性)とも「不正」(ズレ)という意味とも両方取れる。そして「焼いたフルーツ」が「『死』のメタファー」であることは、プロローグ及びその前のイケニエビトのルーリングを読むに、ほとんどの読者が気付くであろう。だが、それ自体にこのセンテンスの「ずるさ」がある。焼かれることが「死」なら、生のまま食される果物は、果たして「生のメタファー」と単純にいえるのか。これは、衛生学的な条件でないことは言うまでもなく、想像力の問題である。この「生と死が矛盾し合い、両義性を提起するもの」としての「フルーツ」というメタファーは、本作全体における「計算された矛盾」や「ズレるジャンルのコード」を暗喩しているのではないかと、私は考える。
 私情を挟むと、私はこの一文を読んで直感的に「この作品は確かに受賞作だ」と閃くものがあった。そしてその直感は、最後まで読んで確信に変わった。「小説は冒頭によって、その出来の良さが左右される」という話はよく耳にするが、著者がそれを計算した上でこのような一文を冒頭に持ってきたのだとすれば、まさに「ずるく」そして心憎いセンテンスであるといえよう。

 話を本編に戻す。この「ズレ」としての「ずるさ」が最も露骨に表れているのが、一章なのである。このズレは、明海と真国が実祈を掘り出す場面で頂点に達する。普通、こうしたオカルティックな設定の作品ならば、序盤に「埋めてあった場所に死体がない」などといった、大きな事件起こす(「起」から「承」へつなげる第一の山場)ものだ。しかし本作では、そのイケニエビトの少女はごく普通に起き上がるのだ。そして、真国も淡々と反応する。

 神野君は無言で汚れた頬に手をあてた。それを合図にするように実祈の目がぱちっとひらいた。
 実祈の第一声は「ふわ〜あ」ちいうあくびだった。
「烏子*1、久しぶり。三年ぶりだね」
 神野君は割と冷静に言葉をかけた。そこには見知った者同士の心
安さがあった。

まるで、友人をうたたねから起こしたとでもいわんばかりの会話だ。一応この場面の前に、明海の「涙腺がゆるみかけ」たという独白はあるのだが、実祈の起きたときの印象が強烈過ぎて、薄れてしまっている。この圧倒的な「脱構築的構造性」に、私はここまで読んで次の展開が予想できなくなった。次はどう「ズラされるのか」と。


・ ズレの修正と再振幅「二章〜三章」

 けれども、ここまでの強烈な振り幅は二章で一旦収まることになる。
 二章では、明海の実祈との出会いと別れが回想されるのだが、そこでは「日常のなかに飛び込んできた非日常と冒険し、また日常に変える小さな少女」という至って正統派のジュブナイルが描かれる。夏の学校で引き起こされる陰湿なイジメのシーンや、転じてタマシイビトが作り出した誰も居ない結界の街で明海と実祈が遊びまくるエピソードなども、この手のジュブナイルでは定番の描写だ。
 その後、二章〜三章の前半で描かれる明海と実祈のやり取りや、真国を交えた学校生活や趣味の音楽の描写も、「青春モノ+ちょっと不思議」の範疇を出ていない。唐突に挿入される「藤原君」の怪談(後述)を除いて。これはまるで、一章の揺さぶりを鎮めて、読者を安心させるかのような構成である。

 そしてこのような、少しおかしくも楽しい日常は三章の後半で再び揺さぶられることになる。「藤原君」の生まれ変わりが真国で、彼はイケニエビトだったという真相の発覚。そして、真国に迫る二人のタマシイビトの存在。直後、この世から生きた証が抹殺され、明海の記憶から真国の存在が完全に消される(ここでプロローグとつながる)という、怒涛の展開が待ち受ける。
 しかし、ここでそれまでの「イケニエビトの死」の描写とは明らかに違う現象が起こる。実祈だけは、真国のことをおぼろげに憶えていたのだ。そして、手元に残された「コウノマクニ」と名前が入ったライブチケット。これらの情報から明海は、真国の死を「タマシイビトの仕業」と直感し、真国が存在したという実感が湧かないまま、タマシイビトに対する怒りだけが高まっていくのであった。
 そして明海と実祈は真国の仇を取るため、タマシイビトへの復讐を計画するのである。「コウノマクニ」という存在を都市伝説として流布し、彼のことを歌った楽曲を阿弥陀峰の中腹で演奏して。


・ ズレが意志によって収斂される「四章」と再びズレ始めて終わる「エピローグ」

 そしておびき寄せたタマシイビトを殺して復讐を達成した二人は、「コウノマクニ」のライブチケットを埋葬することにした。けれどもそのとき、チケットの入った封筒に手紙があることに実祈は気付き、それを読み上げた。明海は未だに真国のことが思い出せないのだが、手紙を読み上げる実祈を見て、何故か涙が溢れてきた。

 私は泣いていた。悲しくもなんともないのに泣いていた。神野君の顔も思い出せないんだから。涙は無責任に私の頬を垂れて、土にしみこむ。
 私は魔性の女だな。
 悲しくもないのに泣くなんて。
 悲しくもないのに泣くなんて。
 悲しくなくたって泣いてやろう。神野君のために。

ここでも「ズレ」は機能している。憶えてない人物のために、悲しみも覚えられないのに泣く明海という描写と、その後の独白からは「意志の脱境界性」が読み取れる。根拠・事実の「ある・なし」に関わらず、感情ではなく意志が明海の肉体を動かすのだ。意志はそれ自体が根拠となる。この場面はそれまで描かれてきたコードのズレが、収斂されているようだ。コードがズレても、物語は奏でられると主張せんばかりに。

 だが、終結部(コーダ)を迎えたように思えるこの物語は、最後に思わぬポスト・コーダが加わり、読者は再び揺さぶられ、宙に浮かされるのだ……。タマシイビトの復活と、明海に対する予想外の謝罪によって。そして、明海と実祈の日常はこれからも続くことを暗示し、この物語は終わる。


・ 総括になっていない総括

 本編の構造的なズレを追ってきたが、やはり本作は捉えどころのなさを感じずにはいられない。あらゆるジャンルの定番要素を詰めておきながら、それらが全て少しずつ「ずる」く「ズレ」ていくために、どうまとめていいかわからない。しかし、最初にも述べたように明らかにこの作品は面白く、そして極めて精緻な文章がその魅力を支えている。これもまた、「耐久度のあるテクスト」を湛えた作品の一種であろう。
 本作におけるズレは、「ジャンル論争」という外部の自称に対しても、オルタナティブ効用を発するのではないかと私は考えている。この物語のアンチジャンル性は「『ただのラノベ』ではない」という分かっているようでまるで具体性のない凡庸な雑感も、それに反応して「テンプレ」の押し売りをする自称批評家、その両者にアイロニックな返答をしているように、私は考える。
 プログレ的な転調を繰り返す上質なミクスチャー、或いはオルタナティブ・ロックを聴いているような一冊だったように、私は振り返らずにはいられない。

(BGM:ベネズエラ・ビター『イケニエビト』)

*1:実祈が神野と出逢ったときに使った別名。

2014-12-07

三島由紀夫による〈外面―表面への意志〉と美的死生観(後編)

・ 死――、内と外の合一。及びカイロスの問題について

 『鏡子の家』(1959年)は三島の作品の中でも、「筋肉」と「美」の関係性と「死」の問題について、徹底して考察された指折りの一作である。あらすじは次の通りだ。
 資産家の令嬢である鏡子の家には、四人の青年が集まる。世界の破滅を信じて、常に心が満たされないことを潔しとしているエリート商社マンの杉本誠一郎。大学の拳闘(ボクシング)部の主将を務め、考えないことが至高であるという価値観をもつ深井峻吉。たわわに育てられ、将来を周囲に展望されている若手の日本画家山形夏雄。無名の俳優で、後に肉体を鍛えることに執着していく舟木収。彼らは「いかなる場合に陥っても、けしてお互いに助け合わない同盟」を結び、それぞれの信念を貫徹するために日々を費やす。
 この物語で最初に肉体の問題を提起するのは、やはりボクシング選手である峻吉である。「思考」というものを否定し徹底して拳闘に励む彼は、物語の最序盤から悪たれ共と喧嘩を繰り広げるなど、肉体の質感というものを直接的に顕示してくれる。しかし、「美的対象としての人間」(ホモ・エステティクス)の発現体として肉体を考えるならば、この作品において注目するべきは収の方であろう。眉目秀麗な彼は、ある日知り合いの女から身体の貧相さを責められる。屈辱的な思いをした彼は、知り合いである武井にボディビルの勧めを受けて、肉体強化に励むことになるのだ。

「考えてもみるがいい。感情や心理がどれほどの価値があろう。感情や心理だけがどうして微妙であろう。人体でもっとも微妙なものは筋肉なのである!

三島由紀夫鏡子の家

 武井は、筋肉美の狂信者である。彼に言わせれば、「感情や心理は、筋肉をよこぎる焔のようなもの*1」であり、筋肉は「言葉よりもずっと明晰である点で、言葉よりもすぐれた『思想の媒体』*2」なのだ。この筋肉至上主義は、一見すると余りにも突飛な考えに映り得るが、よくよく考えてみるとこれはこれで筋が通った一つの思想である。我々は、筋肉が全身に張り巡らされているからこそ意思表示ができるのだ。「感情や心理」は筋肉の媒介なしには、絶対に表面へ出でることはできない。こう考えると滑稽に見える武井の主張も、三島の「内部から外部へ出ることで、また外部となる」という思考様式が透徹されているとさえいえるだろう。谷川はこの武井と収の思想から、筋肉の鍛錬(=ボディビル)に対する目的を次のように捉え返している。「ボディビルは肉体を作品化する営みである。自己の外に作品を生み出す芸術とは異なり、それは製作者自身をいわば芸術作品と化す行為である*3」と。つまり、「内部である精神を肉体に還元させて発現させること」を原理とするならば、「〈美的〉精神は、〈美的〉肉体に還元させられて発現させること」に、筋肉鍛錬の目的は集約されるのだ。
 さて。本作において、この武井の美学に対して正面から立ち向かうのが、早熟の日本画家である山形夏雄である。彼らは、とあることがあって収の母が経営する喫茶店で対面し、それぞれの美学思想をぶつけ合い、闘わせるのだ。このくだりは『鏡子の家』において、あるいは三島美学を考察するにおいて、極めて重要な箇所である。

 武井は夏雄をつかまえて、全くの筋肉的関心から、ラオコオンその他のヘレニスティック彫刻だの、ミケランジェロの彫刻だの、ロダンの「考える人」だのの話を、ごちゃまぜにはじめた。……画家の発見し表現するすべての性質の美は、彫刻家に源している。何故なら、風景の美も、静物の美、結局人間の筋肉美からの類推なのだから。という奇説をふりまわした。

(同上)

 まず、武井の筋肉への執着がふんだんに語られることから、この対話は始まる。彼が彫刻を至上とするのは、量塊(マッス)と比例(プロポーション)が物質として現前するからである。これらはヘレニズムの芸術理論の根本的原理であり、筋肉の現存性を至上とする彼の志向がそこへ行き着くのは、想像に難くない。それは後世のバロック芸術における、「誇張」の概念にかかるのであるが、その話はここでは省略しよう。
しかし、風景・静物・その他全ての物質性を人間の筋肉へ還元するのは、何ら根拠のない暴論だ。武井のナイーブで無邪気な筋肉礼賛は、「芸術家」という存在の否定へと続けられる。

 彼は美に関しては人間の肉体というものが、可塑的な素材であると同時に芸術作品たり得る点で、芸術家の媒ちを必要とせず、「美というものには、本来芸術家など不要だ」というのであった。芸術家とはかくてブローカァにすぎず、もし人間の存在の意識そのものが芸術作品と化するなら、芸術家の存在理由は気弱になってしまうのである。

(同上)

 自らに秘められた美的感性を最大限に発現するのが自分の肉体ならば、確かにその肉体を使って外の対象に手を加えるよりも、肉体それ自体を芸術作品とした方が、「美的」であることは間違いない。しかし、この「美と発現」という問題はそれほどに単純でないことは、三島本人が重々承知していた。武井のナルシスティックな肉体論が、三島美学を反映しているのならば、夏雄の肉体造形への反駁もまた、三島の思想が反映されたものであるのだ。
 夏雄青年は、武井の語る美学普遍的なものとは捉えず、「明白に歴史的な一時代の美意識の影響下*4」にあるものと判断を下し、「ヘレニスティック彫刻の、いささかバロック風な『誇張』の様式から出たもの*5」と突っぱねる。そしてここから、その後の物語の伏線であり、さらには三島自身の運命を予見させるかのような、夏雄の反論が始まるのだ。やや長いが、全文引用することにする。

 夏雄はこんな議論に子供らしい危険を感じた。第一、芸術作品とは、目に見える美とはちがって、目に見える美をおもてに示しながら、実はそれ自体は目に見えない、単なる時間的耐久性の保障なのである。作品の本質とは、超時間性に他ならないのだ。もし人間の肉体が芸術作品だと仮定しても、時間に蝕まれて衰退してゆく傾向を阻止することはできないだろう。そこでもしこの仮定が成り立つとすれば、最上の条件の時における自殺だけが、それを衰退から救うだろう。何故なら芸術作品も円状や破壊の運命を蒙ることがあるからであり、美しい筋肉美の青年が、芸術家仲介なしに彼自身を芸術作品とすることができたとしても、その肉体における長時間製の保障のためには、どうしても彼の中に芸術家があらわれて、自己破壊を企てなくてはならないだろう。筋肉の練磨と育成は、肉体を発展させることでもあるが、同時に時間的法則の裡に、衰退の法則の裡に、肉体を頑固に閉じ込めておくことであるから、それは芸術行為ではないのであって、自殺に終らぬ限り、その美しい肉体も、芸術作品としてのその条件を欠いている筈である。

(同上)

 芸術の本質を超時間性と規定する夏雄にとって、時間に縛されその精彩が衰えていくことが確約されている肉体は、芸術作品足り得ない。従って、人間の肉体を芸術作品として成立させるには、自らのカイロスで自らの命を絶たなければならないのだ。その時にこそ、現存在性の最大の発現は達成され得るのである。
 夏雄の憤りは、ついに口から言葉として現れ出てしまう。

「そんなに筋肉が大切なら、年をとらないうちに、一等美しいときに自殺してしまえばいいんです」

(同上)

 この夏雄の言葉は、この先に収が「自殺」することの伏線となる。収は高利貸の醜女に対し、母の喫茶店に対する強引な取り立てを止める代わりに、恋人となる条件を呑んでしまう。女は嗜虐的な性的嗜好の持ち主で、紐による緊縛などを執拗に収へ強要してくる。そしてある日、女は収の皮膚を剃刀でわずかに傷つけてしまう。そこで収は、こんな風に思弁を巡らしたのであった。

「これこそは世界の裡における存在の紛れもない感覚なのだ」と収は思った。「僕ははじめて望んでいた地点に達し、すべての存在の環につながったのだ」やさしい、なまめかしい血の流出。肉体の外側へ流れ出る血は、内面と外面の無常の親和のしるしであった。

(同上)

 内面が外面へ氾濫することにより、二者が同化・表面へ還元され、美が発現するというプロセスは、これまで何度も述べて来た通りだ。ここで三島による肉体の論理は、一つの自己完結を示している。「美しい肉体をあくまでも芸術作品として保持するためには、自己破壊を企てねばならないという逆接、そして内面と外面との『無上の親和』を実現するためには、肉体を裂いて血を流出させねばならないという逆接、これらふたつにしてひとつの逆接が、三島における肉体の論理を構成する*6」のだ。
 鏡子から収の自殺を伝えられた誠一郎は、返信の手紙を次のようにしたためる。

「美しい者になろうとする男の意志は、同じことをねがう女の意志とはちがって、必ず『死への意志』なのだ。これはいかにも青年にふさわしいことだが、ふだんは青年自身が恥じていてその秘密を明さない。その秘密を大っぴらにするのは戦争だけだ。」

(同上)

「美」は、「死」を志向する。いずれその美を失う前に、美を現存在としてとどめておくには、自己破壊を求めざるを得ない。美は、それの表出が絶頂に達した刹那に死を以て、完成するのだ。

 さて。その「美的な死への意志」が顕わになるのが戦争であるが、それは何も直接殺し合いをする戦場だけに留まらない。これから戦場へ向かう運命となり、懊悩する人間にも当然適用される。その苦悩と美的な死を描いたのが、映画化もされ三島自身が主演を果たしたという自著『憂国』(1960年)に他ならない。
 二・二六事件の叛乱軍を鎮圧させるという名目で、参戦し友を討たねばならぬという煩悶の末、切腹を覚悟した武山信二中尉とそれに連れ添う麗子夫人。死に臨む美男美女は互いの肉体を交わらせた後、〈死〉に臨むのであった。

 刃はたしかに腹膜を貫いたと中尉は思った。呼吸が苦しく胸がひどい動悸を打ち、自分の内部とは思えない遠い遠い深部で、地が裂けて熱い溶岩が流れだしたように、怖ろしい劇痛が湧き出して来るのがわかる。その劇痛が怖ろしい速度でたちまち近くへ来る。注意は思わず呻きかけたが、下唇を嚙んでこらえた。

三島由紀夫憂国」――『花ざかりの森・憂国

「若々しく引き締った腹*7」に刃が食い入り、内部からくる劇烈な痛みが信二を焼く。〈外部→内部→外部〉という、痛覚のプロセス。それは血液を媒介として、視覚される。「無常の苦痛*8」と「歓喜の焔*9」は、表面へと還元されるのだ。

拳がぬるぬるしてくる。見ると白布も拳もすっかり血に濡れそぼっている。褌もすでに真紅に染っている。こんな烈しい苦痛の中でまだ見えるものが見え、在るものが在るのは不思議である。
……血は次第に図に乗って、傷口から脈打つように迸った。前の畳は血しぶきに赤く濡れ、カーキいろのズボンの襞からは溜った血が畳に流れ落ちた。

(同上)

 劇痛を可視化させるのは血と、膏と、吐瀉と、涎と、そして内臓である。

中尉がようやく右の脇腹まで引廻したとき、すでに刃はやや浅くなって、膏と血に辷る刀身をあらわしていたが、突然嘔吐に襲われた中尉は、かすれた叫びをあげた。嘔吐が劇痛をさらに攪拌して、今まで固く締っていた腹が急に波打ち、その傷口が大きくひらけて、あたかも傷口がせい一ぱい吐瀉するように、腸が弾け出て来たのである。腸は主の苦痛も知らぬげに、健康な、いやらしいほどにいきいきとした姿で、嬉々として辷り出て股間にあふれた。

(同上)

 高潔な覚悟と怖ろしいまでの烈しさと艶かしさが入り混じった、至極凄絶なシーンだ。この実に血なまぐさい場面は、冷静な筆致で紡がれることにより、崇高にさえ感じる一幕に仕上がっている。溢れ出る血と内臓は、自らの美的理念が表面美へと還元する媒介にしてその象徴である。崇高な意志に依って、鍛え上げられた肉体を自ら破壊するその瞬間、美は最高潮へと高められるのだ。ここに、身体(表面)と精神(内面)の究極的合一と、それを成しえるカイロス的な「死」の決断が見て取れよう。ここでは美的対象=殺人対象を『仮面の告白』のように、他者に求める必要はない。美的人間としての自らを殺すことで、自身の美的観念は至高の形で貫徹されたのであった。

 ところで「美のための死」というものに、何かしら危ういものを覚えさせられるのは、けして道徳的要請からのみではない。自死とは外界に対する理解の拒絶であり、それは「知の否定」へつながる。ここでの「知」とは精神的理解であり、それを拒むところから志向するのは、カイロス的な死=自死・殺人に向かわざるを得ない。故に、死という観点から美を考えることは、恐ろしいものと感じられるのだ。美は現存在と実感に依拠し、思考を経ることなく官能を享受するものである。
そして三島は晩年に、輪廻転生主題に「美と死」の問題について、一貫して追求した大作を書き上げた。それが、『豊穣の海』四部作(1969〜1970年)である。

「……人間の美しさ、肉體的にも李壇にも、およそ美に屬するものは、無知と迷蒙からしか生れないね。知つていてなほ美しいなどといふことは許されない。同じ無知と迷妄なら、それを隱すのに何ものも持たない李辰函△修譴鴃すのに輝かしい肉を以てする肉體とでは、勝負にならない。人間にとつての本筋の美しさは、肉體美にしかないわけさ」

三島由紀夫豊饒の海(四) 天人五衰」――『三島由紀夫全集 19』(傍線部、原文傍点)

この四部作の主人公は必ず20歳で死ぬ(第四部『天人五衰』の安永透は除いて)。そしてその年に、全ての記憶を洗われて転生される。松枝清顕、飯沼勲、ジン・ジャン、彼らの生を何十年と見届けていくのが、もう一人の主人公である本多繁邦だ。第四部である『天人五衰』(1970年)で、三人の死を通じ老年となった本多は、安永透という少年を彼らの生まれ変わり(実は違ったのだが)と信じ、養子として向かい入れる。その理由を友人である久松慶子に問い詰められ、本当のことを打ち明けたときに、続けて口にしたのが上述の言葉だ。
美が純粋に美として表面に顕れ出るには、知ることを介してはならないのだ。精神を廃し、感覚のみに自己を埋没させなければならない。それは自分の老いに対する自覚さえ、例外ではないのだ。また、その老いについて思考することもなく、ただただ官能を働かせることが、美を真に直観する唯一の方法である。
時間の否定(超時間性)、思考・精神の否定、そこから導かれる道は「死」に行き着くしかない。

 知らないということが、そもそもエロティシズムの第一條件であるならば、エロティシズムの極致は、永遠の不可知にしかない筈だ。すなはち「死」に。

三島由紀夫豊饒の海(三) 暁の寺」――『三島由紀夫全集 19』

 さて。この四部作の中で、『憂国』の武山中尉のようなカイロス的な死を遂げた存在として、第二部である「奔馬」の主人公である飯沼勲が挙げられる。右翼テロリストである彼は、経済界の重鎮を暗殺する。それから夜明け前の海を前にして、彼は切腹に至ったのだ。彼の瞼の裏には、日輪が「赫奕と昇った*10」という。
 三島は、『奔馬』を書き上げる28年前、先にあげた『中世における一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃』において、「殺人者にとって落日はいとも痛い。殺人者の魂にこそ赫奕たる落日はふさわしいのだ*11」という文章を書いている。何とも、遠い未来に自分が描く作品の結末を予見したかのような一節だ。ただここでは「落日」と書いてあるが、『奔馬』での太陽は「夜明け」のそれである。またこの後に続く文として、「美そのものさえそれは殺害(あや)め得るのである*12」と書いている。落日の持つ憂鬱は、美を殺す。しからば昇陽のそれは、蟠りを晴らし美の絶頂へ主体を至らしめる、象徴なのであろうか……。これらの二つの情景における対比からは色々な連想ができることであろうが、本筋から話が反れてしまい兼ねないので、この話はここまでにしておこう。
 話を戻す。今や、この『奔馬』の結末に触れた読者のほとんどの人が、「三島事件」の顛末を想起することであろう。三島由紀夫1970年11月25日、自らが組織した「楯の会」の隊員四人とともに市ヶ谷陸上自衛隊東部方面総監部を襲撃した。そしてバルコニーから自衛隊員に演説をした後、中へ戻り割腹自殺を図ったのである『憂国』や『豊饒の海(二)奔馬』でカイロス的な自死を描いた彼は、自らの命をかけて私達に「美的観念と肉体、そして自己破壊(カイロス自死)による超時間的・美的完成」という問題を投げかけたのであった。
 ――だが、内部と外部の合一と美的死生観という問題は、これで一切の完結を迎えてはいない。確かに、三島は「内(精神、観念)と外(肉体、官能)の合一は、カイロス的死によって究極的に達せられる」という命題を、自分の作品と生涯を以って訴えた。だが、それだけが三島が命をかけてまで訴えたかったことなのか? 三島は果たして、そうした美的自死をプリミティブに全肯定していたのか? 私は、そうは思わない。事実、彼はこの思想に限界性を感じていた。それは先にあげた『鏡子の家』における、武井と夏雄の対決で明らかではないか。もし三島が、「美的完成を求めたカイロス自死」に何ら疑いを抱かなかったのならば、こんなやり取りはそもそも描かないだろう。三島は、自分の美的観念に対して、常に限界を感じていたに違いない。それを読み解く鍵は、彼の最初期の作品である『花ざかりの森』で既に示されている。


・ 内と外の統合における極致自我彼岸。行き着く先は全て「無」

 『花ざかりの森』は、場面ごとの登場人物の位置関係が分かり難く、三島の作品では極めて読み辛い部類に属する。しかしそうであるからこそ、この作品の唯美的な雰囲気は成立しているともいえよう。幼き時の記憶、園丁の緑、木漏れ日、鳥の囁き、古写真から馳せる情景……、そうした幻想的な情景が多層的に描かれるのが本作である。そしてこの作品において最も重要なのは、その結末の部分である。老婦人に招かれたまろうど(まれびと、客人の意)は、夫人と共に邸宅の裏の林を抜けたところにある高台から、町並みと海を望む。寂静とした情景を以って、この短編は幕を閉じる。

まろうどはふとふりむいて、風にゆれさわぐ樫の高みが、さあーっと退いてゆく際に、眩ゆくのぞかれるまっ白な空をながめた、なぜともしれぬいらだたしい不安が迫って。「死」にとなりあわせのようにまろうどは感じたかもしれない、生(いのち)がきわまって独楽の澄むような静謐、いわば死に似た静謐ととなりあわせに。……

三島由紀夫「花ざかりの森」――『花ざかりの森・憂国

 このような一節を、三島は16歳で書いたというのだから、舌を巻くばかりだ。しかしその文章力もさることながら、ここで問題にあげたいのは「死」と「生」という概念と、「静謐」というモメントにおける関連性である。「生(いのち)がきわまって独楽の澄むような静謐」は、「死に似た静謐ととなりあわせ」という記述は、いったい何を意味しているのか。静寂のなか、その清冽な情景を目の当たりにしたまろうどに、「なぜともしれぬいらだたしい不安が迫っ」たのは、どうしてであろうか。ここに私は、三島の思想の肝である「実存への意志=死への不安」が見て取れるのではないかと、思わざるを得ないのである。
 中も外もない、美の境地。それは「カイロス自死」によってのみ達せられるものではないことを、三島はこの頃から承知していたのではないか。外と内の合一、それを主体的に決断する「カイロス的死」があるとすれば、忘我の大海へ身を任せる「クロノス的死」がその対極に存在することを、三島は16歳の時よりずっと意識していたのではないか。
 故に、この『花ざかりの森』の結末が『豊穣の海』の第四部である『天人五衰』の幕と重なって見えるのは、偶然ではないのだろう。

 これと云つて奇巧のない、閑雅な、明るく開いた御庭である。數珠を繰るやうな蝉の聲がここを領してゐる。
 そのほかには何一つ音とてなく、寂寞を極めてゐる。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は來てしまつたと本多は思つた。
 庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる。……

三島由紀夫豊饒の海(四) 天人五衰」――『三島由紀夫全集 19』

 透が松枝清顕やジン・ジャンの生まれ変わりでないことを知った本多は、清顕とかつて逢瀬を交わした綾倉聡子に会いに行く。仏門に入って数十年が経過した彼女は、既に清顕のことを憶えていなかった。そして、寺の庭へ若僧に連れられた本多は、どうともいえぬ虚しさのなかで、ただ呆然とするのであった。
 記憶の否定は時間の否定。なにもないということは、思考・精神の否定であり肉体の否定である。そこから導き出される概念は、先のカイロス的死と同じように、「死」でしかあるまい。しかしそれは、切腹のような動的なものではなく、至極静的なものである。それを言い表す言葉はただ一つ、ただ「無常」である。
 ……けれども、皮肉なものだ。無機的で非主体的な時間であり内部を志向するクロノスから脱しようとして、有機的で主体的な時間であり外部を志向するカイロスを意識すればするほど忘我へ向かっていってしまうという逆説が、ここに成立している。いずれにしても行き着く先は、無でしかない。死を前にして人間は、それに挑む姿勢が積極的であろうと消極的であろうと、結局は無に帰すのである。「無常観」という内部からくる忘我へのいざないに対して、どれだけ人は耐えられるのであろう? それに対して、精神(内部での自律)を重きに置くか、それも外部に還元されるのであるからと、肉体=表面に重きを置くか……。三島は、市ヶ谷の総監部に乗り込むその日に、この『天人五衰』の入稿をした。完全なる無と相対した三島は、無常観に身を沈めることなく、主体的に死に臨むことを決断したのだ。死に対する内と外の問題とは、そうした自らの存在の本質をどこに求めるかを選ぶ、その「意志」の問題なのである。


総論

 外面と内面、そして二者を還元する表面という観点から、三島美学死生観を考察したこの思弁的冒険は、「カイロスクロノス」という時間概念を経てから、内も外も全てが無に帰す「無常」という概念に辿りついて、やっとひとまずの帰路を迎えた。
 私は今から1年半ほど前、『基礎演習I』の授業で三島由紀夫をテーマにしたレポートを書いた。そこで「『生の否定こそが美の極致』というニヒリズム的な唯美主義を、いかにして超克するかが、三島が「死」を以って我々に与えた課題である」という結論に至ったことを憶えている。そして私は今回の論文で、そのさらに先の可能性について三島は思考していたことを明らかにした。それは、「カイロス的死にしろ、クロノス的死にしろ、いずれも無に帰す。従って、どちらを選ぶかは主体の〈意志〉の問題である」ということだ。
 最後に。『鏡子の家』におけるこの一節を添えて、この論文の終わりとしたいと思う。
夏雄は武井との論争の後に、神秘主義に埋没してしまった。だが彼はそれを自力で克服した。そして、物語の最後でこのように悟るのである。

 もし魂というものがあるなら、霊魂が存在するなら、それは人間の内部に奥深くひそむものではなくて、人間の外部へ延ばした触手の尖端、人間の一等外側の縁でなければならない。
三島由紀夫鏡子の家

 人間の存在の原理、本質を求めて、三島は外部へ外部へと意識した。しかしその縁に辿り着いたその先は、内部へ内部へと向かった時に同じく辿り着く、「無」があるのみであった。その無と対峙したとき、人間はどのような死生観美的観念を抱くか、この難問に対して三島は全身全霊を以って答えたと同時に、「君たちなら、どうするか?」と私たちへ投げ返したのである。


参考文献

文学の皮膚 ホモ・エステティクス』谷川渥 白水社 1997年
美学の逆説』谷川渥 筑摩書房 2002年
『美のバロキスム 芸術学講義』谷川渥 武蔵野美術大学出版局 2006年
『肉体の迷宮』谷川渥 東京書籍 2009年

仮面の告白三島由紀夫 1950年
金閣寺三島由紀夫 1956年
――『三島由紀夫全集』中央公論社 1965年
「花ざかりの森」三島由紀夫 1941年
中世における一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」三島由紀夫 1943年
憂国三島由紀夫 1960年
――『花ざかりの森・憂国新潮社 1968年
「若きサムライのための精神講話」三島由紀夫 1969年
――『若きサムライのために』文芸春秋 1969年
豊饒の海(一) 春の雪三島由紀夫 1969年
豊饒の海(二) 奔馬三島由紀夫 1969年
――『三島由紀夫全集 18』新潮社 1973年
豊饒の海(三) 暁の寺三島由紀夫 1970年
豊饒の海(四) 天人五衰三島由紀夫 1971年
――『三島由紀夫全集 19』新潮社 1973年
薔薇と海賊三島由紀夫 1958年
――『三島由紀夫全集 22』新潮社 1975年
アポロの杯」三島由紀夫 1952年
――『三島由紀夫全集 26』新潮社 1975年
鏡子の家三島由紀夫 新潮社 1959年
『裸体と衣装』三島由紀夫 新潮社 1983年

『美と共同体東大闘争 三島由紀夫 VS 東大全共闘
 三島由紀夫 東大全共闘 角川書店 2000年

*1三島由紀夫鏡子の家新潮社

*2三島由紀夫鏡子の家新潮社

*3:谷川渥『文学の皮膚 ホモ・エステティクス』白水社

*4三島由紀夫鏡子の家新潮社

*5三島由紀夫鏡子の家新潮社

*6:谷川渥『文学の皮膚 ホモ・エステティクス』白水社

*7三島由紀夫憂国」――『花ざかりの森・憂国新潮社

*8三島由紀夫仮面の告白」――『三島由紀夫全集』中央公論社

*9三島由紀夫仮面の告白」――『三島由紀夫全集』中央公論社

*10三島由紀夫豊饒の海(二) 奔馬」――『三島由紀夫全集 18』新潮社

*11:「中世における一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」三島由紀夫――『花ざかりの森・憂国新潮社

*12:「中世における一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」三島由紀夫――『花ざかりの森・憂国新潮社

2014-11-30

三島由紀夫による〈外面―表面への意志〉と美的死生観(前編)

序文

 三島由紀夫は、内面の外面への還元、及び両者の合一という問題に対し、その命を以って敢然と挑んだ作家であった。
 通例、人間をして内面とは精神のことであり、表面とは肉体のことを示す。このような「内と外」の二元論はソクラテス以来、西洋において近代になるまでイニシアチブを得ていた思想であり、外=肉体のような感覚的なもの、具体的なものは、崇高なる精神より劣るものと考えられてきた。ところがそのような二元論は19世紀に入ると、人間の活動及び人間そのものの本性を「物質」(マルクスの史的唯物論など)や「実存」(ニーチェの実存主義など)、即ち一元的なものへ還元されると考える思想の現れにより、その絶対性を粉砕されることになるのである。このような西洋における「内と外」の思想史を、日本の伝統的な文化観と照らし合わせ、その合一を外面、「肉体」に本質を帰依させることで、自らの理念を透徹させる研鑽を、三島は生涯続けた。
 そのような試みは、処女作『花ざかりの森』から晩年の大作である『豊饒の海』まで、一貫して行われたことである。内部とは何か、外部とは何か、相互侵犯し合うそれらが合一した先に、いったい何があるのか……、そうした三島による美学の構造と体系を、美学者である谷川渥が三島由紀夫美学について論述した文章である「薔薇と林檎」(『文学の皮膚 ホモ・エステティクス』収録)と「三島由紀夫のバロキスム」(『肉体の迷宮』収録)の解釈を叩き台にした上で、思弁的に熟考していくことにしよう。


本文

三島由紀夫の肉体論――外面の絶対性

 三島由紀夫の外面に関する思想は、彼の初期作品において既に見受けられることができる。例えば、三島の最初の外遊記である『アポロの杯』(1952年)では次のように記されている。

 希臘人は外面を信じた。それは偉大な思想である。キリスト教は「精神」を発明するまで、人間は「精神」なんぞを必要としないで、誇らしく生きてゐたのである。希臘人の考へた内面は、いつも外面と左右相称を保つてゐた。希臘劇にはキリスト教が考えるやうな精神的なものは何一つない。それはいはば過剰な内面性が必ず復讐を受けるといふ教訓の反復に尽きてゐる。

三島由紀夫アポロの杯』(斜線部、原文傍点)

 谷川はこの一節について、「外面と内面という二元論における外面の称揚。外面が肉体であり、内面が精神であるとすれば、外面の称揚はとりもなおさず肉体の称揚である。とはいえ、この段階で三島はまだあからさまな肉体賛美に踏み込んでいない。『精神』や『感受性』の過剰を嫌悪しているだけである。*1」と、述懐している。この見解に関して異論はない。キリスト教的な、精神に対する過剰な「盲信」を否定し、外面と内面を相対化した上で外面の優性を誇るのは、三島美学における出発点と見ていいだろう。このような外面=肉体への執着は、彼が『アポロの杯』を執筆する3年前に書いた中篇『仮面の告白』(1949年)において、雄弁に語られている。

 『仮面の告白』の主人公は、父親のイタリア土産である画集に収録されていた、グイ・ド・レニの《聖セバスチャン》を発見する。そこには、ローマ皇帝ディオクレティアヌスの近衛兵であった聖セバスチャンが、密かにキリスト教を信仰していたために、処刑される様子がありありと描かれていた。それを見た主人公は、激しい性的恍惚を覚える。そして辛抱たまらなくなり、思わず〈ejaclatio〉をしてしまうのであった。

矢は彼の引緊った・香り高い・青春の肉へと喰い入り、彼の肉体を無常の苦痛と歓喜の焔で、内部から焼こうとしていた。しかし流血はえがかれず、他のセバスチャン図のような無数の矢もえがかれず、ただ二本の矢が、その物静かな端麗な影を、あたかも石階に落ちている枝影のように、彼の大理石の肌の上へ落していた。

三島由紀夫仮面の告白」――『三島由紀夫全集』(中央公論社 版)

ジェノヴァのパラッツォ・ロッソに収録された《聖セバスチャン》を、写真で観てみる。すると、引き絞られた白く美しい裸体とそれを貫く二本の矢が、即物的なまでにただただ描かれていることが確認できる。射られたところから血が出ることはなく、両手を吊り下げられた聖人の表情は安らぎに満ちていた。なるほど、たしかに主人公の述べるようにそこには、「布教の辛苦や老朽*2」などといった精神の過剰が介在する余地はなく、「ただ青春・ただ光・ただ美・ただ逸楽*3」があるのみである。
 ここに、外面の絶対性という三島美学を見て取ることは容易であるが、ことさら問題として取り上げたいのは、「彼の肉体を無常の苦痛と歓喜の焔で、内部から焼こうとしていた」という一文である。
 矢は、聖セバスチャンの肉体へ突き刺さっている。しかしこの事実自体に、「無常の苦痛」も「歓喜の焔」もない。それらは内部から湧き出てくるものである。つまり、外部の刺激は内部へ到達することで、外部ははじめてそれを「苦痛」や「歓喜」として感覚するのである。この〈外面→内面→外面〉という還元的な知覚プロセスから読み取れることは、「痛み」や「恍惚」といった感情は表面に宿るということである。そこに外面の絶対性が加われば、この《聖セバスチャン》のエピソードが示すところは、「感覚の絶対性」を訴えることに帰結するのだ。

 さて。《聖セバスチャン》において、描かれた主体における〈外面→内面→外面〉という認識プロセスを、観る側に想起させる視覚的媒体は、「左の腋窩と右の脇腹に箆深く刺された矢*4」のみであった。通常、矢や刃などが肉体に突き刺さった人物を描かれる場合、その人物の「痛み」を表す媒介物は、次のようなものが考えられる。苦悶の表情、汗、痙攣する肉体、……そして創から流れ出る流血。グイ・ド・レニの《聖セバスチャン》には、この流血は描かれていなかった。しかしこの血は、三島美学を語る上で欠かすことのできないファクターだ。血は〈外面→内面→外面〉という認識プロセスを形而下に引き降ろし、かつ刺突のような外面による内面への侵入と、内面から外面へ還元される痛みという、知覚のモメントを媒介する。
 この内部と外部の媒体としての「血」という問題について、三島は『仮面の告白』において極めて猟奇的な形で叙述している。主人公の「引緊った・香り高い・青春の肉」への欲望は、やがて中学の同級生へ向けられることになる。中学四年の時に貧血症に陥った主人公は、ある日嗜虐的な夢を見る。それは、大皿に縛り付けられたたくましい同級生B(主人公の意中の同級生である、近江のことだと思われる)を、特大のナイフとフォークで切り刻むというものだ。

 私は心臓にフォークを突き立てた。血の噴水が私の顔にまともにあたった。私は右手のナイフで胸の肉をそろそろ、まず薄く、切り出した。……

(同上)

 何ともサディスティックな場面である。「琥珀色の盾のような胸*5」から噴き出た血は、同級生の劇痛の媒体であり、それを主人公が満足そうに嗜む様子が、ありありと目に浮かぶ。内部に流れる血は出でることによって、これもまた外部、表面となる。血は内部と外部を合一させる媒介にして、自ら外部へ還元されるのだ。しかしこの「血」と「肉」という問題をもっと深く追求するには、「内臓」と「皮膚」というもう一つの内部と外部の問題を取り上げなければならない。


・ 肉体と精神、又は薔薇という比喩。そして、内外合一のファクターとしての血

 流れ出た血が表面として認識されるのならば、皮膚と肉に覆い隠された内臓にも同じことが言えよう。
 『金閣寺』(1956年)に、次のような一節がある。吃音の主人公は大阪で空襲に遭遇し、「腸の露出した工員が担架で運ばれてゆく様*6」を見た。

なぜ露出した腸が凄惨なのであろう。なぜ人間の内部を見て、悚然として、目を覆ったりしなければならないのであろう。なぜ血の流出が、人に衝撃を与えるのだろう。なぜ人間の内臓が醜いのだろう。……それはつやつやした若々しい皮膚の美しさと、全く同質のものではないか。

三島由紀夫金閣寺」――『三島由紀夫全集』(中央公論社 版)

 血は、外に飛び出た内臓は、一度外に飛び出せば皮膚と同質の表面性を顕示する。露出した腸は「内側と外側の二元論を無効*7」化し、「逆説的な表面の肯定」*8を主張しているのだ。この内部と外部という境界の危うさを体現する工員の肉体を見た主人公は、そこから「薔薇の花」を連想する。

内側と外側、たとえば人間を薔薇の花のように内も外もないものとして眺めること、この考えがどうして非人間的に見えてくるのであろうか? もし人間がその精神の内側と肉体の内側を、薔薇の花弁のように、しなやかに翻えし、捲き返して、日光や五月の微風にさらすことができたとしたら……

(同上)

この薔薇という花は三島美学体系を語る上で、重要なシンボルとなっている。薔薇の花弁は何重にも渦を巻いていて、どこまでが内か、どこまでが外なのかという判断を惑わせる形態をしている。血と内蔵にまみれた表面は、内部による外部への氾濫だ。その比喩としての薔薇の花。薔薇は、内部と外部の混沌・合一から生まれる「表層の美」とは何かを、最も明白に表してくれる。

 さて。『金閣寺』を執筆する1年前に、三島はこの薔薇をタイトルに冠する戯曲『薔薇と海賊』(1958年)を制作している。知的障害者の無垢な青年帝一と、彼が憧れる童話作家の楓阿里子との恋愛を描いた本作は、意味深な会話や不可思議なエピソードが幾重にも挿まれて構成されている。

帝一 (わが胸を押へて)ここでテクタク、時計みたいに動いてゐるものがハートだね。
楓 でもそれは冷たい鐡と硝子の時計ぢやなくて、熱い肉と血でできた時計なの
帝一 それぢやその時計、生きてゐるんだね。
楓 さう、生きてゐる時計。でも早くなつたり遲くなつたりする。時を知らせる時計ではなくつて、心をしらせる時計ですから。

三島由紀夫薔薇と海賊」――『三島由紀夫全集 22』(新潮社 版)

 心臓が「熱い血と肉でできた時計」という比喩。この例えは、先の『仮面の告白』であげた嗜虐的な夢を思い起こさせられよう。琥珀を思わせるような滑らかで均整のとれた肉を貫き、心臓を突き刺す特大のフォーク。それは彼の命の否定、心の否定、即ち人格の否定だ。この暴力とエロティシズムという問題について三島は、後年における東大全共闘との討論(1969年)で、両者の共通性を「他者の必要」と「他者の意志の否定」にあると言及している。「心」と「命」という人格性の核である概念を破壊するという「私」の夢想が、ひどく淫らなものに思えるのはそのためだ。嗜虐とはエロティシズム(=精神的モメント=内部)と暴力(=物質的モメント=外部)の合一であり、それは内臓や血の流出によって顕在化されるのである。

 話を戻そう。この帝一と楓の会話で注目したいところはもう一つあり、それは楓の言う「時」と「心」が二つの時の概念を、暗喩しているということである。「時」の概念は、およそクロノス(Καιρός)とカイロス(Χρόνος)の二種類に分けられると考えられよう。これらは二つともギリシア語で「時」を表す単語であるが、前者が一定の速度で流れていく客観的で絶対的な「時間」を意味し、後者は主体の感覚による時間の進み方を表した主観的で相対的な「時刻」を示す。そしてこの二者の関係は、次のように捉え返すことができる。クロノスが無機的に進むX軸とすれば、カイロスはそれを有機的(主体的)に断つことのできるY軸という風に。楓の言葉を、この二つの時間概念に置き換えるとすれば、「時」とはクロノスのことを意味し、「心」とはカイロスのことを意味すると考えられよう。時を認識するのは、心(=意識)である。人が時を意識するということは、「今」を意識するということだ。つまり、「現」実に存「在」する自分を意識することで、人は「時」をというものを認識している。故に、カイロスは今を指向する概念と言える。
 さて、ここで一つの問題があがってくる。それは、そもそも「客観的で絶対的な時間であるクロノス」などは、存在するのかということである。もし客観的で絶対的な時間があるとすれば、それはヘブライの神が取り決める「時刻」(=カイロス)の言い換えに他ならない。しかし、神は誰も知覚できない。故に、神は各主体の「内面=精神」にしか存在し得ない。ところが三島は、先に上げた『アポロの杯』で精神の優位を激しく糾弾している。さすれば神も、神の時間=クロノスの存在も、三島の世界観においては否定されることになるだろう。すると、三島の主観的世界で存在を許される概念は、カイロスのみになる。時間はそれぞれの主体ごとに、相対化されて感じ取られることになるのだ。そしてカイロスは「今」を指向していることを、先に述べた。すると、三島の時の捉え方は「現存性」と「相対性」を、原理にしていることと考えられる。
 このような「今」の至上性は、三島の作品・文章の中でいくつか見受けられることができる。彼は晩年のエッセイ『若きサムライのために』で、「未来を信じる奴はダメ*9」と真っ向から否定している。「未来を信じる奴は、みんな一つの考えに陥る。未来のためなら現在の成熟は犠牲にしたっていい。」こうした考えを、三島は現在を意識することを何よりも大事なことと考える故に、切って捨てているのだ。

小説家にとっては今日書く一行が、テメエの全身的表現だ。明日の朝、自分は死ぬかもしれない。その覚悟なくして、どうして今日書く一行に力がこもるかね。その一行に、自分の中の集合的無意識に連綿と続いてきた猜顕臭瓩体を通してあらわれ、定着する。その一行に自分が狎就瓩垢襦それが狒和き瓩箸いΔ發里痢∨榲の意味だよ。未来のための創造なんて、絶対に嘘だ。

三島由紀夫「若きサムライのための精神講話」――『若きサムライのために』

 さて。この世の時間が全て主観的であり、相対的であるのならば、カイロスが断ち切るのは同じく、別の主体他者)のカイロスになるであろう。拡張する自己の意識は、やがて同じく拡張する他者の意識と衝突することになる。そこでどうにか折り合いをつけながら、私達の日常というものは平穏を保つことができるのだが、自意識を最大限に発現するとすれば、他者カイロスを強引に断ち切ることもあるだろう。その発現の形式が「暴力」であり、その最高の形態が「殺人」なのだ。自らの意志が、他者の意志を完全に断ち切ってしまうのである。『仮面の告白』で、「私」が夢の中で同級生の「心の時計=カイロス」を壊してしまったように。

 この「死」と「暴力」と「美」という問題は、『仮面の告白』や『薔薇と海賊』よりさらに初期の作品である、『中世における一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃』(1943年)で既に提起されている。

能若衆花若を殺害。その唇はつややかに色めきながら揺れやまぬ緋桜の花のように痙攣する。能衣装がその火焔太鼓や桔梗の紋様をもって冷たく残酷に且重たく、山吹の芯に似た蒼白の、みまかりゆく柔軟な肉体を抱きしめている。私の刀がその体から引き抜かれる。玉虫色の虹をえがきつつ花やかに迸る彼の血の為に。

三島由紀夫中世における一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」
――『花ざかりの森・憂国

その極めて背徳的且つ耽美的な情景もさることながら、ここでは若衆の「衣装」と「肉体」の関係に注目したい。「みまかりゆく柔軟な肉体を抱きしめ」る華やかな「能衣装」、内面である前者と外面である後者は、他者の暴力的な介入によりその境界を崩壊させられた。その乱れた姿は実に蟲惑的に表現され、エロティシズムと暴力の合一による嗜虐的な美を体現している。そして「玉虫色の虹」を描く「迸る血」は、その媒体に他ならない。
 この「衣装と肉体」という関係について本作は、さらなる追求を試みている。

遊女紫野を殺害。彼女を殺すには先ずその夥しい衣装を殺さねばならぬ。彼女自身にまで、その衣装の核――その衣装の深く畳みこまれた内奥にまで、到達することは私にはできない。その奥で、彼女は到達されるまえにはや死んでいる。一刻一刻、彼女は永遠に死ぬ。百千の、億兆の死を彼女は死ぬ。――

(同上)

 幾重にも遊女を包み込む衣装の氾濫。それは、華やかな衣装を着た遊女の美が総体にして個体であることを示し、どこか薔薇の花弁を連想させるものがある。

……彼女が無礙であればあるほど、私の刃はますます深く彼女の死にわけ入った。そのとき刃は新しい意味をもった。内部へ入らず、内部へ出たのだ。

(同上)

 先に名を上げた谷川は別著『肉体の迷宮』において、「内部と外部との素朴な二元論を危うくする『内部へ出る』という表現。……それが早くも薔薇の存在を要請する*10」と、この一節を読み取っている。この薔薇と三島作品の関係から、『豊饒の海(三)暁の寺』で綴られる「薔薇」の観念的解釈を取り出して、「内部と外部」という問題に対し一気に結論へ向かうことはできる。だが、そのような方法は『肉体と迷宮』における一論文三島由紀夫のバロキスム」で取られているものであるため、私としては早急に結論へ至る前に「死」と「肉体」、そして「カイロス」の問題について、より深く考察したく思う。

(後編へ続く)

*1:谷川渥『文学の皮膚 ホモ・エステティクス』白水社

*2三島由紀夫仮面の告白」――『三島由紀夫全集』中央公論社

*3三島由紀夫仮面の告白」――『三島由紀夫全集』中央公論社

*4三島由紀夫仮面の告白」――『三島由紀夫全集』中央公論社

*5三島由紀夫仮面の告白」――『三島由紀夫全集』中央公論社

*6三島由紀夫金閣寺」――『三島由紀夫全集』中央公論社

*7:谷川渥『文学の皮膚 ホモ・エステティクス』白水社

*8:谷川渥『文学の皮膚 ホモ・エステティクス』白水社

*9三島由紀夫「若きサムライのための精神講話」――『若きサムライのために』文芸春秋

*10:谷川渥『肉体の迷宮』東京書籍

2014-10-26

「カゲロウプロジェクト」のメドゥーサ観――「見る≠所有する」というアンチテーゼ


※ 以下の作品について、核心的な部分についてのネタバレがあります。
 
 マンガ『カゲロウデイズ』1〜5
 (著・じん 作画・佐藤まひろ 刊・メディアファクトリー)1〜5
 小説『カゲロウデイズ』1〜5(著・じん 刊・エンターブレイン)
 アニメ『メカクシティアクターズ』


 「カゲロウプロジェクト」は〈邪眼〉というモティーフから出発し、メタ的なレヴェルにおける「見る」という行為に際し本性的に備わる暴力性やエロスに対して批判的な視座を与え、「見る」という概念を脱構築・再構成しよう試みた物語である。そのことが最も端的に表れているのが、本作におけるメドゥーサ像においてであるのだ。
 以下、「カゲロウプロジェクト」における視覚とその象徴たるメドゥーサ像をめぐる、思弁の遁走を始めたいと思う。


・ メドゥーサ=「視覚と触覚→所有欲」のメタファー

 メドゥーサという怪物は、「見る」ことの暴力性やエロティシズムを象徴する存在として、芸術作品のモティーフとして描かれてきた。カラヴァッジョの『メドゥーサ』やルーベンスの『メドゥーサの首』など、メドゥーサをグロテスクな、猟奇的なイメージを伴い描かれてきた作品を挙げていけば、枚挙に暇がない。このようなメドゥーサ観は大衆文化にも、強く根付いている。RPGでメドゥーサは定番のモンスターであるが、彼女らの持ち得る能力を思い起こしてもらいたい。味方パーティを「石化」させる力はもちろん、そして味方パーティを「ゆうわく」(味方パーティを混乱と同様の状態にする)させる力を持っていることも珍しくないはずだ。このようにハイ・カルチャーからポップ・カルチャーに至るまで、メドゥーサという怪物にはどうしても好戦的・好色的なイメージがつきまとう。そしてそのようなメドゥーサ像が一般的であることは、「カゲロウプロジェクト」の作中でも次のように触れられている。

物語の中なんかじゃいつも 怖がられる役ばかりで
(じん『想像フォレスト』より)

 それはメドゥーサが「視覚」の象徴であり、「見ること」は本性的にエロティシズムや暴力性を備えているからである。澁澤龍彦曰く「見るということは、所有すること*1」であるという。暴力もエロスも両方とも、絶対的に他者を必要とする。しかしこの両概念は、他者を必要としていながら他者の人格を否定する志向性を持つ。他者を物象化したいと欲するのだ。つまり、他人を「もの」として欲する。それは「視覚」が、自己を拡張しようとする性質を持つからである。欲しいものが目に入ったら手を伸ばすように、視覚は所有欲を誘因する本性を持っており、自己の身体を拡張するよう促すのだ。ここに「触覚」との連関性が生まれる。相手を所有するには、相手に触れなければならない。バイオレンスにしてもエロスにしても、その現実に発言させるには「触覚」の助けを借りずにはいられない。視覚したものを触覚しようとする、そこには所有欲が絡んでいるのだ。
 さて。話をメドゥーサに戻すが、メドゥーサの石化の邪眼は、まさしく「視覚と触覚の親和性」及びそのことがもたらす「所有欲」を暗喩した概念であるといえる。何故なら彼女の邪眼は、相手を腕ずくで組み伏せる(触覚)ことなく、見るだけで(視覚)永遠に静止させてしまう。「もの化」させてしまうのだから。


・ メドゥーサ≠「視覚と触覚→所有欲」というメタファー

 けれども「カゲロウプロジェクト」におけるメドゥーサ観は、前述のような好戦的・好色的なメドゥーサ像とは大きく異なっている。「カゲロウプロジェクト」に出てくるメドゥーサの一族(アザミの直系)とその能力の保持者からは、「見る≠所有すること」というテーゼはほぼ剥奪されている。そればかりか、そうした危険性に登場人物自体が自覚的で、積極的に距離を置こうとすらしている。上述したような視覚論に対して批判的なテーゼを、物語全体を通じて描写している。それは「蛇」の力を持った能力者達が自分の能力を全編通じて忌避しており、能力者同士が「蛇」の力を取り消す方法を探すためにメカクシ団を結成するという物語の大筋からも明らかなことである。この物語は、「見る」ことに伴う暴力性やエロティシズムに対して自覚的であり、かつ否定せんがために批判的視座さえ置いているとすらいってもいい。
 作者であるじんがこのようなメドゥーサ観をどこから得たのか。それは、神話上のメドゥーサの物語にその根拠を求めることができる。何故なら、原典のメドゥーサはそもそも好戦的・好色的な怪物「ではない」からである。むしろ、前述の「視覚の暴力性・エロス」を向けられる対象、「見られる」側であったのだ。
 美貌のゴルゴン三姉妹の三女であるメドゥーサはある日、アテナの神殿でポセイドンに強姦されてしまう(欲望の対象として「見られる」)女神アテナは、神殿を穢した罪としてメドゥーサを咎め、頭髪を全て蛇にしてしまう。(軽蔑の対象として「見られる」)現代の倫理観に当てはめてみればとんでもない話なのであるが、とにかく神話の上におけるメドゥーサの物語はそうなのだ。ここからは、ご周知の通りペルセウスのメドゥーサ退治の物語へと続くのである。
 このメドゥーサを襲った二つの理不尽について、美学者の谷川渥は著書『鏡と皮膚 芸術のミュトロギア』において次のように説いている。

 メドゥーサは、二重の意味でヴァルネラブルな存在なのだ。その彼女は、以後、見られることにおいて見る存在となる。つまり、彼女はあくまでも見られるという受け身のあり方で見るという攻撃性を手に入れる。石化は、だから自分のあまりにおぞましい姿を見られることの拒否として結果するのだということもできる。

谷川渥『鏡と皮膚 芸術のミュトロギア』筑摩書房 P87

この「ヴァルネラブル vulnerable」というのは訳しにくい言葉であるのだが、おおよそ「迫害されやすいこと・傷つきやすいこと・被害者的」という意味を示していると考えてくれればいい。このメドゥーサのヴァルネラビティは、カゲロウプロジェクトの全編に渡って貫徹されている。文字通りメドゥーサの一族であるアザミの直系は当然のこととして、メドゥーサの能力(「蛇」の力)を持つ能力者全員は、何らかの形によって迫害を受けている。そもそも、能力を得る条件が「生死の境界(=カゲロウデイズ)」に触れることであり、かつ能力は自分の意志で所得したわけではない。受け身なのだ。彼らは、皆ひとしくヴァルネラブルな存在といえる。
 そもそも「メカクシ団」という名称からして、自分たちが「見られる」存在であり、その視線には先ほど述べたような攻撃性が備わっていることに、彼らが自覚的であることを示唆しているではないか。「カゲロウプロジェクト」とは、谷川の言葉を借りれば「見られるという受け身のあり方で見る」ことによって、「見ること」の攻撃性を否定(自分の能力の消失を願う)する物語であるのだ。


・ ゴルゴネイオンとしての女王マリー

 だがこの物語には「見ること=所有すること」という、メカクシ団が忌避するテーゼを肯定し、実行する登場人部が存在する。〈邪眼〉の暴力性やエロティシズムを積極的に肯定し、メカクシ団と敵対し、本作最大の悪役でいえる存在、目が冴える蛇(黒コノハ)だ。彼の作中での描写は、その嗜虐性もさることながら、「見るということは、所有すること」という澁澤の視覚観と完全に合致している。故に、目が冴える蛇はその行動をとっても目的をとっても、「『見る』という行為に際し本性的に備わる暴力性やエロス」を忌避するメカクシ団にとって最大の敵であり、かつ本作最大の悪役になりうるわけだ。
 ここで、目が冴える蛇の姦計に嵌り覚醒したマリー(女王マリー)について、注目したい。マリーの能力は、アザミより渡された10個の「蛇」が全て結集させ、一つの願いを叶える能力(目を合わせる力)である。これはまさしく「見ること=所有すること」というテーゼをダイレクトに表現している。願いが叶えられると消えてしまう目が冴える蛇は、マリーにその力を使わせてループを引き起こさせ、自分を生き永らえさせようと唆すのである。
 さて。ここで見て欲しいのは、この女王マリーの容姿である。蛇の鱗、羽のような流線型の浮遊体、――短くなった髪の毛。鱗については祖母であるアザミの特徴であり、羽は天使のように超越した存在を表すシンボルであるから、これも図像学的に解釈すれば分かる範囲である。しかし短髪になる理由、これがどう考えても分からないというユーザーは多いはずだ。私もいま一つ納得のいく説が思いつかなかったが、こう考えると合点がいった。それは、「斬首されたメドゥーサのメタファー」という解釈だ。
 神話のメドゥーサはペルセウスに首を落とされたあと、化け鯨を倒す道具として利用された。これを図像解釈学の用語で「ゴルゴネイオン」と呼ぶのだが、人格を剥奪され、冴える蛇に道具として使用される女王マリーはまさしくゴルゴネイオンと零落したメドゥーサであると考えられる。利用するということは、所有するということと同義である。繰り返しになるが、目が冴える蛇は、全てを「合わせる=所有する」女王マリーを所有しようとする、「見ること=所有すること」というテーゼを肯定的に捉えた世界におけるヒエラルキーの頂点に立つ存在であり、まさしくそのアンチテーゼを提唱しようとするメカクシ団の最大の敵としてふさわしい存在といえるのである。

 「カゲロウプロジェクト」はメドゥーサ=邪眼の能力者をモティーフとし、「見ること=所有すること」という従来のメドゥーサ像に重ねられていたテーゼに対し、原典のメドゥーサにおけるヴァルネラビティに立ち返ることによって、「見ること≠所有すること」というアンチテーゼを提唱して戦わせる――そうして、「見ること」に新たなイマジネーションを表現して「見せた」作品群であると言えはしないだろうか。

*1:澁澤龍彦「眼の欲望」(収録『エロティシズム』中央公論社 P29)

2011-07-03

〈論説〉実存の不安(或いはアイデンティティ・クライシス)と自己変革イデオロギー、及び脱大衆道徳性の問題――『忘却のクレイドル』完結に寄せて


※ 以下の作品について、物語の核心部分に関する記述があります。
  また文中には一部辛辣な表現もあります。
 
 『忘却のクレイドル』(藤野もやむ マッグガーデン)
 『はこぶね白書』(〃)



 藤野もやむは、〈実存 existentia〉と内面意志の発現における問題と格闘してきたマンガ家である。彼女は、最初期の作品である『まいんどりーむ』から一貫して、人間の実存について問うてきた。その問題は、単にストーリーやテーマを語る上でなく、表現学的な立場に立ってみても、作中で貫徹されていると言えよう。
 例えば、『はこぶね白書』のぐるぐるへび。これは、そのストーリーの上での立場だけでなく、マンガという媒体そのものに本質を宿らせていて、「内面(物語)の媒介としての外面(作画)」という二元論の危うさに対し、執拗なまでの追究を存在全体で表している(詳しくは、拙稿「相模左甫のクロノス的「死への憧憬」と福田ねこのカイロス的「生への意思(意志)」に関する考察」参照のこと)
 そして先日、最終巻を発刊した『忘却のクレイドル』も、それまでの著作で取り扱ってきた「実存の問題」が、全篇に渡って問われていた。そして本作では、実存の問題のうち最もプリミティブな概念にあたる、〈生存 survival〉についてを主題として据えていたのである。
 
 
実存」における最もプリミティブな概念としての生存

 本題へ入る前に、あらすじをざっと紹介しよう。
 
 開戦の危機が迫っている日本では、15歳以上の男女に半年間の「特殊訓練」が義務付けられていた。孤児達は揺篭島(ゆりかごとう)という孤島で訓練を受けていたのだが、ある日目覚めると数十年という時が経過していたのである。廃墟と化した島には、ナンバーズと呼ばれる白髪の子供たちが管理していた。彼らは孤児達を実験体と呼び、孤児達はナンバーズの手のひらで踊らされ、秩序を失い、凄絶な殺し合いをし始める。そのような絶望的な状況の中で主人公カヅキは、この島に流れ着いた少女ヒカリとともに、島における訓練の本当の目的と、ナンバーズたちの思惑、そして自分と友人であるサイの出自を知ることになる。訓練とは孤児たちを、極限まで治癒能力を高めたミュータントに改造し、前線で活躍させる兵器を作り上げ、かつ彼らのクローン(ナンバーズ)を生成するという、大規模な「実験」であったのだ。敗戦した日本は国際社会から糾弾されて、この島の事実を隠蔽した。残されたナンバーズは、この計画の首謀者である上月博士の下で、この島における支配者となったのだ。そしてカヅキは、外の孤児院で育てられた上月博士のクローン体であったのである。ヒカリは、コールドスリープの状態にあった孤児達を封印する役目を背負ってここまで来たのであったが、母を道中で喪った「淋しさ」から、子供達を目覚めさせてしまったのだ。自らの正体を知ったカヅキは、ナンバーズに上月博士の前へ連行される。ところが、博士は既に死んでいた。博士に心酔していたナンバーズが、それを認めていなかったのである。カヅキと同様に真実を知ってしまったサイは、存在意義の喪失から島全体を爆破することを断行する。カヅキは、我が身を顧みずそれを阻止。ナンバーズは、一層上月に心酔していた少年エイトを残して、先の爆撃で死に絶えた。カヅキとサイの二人は治癒能力の限界に達してしまい消滅、残された子供たちがこの島で新たなコミュニティを作り上げることが示唆され、この物語は終焉を迎える。
 
 以上が、この『忘却のクレイドル』の概要である。「殺さなければ殺される」という、生存競争を強制される環境へ理不尽に叩き込まれ、登場人物達が各々殺しあうという本作のストーリーは、2000年代に隆盛したタイプのプロットといえよう。そうした作風は、映画『バトルロワイヤル』を先駆として、ディスコミュニケーションの現代日本における世相と合致し、一世を風靡した。
 こうした、生存意識を至上とするような考え方の根本にあるのは、「実存に対する不安」である。人間を社会的存在者と考えるならば、「生存」というのは一人の個人が人間として値する前の大前提と言える。故に、そうした「生存する権利」は「人間」という類的存在が形成されるにあたって、最前の条件とならなければならない。しかし9.11以後、福利厚生の縮小と軍備拡大・市場原理主義を謳う新自由主義的世界観に呑まれた大衆は、旧来の「互恵的な社会の形成」というイデオロギーに対して不信を抱くようになった。そうして人々は分断され、ディスコミュニケーション化は促進していったのであった。
 以上のような「国家・社会への否定から、個人の生存競争の原理化へ」という、現実において起こったモメントは、本作『忘却のクレイドル』においても裏打ちされていて、この物語の骨子となっている。孤児である彼らは、そもそもにして社会的アイデンティティが浮薄である。しかも長いコールドスリープから目覚めてみれば、守るべき国家は既に敗北していた。その上、自分達の存在は国法によって、許されないものとなっている。アイデンティティどころか、生存理由(raison d'etre)すら否定されている彼らが行き着く先は、自らの生存を守り抜くこと(survival)しか他にない。そしてその行く末は、生存競争を原理として自己の存在を拡張していき、他者を排撃して新たな〈エートスethos(=慣習)〉を打ち立てるという決断を至上とする、「決断主義」へ結実するのだ。
 
 
サイの決断主義イデオロギーとカヅキの「普通」イデオロギー

「…オレ 小さい頃から 思っていたんだよな
 自分で自分を守る力を持つことを
 どうして躊躇わなきゃならないんだろうって
 (中略)
 無防備に 他人の良心をだけを ただ信じるだけなんて バカだ」
 
『忘却のクレイドル』第1巻 P.P. 120,121 石田 彩


 登場人物の一人であるサイは、自己防衛意識が非常に強いキャラクターとして描かれる。母親には捨てられ、義父からは性的虐待を受けてきたという過去(本作 第5巻 P.P. 86〜88)がある彼は他の孤児以上に、人間全体に対する不信と依存の感情が強い。そして脆弱なアイデンティティを持った彼は、懊悩の末に決断主義へ行き着く。

「実行しない 欲望を持つくらいなら 揺籠の中の幼児を殺せ」
 
『忘却のクレイドル』第3巻 P. 165 石田 彩


 これはイギリスの詩人、William Blake(1757〜1827)の詩篇『天国と地獄の結婚 From The Marriage of Heaven and Hell』に収録された作品のうち、『地獄の格言 Proverds of Hell』(訳 松島正一)という詩の一節である。

Sooner murder an infant in its cradle than nurse unacted desires.
実行しない欲望を胸に抱いているくらいなら、揺籃のなかの幼児を殺せ。
 
『天国と地獄の結婚 From The Marriage of Heaven and Hell』
――『地獄の格言 Proverds of Hell』
William Blake(訳 松島正一)


 岩波版『対訳 ブレイク詩集』において、訳者の松島はこの一文について、「欲望の肯定を過激に表現している」と述べている。この解釈は、サイの決断主義的な思想と合致している。

「オレは自分の 野望の為に この島を出るよ」
 
「…小さい頃 オレは王様に なりたかった」
 
『忘却のクレイドル』第3巻 P. 165,166 石田 彩


 他者から施される無条件のケアを信じられぬサイは、自らの自我を拡張させて、我が身を守る。その原動力こそがまさしく〈欲望=野望〉であるのだ。

「世界の仕組みを 何もかも知って
 納得のいくような 世界にできたらって 思ったりはする」
 
「力がほしい」
 
「……『一念は無限を満たす』」
「……そう信じたい」 
 
『忘却のクレイドル』第5巻 P. 19,20 石田 彩


 「一念は無限を満たす One thought fills immensity」という言葉の出典は、先程の「実行しない〜」という一節と同じく、『地獄の箴言』からである。「一念」は個人、「無限」は他者としてのセカイ。(=自己の認識範囲) サイの野望は自らに変革を強制し、セカイに対しても変革を強制する。
 このような、独断的な思想を持つサイにとって、「日常」という概念は存在しない。いつ崩れるとも分からない、そうした安易な平和を望むのは、単なる「思考停止」として切って捨てるのが、彼の思考形式の基本となっている。故に、日常とは何かを吟味しないまま日常にアイデンティティを委ねるカヅキは、サイにとって「甘い幻想に取り憑かれたもの」としか映り得ない。人間の行為を全て欲望に還元し、それを貫徹することを自己同一性の統合とする彼の観点では、「平和の永続」は「実行しない欲望」と解され、かつそれに依存する脆弱なアイデンティティ(=幼児)は、抹殺されるべきものなのだ。これが、サイの断行的な変革思想の基本形式である。
 
 このような「日常とアイデンティティ」に関するモメントは、藤野が自己の著作において散々表現してきたことで、「実存とは何か」を問うにあたって大きく絡んでくる問題である。以前私は「藤野もやむ作品における、ファンタジーというエッセンスと自己同一性拡散・統合の問題との連関についての考察」という論稿で、藤野の作品を次のように総括した。
 
 日常という曖昧模糊としていて脆弱な観念、またそれが備える排他性・暴力性、その根源にある母性へ依存するアイデンティティの弱さ。そうした命題を、ファンタジーという寓意を用いて批判し続けているのが、藤野もやむの著作なのである。
 
 自らの属する共同体(国家、社会)における日常を維持することは、他の共同体に所属する誰かの日常を犠牲にする恐れが伴う。貴族と平民、平民と奴隷、ブルジョワジーとプロレタリアート、大国と小国、先進国と後進国……、人間はその有史において様々な階級的対立を繰り広げてきたが、それは同時に共同体同士の対立でもあった。そうした不断の闘争を展開してきた人間の歴史の中に、ある特定の共同体に属した個人がいる。その個人の人格・思想は、当然自らが属する共同体に規定される。故に、個人は自分の所属する共同体の存続を最優先するために、たとい他の共同体を破壊する結果になったとしても、その使命に対して忠実に行為する。それ自体は実に自然なことであり、動物一般にも共通することである。ところが人間の場合、他の動物と違うところがある。それは、「自我の拡張性とその実行力」における問題だ。他の動物と違い、高度な知性と思考力を持ち合わせた人間は、その支配可能な領域に圧倒的な拡がりを見せる。その実際的な現象が「競争」であるのだ。この「競争」は、他の動物における食物連鎖の範囲に留まらず、全く慈悲なく、容赦なく、完膚なきまでに、他者の尊厳を奪い尽くす。従って、動物の捕食ならば類の存亡の危機が脅かされえることはまずないが、人間の場合、一つの家系、一つの民族、一つの人種が、競争によって絶滅することは、充分にありえるのだ。その最も暴力的な局面が「戦争」であり、それは科学技術の発展に伴って、自然そのものが滅亡し兼ねないレベルにまで、人間は辿り着いてしまったのだ。そうした世界に置かれた個人が「実存に対する不安」に見舞われることは、「「実存」における最もプリミティブな概念としての生存」の項で述べたとおりである。そして『クレイドル』は、まさにその戦争が今起こらんとしているという、極めて危機的な情勢から物語がスタートする。
 
 サイは、自分が生きる世界が、こうした競争の原理で成り立っていることに自覚的であり、かつ競争のイデオロギーを肯定する立場に立っている。(本項、冒頭部の引用を参照のこと) しかし一方のカヅキは、彼の言う「普通」や「日常」といったものが、そうした世界に配置された共同体に規定されていることに無自覚的であり、ひたすらその曖昧模糊とした日常にしがみつく。そして、そのイデオロギーが否定されようとすると、思考停止に陥る傾向が、作中で何度も描かれる。

「兵器とか そんな… …そんな言い方嫌だなぁ
 …何か機械っぽくて …人間じゃないみたい」
 
『忘却のクレイドル』第3巻 P. 93 夏月
 
「!! 思想って… 兵器とか 言ったって な…何だよ」
「普通でいいじゃんか 普通で!!」
「元々の感覚忘れちゃ 普通の生活も できなくなりそうだしさ…」
 
『忘却のクレイドル』第3巻 P. 95 夏月


 カヅキは、世界の仕組みに対して全く無自覚であり、またそうあろうとしている。それは結局、日常という「同調圧力」を他者に迫っていることに、彼は気がついていない。そしてその愚鈍さを、サイや、カヅキ達7月生と対立する4月生のミキヤから、度々糾弾されるのである。

「…変わんないなあ カヅキ…
 まわりをよく見ろ 普通なんてもう どこにもないんだ」
 
『忘却のクレイドル』第3巻 P. 95,96 石田 彩


 さて。このカヅキの抱いている「普通」イデオロギーと、サイの抱く「決断主義」は、全く対立しているように見えるが、両者ともに自らのイデオロギーにしがみつかないと、アイデンティティを保てないという点で、根本的には非常に良く似ている。問題は、そのイデオロギーに一貫性があるかどうかという点である。
 サイは、そのイデオロギーにある程度の一貫性がある。そして自分が、有無を言わさず相手を納得させてしまう独特のカリスマ性を保持していることを、自覚しているのだ。だから例え、イデオロギーに対して論理的整合性が虚弱な部分を指摘されても、極論や暴力によって相手を制止させてしまう。その実力と、それをやり抜ける自信が彼にはある。全ては、「野望」を貫徹させるために。……ナイーブな読者にとってサイは、一層優れた存在であるかのように映り得る。対してカヅキは、自らのイデオロギーに自覚的でないばかりか、置かれた環境に対して安易な願望を抱きがちでさえある。故に、サイはカヅキを指弾する。
 ――しかし、よくよく考えてみよう。そもそもサイが野望の下に、この世界に対して強制させる変革とは何か? 変革とは、今自分が置かれた日常(エートス)に対して〈パトス pathos(=情動・意志)〉を対置して、それらを合一する普遍的な〈ロゴス logos(=万物を統一する法則、真理)〉を見つけ出し、新たなエートスを打ち立てるモメントである。この運動が、到達するところは何か。それは、自分の思い描くエートス=日常を他者に押し付けることに帰依する。特にサイの場合、生存に関する「競争」を肯定する立場(決断主義)に立っているから、その嫌いは極めて強い。競争を肯定するサイの変革イデオロギーが打ち立てるエートスは、カヅキの抱く「無自覚な日常の他者への強要」イデオロギーと同様に、他者を排撃して自らの思い通りにすることである。しかしそれは結局、いずれは腐敗するであろう、新たなイデオローグを打ち立てるところに帰結してしまうのだ。よって、「生存競争を原理として自己の存在を拡張していき、他者を排撃して新たな〈エートスethos(=慣習)〉を打ち立てるという決断を至上とする決断主義」の行き着くところは、結局以前のエートスと同様か、それよりも悪いものであることさえあるのだ。他者の意志を抑制する、そうした排他性・暴力性を肯定する決断主義は、同様に排他性・暴力性を湛える旧来の「日常」イデオロギーを、何ら乗り越えていないのである。
 
 
自己変革の強制は、ナイーブな自己責任論へ帰結する

 ところがサイの指針としてきた決断主義は、上月博士の死と自分達が目覚めさせられた真相に気づいたとき、自壊を遂げることになるのだ。

「この島にあるものは全部偽者だ
 生き残ったオレ達も 作られたお前達も
 生き物の真似をしてるにすぎない」
 
『忘却のクレイドル』第5巻 P. 132,133 石田 彩


 計画の首謀者は、既に死んでいる。国は、自分達の存在すら許していない。自らの存在意義、社会的アイデンティティを完全に喪失したサイは、自らの実存への意志を放棄する。そして、この島全体を爆破して、全てを水泡に帰すことを選択した。しかし、カヅキは「ただ生きたい」という純粋な実存を意志し、それを拒絶する。サイは再生能力の限界に達して、死亡する。そしてカヅキも、ヒカリとの再会を果たし、それまで実感できなかった「他者とのつながり」を覚えた後、塵となって消滅した。

「「私が埋められたのは この水路のほとり
 だから友人たちは 思う存分 泣けるだろう」」
 
『忘却のクレイドル』第1巻 P. 160 石田 彩


 この言葉はウィリアム・ブレイクの墓碑銘であり、作中でサイが同期生であるマユムに対して、言い放ったものだ。またカヅキが消滅する寸前、この言葉を意識したと思われるモノローグが挿入される。

「ここは水路のほとり
 俺が死んだら 君は泣いてくれる
 そう思うだけで 単純な俺は 生きていけるんだ」
 
『忘却のクレイドル』第5巻 P. 187 夏月 


この言葉にかかってくるのは、「実存の意義と他者とのつながり」の問題である。社会的なアイデンティティを喪失した彼らは、自己の承認を欲する。
 そうした自己存在に対する無条件の承認という、孤児達が抱えた問題を、カヅキ達の同期生である少女シノは、新たなコミュニティを形成することで応えようとした。そして、同じく同期であるハルカやマユム達も、シノの意見に賛同する。これが、本作の最後に示された「希望」である。人は一人では生きていけない。複数の人間から作られる共同体の中で育まれるエートス、それはやがて排他的な性格を帯びていくこともあるだろう。しかし、それでも人には「言葉」がある。他者を慮る「理性」がある。それを、シノは実践しようとしているのだ。物語の序盤で提示された問題は、こうして最後にある程度の解答が出されるのである。
 しかし、だ。この解答は、サイの「決断主義」やカヅキの「日常依存・思考停止」に対して充分なものとは、到底言えない。それは、全篇を通じて、何よりも強調されているのが、「死が強迫される環境から、実存(existentia)・力(Power)・生きることへの意志 Will to liveが先立つ」というメッセージであるからである。子供同士が残虐な殺し合いをするという煽情性の高いストーリーを、膨大で煩雑で内容空疎なレトリックと、修練された画力を以って脚色し、あたかも「高尚な内容」を謳って無知な読者を陶酔させる、陰湿かつ小賢しいプロットが辿り着く主張は、超人思想や自己変革の強要になるであろう。行き着くところは結局、決断主義的な自己責任論である。物語の最後で提示される「人とのつながり」は、至極プリミティブでナイーブなものであり、「自己変革礼賛」という発想自体を覆すものではない。読者に残るメッセージは「自己変革」につながりかねない。畢竟、この物語はゼロ年代のあだ花にはなったが、乗り越えることはできなかった。
 ディスコミュニケーションに飽き飽きした大衆が現在求めているのは、シノが作中でわずかに示唆したようなコミュニティズムだ。そこで育まれる主体性は、この揺篭島のように、強迫的で他律的なところからくるものであってはならない。自律的でなければならない。自己に変革を強制し、他者に変革を強制したサイは、結局自己同一性拡散により自滅した。そこで彼は、自分の「決断主義」自体は反省していない。カヅキも最期に「人とのつながり」に気づいたものの、結局、サイの思想を乗り越えていない。コミュニティズムの萌芽は物語の終盤で描かれるものの、前の段落で述べた理由から、メッセージとしては残りにくいであろう。
 
 そもそもにして、本作で問われた「個人の生存≒実存」と「社会的アイデンティティ」という問題は、前作『はこぶね白書』において明白な答えが出されているではないか。かつての日常に依存する相模左甫、自我の拡張によって他者に干渉を加える媒介となるぐるぐるへび、彼らのイデオロギーを認めた上で決別を果たし、現在自分が置かれたコミュニティ(盛森高校)へ帰還することを意志した

福田ねこ。
「それ 私の大切なものなんでしょ
 だから私に聞くんでしょ だったらダメ
 ……返して
 あなたは「ぐるぐるへび」じゃない
 あなたの名前は「ぐるぐるへび」じゃないから
 全部返して」
 
『はこぶね白書』第7巻 P.P. 87,88 福田ねこ


「……愛
 ……そうか …あのひと 左甫くんに消えてほしくなかったのかも
 だから私はここにいて 左甫くんを愛しちゃってるのかも!!」
 
『はこぶね白書』第7巻 P.P. 115〜118 福田ねこ


ここには「自己の無条件の承認」という、コミュニティズムの基本となる理念が貫徹されている。それに対して『クレイドル』が示した結論は、余りにもナイーブではないか。実存の最もプリミティブな問題である「生存」が基底に据えられているから、その行き着く先がナイーブな解答になるのも致し方ないともいえるが、そのドラマツルギーと表現方法については、同作者の著作である『ナイトメア☆チルドレン』などと比べても、その倫理的な無責任さは免れないであろう。
 
 
総括

 こんな風に言うと、「同じ作者だからって、作品が別ならメッセージだって違うものになるのがあたり前じゃん。お前が気に入らないからって、偉そうに非難してんじゃねーよ」という、突き上げが予想される。確かに、同じ作者でもそれぞれの作品によって、その作者が持っている思想の「方向性」は異なる。しかし、その根底にある「思想」それ自体は、藤野の著作全てに通じていることは、疑いないであろう。もし、そこにさえ差異があるということは、それは作者の思想が変遷を遂げているということに過ぎない。
 非難を浴びることを承知で言うが、私は貫通的に藤野の著作におけるイデオロギーを鑑みられない、そうした無批判な読者が多いことに、やや失望の色を隠せない。彼、彼女らは、無自覚のうちに、この物語の行き着く「自己変革・自己責任」のイデオロギーを肯定してしまっているのではないか。正直、危険なものを感じる。大衆の倫理から乖離したこの作品のイデオロギーを無条件に肯定することは、大衆から乖離することにつながる。
 
 結局、藤野はこの作品において、これまで示してきた「実存の問題」に対して、極めてプリミティブな地平で捕らえ直したに過ぎなかった。それもドラスティックで煽情的な描写により、反大衆的なイデオロギーを読者に残して。前作『はこぶね白書』で提示された「実存と社会性の対立におけるアウフベーヘン」を引っ掻き回した藤野は、今後の創作において示さなければならないイデオロギーのハードルを、極めて高い次元に設定してしまったと言えよう。
 
 
底本

『忘却のクレイドル 1〜5』藤野もやむ マッグガーデン

参考文献・URL

『はこぶね白書 1〜7』藤野もやむ マッグガーデン
『世界の詩55 ブレイク詩集』William Blake 訳 寿岳文章 彌生書房
『ブレイク詩集』William Blake 訳 土居光知 平凡社
『対訳 ブレイク詩集』William Blake 訳 松島正一 岩波書店
「紙屋研究所」
――「死の前に生が輝くという思想について 諌山創『進撃の巨人』」
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20101204/1291481444
「おすすめマンガ時評『此れ読まずにナニを読む?』」
――「第13回 はこぶね白書」
http://www.nttpub.co.jp/webnttpub/contents/comic/013.html
――「第67回 忘却のクレイドル」
http://www.nttpub.co.jp/webnttpub/contents/comic/067.html