「真昼のビッチ」

阿佐ヶ谷スパイダース公演ではないヴィレッヂプロデュースは、いちいち豪華な俳優たち。特に最近見た印象強い芝居に出ていた人たちが多い。高田聖子さんの嫌あでだめえな芝居。今度のウーマンリブ皆川猿時こと港カヲルさんとキャラ対決をする橋本じゅんさんはまじめなサラリーマン役で幅広い芸風に感心し。新国立で安部公房の芝居や「死の刺」での強い芝居から最近は劇団☆新感線にも客演の多い馬渕英里何さんは純粋な難しい役を。千葉雅子さんは姉御芝居が冴え。吉本菜穂子さんのへんな声が娼婦に似合い。小林高鹿さんは白いスーツが似合いすぎ。野田芝居でも声が通るので驚いた高橋由美子さん。とかいちいち他の芝居を思い出しながら、配られたちらしでこれからの芝居予定を思い出しながら。誰もが芸達者で、セットも長塚圭史の演出も芸達者なのだけど。だんだん面白くなくなる。
不幸を羅列して行くという物語がカタルシスを迎えていそうなところでは、完全に冷めてしまっていた。演劇としてはとても上質にできあがっているくせに、だから何なのですか。という、そこまで人や物語を書いているのに、周りがとてもスカスカな。とはいえ、わたしが見てきた小劇場の芝居というのは、こういうものだったかもしれない。と、芝居が始まる前に大量に配られた、その殆どを知っている劇団のちらしを思い出す。芝居ってこういうものだったのだろうか。と、わたしはずっと何を見てきたのだろう。と、嫌あな気持ちのまま、暑い新宿の道を歩く。

学生の頃は小劇団ばかりを見ていたけど、年をとると次第にオペラやバレエを見るようになるものだと思っていた。ロックばかり聴いていたけど次第にジャズやクラシックも聴くようになり、歳をとるにしたがってクラシックを聴くようになるのだと思っていたのだ。

グループ魂@日比谷野音

と、なんだか次第に、体温が低くなる一方のテイタラクのまま野音に入る。ここでもまた、場違い感を味わうのだろうかと思っていたが、以外に男子率が高い。周りでは、男同士。老若男男のカップル多くて安心。バイク乗って皮ジャン着て野音へやってくる男達がいるのを知ったら魂もえらく喜ぶかもしれないが、最近は皮ジャン割引をしていない。ライブはあいかわらずのコテコテさ。もはや古典芸能の域なのかもしれない。という、グループ魂の芸は音楽的にもお笑い的にも、そこで真摯な批評が意味をなさない。という見事なニッチ(スキマ)芸だ。
よっぽど昔の方が凝った演出と、無駄とも思える金の使い方をしていたけど、次第にライブはシンプルに。お笑いはあいかわらず緩くてくどくても憎めない。
サケロックが全員の登場で驚いたけど、いつのまにか吐夢さんは魂と全く絡まない別コーナーとなっていたけど、あいかわらずのダンスが嬉しい。宮崎吐夢さんはサケロックと一緒にフジロックへ。でも3時からだなんて、わたしは寝てますから。河井克夫さんは松尾スズキさんと一緒にひたちなかでDJを。そして、グループ魂エゾロックへ。と、いつのまにかロックフェスな大人計画に。
緩くて微笑ましい3時間弱のステージのあと思い出そうとするのは、セットリストではなくて、コントのネタだったりする。森本レオは火遊びじゃネエ。団しんやは死んでない。ヨンさまのヨンは数字でない。って時間がたつと少しも面白くないところに、静かにほほ笑みながら。

そうそう。いつのまにか歳だけをとってしまったくせに、あいかわらず小劇団ばかりみて、ロックばかり聴いて、ふざけた映画が好きで、物語小説ばかり読んでいる。いろいろな意味で、歳をとると想像していた自分とは違う。というか、たいして変わることができないまま歳だけとってしまったけど。結局ピナ・バウシュを選ばないで、嫌あな気分や、緩うい気分で夏の新宿や日比谷公園をうだうだ歩くのも全く悪くなかった。

ピナ・バウシュ

使う映像もセットも登場人物も、それは可愛い驚きの連続で、目の前に起こる全てのことが楽しかった。ただ昔から抑圧された性的なもの。という暗喩が見え隠れしていた。ピナ・バウシュの舞台がダンスと違っていたのは、それは踊らないとこではなく、舞台にあがる者たちが、舞台の登場人物だったからだ。
笑いも起こる客席はみな、舞台を食い入るように見ていた。それが次第に、舞台と客席の間に距離を感じるようになってきたのは、こちらが何かに追いつけないのか、舞台がどこか先の方へ行ってしまったのか、わたしにはわからない。
ピナ・バウシュのソロは、数年前の「ダンソン」が最後だったのだろうか。もう、この頃も腕の動きがメインだったのに、客席に空気を伝える術を持っていた。とか適当なことを書きながら昔のパンフレットを捲っていたら見に行きたくなった。