旅人の手記 二冊目 - 蝉海夏人のブログ -

2017-01-01

鬼胎は期待へ、激動から跳躍へ


あけましておめでとうございます、蝉海です。
このブログも、すっかり一年に一回の更新になってしまいました。
昨年は政治面・文化面などで大きな事件が多くて何かとかまびすしく、
当事者ではなくても心持が不安になることが多くあったかと思われます。
本年こそは、幸多き年であらんことを願います。

さて。このような大きな話はこのくらいにしておいて、
例年のように私個人的な今年の抱負について述べさせて頂きたく存じます。

蝉海は昨年三月に放送大学(人間と文化コース)を卒業致しました。
そのあと色々迷って働いたりしていましたが、大学院に進学することに決めました。
受験は無事合格。四月には、修士全科生(人文学プログラム)となります。
二年間で修士号を取れるよう、精一杯頑張りたく思います。

そして今年は、創作の方でも大きく動き出したいと考えております。

昨年は「小説家になろう」で投稿すること以外に目立った活動をしませんでした。
客観的に見ればかなり停滞した年といえるでしょう。
実際に新人賞用の原稿もままならず、
自分で振り返ってもひどく芳しくない一年だったと思います。
正直、「自分は何で小説を書くのか」「何で創作をし続けるのか」と、
しんどい自己問答を繰り返さない日はなかったくらいです。
しかし、行き着く答えはいつもシンプルで、たったひとつでした。

「どうしても書きたいものがあるから」

書かずにはいられないのか、書かずにはいられないと思い込んでいるだけなのか。
どっちかわからないまま、一行でも一文字でも書き続けていました。
亀の歩みのような毎日でしたが、その甲斐あってか、
先述した「どうしても書きたいもの」――というものが
ある程度具体的な形として結実するようになりました。

1月2日より、「小説家になろう」において新連載を開始致します。

内容は、現代の日本を舞台にした長編ロー・ファンタジーです。
毎週月曜から金曜の毎日更新で連載したく思います。
どうか、ご高覧頂ければと存じます。

またtwitterの方でも、創作用の新しいアカウントを設置致しました。
小説家になろう」への投稿などは、こちらでアナウンスしていきたく思います。

さて。私は毎年のこの反省と抱負で、「人とのつながり」を大事にしていく、
という言葉を繰り返してきたと思います。
正直に申し上げますと、昨年はこの「人とのつながり」において
考え悩まされることが多々ありました。
詳しくは申し上げられませんが、
人間関係」と「個人の成長」を調和し続けることの難しさを、
痛いほどこの身に知らされることとなりました。
けれどもつらいことばかりでなく、
大学院に進学することを決めたり、創作に励み続けたりすることができたのも、
人とのつながり――「縁(えにし)」があってこそのものです。
総じて、「関係」と「成長」という事柄について考えさせられた一年であったといえるでしょう。

それでは本年も、よろしくお願い申し上げます。

(Now Playing: Neru『ハウトゥー世界制服』(まふまふ×天月 バージョン))

2015-04-23

読書会の司会進行をすることになりました――他諸々近況

桜の花もすっかり散り終えようかとしております。

更新停止してから三週以上経ちましたね。

この間、中野に行ったり、いつもの読書会に参加したり、
ジャッキーさんが新宿中央公園で主催されたお花見に行ったり、
色々やってました。

ブログの方はしばらく、
こんな風に不定期で更新していきたいと思います。
今年は大学生活最後の年となる予定(お?)なので、
オンライン・オフラインともに悔いの残らないような活動をしていきたく思います。

さて。お知らせです。
ゆりいかさんがいつも主催し私も参加させて頂いている
「あの夜の読書会」ですが、
この度私めが「第12回(5/2)」の司会進行として抜擢されることになりました。
課題本は三島由紀夫レター教室

三島由紀夫レター教室 (ちくま文庫)

三島由紀夫レター教室 (ちくま文庫)

このようなミーティングなどで「チューター(進行役)」と呼ばれる役割は、
前の大学のゼミやサークルで何度となく経験しておりますが久しいので、
どういう風な「場」をつくればいいのか色々と悩むところです。
ご興味がおありでしたら下にリンク致しました、
ゆりいかさんのブログをご参照下さい。

「ハロー・ブンガク・グッドバイ」
――「第12回 あの夜の読書会 開催のお知らせ」

それでは、今日はこの辺で。


(BGM:THE ALFEEFaith Of Love』)

2015-03-15

『ずるさ』のあるズレたコード――『ベネズエラ・ビター・マイ・スウィート』

ベネズエラ・ビター・マイ・スウィート (MF文庫J)

ベネズエラ・ビター・マイ・スウィート (MF文庫J)

 ありがちなようで不思議な物語を読んだ。或いは、全てのコードがちょっとずつズレている。しかし、間違いなく面白い。どれだけエクリチュールを重ねても妥当とはいえないが、その中でまず伝えたい本書の初読の感想はこんなところだと思う。
 本作は一体、どのようなジャンルの小説といえるのだろう。青春もの、音楽もの、ホラー、ミステリー、恋愛、バトル・ロワイヤル(サヴァイヴ)もの……それぞれの定番の要素はきちんと踏まえている。けれども、それらが少しずつズレていきながら、この奇妙な物語は綴られるのだ。音楽の用語で言うならば「ミクスチャー」や「オルタナティヴ」という表現がふさわしいように思える。

 勿体ぶってないで、物語の概要に軽く触れることにしよう。
 舞台は現代日本。しかし作中の世界では、普通の人間の中に二つの異界の存在が紛れ込んでいる。一つは、死ぬとこの世から存在した形跡が抹消されるが、死体は腐らず数年後に復活する「イケニエビト」。二つ目は、彼らを殺して記憶を奪う能力を持つ「タマシイビト」。けれども、イケニエビトの存在の抹消には例外があって、そのイケニエビトがかに殺された場合、その加害者だけが彼・彼女のことを憶えているという。
 本編では、栄原実祈(さかえばらみのり)というイケニエビトの女の子を主軸として、左女牛明海(さめうしあけみ)と神野真国(こうのまくに)という、三人の恋愛とも友情ともとれない関係がメインに描かれていく。物語の始まりは、高校生の明海が同学年の真国にある日、「中学のとき、一緒にバンドを組んでいた女の子を殺したことがある」と告白されたところから始まる。すると明海のほうも「自分も小学校のときに同じ子を殺した」と打ち明けたのだ。そして彼らは、実祈が埋まっている場所へ掘り出しにいくのだが……。

 以下、本編の内容を踏まえながら、思弁的な考察を綴っていきたいと思う。


・ コードのズレが激しくも淡々と進む「プロローグ〜一章」

ひとつ、イケニエビトは殺した人だけがそのことを覚えてる。
ふたつ、イケニエビトは殺してもたったの数年でよみがえる。
みっつ、タマシイビトは人の記憶をむしゃむしゃ食べる。
よっつ、タマシイビトはイケニエビトを好んで食べる。
いつつ、イケニエビトの歌は遠い国からやってくる
むっつ、イケニエビトは自然とこの世に紛れ込む。
ななつ、タマシイビトは歌声聞いてやってくる。

森田季節『ベネズエラ・ビター・マイ・スウィート』(以下同)

 本作は「プロローグ+本編四章+エピローグ」という構成になっており、この文句はプロローグの前に付記されたものである。何も分からない状況でこうしたルーリングが唐突に叙述されているところから、一瞬「バトル・ロワイヤルもの+ホラー」ではないかと錯覚させられる。しかし、そのような先読みは一章目のエピソードで完全に粉砕される。
 最初に述べたように、本作では様々なジャンルのコード(共通認識要素)を横断しながら物語が展開されていく。イケニエビト・タマシイビトという奇怪な存在はホラー、またそれらの謎に迫っていくのはミステリー、その設定の下地にあるものはバトル・ロワイヤルものとの親和性があり、日常描写におけるバンド活動や恋愛感情は青春もの、といった風にだ。そして、この触れ幅は一番デカいのが一章である。
 まず最初に出てくる、視点主人公の明海の言葉が意味深だ。

「焼いたフルーツってずるい味がする」

 上記のセリフは、焼きパイナップルを食べる明海が同級の男子に言った感想である。この一文は、作品全体の雰囲気を体現しているといってよい。明海は「要領を得ていない表現」と本文中で述べているが、そのような「要領を得ていないこと自体」を、「計算高く(ずるく)」本作は構成だてられているのである。
 まず「ずるい」という言葉だが、これは「狡猾」(計算性)とも「不正」(ズレ)という意味とも両方取れる。そして「焼いたフルーツ」が「『死』のメタファー」であることは、プロローグ及びその前のイケニエビトのルーリングを読むに、ほとんどの読者が気付くであろう。だが、それ自体にこのセンテンスの「ずるさ」がある。焼かれることが「死」なら、生のまま食される果物は、果たして「生のメタファー」と単純にいえるのか。これは、衛生学的な条件でないことは言うまでもなく、想像力の問題である。この「生と死が矛盾し合い、両義性を提起するもの」としての「フルーツ」というメタファーは、本作全体における「計算された矛盾」や「ズレるジャンルのコード」を暗喩しているのではないかと、私は考える。
 私情を挟むと、私はこの一文を読んで直感的に「この作品は確かに受賞作だ」と閃くものがあった。そしてその直感は、最後まで読んで確信に変わった。「小説は冒頭によって、その出来の良さが左右される」という話はよく耳にするが、著者がそれを計算した上でこのような一文を冒頭に持ってきたのだとすれば、まさに「ずるく」そして心憎いセンテンスであるといえよう。

 話を本編に戻す。この「ズレ」としての「ずるさ」が最も露骨に表れているのが、一章なのである。このズレは、明海と真国が実祈を掘り出す場面で頂点に達する。普通、こうしたオカルティックな設定の作品ならば、序盤に「埋めてあった場所に死体がない」などといった、大きな事件起こす(「起」から「承」へつなげる第一の山場)ものだ。しかし本作では、そのイケニエビトの少女はごく普通に起き上がるのだ。そして、真国も淡々と反応する。

 神野君は無言で汚れた頬に手をあてた。それを合図にするように実祈の目がぱちっとひらいた。
 実祈の第一声は「ふわ〜あ」ちいうあくびだった。
「烏子*1、久しぶり。三年ぶりだね」
 神野君は割と冷静に言葉をかけた。そこには見知った者同士の心
安さがあった。

まるで、友人をうたたねから起こしたとでもいわんばかりの会話だ。一応この場面の前に、明海の「涙腺がゆるみかけ」たという独白はあるのだが、実祈の起きたときの印象が強烈過ぎて、薄れてしまっている。この圧倒的な「脱構築的構造性」に、私はここまで読んで次の展開が予想できなくなった。次はどう「ズラされるのか」と。


・ ズレの修正と再振幅「二章〜三章」

 けれども、ここまでの強烈な振り幅は二章で一旦収まることになる。
 二章では、明海の実祈との出会いと別れが回想されるのだが、そこでは「日常のなかに飛び込んできた非日常と冒険し、また日常に変える小さな少女」という至って正統派のジュブナイルが描かれる。夏の学校で引き起こされる陰湿なイジメのシーンや、転じてタマシイビトが作り出した誰も居ない結界の街で明海と実祈が遊びまくるエピソードなども、この手のジュブナイルでは定番の描写だ。
 その後、二章〜三章の前半で描かれる明海と実祈のやり取りや、真国を交えた学校生活や趣味の音楽の描写も、「青春モノ+ちょっと不思議」の範疇を出ていない。唐突に挿入される「藤原君」の怪談(後述)を除いて。これはまるで、一章の揺さぶりを鎮めて、読者を安心させるかのような構成である。

 そしてこのような、少しおかしくも楽しい日常は三章の後半で再び揺さぶられることになる。「藤原君」の生まれ変わりが真国で、彼はイケニエビトだったという真相の発覚。そして、真国に迫る二人のタマシイビトの存在。直後、この世から生きた証が抹殺され、明海の記憶から真国の存在が完全に消される(ここでプロローグとつながる)という、怒涛の展開が待ち受ける。
 しかし、ここでそれまでの「イケニエビトの死」の描写とは明らかに違う現象が起こる。実祈だけは、真国のことをおぼろげに憶えていたのだ。そして、手元に残された「コウノマクニ」と名前が入ったライブチケット。これらの情報から明海は、真国の死を「タマシイビトの仕業」と直感し、真国が存在したという実感が湧かないまま、タマシイビトに対する怒りだけが高まっていくのであった。
 そして明海と実祈は真国の仇を取るため、タマシイビトへの復讐を計画するのである。「コウノマクニ」という存在を都市伝説として流布し、彼のことを歌った楽曲を阿弥陀峰の中腹で演奏して。


・ ズレが意志によって収斂される「四章」と再びズレ始めて終わる「エピローグ」

 そしておびき寄せたタマシイビトを殺して復讐を達成した二人は、「コウノマクニ」のライブチケットを埋葬することにした。けれどもそのとき、チケットの入った封筒に手紙があることに実祈は気付き、それを読み上げた。明海は未だに真国のことが思い出せないのだが、手紙を読み上げる実祈を見て、何故か涙が溢れてきた。

 私は泣いていた。悲しくもなんともないのに泣いていた。神野君の顔も思い出せないんだから。涙は無責任に私の頬を垂れて、土にしみこむ。
 私は魔性の女だな。
 悲しくもないのに泣くなんて。
 悲しくもないのに泣くなんて。
 悲しくなくたって泣いてやろう。神野君のために。

ここでも「ズレ」は機能している。憶えてない人物のために、悲しみも覚えられないのに泣く明海という描写と、その後の独白からは「意志の脱境界性」が読み取れる。根拠・事実の「ある・なし」に関わらず、感情ではなく意志が明海の肉体を動かすのだ。意志はそれ自体が根拠となる。この場面はそれまで描かれてきたコードのズレが、収斂されているようだ。コードがズレても、物語は奏でられると主張せんばかりに。

 だが、終結部(コーダ)を迎えたように思えるこの物語は、最後に思わぬポスト・コーダが加わり、読者は再び揺さぶられ、宙に浮かされるのだ……。タマシイビトの復活と、明海に対する予想外の謝罪によって。そして、明海と実祈の日常はこれからも続くことを暗示し、この物語は終わる。


・ 総括になっていない総括

 本編の構造的なズレを追ってきたが、やはり本作は捉えどころのなさを感じずにはいられない。あらゆるジャンルの定番要素を詰めておきながら、それらが全て少しずつ「ずる」く「ズレ」ていくために、どうまとめていいかわからない。しかし、最初にも述べたように明らかにこの作品は面白く、そして極めて精緻な文章がその魅力を支えている。これもまた、「耐久度のあるテクスト」を湛えた作品の一種であろう。
 本作におけるズレは、「ジャンル論争」という外部の自称に対しても、オルタナティブな効用を発するのではないかと私は考えている。この物語のアンチジャンル性は「『ただのラノベ』ではない」という分かっているようでまるで具体性のない凡庸な雑感も、それに反応して「テンプレ」の押し売りをする自称批評家、その両者にアイロニックな返答をしているように、私は考える。
 プログレ的な転調を繰り返す上質なミクスチャー、或いはオルタナティブ・ロックを聴いているような一冊だったように、私は振り返らずにはいられない。

(BGM:ベネズエラ・ビター『イケニエビト』)

*1:実祈が神野と出逢ったときに使った別名。

2014-12-21

図書館のリサイクル本は苦学生の味方

こんばんは、蝉海です。
昨日はゆりいかさんの開催される読書会に参加してきました。
お題は『銀河鉄道の夜』(宮沢賢治)
近代文学の中でも飛びぬけて知名度があり且つ難読なことで有名な作品で、
予想通り議論は大紛糾の状態となりました。
終わったのは、終了予定時刻を1時間半も過ぎた午後10時半。
読書会始まって以来の、最高に盛り上がる一夜になりました。

さて。話を変えて、図書館のリサイクル本の話。
公立の図書館では保存期間が過ぎた本を、
リサイクル本として利用者に提供するシステムがあります。
私もよくリサイクル本を持ち帰ってくるのですが、
これがなかなか良いものが降りてくるものなんですね。
この数年間で目ぼしい収穫品をざっと挙げてみますと、こんな感じです。

『ZOO』(乙一)
『蹴りたい背中』(綿谷りさ)
『博士の愛した数式』(小川洋子)
『官僚たちの夏』(城山三郎)
『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』
(岩崎夏海)
『人間臨終図鑑』(山田風太郎)
『遠い海から来たCOO』(景山民夫)
三島由紀夫全集(金閣寺 仮面の告白 他)』
『社会主義の歴史』(和田春樹)
『サブカルチャー神話解体』(宮台真司 大塚明子 石原英樹)
『透きとおった悪』(ジャン・ボードリヤール 訳 塚原史)

他にもまだまだあります。
話題になった小説やエッセイ、雑誌などが多めの印象がありますが、
時にはかなり学術的な本も手に入ります。
タダでもらえるのだから、これを使わない手はありません。
もちろんリサイクル本なので、汚れや傷が相当に目立つものもありますが、
そこは目をつぶりましょう。

ではでは。


(BGM:MELL『砂漠の雪』)

2014-12-07

三島由紀夫による〈外面―表面への意志〉と美的死生観(後編)

・ 死――、内と外の合一。及びカイロスの問題について

 『鏡子の家』(1959年)は三島の作品の中でも、「筋肉」と「美」の関係性と「死」の問題について、徹底して考察された指折りの一作である。あらすじは次の通りだ。
 資産家の令嬢である鏡子の家には、四人の青年が集まる。世界の破滅を信じて、常に心が満たされないことを潔しとしているエリート商社マンの杉本誠一郎。大学の拳闘(ボクシング)部の主将を務め、考えないことが至高であるという価値観をもつ深井峻吉。たわわに育てられ、将来を周囲に展望されている若手の日本画家の山形夏雄。無名の俳優で、後に肉体を鍛えることに執着していく舟木収。彼らは「いかなる場合に陥っても、けしてお互いに助け合わない同盟」を結び、それぞれの信念を貫徹するために日々を費やす。
 この物語で最初に肉体の問題を提起するのは、やはりボクシング選手である峻吉である。「思考」というものを否定し徹底して拳闘に励む彼は、物語の最序盤から悪たれ共と喧嘩を繰り広げるなど、肉体の質感というものを直接的に顕示してくれる。しかし、「美的対象としての人間」(ホモ・エステティクス)の発現体として肉体を考えるならば、この作品において注目するべきは収の方であろう。眉目秀麗な彼は、ある日知り合いの女から身体の貧相さを責められる。屈辱的な思いをした彼は、知り合いである武井にボディビルの勧めを受けて、肉体強化に励むことになるのだ。

「考えてもみるがいい。感情や心理がどれほどの価値があろう。感情や心理だけがどうして微妙であろう。人体でもっとも微妙なものは筋肉なのである!

三島由紀夫『鏡子の家』

 武井は、筋肉美の狂信者である。彼に言わせれば、「感情や心理は、筋肉をよこぎる焔のようなもの*1」であり、筋肉は「言葉よりもずっと明晰である点で、言葉よりもすぐれた『思想の媒体』*2」なのだ。この筋肉至上主義は、一見すると余りにも突飛な考えに映り得るが、よくよく考えてみるとこれはこれで筋が通った一つの思想である。我々は、筋肉が全身に張り巡らされているからこそ意思表示ができるのだ。「感情や心理」は筋肉の媒介なしには、絶対に表面へ出でることはできない。こう考えると滑稽に見える武井の主張も、三島の「内部から外部へ出ることで、また外部となる」という思考様式が透徹されているとさえいえるだろう。谷川はこの武井と収の思想から、筋肉の鍛錬(=ボディビル)に対する目的を次のように捉え返している。「ボディビルは肉体を作品化する営みである。自己の外に作品を生み出す芸術とは異なり、それは製作者自身をいわば芸術作品と化す行為である*3」と。つまり、「内部である精神を肉体に還元させて発現させること」を原理とするならば、「〈美的〉精神は、〈美的〉肉体に還元させられて発現させること」に、筋肉鍛錬の目的は集約されるのだ。
 さて。本作において、この武井の美学に対して正面から立ち向かうのが、早熟の日本画家である山形夏雄である。彼らは、とあることがあって収の母が経営する喫茶店で対面し、それぞれの美学思想をぶつけ合い、闘わせるのだ。このくだりは『鏡子の家』において、あるいは三島の美学を考察するにおいて、極めて重要な箇所である。

 武井は夏雄をつかまえて、全くの筋肉的関心から、ラオコオンその他のヘレニスティック彫刻だの、ミケランジェロの彫刻だの、ロダンの「考える人」だのの話を、ごちゃまぜにはじめた。……画家の発見し表現するすべての性質の美は、彫刻家に源している。何故なら、風景の美も、静物の美、結局人間の筋肉美からの類推なのだから。という奇説をふりまわした。

(同上)

 まず、武井の筋肉への執着がふんだんに語られることから、この対話は始まる。彼が彫刻を至上とするのは、量塊(マッス)と比例(プロポーション)が物質として現前するからである。これらはヘレニズムの芸術理論の根本的原理であり、筋肉の現存性を至上とする彼の志向がそこへ行き着くのは、想像に難くない。それは後世のバロック芸術における、「誇張」の概念にかかるのであるが、その話はここでは省略しよう。
しかし、風景・静物・その他全ての物質性を人間の筋肉へ還元するのは、何ら根拠のない暴論だ。武井のナイーブで無邪気な筋肉礼賛は、「芸術家」という存在の否定へと続けられる。

 彼は美に関しては人間の肉体というものが、可塑的な素材であると同時に芸術作品たり得る点で、芸術家の媒ちを必要とせず、「美というものには、本来芸術家など不要だ」というのであった。芸術家とはかくてブローカァにすぎず、もし人間の存在の意識そのものが芸術作品と化するなら、芸術家の存在理由は気弱になってしまうのである。

(同上)

 自らに秘められた美的感性を最大限に発現するのが自分の肉体ならば、確かにその肉体を使って外の対象に手を加えるよりも、肉体それ自体を芸術作品とした方が、「美的」であることは間違いない。しかし、この「美と発現」という問題はそれほどに単純でないことは、三島本人が重々承知していた。武井のナルシスティックな肉体論が、三島の美学を反映しているのならば、夏雄の肉体造形への反駁もまた、三島の思想が反映されたものであるのだ。
 夏雄青年は、武井の語る美学を普遍的なものとは捉えず、「明白に歴史的な一時代の美意識の影響下*4」にあるものと判断を下し、「ヘレニスティック彫刻の、いささかバロック風な『誇張』の様式から出たもの*5」と突っぱねる。そしてここから、その後の物語の伏線であり、さらには三島自身の運命を予見させるかのような、夏雄の反論が始まるのだ。やや長いが、全文引用することにする。

 夏雄はこんな議論に子供らしい危険を感じた。第一、芸術作品とは、目に見える美とはちがって、目に見える美をおもてに示しながら、実はそれ自体は目に見えない、単なる時間的耐久性の保障なのである。作品の本質とは、超時間性に他ならないのだ。もし人間の肉体が芸術作品だと仮定しても、時間に蝕まれて衰退してゆく傾向を阻止することはできないだろう。そこでもしこの仮定が成り立つとすれば、最上の条件の時における自殺だけが、それを衰退から救うだろう。何故なら芸術作品も円状や破壊の運命を蒙ることがあるからであり、美しい筋肉美の青年が、芸術家の仲介なしに彼自身を芸術作品とすることができたとしても、その肉体における長時間製の保障のためには、どうしても彼の中に芸術家があらわれて、自己破壊を企てなくてはならないだろう。筋肉の練磨と育成は、肉体を発展させることでもあるが、同時に時間的法則の裡に、衰退の法則の裡に、肉体を頑固に閉じ込めておくことであるから、それは芸術行為ではないのであって、自殺に終らぬ限り、その美しい肉体も、芸術作品としてのその条件を欠いている筈である。

(同上)

 芸術の本質を超時間性と規定する夏雄にとって、時間に縛されその精彩が衰えていくことが確約されている肉体は、芸術作品足り得ない。従って、人間の肉体を芸術作品として成立させるには、自らのカイロスで自らの命を絶たなければならないのだ。その時にこそ、現存在性の最大の発現は達成され得るのである。
 夏雄の憤りは、ついに口から言葉として現れ出てしまう。

「そんなに筋肉が大切なら、年をとらないうちに、一等美しいときに自殺してしまえばいいんです」

(同上)

 この夏雄の言葉は、この先に収が「自殺」することの伏線となる。収は高利貸の醜女に対し、母の喫茶店に対する強引な取り立てを止める代わりに、恋人となる条件を呑んでしまう。女は嗜虐的な性的嗜好の持ち主で、紐による緊縛などを執拗に収へ強要してくる。そしてある日、女は収の皮膚を剃刀でわずかに傷つけてしまう。そこで収は、こんな風に思弁を巡らしたのであった。

「これこそは世界の裡における存在の紛れもない感覚なのだ」と収は思った。「僕ははじめて望んでいた地点に達し、すべての存在の環につながったのだ」やさしい、なまめかしい血の流出。肉体の外側へ流れ出る血は、内面と外面の無常の親和のしるしであった。

(同上)

 内面が外面へ氾濫することにより、二者が同化・表面へ還元され、美が発現するというプロセスは、これまで何度も述べて来た通りだ。ここで三島による肉体の論理は、一つの自己完結を示している。「美しい肉体をあくまでも芸術作品として保持するためには、自己破壊を企てねばならないという逆接、そして内面と外面との『無上の親和』を実現するためには、肉体を裂いて血を流出させねばならないという逆接、これらふたつにしてひとつの逆接が、三島における肉体の論理を構成する*6」のだ。
 鏡子から収の自殺を伝えられた誠一郎は、返信の手紙を次のようにしたためる。

「美しい者になろうとする男の意志は、同じことをねがう女の意志とはちがって、必ず『死への意志』なのだ。これはいかにも青年にふさわしいことだが、ふだんは青年自身が恥じていてその秘密を明さない。その秘密を大っぴらにするのは戦争だけだ。」

(同上)

「美」は、「死」を志向する。いずれその美を失う前に、美を現存在としてとどめておくには、自己破壊を求めざるを得ない。美は、それの表出が絶頂に達した刹那に死を以て、完成するのだ。

 さて。その「美的な死への意志」が顕わになるのが戦争であるが、それは何も直接殺し合いをする戦場だけに留まらない。これから戦場へ向かう運命となり、懊悩する人間にも当然適用される。その苦悩と美的な死を描いたのが、映画化もされ三島自身が主演を果たしたという自著『憂国』(1960年)に他ならない。
 二・二六事件の叛乱軍を鎮圧させるという名目で、参戦し友を討たねばならぬという煩悶の末、切腹を覚悟した武山信二中尉とそれに連れ添う麗子夫人。死に臨む美男美女は互いの肉体を交わらせた後、〈死〉に臨むのであった。

 刃はたしかに腹膜を貫いたと中尉は思った。呼吸が苦しく胸がひどい動悸を打ち、自分の内部とは思えない遠い遠い深部で、地が裂けて熱い溶岩が流れだしたように、怖ろしい劇痛が湧き出して来るのがわかる。その劇痛が怖ろしい速度でたちまち近くへ来る。注意は思わず呻きかけたが、下唇を嚙んでこらえた。

三島由紀夫「憂国」――『花ざかりの森・憂国』

「若々しく引き締った腹*7」に刃が食い入り、内部からくる劇烈な痛みが信二を焼く。〈外部→内部→外部〉という、痛覚のプロセス。それは血液を媒介として、視覚される。「無常の苦痛*8」と「歓喜の焔*9」は、表面へと還元されるのだ。

拳がぬるぬるしてくる。見ると白布も拳もすっかり血に濡れそぼっている。褌もすでに真紅に染っている。こんな烈しい苦痛の中でまだ見えるものが見え、在るものが在るのは不思議である。
……血は次第に図に乗って、傷口から脈打つように迸った。前の畳は血しぶきに赤く濡れ、カーキいろのズボンの襞からは溜った血が畳に流れ落ちた。

(同上)

 劇痛を可視化させるのは血と、膏と、吐瀉と、涎と、そして内臓である。

中尉がようやく右の脇腹まで引廻したとき、すでに刃はやや浅くなって、膏と血に辷る刀身をあらわしていたが、突然嘔吐に襲われた中尉は、かすれた叫びをあげた。嘔吐が劇痛をさらに攪拌して、今まで固く締っていた腹が急に波打ち、その傷口が大きくひらけて、あたかも傷口がせい一ぱい吐瀉するように、腸が弾け出て来たのである。腸は主の苦痛も知らぬげに、健康な、いやらしいほどにいきいきとした姿で、嬉々として辷り出て股間にあふれた。

(同上)

 高潔な覚悟と怖ろしいまでの烈しさと艶かしさが入り混じった、至極凄絶なシーンだ。この実に血なまぐさい場面は、冷静な筆致で紡がれることにより、崇高にさえ感じる一幕に仕上がっている。溢れ出る血と内臓は、自らの美的理念が表面美へと還元する媒介にしてその象徴である。崇高な意志に依って、鍛え上げられた肉体を自ら破壊するその瞬間、美は最高潮へと高められるのだ。ここに、身体(表面)と精神(内面)の究極的合一と、それを成しえるカイロス的な「死」の決断が見て取れよう。ここでは美的対象=殺人対象を『仮面の告白』のように、他者に求める必要はない。美的人間としての自らを殺すことで、自身の美的観念は至高の形で貫徹されたのであった。

 ところで「美のための死」というものに、何かしら危ういものを覚えさせられるのは、けして道徳的要請からのみではない。自死とは外界に対する理解の拒絶であり、それは「知の否定」へつながる。ここでの「知」とは精神的理解であり、それを拒むところから志向するのは、カイロス的な死=自死・殺人に向かわざるを得ない。故に、死という観点から美を考えることは、恐ろしいものと感じられるのだ。美は現存在と実感に依拠し、思考を経ることなく官能を享受するものである。
そして三島は晩年に、輪廻転生を主題に「美と死」の問題について、一貫して追求した大作を書き上げた。それが、『豊穣の海』四部作(1969〜1970年)である。

「……人間の美しさ、肉體的にも李壇にも、およそ美に屬するものは、無知と迷蒙からしか生れないね。知つていてなほ美しいなどといふことは許されない。同じ無知と迷妄なら、それを隱すのに何ものも持たない李辰函△修譴鴃すのに輝かしい肉を以てする肉體とでは、勝負にならない。人間にとつての本筋の美しさは、肉體美にしかないわけさ」

三島由紀夫「豊饒の海(四) 天人五衰」――『三島由紀夫全集 19』(傍線部、原文傍点)

この四部作の主人公は必ず20歳で死ぬ(第四部『天人五衰』の安永透は除いて)。そしてその年に、全ての記憶を洗われて転生される。松枝清顕、飯沼勲、ジン・ジャン、彼らの生を何十年と見届けていくのが、もう一人の主人公である本多繁邦だ。第四部である『天人五衰』(1970年)で、三人の死を通じ老年となった本多は、安永透という少年を彼らの生まれ変わり(実は違ったのだが)と信じ、養子として向かい入れる。その理由を友人である久松慶子に問い詰められ、本当のことを打ち明けたときに、続けて口にしたのが上述の言葉だ。
美が純粋に美として表面に顕れ出るには、知ることを介してはならないのだ。精神を廃し、感覚のみに自己を埋没させなければならない。それは自分の老いに対する自覚さえ、例外ではないのだ。また、その老いについて思考することもなく、ただただ官能を働かせることが、美を真に直観する唯一の方法である。
時間の否定(超時間性)、思考・精神の否定、そこから導かれる道は「死」に行き着くしかない。

 知らないということが、そもそもエロティシズムの第一條件であるならば、エロティシズムの極致は、永遠の不可知にしかない筈だ。すなはち「死」に。

三島由紀夫「豊饒の海(三) 暁の寺」――『三島由紀夫全集 19』

 さて。この四部作の中で、『憂国』の武山中尉のようなカイロス的な死を遂げた存在として、第二部である「奔馬」の主人公である飯沼勲が挙げられる。右翼テロリストである彼は、経済界の重鎮を暗殺する。それから夜明け前の海を前にして、彼は切腹に至ったのだ。彼の瞼の裏には、日輪が「赫奕と昇った*10」という。
 三島は、『奔馬』を書き上げる28年前、先にあげた『中世における一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃』において、「殺人者にとって落日はいとも痛い。殺人者の魂にこそ赫奕たる落日はふさわしいのだ*11」という文章を書いている。何とも、遠い未来に自分が描く作品の結末を予見したかのような一節だ。ただここでは「落日」と書いてあるが、『奔馬』での太陽は「夜明け」のそれである。またこの後に続く文として、「美そのものさえそれは殺害(あや)め得るのである*12」と書いている。落日の持つ憂鬱は、美を殺す。しからば昇陽のそれは、蟠りを晴らし美の絶頂へ主体を至らしめる、象徴なのであろうか……。これらの二つの情景における対比からは色々な連想ができることであろうが、本筋から話が反れてしまい兼ねないので、この話はここまでにしておこう。
 話を戻す。今や、この『奔馬』の結末に触れた読者のほとんどの人が、「三島事件」の顛末を想起することであろう。三島由紀夫は1970年11月25日、自らが組織した「楯の会」の隊員四人とともに市ヶ谷陸上自衛隊東部方面総監部を襲撃した。そしてバルコニーから自衛隊員に演説をした後、中へ戻り割腹自殺を図ったのである『憂国』や『豊饒の海(二)奔馬』でカイロス的な自死を描いた彼は、自らの命をかけて私達に「美的観念と肉体、そして自己破壊(カイロス自死)による超時間的・美的完成」という問題を投げかけたのであった。
 ――だが、内部と外部の合一と美的死生観という問題は、これで一切の完結を迎えてはいない。確かに、三島は「内(精神、観念)と外(肉体、官能)の合一は、カイロス的死によって究極的に達せられる」という命題を、自分の作品と生涯を以って訴えた。だが、それだけが三島が命をかけてまで訴えたかったことなのか? 三島は果たして、そうした美的自死をプリミティブに全肯定していたのか? 私は、そうは思わない。事実、彼はこの思想に限界性を感じていた。それは先にあげた『鏡子の家』における、武井と夏雄の対決で明らかではないか。もし三島が、「美的完成を求めたカイロス的自死」に何ら疑いを抱かなかったのならば、こんなやり取りはそもそも描かないだろう。三島は、自分の美的観念に対して、常に限界を感じていたに違いない。それを読み解く鍵は、彼の最初期の作品である『花ざかりの森』で既に示されている。


・ 内と外の統合における極致、自我の彼岸。行き着く先は全て「無」

 『花ざかりの森』は、場面ごとの登場人物の位置関係が分かり難く、三島の作品では極めて読み辛い部類に属する。しかしそうであるからこそ、この作品の唯美的な雰囲気は成立しているともいえよう。幼き時の記憶、園丁の緑、木漏れ日、鳥の囁き、古写真から馳せる情景……、そうした幻想的な情景が多層的に描かれるのが本作である。そしてこの作品において最も重要なのは、その結末の部分である。老婦人に招かれたまろうど(まれびと、客人の意)は、夫人と共に邸宅の裏の林を抜けたところにある高台から、町並みと海を望む。寂静とした情景を以って、この短編は幕を閉じる。

まろうどはふとふりむいて、風にゆれさわぐ樫の高みが、さあーっと退いてゆく際に、眩ゆくのぞかれるまっ白な空をながめた、なぜともしれぬいらだたしい不安が迫って。「死」にとなりあわせのようにまろうどは感じたかもしれない、生(いのち)がきわまって独楽の澄むような静謐、いわば死に似た静謐ととなりあわせに。……

三島由紀夫「花ざかりの森」――『花ざかりの森・憂国』

 このような一節を、三島は16歳で書いたというのだから、舌を巻くばかりだ。しかしその文章力もさることながら、ここで問題にあげたいのは「死」と「生」という概念と、「静謐」というモメントにおける関連性である。「生(いのち)がきわまって独楽の澄むような静謐」は、「死に似た静謐ととなりあわせ」という記述は、いったい何を意味しているのか。静寂のなか、その清冽な情景を目の当たりにしたまろうどに、「なぜともしれぬいらだたしい不安が迫っ」たのは、どうしてであろうか。ここに私は、三島の思想の肝である「実存への意志=死への不安」が見て取れるのではないかと、思わざるを得ないのである。
 中も外もない、美の境地。それは「カイロス的自死」によってのみ達せられるものではないことを、三島はこの頃から承知していたのではないか。外と内の合一、それを主体的に決断する「カイロス的死」があるとすれば、忘我の大海へ身を任せる「クロノス的死」がその対極に存在することを、三島は16歳の時よりずっと意識していたのではないか。
 故に、この『花ざかりの森』の結末が『豊穣の海』の第四部である『天人五衰』の幕と重なって見えるのは、偶然ではないのだろう。

 これと云つて奇巧のない、閑雅な、明るく開いた御庭である。數珠を繰るやうな蝉の聲がここを領してゐる。
 そのほかには何一つ音とてなく、寂寞を極めてゐる。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は來てしまつたと本多は思つた。
 庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる。……

三島由紀夫「豊饒の海(四) 天人五衰」――『三島由紀夫全集 19』

 透が松枝清顕やジン・ジャンの生まれ変わりでないことを知った本多は、清顕とかつて逢瀬を交わした綾倉聡子に会いに行く。仏門に入って数十年が経過した彼女は、既に清顕のことを憶えていなかった。そして、寺の庭へ若僧に連れられた本多は、どうともいえぬ虚しさのなかで、ただ呆然とするのであった。
 記憶の否定は時間の否定。なにもないということは、思考・精神の否定であり肉体の否定である。そこから導き出される概念は、先のカイロス的死と同じように、「死」でしかあるまい。しかしそれは、切腹のような動的なものではなく、至極静的なものである。それを言い表す言葉はただ一つ、ただ「無常」である。
 ……けれども、皮肉なものだ。無機的で非主体的な時間であり内部を志向するクロノスから脱しようとして、有機的で主体的な時間であり外部を志向するカイロスを意識すればするほど忘我へ向かっていってしまうという逆説が、ここに成立している。いずれにしても行き着く先は、無でしかない。死を前にして人間は、それに挑む姿勢が積極的であろうと消極的であろうと、結局は無に帰すのである。「無常観」という内部からくる忘我へのいざないに対して、どれだけ人は耐えられるのであろう? それに対して、精神(内部での自律)を重きに置くか、それも外部に還元されるのであるからと、肉体=表面に重きを置くか……。三島は、市ヶ谷の総監部に乗り込むその日に、この『天人五衰』の入稿をした。完全なる無と相対した三島は、無常観に身を沈めることなく、主体的に死に臨むことを決断したのだ。死に対する内と外の問題とは、そうした自らの存在の本質をどこに求めるかを選ぶ、その「意志」の問題なのである。


総論

 外面と内面、そして二者を還元する表面という観点から、三島の美学と死生観を考察したこの思弁的冒険は、「カイロス/クロノス」という時間概念を経てから、内も外も全てが無に帰す「無常」という概念に辿りついて、やっとひとまずの帰路を迎えた。
 私は今から1年半ほど前、『基礎演習I』の授業で三島由紀夫をテーマにしたレポートを書いた。そこで「『生の否定こそが美の極致』というニヒリズム的な唯美主義を、いかにして超克するかが、三島が「死」を以って我々に与えた課題である」という結論に至ったことを憶えている。そして私は今回の論文で、そのさらに先の可能性について三島は思考していたことを明らかにした。それは、「カイロス的死にしろ、クロノス的死にしろ、いずれも無に帰す。従って、どちらを選ぶかは主体の〈意志〉の問題である」ということだ。
 最後に。『鏡子の家』におけるこの一節を添えて、この論文の終わりとしたいと思う。
夏雄は武井との論争の後に、神秘主義に埋没してしまった。だが彼はそれを自力で克服した。そして、物語の最後でこのように悟るのである。

 もし魂というものがあるなら、霊魂が存在するなら、それは人間の内部に奥深くひそむものではなくて、人間の外部へ延ばした触手の尖端、人間の一等外側の縁でなければならない。
三島由紀夫『鏡子の家』

 人間の存在の原理、本質を求めて、三島は外部へ外部へと意識した。しかしその縁に辿り着いたその先は、内部へ内部へと向かった時に同じく辿り着く、「無」があるのみであった。その無と対峙したとき、人間はどのような死生観・美的観念を抱くか、この難問に対して三島は全身全霊を以って答えたと同時に、「君たちなら、どうするか?」と私たちへ投げ返したのである。


参考文献

文学の皮膚 ホモ・エステティクス』谷川渥 白水社 1997年
『美学の逆説』谷川渥 筑摩書房 2002年
『美のバロキスム 芸術学講義』谷川渥 武蔵野美術大学出版局 2006年
『肉体の迷宮』谷川渥 東京書籍 2009年

「仮面の告白」三島由紀夫 1950年
「金閣寺」三島由紀夫 1956年
――『三島由紀夫全集』中央公論社 1965年
「花ざかりの森」三島由紀夫 1941年
「中世における一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」三島由紀夫 1943年
「憂国」三島由紀夫 1960年
――『花ざかりの森・憂国』新潮社 1968年
「若きサムライのための精神講話」三島由紀夫 1969年
――『若きサムライのために』文芸春秋 1969年
「豊饒の海(一) 春の雪」三島由紀夫 1969年
「豊饒の海(二) 奔馬」三島由紀夫 1969年
――『三島由紀夫全集 18』新潮社 1973年
「豊饒の海(三) 暁の寺」三島由紀夫 1970年
「豊饒の海(四) 天人五衰」三島由紀夫 1971年
――『三島由紀夫全集 19』新潮社 1973年
「薔薇と海賊」三島由紀夫 1958年
――『三島由紀夫全集 22』新潮社 1975年
「アポロの杯」三島由紀夫 1952年
――『三島由紀夫全集 26』新潮社 1975年
『鏡子の家』三島由紀夫 新潮社 1959年
『裸体と衣装』三島由紀夫 新潮社 1983年

『美と共同体と東大闘争 三島由紀夫 VS 東大全共闘』
 三島由紀夫 東大全共闘 角川書店 2000年

*1三島由紀夫『鏡子の家』新潮社

*2三島由紀夫『鏡子の家』新潮社

*3:谷川渥『文学の皮膚 ホモ・エステティクス』白水社

*4三島由紀夫『鏡子の家』新潮社

*5三島由紀夫『鏡子の家』新潮社

*6:谷川渥『文学の皮膚 ホモ・エステティクス』白水社

*7三島由紀夫「憂国」――『花ざかりの森・憂国』新潮社

*8三島由紀夫「仮面の告白」――『三島由紀夫全集』中央公論社

*9三島由紀夫「仮面の告白」――『三島由紀夫全集』中央公論社

*10三島由紀夫「豊饒の海(二) 奔馬」――『三島由紀夫全集 18』新潮社

*11:「中世における一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」三島由紀夫――『花ざかりの森・憂国』新潮社

*12:「中世における一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」三島由紀夫――『花ざかりの森・憂国』新潮社