旅人の手記 二冊目 - 蝉海夏人のブログ -

2018-02-15

にい・まる・いっ・ぱち


寒中お見舞い申し上げます、蝉海です。

恒例の新年の初投稿。例年の一投稿。本年で最初で最後の投稿。
年明けてから、もう一ヵ月半経ってしまいましたね。
ここもどれだけの人が見ているのかもはや分かりませんが、
近況をお伝えすることに致します。

まず前回の記事で述べたように、
昨年の四月から放送大学大学院修士全科生:人文学プログラム)に入りました。
研究指導の度に出す報告書に四苦八苦し、
他大学の読書会に参加させて頂いたりして、
少しづつですが研究を進めております。
大学院のことはここで詳しく述べられないことも多々あるのでこの辺りにしておきますが、
あれから十ヶ月ほど経っても
何とかかんとかまだ院生やれていることをここにお伝えしておきます。

修士のあとについては考えてはおりますが、
まだ色々と詳しく言えないことがありますので、今は控えておきます。
来年の記事には、お伝えできればと思います。

さて。創作の方ですが、昨年に引き続いて、
現在小説家になろう様より、
ポストモダンファンタジー小説フェアリーリングフェアリーテイル』を連載しております。

『フェアリーリング・フェアリーテイル』小説家になろう

当初は平日毎日更新でスタートしたのですが、ストックがどんどんなくなり、
追いつかれそうになって、途中から毎週月・水・金更新にさせて頂きました。
さらに、八月の半ばあたりでセカンドエピソードが終了したと同時に、
次のエピソードを準備期間を取らなければならず、
今年の一月まで連載を休止してしまいました。
不甲斐ない作者で申し訳ありません。
本年も進路等、作者の一身上の都合のため、
また大幅にお休みの期間を取らせて頂くかと思います。
読者の皆様には申し訳ない限りですが、それでもご愛読頂けいている皆様には、
今後とも末永くお付き合い頂ければ大変有難く存じます。

最後に。
昨年お世話になった全ての方々へ、心よりお礼申し上げます。
本年もどうぞ、よろしくお願い致します。

(Now Playing: JILS『太陽に灼かれた翼』)

2015-03-15

『ずるさ』のあるズレたコード――『ベネズエラ・ビター・マイ・スウィート』

ベネズエラ・ビター・マイ・スウィート (MF文庫J)

ベネズエラ・ビター・マイ・スウィート (MF文庫J)

 ありがちなようで不思議な物語を読んだ。或いは、全てのコードがちょっとずつズレている。しかし、間違いなく面白い。どれだけエクリチュールを重ねても妥当とはいえないが、その中でまず伝えたい本書の初読の感想はこんなところだと思う。
 本作は一体、どのようなジャンルの小説といえるのだろう。青春もの、音楽もの、ホラー、ミステリー、恋愛、バトル・ロワイヤルサヴァイヴ)もの……それぞれの定番の要素はきちんと踏まえている。けれども、それらが少しずつズレていきながら、この奇妙な物語は綴られるのだ。音楽の用語で言うならば「ミクスチャー」や「オルタナティヴ」という表現がふさわしいように思える。

 勿体ぶってないで、物語の概要に軽く触れることにしよう。
 舞台は現代日本。しかし作中の世界では、普通の人間の中に二つの異界の存在が紛れ込んでいる。一つは、死ぬとこの世から存在した形跡が抹消されるが、死体は腐らず数年後に復活する「イケニエビト」。二つ目は、彼らを殺して記憶を奪う能力を持つ「タマシイビト」。けれども、イケニエビトの存在の抹消には例外があって、そのイケニエビトがかに殺された場合、その加害者だけが彼・彼女のことを憶えているという。
 本編では、栄原実祈(さかえばらみのり)というイケニエビトの女の子を主軸として、左女牛明海(さめうしあけみ)と神野真国(こうのまくに)という、三人の恋愛とも友情ともとれない関係がメインに描かれていく。物語の始まりは、高校生の明海が同学年の真国にある日、「中学のとき、一緒にバンドを組んでいた女の子を殺したことがある」と告白されたところから始まる。すると明海のほうも「自分も小学校のときに同じ子を殺した」と打ち明けたのだ。そして彼らは、実祈が埋まっている場所へ掘り出しにいくのだが……。

 以下、本編の内容を踏まえながら、思弁的な考察を綴っていきたいと思う。


・ コードのズレが激しくも淡々と進む「プロローグ〜一章」

ひとつ、イケニエビトは殺した人だけがそのことを覚えてる。
ふたつ、イケニエビトは殺してもたったの数年でよみがえる。
みっつ、タマシイビトは人の記憶をむしゃむしゃ食べる。
よっつ、タマシイビトはイケニエビトを好んで食べる。
いつつ、イケニエビトの歌は遠い国からやってくる
むっつ、イケニエビトは自然とこの世に紛れ込む。
ななつ、タマシイビトは歌声聞いてやってくる。

森田季節ベネズエラ・ビター・マイ・スウィート』(以下同)

 本作は「プロローグ+本編四章+エピローグ」という構成になっており、この文句はプロローグの前に付記されたものである。何も分からない状況でこうしたルーリングが唐突に叙述されているところから、一瞬「バトル・ロワイヤルもの+ホラー」ではないかと錯覚させられる。しかし、そのような先読みは一章目のエピソードで完全に粉砕される。
 最初に述べたように、本作では様々なジャンルのコード(共通認識要素)を横断しながら物語が展開されていく。イケニエビト・タマシイビトという奇怪な存在はホラー、またそれらの謎に迫っていくのはミステリー、その設定の下地にあるものはバトル・ロワイヤルものとの親和性があり、日常描写におけるバンド活動や恋愛感情は青春もの、といった風にだ。そして、この触れ幅は一番デカいのが一章である。
 まず最初に出てくる、視点主人公の明海の言葉が意味深だ。

「焼いたフルーツってずるい味がする」

 上記のセリフは、焼きパイナップルを食べる明海が同級の男子に言った感想である。この一文は、作品全体の雰囲気を体現しているといってよい。明海は「要領を得ていない表現」と本文中で述べているが、そのような「要領を得ていないこと自体」を、「計算高く(ずるく)」本作は構成だてられているのである。
 まず「ずるい」という言葉だが、これは「狡猾」(計算性)とも「不正」(ズレ)という意味とも両方取れる。そして「焼いたフルーツ」が「『死』のメタファー」であることは、プロローグ及びその前のイケニエビトのルーリングを読むに、ほとんどの読者が気付くであろう。だが、それ自体にこのセンテンスの「ずるさ」がある。焼かれることが「死」なら、生のまま食される果物は、果たして「生のメタファー」と単純にいえるのか。これは、衛生学的な条件でないことは言うまでもなく、想像力の問題である。この「生と死が矛盾し合い、両義性を提起するもの」としての「フルーツ」というメタファーは、本作全体における「計算された矛盾」や「ズレるジャンルのコード」を暗喩しているのではないかと、私は考える。
 私情を挟むと、私はこの一文を読んで直感的に「この作品は確かに受賞作だ」と閃くものがあった。そしてその直感は、最後まで読んで確信に変わった。「小説は冒頭によって、その出来の良さが左右される」という話はよく耳にするが、著者がそれを計算した上でこのような一文を冒頭に持ってきたのだとすれば、まさに「ずるく」そして心憎いセンテンスであるといえよう。

 話を本編に戻す。この「ズレ」としての「ずるさ」が最も露骨に表れているのが、一章なのである。このズレは、明海と真国が実祈を掘り出す場面で頂点に達する。普通、こうしたオカルティックな設定の作品ならば、序盤に「埋めてあった場所に死体がない」などといった、大きな事件起こす(「起」から「承」へつなげる第一の山場)ものだ。しかし本作では、そのイケニエビトの少女はごく普通に起き上がるのだ。そして、真国も淡々と反応する。

 神野君は無言で汚れた頬に手をあてた。それを合図にするように実祈の目がぱちっとひらいた。
 実祈の第一声は「ふわ〜あ」ちいうあくびだった。
「烏子*1、久しぶり。三年ぶりだね」
 神野君は割と冷静に言葉をかけた。そこには見知った者同士の心
安さがあった。

まるで、友人をうたたねから起こしたとでもいわんばかりの会話だ。一応この場面の前に、明海の「涙腺がゆるみかけ」たという独白はあるのだが、実祈の起きたときの印象が強烈過ぎて、薄れてしまっている。この圧倒的な「脱構築的構造性」に、私はここまで読んで次の展開が予想できなくなった。次はどう「ズラされるのか」と。


・ ズレの修正と再振幅「二章〜三章」

 けれども、ここまでの強烈な振り幅は二章で一旦収まることになる。
 二章では、明海の実祈との出会いと別れが回想されるのだが、そこでは「日常のなかに飛び込んできた非日常と冒険し、また日常に変える小さな少女」という至って正統派のジュブナイルが描かれる。夏の学校で引き起こされる陰湿なイジメのシーンや、転じてタマシイビトが作り出した誰も居ない結界の街で明海と実祈が遊びまくるエピソードなども、この手のジュブナイルでは定番の描写だ。
 その後、二章〜三章の前半で描かれる明海と実祈のやり取りや、真国を交えた学校生活や趣味の音楽の描写も、「青春モノ+ちょっと不思議」の範疇を出ていない。唐突に挿入される「藤原君」の怪談(後述)を除いて。これはまるで、一章の揺さぶりを鎮めて、読者を安心させるかのような構成である。

 そしてこのような、少しおかしくも楽しい日常は三章の後半で再び揺さぶられることになる。「藤原君」の生まれ変わりが真国で、彼はイケニエビトだったという真相の発覚。そして、真国に迫る二人のタマシイビトの存在。直後、この世から生きた証が抹殺され、明海の記憶から真国の存在が完全に消される(ここでプロローグとつながる)という、怒涛の展開が待ち受ける。
 しかし、ここでそれまでの「イケニエビトの死」の描写とは明らかに違う現象が起こる。実祈だけは、真国のことをおぼろげに憶えていたのだ。そして、手元に残された「コウノマクニ」と名前が入ったライブチケット。これらの情報から明海は、真国の死を「タマシイビトの仕業」と直感し、真国が存在したという実感が湧かないまま、タマシイビトに対する怒りだけが高まっていくのであった。
 そして明海と実祈は真国の仇を取るため、タマシイビトへの復讐を計画するのである。「コウノマクニ」という存在を都市伝説として流布し、彼のことを歌った楽曲を阿弥陀峰の中腹で演奏して。


・ ズレが意志によって収斂される「四章」と再びズレ始めて終わる「エピローグ」

 そしておびき寄せたタマシイビトを殺して復讐を達成した二人は、「コウノマクニ」のライブチケットを埋葬することにした。けれどもそのとき、チケットの入った封筒に手紙があることに実祈は気付き、それを読み上げた。明海は未だに真国のことが思い出せないのだが、手紙を読み上げる実祈を見て、何故か涙が溢れてきた。

 私は泣いていた。悲しくもなんともないのに泣いていた。神野君の顔も思い出せないんだから。涙は無責任に私の頬を垂れて、土にしみこむ。
 私は魔性の女だな。
 悲しくもないのに泣くなんて。
 悲しくもないのに泣くなんて。
 悲しくなくたって泣いてやろう。神野君のために。

ここでも「ズレ」は機能している。憶えてない人物のために、悲しみも覚えられないのに泣く明海という描写と、その後の独白からは「意志の脱境界性」が読み取れる。根拠・事実の「ある・なし」に関わらず、感情ではなく意志が明海の肉体を動かすのだ。意志はそれ自体が根拠となる。この場面はそれまで描かれてきたコードのズレが、収斂されているようだ。コードがズレても、物語は奏でられると主張せんばかりに。

 だが、終結部(コーダ)を迎えたように思えるこの物語は、最後に思わぬポスト・コーダが加わり、読者は再び揺さぶられ、宙に浮かされるのだ……。タマシイビトの復活と、明海に対する予想外の謝罪によって。そして、明海と実祈の日常はこれからも続くことを暗示し、この物語は終わる。


・ 総括になっていない総括

 本編の構造的なズレを追ってきたが、やはり本作は捉えどころのなさを感じずにはいられない。あらゆるジャンルの定番要素を詰めておきながら、それらが全て少しずつ「ずる」く「ズレ」ていくために、どうまとめていいかわからない。しかし、最初にも述べたように明らかにこの作品は面白く、そして極めて精緻な文章がその魅力を支えている。これもまた、「耐久度のあるテクスト」を湛えた作品の一種であろう。
 本作におけるズレは、「ジャンル論争」という外部の自称に対しても、オルタナティブ効用を発するのではないかと私は考えている。この物語のアンチジャンル性は「『ただのラノベ』ではない」という分かっているようでまるで具体性のない凡庸な雑感も、それに反応して「テンプレ」の押し売りをする自称批評家、その両者にアイロニックな返答をしているように、私は考える。
 プログレ的な転調を繰り返す上質なミクスチャー、或いはオルタナティブ・ロックを聴いているような一冊だったように、私は振り返らずにはいられない。

(BGM:ベネズエラ・ビター『イケニエビト』)

*1:実祈が神野と出逢ったときに使った別名。

2014-11-30

三島由紀夫による〈外面―表面への意志〉と美的死生観(前編)

序文

 三島由紀夫は、内面の外面への還元、及び両者の合一という問題に対し、その命を以って敢然と挑んだ作家であった。
 通例、人間をして内面とは精神のことであり、表面とは肉体のことを示す。このような「内と外」の二元論はソクラテス以来、西洋において近代になるまでイニシアチブを得ていた思想であり、外=肉体のような感覚的なもの、具体的なものは、崇高なる精神より劣るものと考えられてきた。ところがそのような二元論は19世紀に入ると、人間の活動及び人間そのものの本性を「物質」(マルクスの史的唯物論など)や「実存」(ニーチェの実存主義など)、即ち一元的なものへ還元されると考える思想の現れにより、その絶対性を粉砕されることになるのである。このような西洋における「内と外」の思想史を、日本の伝統的な文化観と照らし合わせ、その合一を外面、「肉体」に本質を帰依させることで、自らの理念を透徹させる研鑽を、三島は生涯続けた。
 そのような試みは、処女作『花ざかりの森』から晩年の大作である『豊饒の海』まで、一貫して行われたことである。内部とは何か、外部とは何か、相互侵犯し合うそれらが合一した先に、いったい何があるのか……、そうした三島による美学の構造と体系を、美学者である谷川渥が三島由紀夫の美学について論述した文章である「薔薇と林檎」(『文学の皮膚 ホモ・エステティクス』収録)と「三島由紀夫のバロキスム」(『肉体の迷宮』収録)の解釈を叩き台にした上で、思弁的に熟考していくことにしよう。


本文

・ 三島由紀夫の肉体論――外面の絶対性

 三島由紀夫の外面に関する思想は、彼の初期作品において既に見受けられることができる。例えば、三島の最初の外遊記である『アポロの杯』(1952年)では次のように記されている。

 希臘人は外面を信じた。それは偉大な思想である。キリスト教は「精神」を発明するまで、人間は「精神」なんぞを必要としないで、誇らしく生きてゐたのである。希臘人の考へた内面は、いつも外面と左右相称を保つてゐた。希臘劇にはキリスト教が考えるやうな精神的なものは何一つない。それはいはば過剰な内面性が必ず復讐を受けるといふ教訓の反復に尽きてゐる。

三島由紀夫『アポロの杯』(斜線部、原文傍点)

 谷川はこの一節について、「外面と内面という二元論における外面の称揚。外面が肉体であり、内面が精神であるとすれば、外面の称揚はとりもなおさず肉体の称揚である。とはいえ、この段階で三島はまだあからさまな肉体賛美に踏み込んでいない。『精神』や『感受性』の過剰を嫌悪しているだけである。*1」と、述懐している。この見解に関して異論はない。キリスト教的な、精神に対する過剰な「盲信」を否定し、外面と内面を相対化した上で外面の優性を誇るのは、三島の美学における出発点と見ていいだろう。このような外面=肉体への執着は、彼が『アポロの杯』を執筆する3年前に書いた中篇『仮面の告白』(1949年)において、雄弁に語られている。

 『仮面の告白』の主人公は、父親のイタリア土産である画集に収録されていた、グイ・ド・レニの《聖セバスチャン》を発見する。そこには、ローマ皇帝ディオクレティアヌスの近衛兵であった聖セバスチャンが、密かにキリスト教を信仰していたために、処刑される様子がありありと描かれていた。それを見た主人公は、激しい性的恍惚を覚える。そして辛抱たまらなくなり、思わず〈ejaclatio〉をしてしまうのであった。

矢は彼の引緊った・香り高い・青春の肉へと喰い入り、彼の肉体を無常の苦痛と歓喜の焔で、内部から焼こうとしていた。しかし流血はえがかれず、他のセバスチャン図のような無数の矢もえがかれず、ただ二本の矢が、その物静かな端麗な影を、あたかも石階に落ちている枝影のように、彼の大理石の肌の上へ落していた。

三島由紀夫「仮面の告白」――『三島由紀夫全集』(中央公論社 版)

ジェノヴァのパラッツォ・ロッソに収録された《聖セバスチャン》を、写真で観てみる。すると、引き絞られた白く美しい裸体とそれを貫く二本の矢が、即物的なまでにただただ描かれていることが確認できる。射られたところから血が出ることはなく、両手を吊り下げられた聖人の表情は安らぎに満ちていた。なるほど、たしかに主人公の述べるようにそこには、「布教の辛苦や老朽*2」などといった精神の過剰が介在する余地はなく、「ただ青春・ただ光・ただ美・ただ逸楽*3」があるのみである。
 ここに、外面の絶対性という三島の美学を見て取ることは容易であるが、ことさら問題として取り上げたいのは、「彼の肉体を無常の苦痛と歓喜の焔で、内部から焼こうとしていた」という一文である。
 矢は、聖セバスチャンの肉体へ突き刺さっている。しかしこの事実自体に、「無常の苦痛」も「歓喜の焔」もない。それらは内部から湧き出てくるものである。つまり、外部の刺激は内部へ到達することで、外部ははじめてそれを「苦痛」や「歓喜」として感覚するのである。この〈外面→内面→外面〉という還元的な知覚プロセスから読み取れることは、「痛み」や「恍惚」といった感情は表面に宿るということである。そこに外面の絶対性が加われば、この《聖セバスチャン》のエピソードが示すところは、「感覚の絶対性」を訴えることに帰結するのだ。

 さて。《聖セバスチャン》において、描かれた主体における〈外面→内面→外面〉という認識プロセスを、観る側に想起させる視覚的媒体は、「左の腋窩と右の脇腹に箆深く刺された矢*4」のみであった。通常、矢や刃などが肉体に突き刺さった人物を描かれる場合、その人物の「痛み」を表す媒介物は、次のようなものが考えられる。苦悶の表情、汗、痙攣する肉体、……そして創から流れ出る流血。グイ・ド・レニの《聖セバスチャン》には、この流血は描かれていなかった。しかしこの血は、三島の美学を語る上で欠かすことのできないファクターだ。血は〈外面→内面→外面〉という認識プロセスを形而下に引き降ろし、かつ刺突のような外面による内面への侵入と、内面から外面へ還元される痛みという、知覚のモメントを媒介する。
 この内部と外部の媒体としての「血」という問題について、三島は『仮面の告白』において極めて猟奇的な形で叙述している。主人公の「引緊った・香り高い・青春の肉」への欲望は、やがて中学の同級生へ向けられることになる。中学四年の時に貧血症に陥った主人公は、ある日嗜虐的な夢を見る。それは、大皿に縛り付けられたたくましい同級生B(主人公の意中の同級生である、近江のことだと思われる)を、特大のナイフとフォークで切り刻むというものだ。

 私は心臓にフォークを突き立てた。血の噴水が私の顔にまともにあたった。私は右手のナイフで胸の肉をそろそろ、まず薄く、切り出した。……

(同上)

 何ともサディスティックな場面である。「琥珀色の盾のような胸*5」から噴き出た血は、同級生の劇痛の媒体であり、それを主人公が満足そうに嗜む様子が、ありありと目に浮かぶ。内部に流れる血は出でることによって、これもまた外部、表面となる。血は内部と外部を合一させる媒介にして、自ら外部へ還元されるのだ。しかしこの「血」と「肉」という問題をもっと深く追求するには、「内臓」と「皮膚」というもう一つの内部と外部の問題を取り上げなければならない。


・ 肉体と精神、又は薔薇という比喩。そして、内外合一のファクターとしての血

 流れ出た血が表面として認識されるのならば、皮膚と肉に覆い隠された内臓にも同じことが言えよう。
 『金閣寺』(1956年)に、次のような一節がある。吃音の主人公は大阪で空襲に遭遇し、「腸の露出した工員が担架で運ばれてゆく様*6」を見た。

なぜ露出した腸が凄惨なのであろう。なぜ人間の内部を見て、悚然として、目を覆ったりしなければならないのであろう。なぜ血の流出が、人に衝撃を与えるのだろう。なぜ人間の内臓が醜いのだろう。……それはつやつやした若々しい皮膚の美しさと、全く同質のものではないか。

三島由紀夫「金閣寺」――『三島由紀夫全集』(中央公論社 版)

 血は、外に飛び出た内臓は、一度外に飛び出せば皮膚と同質の表面性を顕示する。露出した腸は「内側と外側の二元論を無効*7」化し、「逆説的な表面の肯定」*8を主張しているのだ。この内部と外部という境界の危うさを体現する工員の肉体を見た主人公は、そこから「薔薇の花」を連想する。

内側と外側、たとえば人間を薔薇の花のように内も外もないものとして眺めること、この考えがどうして非人間的に見えてくるのであろうか? もし人間がその精神の内側と肉体の内側を、薔薇の花弁のように、しなやかに翻えし、捲き返して、日光や五月の微風にさらすことができたとしたら……

(同上)

この薔薇という花は三島の美学体系を語る上で、重要なシンボルとなっている。薔薇の花弁は何重にも渦を巻いていて、どこまでが内か、どこまでが外なのかという判断を惑わせる形態をしている。血と内蔵にまみれた表面は、内部による外部への氾濫だ。その比喩としての薔薇の花。薔薇は、内部と外部の混沌・合一から生まれる「表層の美」とは何かを、最も明白に表してくれる。

 さて。『金閣寺』を執筆する1年前に、三島はこの薔薇をタイトルに冠する戯曲『薔薇と海賊』(1958年)を制作している。知的障害者の無垢な青年帝一と、彼が憧れる童話作家の楓阿里子との恋愛を描いた本作は、意味深な会話や不可思議なエピソードが幾重にも挿まれて構成されている。

帝一 (わが胸を押へて)ここでテクタク、時計みたいに動いてゐるものがハートだね。
楓 でもそれは冷たい鐡と硝子の時計ぢやなくて、熱い肉と血でできた時計なの
帝一 それぢやその時計、生きてゐるんだね。
楓 さう、生きてゐる時計。でも早くなつたり遲くなつたりする。時を知らせる時計ではなくつて、心をしらせる時計ですから。

三島由紀夫「薔薇と海賊」――『三島由紀夫全集 22』(新潮社 版)

 心臓が「熱い血と肉でできた時計」という比喩。この例えは、先の『仮面の告白』であげた嗜虐的な夢を思い起こさせられよう。琥珀を思わせるような滑らかで均整のとれた肉を貫き、心臓を突き刺す特大のフォーク。それは彼の命の否定、心の否定、即ち人格の否定だ。この暴力とエロティシズムという問題について三島は、後年における東大全共闘との討論(1969年)で、両者の共通性を「他者の必要」と「他者の意志の否定」にあると言及している。「心」と「命」という人格性の核である概念を破壊するという「私」の夢想が、ひどく淫らなものに思えるのはそのためだ。嗜虐とはエロティシズム(=精神的モメント=内部)と暴力(=物質的モメント=外部)の合一であり、それは内臓や血の流出によって顕在化されるのである。

 話を戻そう。この帝一と楓の会話で注目したいところはもう一つあり、それは楓の言う「時」と「心」が二つの時の概念を、暗喩しているということである。「時」の概念は、およそクロノス(Καιρός)とカイロス(Χρόνος)の二種類に分けられると考えられよう。これらは二つともギリシア語で「時」を表す単語であるが、前者が一定の速度で流れていく客観的で絶対的な「時間」を意味し、後者は主体の感覚による時間の進み方を表した主観的で相対的な「時刻」を示す。そしてこの二者の関係は、次のように捉え返すことができる。クロノスが無機的に進むX軸とすれば、カイロスはそれを有機的(主体的)に断つことのできるY軸という風に。楓の言葉を、この二つの時間概念に置き換えるとすれば、「時」とはクロノスのことを意味し、「心」とはカイロスのことを意味すると考えられよう。時を認識するのは、心(=意識)である。人が時を意識するということは、「今」を意識するということだ。つまり、「現」実に存「在」する自分を意識することで、人は「時」をというものを認識している。故に、カイロスは今を指向する概念と言える。
 さて、ここで一つの問題があがってくる。それは、そもそも「客観的で絶対的な時間であるクロノス」などは、存在するのかということである。もし客観的で絶対的な時間があるとすれば、それはヘブライの神が取り決める「時刻」(=カイロス)の言い換えに他ならない。しかし、神は誰も知覚できない。故に、神は各主体の「内面=精神」にしか存在し得ない。ところが三島は、先に上げた『アポロの杯』で精神の優位を激しく糾弾している。さすれば神も、神の時間=クロノスの存在も、三島の世界観においては否定されることになるだろう。すると、三島の主観的世界で存在を許される概念は、カイロスのみになる。時間はそれぞれの主体ごとに、相対化されて感じ取られることになるのだ。そしてカイロスは「今」を指向していることを、先に述べた。すると、三島の時の捉え方は「現存性」と「相対性」を、原理にしていることと考えられる。
 このような「今」の至上性は、三島の作品・文章の中でいくつか見受けられることができる。彼は晩年のエッセイ『若きサムライのために』で、「未来を信じる奴はダメ*9」と真っ向から否定している。「未来を信じる奴は、みんな一つの考えに陥る。未来のためなら現在の成熟は犠牲にしたっていい。」こうした考えを、三島は現在を意識することを何よりも大事なことと考える故に、切って捨てているのだ。

小説家にとっては今日書く一行が、テメエの全身的表現だ。明日の朝、自分は死ぬかもしれない。その覚悟なくして、どうして今日書く一行に力がこもるかね。その一行に、自分の中の集合的無意識に連綿と続いてきた猜顕臭瓩体を通してあらわれ、定着する。その一行に自分が狎就瓩垢襦それが狒和き瓩箸いΔ發里痢∨榲の意味だよ。未来のための創造なんて、絶対に嘘だ。

三島由紀夫「若きサムライのための精神講話」――『若きサムライのために』

 さて。この世の時間が全て主観的であり、相対的であるのならば、カイロスが断ち切るのは同じく、別の主体(他者)のカイロスになるであろう。拡張する自己の意識は、やがて同じく拡張する他者の意識と衝突することになる。そこでどうにか折り合いをつけながら、私達の日常というものは平穏を保つことができるのだが、自意識を最大限に発現するとすれば、他者のカイロスを強引に断ち切ることもあるだろう。その発現の形式が「暴力」であり、その最高の形態が「殺人」なのだ。自らの意志が、他者の意志を完全に断ち切ってしまうのである。『仮面の告白』で、「私」が夢の中で同級生の「心の時計=カイロス」を壊してしまったように。

 この「死」と「暴力」と「美」という問題は、『仮面の告白』や『薔薇と海賊』よりさらに初期の作品である、『中世における一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃』(1943年)で既に提起されている。

能若衆花若を殺害。その唇はつややかに色めきながら揺れやまぬ緋桜の花のように痙攣する。能衣装がその火焔太鼓や桔梗の紋様をもって冷たく残酷に且重たく、山吹の芯に似た蒼白の、みまかりゆく柔軟な肉体を抱きしめている。私の刀がその体から引き抜かれる。玉虫色の虹をえがきつつ花やかに迸る彼の血の為に。

三島由紀夫「中世における一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」
――『花ざかりの森・憂国』

その極めて背徳的且つ耽美的な情景もさることながら、ここでは若衆の「衣装」と「肉体」の関係に注目したい。「みまかりゆく柔軟な肉体を抱きしめ」る華やかな「能衣装」、内面である前者と外面である後者は、他者の暴力的な介入によりその境界を崩壊させられた。その乱れた姿は実に蟲惑的に表現され、エロティシズムと暴力の合一による嗜虐的な美を体現している。そして「玉虫色の虹」を描く「迸る血」は、その媒体に他ならない。
 この「衣装と肉体」という関係について本作は、さらなる追求を試みている。

遊女紫野を殺害。彼女を殺すには先ずその夥しい衣装を殺さねばならぬ。彼女自身にまで、その衣装の核――その衣装の深く畳みこまれた内奥にまで、到達することは私にはできない。その奥で、彼女は到達されるまえにはや死んでいる。一刻一刻、彼女は永遠に死ぬ。百千の、億兆の死を彼女は死ぬ。――

(同上)

 幾重にも遊女を包み込む衣装の氾濫。それは、華やかな衣装を着た遊女の美が総体にして個体であることを示し、どこか薔薇の花弁を連想させるものがある。

……彼女が無礙であればあるほど、私の刃はますます深く彼女の死にわけ入った。そのとき刃は新しい意味をもった。内部へ入らず、内部へ出たのだ。

(同上)

 先に名を上げた谷川は別著『肉体の迷宮』において、「内部と外部との素朴な二元論を危うくする『内部へ出る』という表現。……それが早くも薔薇の存在を要請する*10」と、この一節を読み取っている。この薔薇と三島作品の関係から、『豊饒の海(三)暁の寺』で綴られる「薔薇」の観念的解釈を取り出して、「内部と外部」という問題に対し一気に結論へ向かうことはできる。だが、そのような方法は『肉体と迷宮』における一論文「三島由紀夫のバロキスム」で取られているものであるため、私としては早急に結論へ至る前に「死」と「肉体」、そして「カイロス」の問題について、より深く考察したく思う。

(後編へ続く)

*1:谷川渥『文学の皮膚 ホモ・エステティクス』白水社

*2:三島由紀夫「仮面の告白」――『三島由紀夫全集』中央公論社

*3:三島由紀夫「仮面の告白」――『三島由紀夫全集』中央公論社

*4:三島由紀夫「仮面の告白」――『三島由紀夫全集』中央公論社

*5:三島由紀夫「仮面の告白」――『三島由紀夫全集』中央公論社

*6:三島由紀夫「金閣寺」――『三島由紀夫全集』中央公論社

*7:谷川渥『文学の皮膚 ホモ・エステティクス』白水社

*8:谷川渥『文学の皮膚 ホモ・エステティクス』白水社

*9:三島由紀夫「若きサムライのための精神講話」――『若きサムライのために』文芸春秋

*10:谷川渥『肉体の迷宮』東京書籍

2014-09-06

「如月シンタローの友情物語」として見る『カゲロウプロジェクト』

※ 以下の作品について、核心的な部分についてのネタバレがあります。
 
 マンガ『カゲロウデイズ』1〜5
 (著・じん 作画・佐藤まひろ 刊・メディアファクトリー)1〜5
 小説『カゲロウデイズ』1〜5(著・じん 刊・エンターブレイン)
 アニメ『メカクシティアクターズ』


 『カゲロウプロジェクト』は基本的に群像劇の様相を呈しており、「誰それのエピソードが本筋である」とは言いがたい構造をしている。あるいはそのような構造になることを、意図的に避けていると言ってもいい。けれども、そのうちのなかでもとりわけ「世界観全体の骨子となる重要な物語軸」というのは、当然存在する。その一つに、「如月シンタローの友情物語」を取り上げることができる。
 これは『ロスタイムメモリー』のMVなどで語られているように、この物語群の登場人物の一人である如月シンタローが他の登場人物と交流していく一連の流れを、ストーリーの軸として考える観点だ。シンタローは、公式サイドから「主人公格」とされているだけあって、本作に登場するほぼ全ての登場人物と何らかのやり取りをする場面が描かれており、かつ本作において複数の重要エピソードにおいて、中心的な役割を担うことが多い。
 そして、「友情」という観点から見た場合、シンタローと深く関わってくる登場人物は四人いる。一人はアヤノ。次にエネ。そしてカノ。最後にコノハである。彼ら四人の登場人物との関わりを時系列順に考えて、シンタローはこの物語群において「四つの友情概念の契機」を経験するのである。

第一契機:友情概念の「取得」=アヤノとの出会い
第二契機:友情概念の「喪失」=アヤノとの死別
第三契機:友情概念の「再生」=メカクシ団入団
第四契機:友情概念の「深化」=コノハとの交流

 
以上、四つの契機のそれぞれの詳細と、そこから導き出される総論を、以下考察していきたく考える。


・ 第一契機:友情概念の「取得」=アヤノとの出会い

 楯山文野ことアヤノとシンタローの特別な関係については、一連のシリーズのどれか一つにでも触れた人には、ほぼ説明不要とさえいえる。だが、二人の関係を「友情」として捉えるか「恋愛」として捉えるか、あるいはその両方と捉えるかで、後に起こる物語の解釈は大幅に変わってくる。アヤノとシンタローの関係を、「友情」の側面に重きをおいて考えると、これから展開されるシンタローの物語が「友情物語」であるという風に筋道立てることができるのだ。
 アヤノと出会う以前のシンタローに友人がいた事実は、全てのメディアにおいて描写されていない。本編におけるシンタローのアヤノに対する態度や、それに際する彼の心理描写も併せて考えてみても、アヤノがシンタローにとって初めての友人であることは、ほぼ確定であるといっていいだろう。そして、アヤノと友人関係になったことで彼は、初めて「友情とは何か」を考える切欠を得たのである。こうしてシンタローは「友情概念」を「取得」するに至るのであって、彼の友情物語の第一契機と規定することができるのだ。


・ 第二契機:友情概念の「喪失」=アヤノとの死別

 アヤノとの交流を通じ、少しづつではあるが心を開くようになってきたシンタロー。けれども、彼女の自殺および直前に浴びせかけられた彼女からの暴言(詳細後述)によって、シンタローはこの「友情概念」を木っ端微塵に粉砕されてしまう。これは、彼にとって友情という概念を「喪失」するに至る出来事であった。この一連の出来事を、彼の友情物語の第二契機として規定する。
 アヤノとの死別の後、シンタローが再び「友情」の何たるかを知ることに――「友情」の概念を再生する切欠を得る第三契機は、作中時間で2年後となる。
 この間におけるシンタローの物語を語るにおいては、重要な役回りを担った人物が存在することを忘れてはいけない。シンタローのPCに住み着く、電脳少女エネ(榎本貴音)である。彼女はシンタローのPCに偶然たどり着いて以降、悪戯を繰り返しつつも、彼と悪友的な関係を取り持ってきた。その間の出来事は、はっきりとは描写されてはいないが、「友情」という概念を喪失したシンタローの精神的な支えになっていたことは、〈ROUTE XX〉(後述)とその他のルートを対比すれば、一目瞭然だろう。
 そして何より彼女が、引きこもっていたシンタローを2年ぶりに外へと連れ出したのだ。そのことによって、シンタローはメカクシ団と遭遇することができたのである。つまりエネは、シンタローの友情物語において、第二契機から第三契機への橋渡しという、重要な役割を担っているといっていいのだ。
 そして、シンタローがメカクシ団へ入団するに至るには、もう一人の人物の存在が肝要となるのだ。それは、エネと共に訪れたデパートで強盗団と遭遇した時、シンタローに話しかけてきた人物であり、メカクシ団員のなかで最初にシンタローと接近を図ったカノである。


・ 第三契機:友情概念の「再生」=メカクシ団入団

 カノの話に入る前に、メカクシ団をつくったのがアヤノであるという事実を、最初に抑えておきたい。
 メカクシ団と関わることで、シンタローの中で友情の概念が再生されていくことは、周知の事実であろう。そして、このコミュニティの創設者はアヤノ(入団からしばらくの間、シンタローはこの事実を知らない)であり、「ピクシブ百科事典」内「アヤノの幸福理論」の記事における「アヤノが彼女なりのやり方で守ろうとした居場所が巡り廻ってシンタローを救った」という記述は、私の見方と概ね合致している。

 けれども、ここで再生されたシンタローの友情概念には、ある歪んだ友情関係も内包していたのであった。それが、カノとの関係である。
 カノはよくシンタローに絡んだりからかったりしていて、一見悪友的な間柄に見える。しかし、それはカノの「欺いている」姿であり、心の奥底でシンタローのことを激しく憎んでいることが、小説版5巻で明かされている。目が冴える蛇に脅迫され、カゲロウデイズの向こうへ消えたアヤノの替わりに、アヤノの死体役を演じたカノは、その直前にシンタローに出会っている。そこでカノは、いつも側にいながらアヤノの異変に何も気付けなかったシンタローに対し、「お前のせいだ!」と、アヤノの姿のまま言ってしまうのである。このことで精神的な傷を負ったシンタローは、2年間への引きこもりへと突入してしまうのである。(そうすると、第二契機を作ったのはカノであると言ってもいい)
 アヤノの自殺を止められなかったことは、事情を知らぬシンタローからしたら無理からぬことではある。しかし、アヤノに目の前で消えてしまわれ、かつケンジロウを乗っ取った冴える蛇に脅迫されたカノに、そのことを斟酌する余力はないことも十分納得できる。(とはいえ、逆恨みであることには違いない)

 またシンタローの方も、けしてカノに心を開いている訳ではない。彼とは、本性的に相容れないそぶりを作中において何度も見せているし、上述のルートとは大幅に異なるマンガ版ルート二周目(5巻)の描写においても明らかである。
 このように、二人はとても友好的な関係とはいえない。
 けれども忘れてはいけないのは、カノはシンタローにとってメカクシ団のインターフェース的な役割を果たしているということだ。シンタローとメカクシ団との出会いが、彼の友情物語の第三契機とすれば、カノの役割の重さは推して知るべきだ。
 また、カノはシンタローのことを憎む一方で、彼の人格的魅力について認めているところもある。また時間の経過とともに、アヤノの自殺直後に彼女の姿で暴言を吐いたことも、申し訳なくも思っている。
 以上のように、二人の関係はかなり歪な関係であり屈折している。小説版6巻では、以上の真実が、カノの口から打ち明けられるエピソードが入ると思うのだが、その後二人はどのような関係を築いていくのであろうか(他のルートから鑑みるに、何らかの形で和解するはず)
 これもまた、一つの友情関係とはいえるのではないかと、私は考えたい。

 そして、この第三契機において友情概念を「再生」したシンタローは、彼らとの交流の中で、それを「深化」させていくことになる。その象徴となる相手が、他でもないコノハなのだ。


・ 第四契機:友情概念の「深化」=コノハとの交流

 コノハとシンタローの関係に関する描写は、各ルートによって大幅に異なる。現時点で明確な友情関係が描かれているのは、小説ルートと楽曲ルートの二つだけである。
 しかし、全ての媒体において根本となるルートであろう〈ROUTE1〉と〈ROUTE XX〉の二つのルートが描かれる『ロスタイムメモリー』でのストーリーと、全ルート共通であるコノハの作中世界におけるポジションの重要さからして、主人公であるシンタローと深く絡むのは必至であると念頭に置いておいて間違いはないだろう。
 楽曲ルートと小説ルートにおいてシンタローとコノハの二人は、強い信頼関係を窺わせる描写がいくつかある。〈ROUTE1〉におけて二人で拳をぶつけ合わせる描写(他の団員たちとはハイタッチ)や、小説4巻で自分の危険も顧みずシンタローを助ける描写がそうだ。そして『ロスタイムメモリー』の〈ROUTE1〉が最初の周だとして、かつ解釈のしようによっては、シンタローとコノハの友情がループの切欠の一つになったとすら考えられるのだ。

 〈ROUTE1〉において、黒く染まったコノハが自殺しようとする描写がある。これは人によって解釈が分かれるところだが、「シンタローの友情物語」を『カゲプロ』の一つの軸と考えるなら、私はこう解釈したいと思う。「シンタローを含むメカクシ団のみんなを殺したくないと願ったコノハの意識が、『目が冴える蛇』の意識に介入した」という風には考えられないだろうか。そしてそれを止めようとして、逆にシンタローが被弾してしまう。
 そこから先は『ロスメモ』だと描かれていないのだが、私はこうではないかと憶測してみることにする。これはアニメ版8話のラストで描写されているのだが、シンタローは遥か昔の周で、マリーから「目に焼き付ける蛇」を受け取っている。これは〈ROUTE1〉の後ではないか、と私は考える。つまり最初のループでシンタローは死に、マリーから「蛇」を受け取っているのだ。そしてマリー以外は「もう一度意識を乗っ取り直した『目が冴える蛇』に全員射殺されてしまった」のではないか。そうは考えられないだろうか。

 話がずれたので、まとめに入る。
 〈ROUTE1〉において自殺しようとしたのがコノハの意識だとすれば、またそれを知ったシンタローが止めようとしたのならば、かつこの〈ROUTE1〉が最初の周だとすれば、シンタローとコノハの友情関係は作中世界において、極めて重要なモティーフとして考えられるのではないか。また、〈ROUTE1〉におけるシンタローがそのような行動に至るまでには、シンタロー自身の友情概念を自ら深化させる必要があるだろう。
 以上のことから、コノハはシンタローの友情物語において、彼の友情概念を深化させ、自分の主体性として消化させるのに、重要な役割を担うキーパーソンであるといえるのだ。


・ 総括

 以上、如月シンタローの物語を「友情に関する四つの契機」を踏まえながらまとめてみたが、いかがであろうか。複雑なこの物語群に対して、この観点はある程度クリアな見通しを与えるように私は思う。
 話は少し飛躍するが、私は『カゲロウプロジェクト』の魅力は「メカクシ団」というコミュニティが紡ぐゆるやかな「コミュニティズム」にあると考えている。そして、その土台にあるのが上述のような複雑な登場人物同士の「関係性」なのだ。シンタローの物語は、その現在のメカクシ団のコミュニティズムを作中において描写する一つの軸、そうした意味を内包しているのではないかと私は思う。


・ 補足

 この「シンタローの友情物語」をもっとも描写していないルートは、アニメ版のルートである。カノの逆恨みは全く描写されず、コノハとの精神的なつながりも描かれていない。さらには、他のメカクシ団員との交流も希薄である。もっというと、アヤノとの関係も「友情」と言い切れるのか、アニメ版では微妙である。最終回でのやり取りを見るに、シンタローとアヤノの二人は「恋愛関係」とすらいえることを示唆している。(実際、カノや貫音が冷やかしている)こうなると、上述の全ての契機がアニメではほとんど描写されていないとすらいえる。
 そうすると、アニメ版は「シンタローの友情物語」が描かれなかったルートと考えるべきなのかもしれない。

2014-08-24

マンガ『カゲロウデイズ』における、登場人物の関係性の描写及びその演出の上手さとストーリーテリングの拙さ

※ 以下の作品のネタバレがあります。
 
 マンガ『カゲロウデイズ』1〜5
 (著・じん 作画・佐藤まひろ 刊・メディアファクトリー)
 小説『カゲロウデイズ』1〜5(著・じん 刊・エンターブレイン)
 アニメ『メカクシティアクターズ』


※ 『』……作品名、「」……マンガ版のエピソード

 じん(自然の敵P)の展開するメディアミックス企画『カゲロウプロジェクト』のマンガ版である『カゲロウデイズ』4巻では、楽曲ルート・小説ルート・アニメのどれとも違う展開に突入した。
 その極めて衝撃的な展開に、読者は目を丸くしたことだろう。楽しい遊園地でのエピソードは、良いアイスブレーキング的な描写として機能しており、これから彼らの冒険が描かれるのだという期待を、否が応でも持たされる。エネ(貫音)の過去のエピソードから遊園地の帰りへと舞台時間が戻り、挿まれる彼女のモノローグ(p.p.93〜95)も、同じような効果を期待できる。
 故に、その直後に描かれる悲劇は、読者にとって一層ショッキングに映り得るのだ。メカクシ団の面々が、突如現れた謎の青年によって虐殺されていく――この謎のキャラクターは、エネの視点を通じて読解するマンガ版のみの読者にとっては「遥そっくりの青年」として映る。「かつて想い人だった青年が、何故こんなことを」という風に感じ取るように、描写しているのだ。一方、MV版(特に『アウターサイエンス』)を視聴した読者にとって、この謎のキャラは「物語の最終局面において、メカクシ団を虐殺する存在=黒コノハ」として認知済みである。それが、この序盤に出てくることによって「ここで出てくるのか!?」という意外性に驚嘆するのだ。この二重性には舌を巻く。著者の演出の上手さが、最大限に光ったエピソードといえるだろう。
 そしてこの物語は、一旦ここでバッドエンドとして終わりを告げ、時間が巻き戻る。二周目突入という、ループものの醍醐味と呼べる展開に入った。ここからのストーリーは、如月兄妹がヒビヤとヒヨリに出逢うところから始まる。これはアニメルート、小説ルートとも全く違うものである。4巻ラストの、楽曲『カゲロウデイズ』を髣髴とさせる引きも良く、総じてマンガ版からの読者も他媒体からのファンも、期待高まる内容として仕上がっていた。

 けれどもその期待は続刊である5巻によって、悪い意味で裏切られてしまう。

 ヒヨリの電話により異変を感じ取り、ヒビヤとヒヨリを捜しにいった如月兄妹は、意外な人物と遭遇する。シンタローとエネはキド、モモはカノとコノハとである。(このルートにおいて、如月兄妹がメカクシ団のメンバーと遭遇するのは、これが初めてのことであり、前の周の関係はリセットされている)そして、コノハは何故かヒビヤを抱えており、モモは不審に思う。そして、カノの胡散臭くかつ挑発的な態度に対して反感を覚えたモモはヒビヤを奪還し、如月家で保護することになる。翌日、警察に届出を出した如月兄妹は、そこでカノと再遭遇するも、またしても決裂することになる。一方、家を抜け出したヒビヤはコノハに逢い、彼から「一緒にヒヨリを捜そう」と手を差し伸べられるが、ヒビヤはこれを拒む。そして、如月兄妹の元に戻ることを選択する。
 以上が5巻のおおまかなプロットであるのだが……、これがまるで面白くなかったのだ。私の不満点は、大きく分けて二つある。
 
 一つは「マンガ版からの読者は、ヒビヤとコノハの関係が現時点で全く分からない」ということ。もう一つは「カノと如月兄妹が対立することによって、話が全然進まない」ということだ。

 ヒビヤとヒヨリは、ヒヨリの義理の兄である楯山研次郎の家に、世話になっていることとなっている。そして、そこにコノハが居候していて、ヒヨリはコノハに好意を抱くというのが、小説版の設定だ。けれどもマンガ版では「親戚の家で世話になっている」「夏の間しかこっちにいられない」ということがヒヨリの口でのみ説明されているに過ぎず(4巻、p.148)ヒビヤとコノハの関係は、全く描かれていない。故に、何故ヒビヤがコノハを嫌悪するのかも、さっぱり分からないようになっている。いくら他の媒体で分かるといっても、一つの媒体のみでここまで関係性が分からないというのは、ドラマツルギーが拙劣であると言われてもしようがないことだろう。
 そしてもう一つは、カノ(=メカクシ団)と如月兄妹の対立についてである。これはマンガ版オリジナルの展開であり、どうしてこのような展開を挿むのかが、他の媒体を読んでもその理由が見えてこない。しかも、カノと如月兄妹の交渉は、二度も決裂している。前述の通りシンタローとエネは、15日の深夜にキドと接触したことがあるのだが、彼女とカノの関係は認知しておらず、このエピソードは全く機能していない。これらのやり取りが……、正直読んでいてイライラする。この決裂によって、話が全然進まず時間だけが過ぎているのだ。前周では8月15日の夕方で皆殺しにされ、ループしてしまったというのに、今回の周は既に昼である。それでいて話が、全然進展しない。これでは、読者はやきもきするだけである。その上、モモに対してカノが何故あそこまで嫌悪感を煽るような態度を取るのか、他の媒体を読んでもよく分からないようになっている。そもそもキドも何故、一度交渉が失敗しているカノを単独で行かせるのか? その辺りも釈然としない。
 情報を制限することによる、すれ違いや対立を描くのは別にいい。それでこのルートが、如月兄妹とメカクシ団が対立したまま、バッドエンドに終わっても別に構わない。そのことによって何かしら隠された設定が開示されたり、話が進んだりすれば別に構わないのだが、この場合はそのいずれでもない。その上、不自然な点ばかりが目立つ。これは、はっきりと面白くないといえる。
 
 どうしてこのようなことになったのか? それは、著者であるじんのストーリー構成及びドラマツルギーの拙さが現れた結果だと考える。この著者は他媒体を参照するに「こういう関係・こういうやり取りを書きたい」という欲望が先立つタイプだと考えられる。読者がどこまで関係を把握しているか、というより「○○と××がケンカしているところを書きたい!」(=場面)とか、「今回は○○と××が険悪な仲になるという風に行こう!」(=関係)という描写をしたいという欲求が、先走ってしまっているのだ。
 だから「関係性そのものを描くエピソード」は、とても魅力的に描いてくれる。「如月アテンション」のような互いの自己紹介的なエピソードや、「夕景イエスタデイ」のような過去にあったことをリリックに描くエピソードがそうだ。あるいは上述の「ヘッドフォンアクター」における黒コノハとの遭遇についても、同じことが言える。理不尽な出来事に直面した各々が取る咄嗟の行動に、それまでのキャラクター同士の関係そのものが浮き彫りにされている。
 このような関係性を強調したエピソードは、演出力のある著者にとって、その強みを存分に発揮できる場面といえるのだ。
 逆に今回の「カゲロウデイズ」のように、上述の関係性が明らかになっていない状態で、複数のキャラクターが同時的に動き、対立し合うようなエピソードは、前述したようなストーリーテリングの拙さが如実に現れてしまう。「どうしてこうなるのか」という因果関係がすごく伝わりにくく、シークエンスがまるで上手く描けていないのだ。

 このような理由で、現時点での5巻の評価はかなり辛いものとせざるを得なかった。しかし、この中だるみは、このマンガ版の評価を決定的にするほどのことではない。今回のラストでは、小説版で詳しく描かれていないセトの過去編に突入した。ここからマリーや楯山家に関するエピソードが描かれることで、一気に世界観の核心へと迫るのだろうか。
 次の巻での盛り返しに期待したい。