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今月の反省:
今年の目標:

2005-01-31 僕たちはみんなだんだん歳をとる

映画「ジャッカス・ザ・ムービー」を見て、バカ加減を笑うよりも、自分の腹筋を鍛えてやらなければ。と本気で思った。フジロックまでには、去年のフジロックの体重に戻さないと。そんなわけで、ハナレグミの「男の子と女の子」をリピートで聴きながら、寝る前に腹筋をする。と何万遍めかの、本当に自分は何ひとつ成し遂げていない感を味わう。まあ、そしていつのまにか、それではいけない。ではなくて、こんなものなのかもしれないと思ってしまうのかもしれない。

ぼくは村上春樹が好きだと言うことに恥ずかしさを覚えられるくらいの歳をとってしまったのだけど。その大半が若くない人達で混んでいた新宿の映画館で「トニー滝谷」を見たことは、それは映画を観ているのとは全く違った、好きな小説を自分だけのお気に入りの場所で読んでいるような感覚を思い出させた。そして、なんだか自然ににやにやしてしまい、とても静かな幸せな時間をすごすことができた。

[] トニー滝谷

映画「トニー滝谷」は小説「トニー滝谷」の素晴らしい「映画化」だった。本当に小説にとって幸せな映画化だったのではないだろうか。全編これでもかという風に西島秀俊のナレーションがまさしく小説を淡々と読み、坂本龍一のすきまが多いピアノが流れ、広川泰士が白い色調の撮影をして暗闇にパンをすると次の場面に繋がる。台詞よりもナレーションの部分が多かったからか、本当にこれは映画を観ているのだけど、あの村上春樹の言葉と言葉になっていないものまでをもあぶり出そうとしていた。

どうしても、小説の妻の「とりたてて美人でというほどではなかった」と、妻のあとに事務所で採用をする女性の「これといった特徴の無い顔をした」という容姿への説明とはかけ離れた宮沢りえの美しさに見る前に違和感を覚えていた。まあ、宮沢りえが妻と女の二役をすることは、商業的な理由もあったのかもしれないが、ものすごい細かな芝居で、村上春樹の小説でしか響かないような台詞にリアルさを与えて、映画の静かさにきれいな華をあたえていた。

そして、これも微妙だと思っていたイッセー尾形はもしかしたら、トニー滝谷と父親の役を演じていただけでなくて、村上春樹の模写をしていたのかもしれない。ついでに、トニー滝谷の子役もまた、嘘みたいに村上春樹に似ていた。あるいは、フットボールアワーの岩尾望に。。

実のところ、短編集「レキシントンの幽霊」も、「トニー滝谷」も村上春樹作品にとって、特別な輝きを放っているものだとは思えない。そして、市川準が映画にしようとしたのは、トニー滝谷の物語ではなかったのだろう。

市川準や、あの映画館にいた人たちにとって、それぞれの村上春樹の読書体験があって、それは必ずしも市川準の映像に、それぞれの村上春樹感を覚えたわけでもなかっただろう。それはまるで映画館の中で、いっせいにみんなで同じ本を読んで好きな想像をしているような空間だった。そして、映画を観ながら昔の村上春樹の言葉を聞いていると、それはどこを切っても村上春樹的世界でできあがっていた。そしてそれは、やはり物語ではなく、言葉と言葉の間にあるものなのだ。

この小説と映画の見せどころである、亡くなった妻の洋服を女が着て泣き出すシーンが控えめな離れたショットであったところが、とても説得力があった。そして、いつもの市川準の映画のように、ひっそりとぷっつりと映画は終わってしまうのだけど。小説の孤独感とはまた違った感触を与えるラストに、ささやかなメッセージを感じた。

[] 溺死土左衛門

一遍に新しく出たらしい、100s「OZ」、サンボマスター「 サンボマスターは君に語りかける (期間限定価格盤)」、ハナレグミ「帰ってから、歌いたくなってもいいようにと思ったのだ。」、デキシード・ザ・エモンズ「嵐の月曜日 Live at o-nest」を買うというJ-POPきらいな自分への暴挙にでてみる。iTunesの中で対バン。共通点はみんないわゆる美形ではないところ。などと言ってられないモテモテな彼らの歌は、みんなどうしようもなく甘くて優しい。はじめてきく100sも、こんな耳元で囁くような曲だとは思わなかった。ちょっとわたしには聴いてて恥ずかしすぎる。日本のロックは、いつのまにかこうなってしまったのでしょうか。が、唯一お馴染バンド、そして思い出せないくらい久々に聴いた デキシード・ザ・エモンズ 「嵐の月曜日 Live at o-nest」にはマイル。こんな言葉を使いたくないが、カッコイイ。デキシード・ザ・エモンズという名前は、「溺死土左衛門」からきたんだよ。とそんなミニ知識はもう誰も聞いてくれない。

でも、ハナレグミの岸田繁トリビュート「男の子と女の子」は、アルバムの中でも、どうしたのかというくらいの熱唱。

2005-01-30 大人裏口入学

子供のころ、早く大人になって、好きな物を好きなだけ食べて好きなテレビや好きなゲームを好きなだけできるようになりたい。と、大それた野望を胸にしてやみくもに歳を重ねてしまったわたしは、その「好きな」に対して無茶をしがちだ。それはもはや、楽しいからしているのではなくて、「ここまでしたのだから」や「せっかくだから」という流れで、いろいろなことを続けているような気がしてならない。いったい。ドラゴンクエストやファイナルファンタジーをリアルタイムで1から全てやり続けている人がどれだけいるのだろうか。。まあ、いますでしょうともさ、そんなものは。しかし、わたしにとってシリーズのゲームや漫画や小説や映画を続けるというのは、楽しんでいるというのとは違った、やむをえずにやっています感なのだ。これは何なのだろう、薬や軽犯罪を辞められない田代まさしか。例えが根本的に違うけど、せざるをえない感、なんでこんなことをしているのだろう感を伴いつつも、土曜は光栄のシュミレーションはどうなっているのかと思って買った決戦3。あまりにマニアックなため挫折。ガラスの仮面を最新刊を読む前にと1巻から読み直すという荒行。もはや面白いかどうかすらわからない。しかし、シリーズものは最初から読み直さないとね。と、どこにそんなルールがあるのかわからないが、マメすぎるわたしだ。同じマメなら、もう少し大人的なマメさを発揮したい。と、そんな人生の大人合格不合格ぶりはともかく。演技者。というDVDを発売の前から予約をしてしまったのは、つかこうへいや南河内万歳一座の濃い芝居やケラや長塚圭史の洗練された悪意のようなものをジャニーズの芝居でどうなったのかが見たかったから。ではなく、その頃放送された「マシーン日記」のある一回で森田剛と松田美由紀の妙なテンションの芝居にとても興味がでて、とにかくその「演技者。」というDVDを買えば通しで見られるのか。と思ったところ、購入をしたvol1から3のDVDVOXには入っていなかった。確かめろよ。と自分に叱咤するも、懲りずにvol4と5も購入。もちろんマシーン日記は入っていない。と気づけばフジロックチケットから宿泊代込みの金額をすでにジャニーズDVD15本に費やしていた。しかし、ここまでせっかく買ったのだけど、と、そのせっかくの重さを量り出す。最近のテレビで見る限りの新しい「劇団演技者。」の温さからして「演技者。」と別れ時を考えていたところ、ようやく3月発売のVOXでマシーン日記が入るらしい。武沢宏が脚本だったのかあ。と、思い出しながらも、またもや他に何が入っているかわからないまま、新年の福袋並の度胸と勢いで予約を申し込む。

ただ、部屋のどこかにある演技者。のDVDはどれもビニールを開かれていない。これもまた中途半端な大人買い。

[] アルファ&スチャダラパー

「惚れたぜHarajuku」って、TUTAYAで宣伝のようにして流れていた「ような」気がしたのだけど。あれは気のせいだったのだろうか。アルファ解散で、発売中止?となってしまたこのシングル。snoozer のインタビューでは和気あいあいの雰囲気なのに。大人ってわからない。

[]少年王者舘KUDANpuroject「くだんの件」 ヒトとウシで件

プレステの中では一番面白かったかもしれない「せがれいじり」というゲームにヒトとウシの合の子であるクダンが出てきたのだが、あのゲームではじめてクダンを見たような気がする。そうあのくだんの件だ。

千葉県民にとって、横浜は海の向こうの国のように遠い印象を持つ。もう横浜に行くというのは、リュックにお菓子525円分を入れ込む覚悟が必要なくらいの遠征だ。が、実際は下北沢や中野の方がよほど遠かったりするのだが。それはそれだ。ということで、初めて訪れる横浜相鉄本多劇場。劇場の前の店で夕食を食べるが、バーのマスターのような人がピアノを弾いていた。店内は酒のメニューばかりの大人バーだったが、ピアノをやめてコルトレーンのBGMにしてくれてパスタを出してくれたが、最初から最後まで店には白いワイシャツにネクタイのマスター一人しか見かけない店だった。あれは原りょうではなかったのかと家で原りょうの写真を確かめる頃にはくだんのマスターの顔を忘れていた。

そして、少年王者舘の芝居はそれがKUDANpurojectの二人芝居となると、本公演と違って、より説明調になり、ある意味では、そのねじれた世界もわかりやすくどまん中の直球に見える。くだんの件では、夢なのか現実なのか誰の夢なのかという説明が入り、真夜中の弥次さん喜多さんでは、さらに薬中毒という解説による世界の分け方を説明してくれる。双方で芝居中に出前でピザとうどんを舞台に呼ぶだけでなく、双方の芝居が繋がっているところこそ、KUDANpurojectの現実世界と芝居との解説かもしれない。しつこくて愛らしいくりかえしの台詞は呪文のように響く。全てのセットが取られた舞台の、芝居の終わりでもあり、夢が醒めたあとでもあり、世界の終わりでもある静かなラストが美しい。そんな天野天街に呪いをかけられた者には、呪いが解けるまで、少年王者舘を見続けるしかない。

[]古川日出男

古川日出男の長編も短編も、その核のようなものに村上春樹の亜流的なものに感じてしまうのだけど、それがあまりに直截であった「中国行きのスロウ・ボートRMX」は、殆どであろうオリジナルを愛する読者にとって、読まなかったことにしよう感を与えてしまった。たしかに、古川日出男は村上春樹のいくつかの小説のような読む人の奥底まで手を突っ込まれて冷たいものを握られたような感覚を与えたり、一生忘れないような物語を紡ぐような作家ではないかもしれない。それでも古川日出男の書く分厚い長編は小説として十分に読み応えがある。そんなところに、掌編を集めた「gift」は、これがまた気の抜け加減が、また村上春樹の気の抜け加減では絶頂期だった糸井重里との「夢で会いましょう」並だ。と、いちいち村上春樹と比べられて申し訳ない。特に最初の「ラブ1からラブ3」の凝りようと猫の使い方は、(自粛)。そして、「アルパカ計画」での脱力ぶりも、(自粛)。最後の「生春巻き占い」にいたってはどこからどこまでも、(自粛)。

gift  夢で会いましょう (講談社文庫)  中国行きのスロウ・ボートRMX (ダ・ヴィンチ・ブックス)

2005-01-28 toooo cute!! なんていってるばあいじゃなくて

愛読書はと訊かれたら、「H」と答えたいわたしは、片隅記事からPUCCAのサイトにたどりつき、こんな韓流はいらない。と思うもすぐにPUCCA通となる。これできっと、日本にもPUCCAというキャラクタがあることhttp://pucca.tv/pc/index.htmlを忘れられてしまうのか。あるいは、このために日本では商標登録できないのだろうか。ちなみにわたしは、こちら明治のPUCCA占いでデカプッカだった。ってどうでもいいというか、もう誰にもわからないプッカキャラ。ちなみに本家のPUCCAサイトは http://puccaclub.com/eng/ 。

せっかくだからHで思い出した、タイガー&ドラゴンは、宮藤官九郎の今までのテレビや映画だけでなく、どんな舞台よりも面白かったけど。それにしても長瀬智也と岡田准一はマコトとぶっさんのままでキャラクタが同じじゃないですか。が、それは結局のところ昔の舞台の阿部サダヲの芝居なんだ。そうなんだと、なんで自分がHを握りしめているのかが、今年一番の謎だ。

[] 映画館でみなくてもいいけどみてもいいかもしれない

はあはあいいつつ、Hはおいといて、パン・タロンに負けて劣っているジャッカスに出てきた渋谷でパンダ。あいつら本気でパンダは日本にいると思っているよ。まあいることに間違いはありませんけど。この映画を渋谷のライズエックスで見るときの注意は、トイレがスクリーン下のカーテンの中にあるんですよ。そしてなんだ誰も館内にいないんじゃと油断をしていると二階席にいる大勢の若者たちにそのトイレに入っている様や音が漏れてしまうというところでしょうか。まあ、そんな些細な恥ずかしさも本編を見てぶっとび。なんだか出演者が愛しくなるところで、あの壮大な予告編には体を震わせてしまった。

そして、この映画から学んだことは、「やればできるじゃん」。この映画の中で、ゼッタイ自分には無理。と思ったのは、鰐だけ。鰐の上を歩くのと鰐に乳頭を吸われる意外は、何でもやれる気がする。鮫もトイレもミニカーも全然OK。そんな気がするうちにわたしは、彼ら並の腹筋を手にするために走りに行こう。

ジャッカス・ザ・ムービーはわたしのどこかで、でもこれは映画じゃないし。映画館じゃなくて、深夜のテレビで見てこそ。みたいに強く感じたところ、逆に今、映画館で上映しているらしい「岸辺のふたり」は、たしかに大きなスクリーンで見るのもいいかもしれないが。いくら他の短編とあわせているとはいえ、岸辺のふたりの上映時間は8分。そして、そのわずか8分の映像なのに、この娘と父親の物語が深く心にとどく。なんだろうこの8分間は。というわけで、電気を消した部屋で膝を抱えて何度も何度も見返すことになってしまう「岸辺のふたり」

岸辺のふたり [DVD]

岸辺のふたり [DVD]

2005-01-27 世界の終わりと

そういえば、あんなにたくさんの雪を見たのは初めてだったし、あんな雪の中を歩いたのもはじめてだった。もっとゆっくり雪の道を歩けばよかった。と、ふいにあの雪の道を踏む感触にぐいと戻される。雪景色は周りのあらゆる音を吸い込むように静かで、上を向いて舞い降りる雪を見ていると、どちらが上なのかわからなくなり、まるで自分が舞い上がるように思える。雪がこいしい。


世界の終わり というイメージはどういうわけか白くて美しいイメージだよねえということを最近やけに思い出させるのは ikkiで松本大洋のナンバーファイブ(伍)の最終回を静かに読んだりThe Fiery Furnacesのアルバムを聴いたりああThe Fiery Furnacesはしつこく今年もフジロックのヘヴンあたりに出るのではないでしょうかねと横浜まで少年王者舘kudan projectの「くだんの件」でくらくらしたり映画ジャッカス・ザ・ムービーを思い出したり古川日出男「gift」の天使の話のかわいさやいがらしみきおの「sink」不気味さを味わったりしたからかもしれないけど明日はシザー・シスターズとLCD SoundsystemLCDサウンドシステム?とブライト・アイズのアルバムを買ってだからといって幸せだというわけでも無いのだとホワイトチョコモカを三杯くらい飲んで白いげっぷをだしたりして過したい。

2005-01-26 馳星周と周星馳

[] 馳星周の功績は周星馳を日本に紹介できたこと

ではないだろうか。と、思うくらいが精一杯の「長恨歌」読後感。

不夜城 鎮魂歌(レクイエム)―不夜城〈2〉 (角川文庫) 長恨歌―不夜城完結編 

不夜城」は遠くで響く歓声だ。彼がこの「不夜城」をもってデビューをしたときは、多くの人がジェイムズ・エルロイやアンドリュー・ヴァクスの名前を挙げて、彼の処女作を称えていた。そしてそれが少しも大げさに感じられないくらい、緻密さと熱のこもった見事なノワール小説だった。それは、日本では誰も書きえなかった、ノワール(暗黒)小説という、翻訳文学でしか味わえなかった食べ物をその物語と文体の両方で味あわせてくれた。そして、名前すら知らなかった日本の作家の作風を説明するために、いきなりエルロイの名前を出してしまう方も出されてしまう方もあの時は全く違和感を覚えなかったのだ。しかし、それが続編の鎮魂歌を少しだけ小さな拍手で迎えたあと、あまりに同パターン同キャラクタ達の物語を読まされることに辛くなってくる。それでもどれもがある水準以上の小説であったのかもしれないが、日本の多くの作家と同じような多作ぶりを発揮されると、知らない世界を読むことの期待がなくなり、読む前からたいていの印象を推し量るようになって、そしてたいていはその通りの感想で読み終わってしまう。

と、おそらくここ2年くらいは全く馳星周の小説を読んでいなかったところで「不夜城」から8年がたって完結編が発表された。それはあの劉健一が生きてきた情念や愛憎の決着を確認するためだけにでも、再び馳星周の本を手にとらざるをえなくさせる。しかし、やはり想像したような裏切りの繰り返し劇が何度も使い古されてかなり薄まってしまった、読みやすい文書として描かれていた。そこにはあの読む者をも巻き込むような熱さが少しも感じられなく、もはやどこに日本版エルロイと感じられたのか思い出せない寂しい完結編となっていた。作者にすら、望まれずに書かれしまったという8年後の完結編小説。それは、歌舞伎町という変わり身の早い街を舞台にして同じテンションの物語を紡ぎだすことが出来なかったとしても、作者だけの責任ではないのかもしれない。

と、そこで馳星周がペンネームを周星馳からとったのだ。と説明した頃の周星馳は役者としてチャイニーズ・オディッセイらの作品がビデオで見れるくらいで、日本では監督作品の食神が公開の目処もたっていなかった。ああ、それが今や。という話。


[]  周星馳はカンフーハッスルを作るために生きてきた

のに違いない。

喜劇王 [DVD] チャイニーズ・オデッセイ <其の壱> [DVD] ゴッド・ギャンブラー2 (日本語吹替版) [DVD]

この映画は、彼の全ての夢が端から端までぎゅうぎゅうに詰まった一遍の詩だ。前作の「少林寺サッカー」は、それこそタイトルと予告編で十分に内容がわかり、それでいてその期待を裏切らないにしろ、わたしにとってはそれ以上の特別なものにはならなかった。それでもわたしは、これが周星馳の映画監督としての頂点で終着駅のようなものだと不遜にも父親顔でロッキングチェアに揺られて微笑んでいたのだけど。その忘れていた頃にやってきたこの「カンフーハッスル」は、彼自身の映画愛で出来上がっていた。物語の骨組みは過去のカンフー映画、仁侠映画、マカロニウェスタンの黄金パターンを踏襲し、それでいて見ているこちらの想像を超えたアイデアで驚かされる。ブルース・リャンをはじめ往年のカンフー役者らの起用は、チャウ・シンチー自身が少年時代に見て憧れたカンフー映画への憧憬そのものだろうし。そして、そこには決して苦労を重ねて上達をする世界ではなく、たまたま才能が目覚めて、少年時代に路上で買わされた冊子「如来神掌」の型を知っていたからという、ここで一番の「ありえねー」℃が沸騰。しかし、まだまだ上がいますからという緻密な構成は、少年ジャンプ的な強さのインフレを起こしているのかもしれないけど、もはやどこまで行っても着いていきます状態にさせられる恍惚感に充ちていた。いい歳をした中年男子から、中学生高校生までをも膝をたたいて興奮させ、親と一緒に来ていた入学前の子供たちを前のめりにさせて、「ヒーヒー」叫ばせながら画面を見入らせる力というのは、それこそ周星馳の魔法のような力が映画館では起きていた。そして、相変わらず純粋なようでいて、だからどうなのよ的な少年が少女を想う気持ち。いつも、女性を出しつつも、決して女性のために闘っているのではないらしい構図。ハリウッドの力さえ借りて作ってしまったこれもまた自分愛の自分のための作家映画だったのでは。そして、面白さをもインフレ状態を起こしている周星馳は、さすがにここが頂点なのでしょう。もうこれ以上先はないのでしょう。とヒーヒー体を震わせながらわたしは願った。

[] おわったとかいうな

いがらしみきお っていたけど「ぼのぼの」の漫画家。くらいしか思い出せないまま、「Sink」でびっくり。

アマゾンなどでは登録すらされていないので、書店で見つけるか、連載の終わった

http://www.web-sink.com/

で残像をみて溜め息をもらしつつ、竹書房のサイトから購入するしかないのかも。

2005-01-24 ありえないものをみてしまったとき

Shipbuilding2005-01-24

ジャッカス・ザ・ムービー日本特別版

カンフーハッスル 日本語吹替え版

いろいろな意味で震えながらみた映画。あとでゆっくりと褒め称えたい映画。というか、ジャッカスは映画じゃないだろう。

少年王者舘 KUDAN Projectの 「劇終/OSHIMAI〜くだんの件」が、今週から遥か遠い横浜で。なんとかしようと調整を。が、金曜は公演中止になってしまったらしい。http://www.officek.jp/kudan/yokohama2005.shtml?

2005-01-23 八甲田山よりもさんまるくんに

十和田湖から、奥入瀬渓谷とつららと滝をみながら、バスガイドさんのあまりにも上手い八甲田山の話しに涙ぐむ。ような気持ちになりつつも、一番のヒットは三内丸山遺跡で出会った下の写真のさんまるくん。さんまるくんといっしょに撮った写真を心の宝箱に入れる。さんまるくんの足は美脚だった。そして、無理矢理手を振る姿が忘れられない。しかし古代遺跡場に何のためのキャラクタなのかという細やかな疑念をもちつつ、さんまるくんと新幹線の中でも呟くと切なくなった。

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2005-01-22 乙女の像の雪かきをする人のことを想う

乳頭温泉郷から、田沢湖、八戸へ。そして、奥入瀬渓谷と十和田湖に。雪が積もったブナ林の奥入瀬渓谷を走るというのは、もうその景色だけで十分おなかが膨れる。まだ日本で訪れたことがない地は山ほどあるけど、奥入瀬渓谷をもう一度行って見せる土地リストに加える。十和田湖は、美しかったといいたいが、なにせ雪で曇っていたのでよくわからず。乙女の像にはとりあえず鼻水をすすりながら、ぺたぺたさわってくる。そして白鳥がうるさい。そんな誰もいない十和田湖周辺。

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2005-01-21 女体盛りやるならリメンバーミー

女体盛りって、どうなんでしょうね。と何度も眉間にしわを寄せて考えるが。人肌のあたたかい刺し身はだめ。と、そもそも女体盛りを見たとか食べたとか、やってみた。という話しは聞かない。しかし、こう温泉へ行くたびに。もしや女体盛りコースがおすすめとしてあるのでは?とか、団体さんの宴会場では女体盛りが行われているのでは。と、勝手に妄想をするものの。

その食欲と性欲風のものを混在させる。というのは、基本的に余裕のある人たちのなせる生き方なのか。貧乏性のわたしには理解に苦しむ。もう、どっちかに全力を傾けて欲しい。

と、そんなこととおよそ関係なく、雪の積もる乳頭温泉郷はすばらしかった。積もるというより山盛りの雪だらけの中を路線バスに乗って景色を見るだけでも嬉しい。それは異世界に来たような不思議な感覚。肝心なポスターに釣られた鶴の湯には行けず、それでも学校の校舎で作られている大釜温泉、一度雪の道を歩いていく露天の蟹場温泉、と宿泊した妙の湯に入る。これからの人生を混浴露天温泉に全力を捧ごうと強く誓う。

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2005-01-19 だれもねこをしあわせにできない

彼女の特技に、ドアノブに飛びついて部屋の扉を開けてしまうという、その無駄な跳躍力を生かした技がある。ただ、どういうわけか中へ入ったら最後、自分で出ることができなくなる。扉が開いたままだといいのだが、たいていトイレや浴室の扉を開けて中をうろうろしているうちに自分で扉を閉めてしまう。馬っ鹿じゃないのか。と猫に対して思うのもそれこそ大人気がないが。いやいやこれこそ、人間だけでなく共に生活をする動物として公平に扱うからこその感覚なはず。そう。基本的に彼女の行動を見ていると、あんた前頭葉がないでしょ。としか思えない愚かな彼女なのだが。実は「わたしはあなたのことを全て知っているのだから」と見透かされていると思うことがある。


[] 彼女がわらうときはうしろを向きます

最初に彼女と出会って、いっしょに住むことになった理由から、彼女が病気になって医者にかかるようになった時のことも、なんだか、それには決められていたようなことに思えるし。普段は決して近づいてこないくせに、こちらが体調の悪いときに限って体をよせてくる。前から、どうしてときに、激しく遊んでほしいモードになって走りまわるのか。と思っていたのだけど、あれはもしかしたら、猫があそんで欲しいのではなくて、わたしが遊んだ方がいいのだと、猫に言われていたのかもしれない。

そんなこんなも。つまり人や動物の想いというものは、見えたり触れたりできる形にはなっていないけど。それらはたしかに存在をしていて。ときに、その想いというものは、他者にも働きかけてしまうのだね。とあたりまえのこととして信じているわたしにとって、映画「ヴィタール」で画面に浮かんだいろいろなものは、冷たい水に入れた粉末ソーダの素のようにシュルシュル音をたてながらわたしの中に溶けこんでいった。

[] ヴィタール もちろん内容にふれまくって

この映画は身も蓋も無い言い方をすると、シンプルな純愛映画だった。わたしは塚本晋也監督作品の熱心なファンでないし、むしろ勝手に走って勝手に終わらせてしまう物語に戸惑いを覚えているくらいだったのだけど、こんなにシンプルで美しい映像と物語の映画を見させられたことに驚いてオドロいてそして感動した。

前作「六月の蛇」もまた、夫婦純愛映画と呼べるかもしれないが。今回の映画は、エロもグロもなく、その解剖映画というイメージから想像できないくらい、きれいな映像で覆われていた。映画が始まると同時に、そういえば、映画で注射の場面になるだけで体をひきつらせ、手術場面が気絶するくらい弱かった自分に気づき、安直にこの映画を見ることにしたことを呪った。しかし、映画は人体の不思議展ほどにも肉体が現されることも無く、むしろ浅野忠信が異常に詳細に描くスケッチの方が人体を饒舌に描写していた。ただ、それでも解剖が映画として物語として必然であったのは、彼の恋人で事故で3年前になくなった彼女が、記憶を失った彼の献体として登場するという設定。そして、それこそ彼女の想いの力が、彼と再び自分の体を捧げることで繋がりあい、彼にとってモデルのkiki演じる吉本郁美を相手にしないという。ええっつ。KIKIでいいじゃないですか。という下世話な心配をする必要もないくらい、彼女と彼が結ばれなければならないことを映画として見事に証明していた。塚本監督の肉体と魂と都市への拘りが、ここでは魂がなにものをも通り越してたどり着いた先が描かれていた。人間の全てを知ることは世界の全てを知ること。などと言う事もできるかもしれないが。実際のところ、そんな生と死とか肉体と魂とか。そんな観念的なことを感じることではなく。バレリーナの柄本奈美演じる涼子の「ひろしい」と呼ぶ、あの笑顔にやられて。沖縄の海辺で踊る体に驚いて。ラストのラストの二人の会話で涙ぐむ。というそういう通俗的な鑑賞方法でよろしいのではないでしょうか。

2005-01-17 あなたのことは何でもわかっているのだから

映画「ヴィタール」は、それはそれはとてもすてきな映画だった。塚本晋也監督ということとあのポスターで、かなり間違えたイメージを与えている。これは、とても美しい恋愛映画で。とても壮絶でそれでいてかわいい魂をせつなく描いた映画だった。と自分の持っている恋愛に関するぼきゃぶらりいを総出してみましたよ。

しかし映画は不入りらしく、もう上映が終わってしまうらしいので、未見の人はぜひ。COCCO好きな人は音楽が使われているだけでなく、この映画自体がこっこ風だとも。

詳細はきっと、いつか。

他の いつか書きたい特別クラスで面白かったもの。

古川日出男「gift」

河井克夫「日本の実話」

安永知澄「やさしいからだ」

冬の八甲田山と。

それにしても「ヴィタール」のラストには。キュンっつ。

と、しつこいけど。白岩玄の「野ブタ。をプロデュース」のラストはNHKの教育番組的な道徳的で。。と前に書いた感想は全く違っていて。あのラストのしっくりこない感は、ラストが少しも解決していなくて。ただ主人公と作者が逃げているだけだからなのだ。だけど、それはとても上手く出来ていた世界だったから、主人公も作者も、あれが物語の解決だと確信してしまったのだろう。しかし、できれば本を読むということは時間つぶしでなくて、どこか違う場所へ連れていってもらうことだと信じている貧乏性のわたしには、これはどこにも連れていってくれなかった。という失望感かもしれない。一方、それなのに「グランド・フィナーレ」は、ロリコンという今をときめく危ない人間にすら、難儀な場所での奇妙な舞台を用意させているじゃないですか。と、「ヴィタール」の香りを思い出しながら。

2005-01-16 わたしは幸せになるために生きているわけじゃないの

なぜ、わたしはこんなことをしているのだろう。とか、なぜ、わたしはここにいるのだろう。的な考えに押しつぶされてしまうことがある。と、トイレでしゃがんでいるときや、風呂に入っているときに、本をもたないでいると、考えが玉葱の皮をむくようなことになって、あまりよくない。では本当は、わたしは何をすべきたったのか、どこに座るべきだったのか。と、考える度によく思いつくのは、地方の小都市ののど自慢大会でわたしが審査員をしている姿だ。そして、数いる審査員の一人として、いつ指名されるかわからないコメントのために必死でメモをする。屋外ののど自慢大会は風が強くて点数帳を必死で押さえるわたし。そして、なぜ、わたしはこんなことをしているのだろう。とか、なぜ、わたしはここにいるのだろう。的な考えに押しつぶされてしまうことになる。と、わたしは実は体育系の人だったのだ。Numberも週刊プロレスも欠かさず読んでいるし格闘技好きで、毎週のようにサッカーとマラソンの大会にでていたはずなのに。

と循環的な妄想がモンベルのアウトレットでいつの間にかモンベル会員の申込書を書かされている3秒くらいの間に頭の中に広がる。どうして、またモンベルの会員になってしまったのか、自分でも全くわからないが。なってしまったからには。せっかくだから、しばらくアウトドア的生活を送ってみせたい。

ここしばらくのわたしの感心はJRのしつこいくらい見る乳頭温泉郷のポスターだ。だって乳頭だよ。温泉の色が白だから乳頭なのかしら。というわけで、会社の周りの人に聞いて見ると、みんなが知っている乳頭温泉郷。そして鶴の湯の混浴だった。もうこんなに有名だったら秘湯でも何でもない。まあ、だから温泉アウトドア初心者として、そして初心者のまま終わらないことを祈りつつ、モンベルで雪道を歩けるギアを買う。ギアなんて言葉を店員さんが言ったので使ってみるが。どこに行くのか?という質問に、温泉巡りで。というわたしの答えに彼のプロとしての心が狼狽えたのをわたしは見逃さなかった。

いや、そんなやりとりはともかく。雪道を歩ける道具=フジロック@苗場が大雨でも大丈夫だ用品をそろえた。という歓びを抱えながら、乳頭温泉と八甲田山へ行くつもりのわたしだ。

[] 赤ん坊が松明代わりに

シンセミア(上) 

もしも、みのもんたに「今の日本を代表する作家を3人あげなさい。サア」なんて訊かれたら、きっとわたしは、阿部和重と舞城王太郎と松尾スズキをあげるだろう。まあ、「ファイナルアンサー?」みたいに訊かれると、また違う答えを言ってしまいそうだけど。

もちろん、写真の群像は神町フォークロアと呼ぶらしい阿部和重版シベールの日曜日「グランド・フィナーレ」を目的に買ったのではなくて、劇団、本谷有希子の芝居の日に舞台と同じ小説が掲載されていたものを売っていたので、買ってしまいました。という群像12月号。感想は15日のものに付け足すことは無いのだけど。ラスト、デジタルカメラを無くした主人公が、言葉だけで少女たちと関わらなければならない。というあたりは、おそらく阿部和重自身が、ロリコンの本質を知り、また彼がそれをどう伝えるかという、悪意と善意と文学と商売をひっくるめた表明文のようにも読める。

でも、この中編に限った印象では、同雑誌掲載号の本谷有希子や岡崎祥久の方が読み応えがある。そして、森達也のニール・ヤング映画のレポートは映画を観られなかっただけに嬉しかった。しかし、森達也がニール・ヤングの音楽と人を知らないとしか思えないが、そんなことはどうでもいい。ああ、ニール・ヤングの大きな背を丸めて弾くギターの姿が愛おしい。

2005-01-15 ねこふてくされる

[] それははたべらないな

猫に缶の餌をあげるか、ドライフードをあげるか、それはわたしにとって大きな問題だ。おそらく世界の一匹の例外もなく猫はドライフードよりも、猫カンの方が好きなはず。缶詰をあたえつづけて、ドライフードをあげようとすると、ドライフードに砂をかける。と、家なので砂はないくせに、匂いだけかいて、わざわざ大きなモーションで、「こんなまずいものはたべませんから」と餌に尻を向けて後ろ足で砂をかくポーズをされてしまう。

しかし、病弱(ほんとうに病気なのだろうか)なわたしの猫は医者から薬と、指定されたドライフードしかあげられなくなっている。しかし、わたしも猫の親である。クリスマスと正月くらいは。と、缶詰の餌をあげては、猫が狂喜する様をみてしまうと、だらだらとドライフードに切り替えられなくなってしまう。そこで、猫医者に連れて行くと、わずか数週間のはずなのに、猫の具合が悪くなっていると脅されてしまった。

というわけで、この間まで、至福の食生活を送っていた♀猫は、いくらまってもドライフードしか出てこない餌皿を見てはため息をつき。なで肩の猫肩をさらに落として沈んだ顔でペタペタと座布団の上に戻っていく。

わたしが冷蔵庫に近づくたびに、缶詰がでてくるのかと。早く出しなさいよ。とまとわりつく度にさらなる大いなる失望を味わせているここ数日。ふてくされる顔がかわいいと思えるくらい、わたしはねこコンになっていた。

[] 阿部和重とシベールの日曜日

わたしにとっての阿部和重の小説の印象は、「二度は読みません」なのだけど。それでも、日本を代表する作家かもしれないですね。と、襖の陰から控えめにはつぶやける。しかし、シンセミアのあとに、これからはさすがに違う路線で行くのでしょう。と思っていたら、違うどころか、シンセミアのあとの「馬小屋の乙女」でも、シンセミアの神町を舞台にして描く。もう生涯神町作家となったのかもしれない。ただ、「馬小屋の乙女」は、シンセミアのようなアクやコシがない短編なのに、何か小説の間を抜き取ったかのような中途半端さ。その奇妙な中途半端さは、今回の芥川賞受賞作であることころの「グランド・フィナーレ」でも健在。もちろん、それは意図的な物語の構図なのだろうが、ロリコンという言葉と淡々として、かつ襟首をつかまれるような語り口で、悪の塊のようなものが描かれてくるのかと思うと、それもまた大きく外されてしまう。

主人公である中年のロリコン男をきちんとだめな側の人間として描き、友人の女性からもわざわざ熱のあるところに尋ねられて「軽蔑せずにはいられない」と言われたりする。その物語の大半で、主人公の頼りないだめさぶりが、通常の倫理観で納得するように描かれる。ただ、淡々と進む物語が後半になって、二人の少女と出会うことで、その倫理というねじが奇妙に曲がり始める。

それは、ロリコンの主人公にとって、彼女たちもまた、今までの欲望の対象であったはずの少女と同じ気持ちか、あるいは何か「もっとわるいこと」が起こるはずだと予測するところを、唐突ともいえるような彼と彼女らへの物語の終焉を迎えてしまう。それは、あまりに唐突といえば唐突なくせに、描き方はむしろ美しく、彼と少女二人の物語を祝福している。ここに感動のようなものを感じてしまうと、彼が起こしてきた今までの自分の娘や少女に対しての行為というものすら肯定できてしまうのかもしれない。少女を好きになってしまう男がいてもいいのかもしれないと。

そして、あいかわらず阿部和重の描き方は登場人物に感情移入させるようには描かれていないだけに、怖さと儚さを併せて感じさせられる。一歩というか、百歩くらい間違えれば、阿部和重が描くロリコン物語は、シベールの日曜日に近づけるのかもしれない。

ただ、この小説がメディア論であろうが、巨大な神町フォークロアの一部であろうが、ここで切り取られた中篇小説「グランド・フィナーレ」だけからは、読み応えがある物語とはあまりいえない一遍だった。単行本にするときは、前作馬小屋の乙女とあとひとつくらいを併せて出すのだろうか。

2005-01-14 天井桟敷の猫々

写真は下北沢のいろんな芝居小屋近くのカフェ。下北沢は出かけるたびに、いろいろな場所でごはんやお茶をするのだけど。どこも、いまひとつ洒落た感じになれていないところが落ち着く。

下北沢でいちばん好きなのは、本多劇場のビルや駅前劇場が入っているビルの、まったく人が入っていない店を眺めること。芝居小屋が入っているビルは人が近寄り難く、小劇場の芝居を観るような人たちは、お金を使わないからだな。と、人のいない店を眺める度に自分で解説をしては納得をする。




[] 猫と寺山修司と天野天街と不破大輔と松本雄吉

猫の肛門と天井桟敷と少年王者舘と渋さ知らズと維新派は同じ匂いがする。理由は全くない。


猫のお尻はときどき、奇妙に癖になるようなくささを発する。誰のどういう癖だか知りませんけど。



[]  野ブタ。をプロデュース

今回の芥川賞を最後まで阿部和重と争ったという、白岩玄の「野ブタ。をプロデュース」ISBN:4309016839 は、つまらないわけでもなく。ふんふんふん。と、読み終えてしまえる物語だった。新人の小説として、こういう小説が出てくることはいいことだし、この小説が芥川賞をとれば、もう少し話題になって売れたかもしれないし。それはそれで少しも悪いことではない。ただ。と思うのだ。純文学がどういうものか知らないが、満員電車の中や、お風呂の中の退屈しのぎにはなるのかもしれない。起承転結のお話はあったのだけど、この小説のどこにも、匂いや感触のする人が出てこなかった。まるで漫画雑誌の新人賞受賞第一作のような。どこかで知っている人たちが出てきて、あっさりと読み終わってしまって、次の日には読んだことすら思い出せないような。と、そこまで文句を言う必要がないのだけど、なんといっても最後のお話の終わらせ方が「そりゃないよ」としか、言いようのない終わらせ方。主人公の闇を描いているようで、最後にきて教育テレビの青春もののような終わらせ方にはおどろいた。


[]  しぶさよく

渋さ知らズの13日のセットリスト

1.ナーダム

2.股旅

3.火男

4.ライオン

5.ひこうき

6.Space Is The Place

7.諸行でムーチョ

8.犬姫

9.Pちゃん

10.本工

11.仙頭

毎度毎度同じパターンだけど、毎回渋さは違うよな。と思っていたらitunesで、渋さがかかる。渋さは、東京のきれいなハコでもなく、ナエバでもエゾでもなく、もっと妖しい場所でオーケストラを聴きたい。渋さ欲が沸いてくる。一年に一回はオーケストラを聴きに。あるいは見に行かないと体に悪い気がする。

とりあえず、アップリンクにて『行方知れズ 渋さ知らズ1999-2000』を見ることに決定。

2005-01-12 さびしいのはきみだけじゃない

本当のことを言うと、毎日触れずにはいられない、うちの♀猫のことが好きなのかどうなのか、自分でもよくわからない。だけど、猫を毎日見ていて思うのは、彼女はひとりで生きていくことも、友達がいないことも、孤独を感じることも無く。食事がたいしておいしくないことも、飼い主があまり遊んでくれないことも、不満に思うことも無く。ひたすら自分の王国の女王であり続けようとするネコザマが美しい。

そんな風に生きたいものです。とこれからも彼女に傅く。


あっ。でも寒い夜の猫は人肌さみしくなるらしく、最近はわたしの布団に入ってくる。なさけないやつだ。うれしいんだけど。

[] ハウルの動く城 と オアシス

オアシス [DVD]

映画「ハウルの動く城」のいろいろな人の感想とかを読んでいると、ハウルを突然好きになる理由がわからない。というご意見があって、それはその通りなのだけど。2時間で人と出会って「愛している」とまで言わせて、その他の何やかやをしなければいけない映画なのだから。映画ってそんなものでしょうとも思うけど、ここであまり語られないのが、その映画の短い時間で誰かが誰かを好きになることの説得力をもたせて、できれば同感させてしまう力の要素の一番は顔であって、外見なのだ。

この間続けて読んだ、「間宮兄弟」と「野ブタ。をプロデュース」にしても、いいお話ではあるのだけど。結局太っている男はそれだけで、女の相手である男と何か違う性別でもあるかのように書かれてしまうのだ。

「ジョゼと虎と魚たち」は、とてもすてきな映画だけど、障害者を好きになるにしても、やはり池脇千鶴の顔があってこそなのか。数多ある障害者恋愛ドラマを見て思うのだけど、やはり障害者のドラマでも美形でないといけないと、好きになるという説得力をもたせられないのかなあ。と、これが重度の障害者で、顔も体も変形している人の恋愛ドラマがあってもいいのに。と長年の思いを見事に銀幕に写してくれたのが「オアシス」だった。

だけど、オアシスにしても、きれいな女優さんが演じる障害者であって、障害者が夢想する場面に美しい女優が、美しい女である場面を随所に出してしまうというのは反則だ。それはやはり、この設定の強引さをファンタジーへと昇華させるのに必要だったのか。うーん。「名も無く、貧しく、美しく」という映画もあったけど。美しくも可愛くもない者の恋愛映画というのがないのだろうか。

と、その度に思い出すのが、わたしのマスターピース。カーソン・マッカラーズの「心は孤独な狩人」またの名を「愛すれど心さびしく」だ。そうか、美しくも無い者たちが物語で出来ることは、愛されないけれども、その生きていくさまで、周りの人たちに大切なことをきづかせてあげることくらいなのだろうか。

と、間宮兄弟が、孤独を感じることも無く穏やかな生活を続けていくことを切に願うのだった。

[] 芥川賞がなにであったにしろ

ベイスボイル・ブック

今年の芥川賞候補は、どういうわけか少し前の人が入っていて嬉しい。石黒達昌と井村恭一は一冊だけ。田口賢司はすでに最初から時代遅れの恋愛小説風であった「ボーイズ・ドント・クライ」と「センチメンタル・エデュケイション」がどういうわけか、今でも本棚のどこかにある。ただ、一番うれしいのは、一度読んだらなかなか忘れられない。そして、いつかまた違う物語で会えると信じていた井村恭一がまだ書いていたことを知ったこと。「ベイスボイル・ブック」ISBN:4104203017は、あの時代のマジックリアリズムというものが、よくわかっていないけど、なんだかマルケスとかボルヘスって面白いんじゃない?という南米文学好きな人にはたまらなかった。島の「海上委員会」、「ベイスボイル」のペナントレースを観察し、逐一報告してほしいと依頼されて島へやってきた「わたし」が、どうしても一勝をあげることができないチームと交流を深めながら、この島の生活風土を紹介していく、という魅力的な設定と奔放な比喩がふんだんに出てくるくせに、あまりに淡々と進んでいく世界は、南の島のむせ返るような湿度と匂いが立ち上がってくるようだった。

というわけで、候補作を読むためにも、ここはぜひ井村恭一が芥川賞をとって、どきどきしながら単行本の頁をめくりたい。阿部和重はこの小説ではないだろうし。掲載された群像の同じ号では本谷有希子の方が面白かったくらい。「野ブタ。をプロデュース」も「人のセックスを笑うな」も軽く面白かった。だけど、つくづく野ブタのおかしさを狙っておかしくないというサマは、どうなんだろう。と、石原慎太郎と宮本輝という読み手を考えると、石黒達昌「目をとじるまでの短かい間」で。

直木賞は、なんといっても去年の白眉だった福井晴敏の「6ステイン」が断然でしょうと思っていたら、大森望と豊崎由美の評価がCなのですね。ええっつ。もう信じられない。本当にいろいろなものが詰め込まれていた素晴らしい短編小説集だった。だけど、二人には本多孝好の『真夜中の五分前』がダメな小説ときちんと言ってくれて嬉しい。

と、どういう結果になっても、受賞作なしにはならずに、なにかが賞をとって小説に話題があがるといい。個人的には芥川賞と直木賞あわせても、「6ステイン」が一番。

2005-01-10 猫が電話をかけてきた日

死者が17万人から20万人へと増えそうだという、増えるかもしれないというその3万人分がイメージできないのだよ。という唐突な出だしで携帯の向こうから話はじめた親の用件は、家に電話をしたまま受話器があがり放しになっていることを心配しての電話だった。

しかし、休日出勤をしていたわたしが実家に電話をするはずがないのに。と思ったところで、およその犯人はわかった。


テレビで猫が電話の話し声が嫌いだとか、電話で話をしていた飼い主を噛みつく場面とかが流れていたが。わたしの横にいる♀猫(パスタ=定吉)は、電話の音が大好きだ。電話のベルと家のチャイムが好物なのだ。と、そもそも殆ど鳴らないからかもしれないが、戦闘準備のように黒目を大きく輝かせては電話に飛びつく。そして、わたしが短い用件を終えて受話器を置くと、しばらくは受話器の周りをうろつくのをやめない。そして、何度か受話器をオンフックにして、話し中にしてしまうという前科もちでもあった。そう、実家の電話番号が簡単な短縮番号に登録されているので、オンフックのボタンと短縮番号ひとつを押したところで、実家に電話をかけてしまったのだろう。が、話しはそういう偶然の話しでは終わらなかった。

親の話では、番号表示でわたしの家からの電話だとわかって、話しかけたところ、「それは猫しだいだね。フフ。」という返事が返ってきて、なんのことだか訊き返したところで、何も返事がなくなったらしい。

それは、あまり耳も頭も健全とは言えない親の間違いなのかもしれないし、本当によくわからない誰かの間違い電話かもしれないけど。あるいは、何も誰も間違えてはいなかったのかもしれない。


もしも、あなたの家に、電話がかかってきて、相手が何も話しをしないままでいて、受話器の向こうでぱたぱたという音が聞えたら、どうか。どうか、少しだけ受話器を切らずに、何か話しかけてあげて欲しい。その優しさと寛容が、どこかの扉をあけることになるかもしれないのだから。

2005-01-09 僕は炬燵電車に乗って明日戦争へ行く

Shipbuilding2005-01-09

好きな食べ物は、カレーとお寿司と焼き肉。というわたしが好きな場所は当然、高い場所と海と雪が見えるところだ。という理論に自分だけ頷く。そして、何を食べようか迷ったときはたいてい、カレーが寿司か焼き肉を食べるし。いや、そもそも食べる物に迷うことなどありませんでした。食べるときに食べる。そして、行きたいところに行く。が、気づけば海の見えるところか高いところ。人は願えば夢は叶う。と信じているほど若くはないけど、なんでもどうにかなるんじゃないですかあ。と鼻をほじながら思えるくらいの楽天家かもしれないわたしなのだ。

が、そんな自分の人生におけるカレー、寿司、焼き肉、海、高い場所度の高さに比べて、雪度はかなり低い。だって雪って降りませんから。と嘆いているばかりではいけない。とJRの売店でたこ焼きピーをを買いながら考えていたら、目の下45℃あたりに「旅の手帖」という雑誌が目に入った。

そして、せっかくですから。というわけで手に取ったJRが作っているこの雑誌は、どうせそんな場所へは行きませんから。と殆ど思うにしても面白い。スノーシューもしたくなったが、やはりこのストーブ列車、こたつ列車、駅でおでんってなによ。そして、全般どの頁を開いても雪景色のパレード。雪祭りだった。というわけで、せっかくだからね。と、やはり雪を見に出かけることにする。雪を見て温泉に入りたい。

会社に秘湯露天マニアの人がいて、毎週のように温泉に行く彼の欲望は謎だけど、実際に治湯として有名な秘湯の話を何度も聞かされた。そして、西洋医学から見放された、各種末期症状と思われる人たちが大勢訪れているのだという話を聞くにつけ、なるほど温泉パワーおそるべし。とか感心をしていたのだが、最近のJRのお洒落な北東北の宣伝資料のひとつは、まさしくその治湯として普段はお年寄達が大勢治療で入っているところらしい。ああ、もうそういうお洒落な宣伝に吊られて東京から若いカップルが訪れて、大きな場違いを感じるがいいよ。と思うが、いや、場違いの逆転が起きるのか。


まあ、とにかくわたしは、昨日買って今までイチバンのお気に入りとなったジーンズをはいて、雪を見に行くのだ。靴はないけど、ジーンズさえ新しければなんとなかるだろう。

[]

休みの日は、漫画をたくさん読んだ。なかでも鬼頭莫宏「ぼくらの」ISBN:4091885039 と福島聡「機動旅団八福神」ISBN:4757720920 は、あまりにわたしのツボだった。しかし、漫画の単行本はいつも、本屋で続きを見かけても何巻まで読んだのかがわからなくなるところで。あのビニール袋を開けられないのがもどかしい。その本屋でもどかしがる自分がいとおしい。

そしてわたしが戦争についていつもイメージするのは、村上春樹と村上龍の対談で、それぞれがお互いを 戦場で死にそうになった戦友を横にして、どう行動をするかという話。そして、病気の進行が進んだ父親がする自分が参加していないはずの戦争の話。

[] なんとかまとめる

というグループに12月に小説、映画、音楽をまとめていたところにようやく10こづつ書いてみる。と順序には全く意味がないし。こうまめに書いているくせにあまりよく思い出せない。ただ、映画も小説も音楽も一位だけは揺るがない。そして、映画のマーダー・ライド・ショーをなんとなく ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還 の上において気持ちが良い。

2005-01-03 しあわせせならてをにぎろう

なんだか年末年始はやけに渋谷を通る。通る度にタワレコへ行っている気がする。しかし、実際今は何が流行っているのか、全く持ってわからない。とりあえず日本版のDeath Cab For Cutie を買えてご満悦なわたし。いろいろな雑誌の2004年ベストアルバムみたいなものを読んで、頷いたり首を捻ったり。何しろ、デイヴィッド・バーンの新譜が出たことすら知らなかった。そしてフランツ・フェルナンドがミュージック・マガジンのイギリスロックで1位に戦慄く。いや、そんな漢字をわざわざ使うほどのことではないが。今更渋さ知らズが入ったり、想い出波止場が入ったり。ミュージック・マガジンの個人のベストで書いている、小倉エージ、北中正和、今野雄二という人たちは、わたしがロックを聴き始めた中学生の頃からすでにロック評論家だった。そして同じくピーター・バラカンと中村とうようもよく読んだのに、今はほとんど名前を知らないワールド・ミュージックの人たちをあげている。ティナリ・ウェン。モリ・カンテって、競走馬みたいな名前の人のアルバムを今度探してみよう。あと。トルネード竜巻の写真の面構えに意味なく惹かれる。意外に正月の渋谷に人は多くなかった。あの福袋を道で開けては、通行人に売る人々の図、は今年は見かけられなかった。ああ、人生に一度は福袋を買ってみたい。もう家具屋の福袋というもので。本棚が欲しいのだけど、ダブルベッドが入ってたけど、せっかくだから使おうか。みたいな福袋。ああ、どうせわたしは「せっかくだから」の世界で生きていますよ。


[] 猫のホテル

それにしても、シベリア少女鉄道の土屋さんの秋澤さんらた辞めた説明がまったく納得できなくて、奇妙な気持ち。スズナリで妙に年齢層高めの客層に落ち着きながら猫のホテル「土色の恋情」を見た。想像していた、というよりも期待していた濃い役者のキャラ芝居とは違い、寧ろウェルメイドともいえる人情芝居。猫背椿さんの主役芝居。あまりに整然と作られてしまった物語りに違和感と物足りなさを感じる。というのは贅沢な無い物ねだりか。劇団、本谷有希子で奇妙な学生役が目にこびりついてしまった菅原永二さんは、今回の芝居では一番の老け役。器用。器用といえば、もう全員器用すぎ。でも、今回は濃すぎる役者芝居というより、あっさり演芸。

[] ハウルの動く城

素直にこの映画の物語りにはまる。ジブリ映画最高の恋愛映画。まさかこんな全うな恋愛映画だと思わなかったので、ああ、恋愛だあ。恋愛だねえ。と遥かスクリーンに写った二次元の二人をみて微笑む。ここには、人が人を思う気持ちがきちんと入っていて、それが誰にでも触れられるようになっている。それは単なる商売ではなくて。


[] 開催発表

http://www.fujirockfestival.com/

とはいえ、「今年は値上げです」って。

よ。よんまんえんくらい?

2005-01-02 中国行きのスロウボート

中国へは、観光で、親の知人の死んだ場所探しのお伴で、仕事で、そしてボランティアでと、四回行った。最後に中国へ行ったのがボランティアで砂漠にポプラの木を植える仕事だった。そして、中国へ何度も行っているくせに、写真がどこかへ行ってしまったので、朧げな頭の中のアルバムを捲るしかない。

NHKでシルクロードへの道が25年ぶりに放送された映像を見ていると、どの砂漠や、砂漠近くにある街を見ても自分が歩いた砂漠や街や店や人のような気がしてならない。中国の砂漠は、中国で見るとどこまでも黄金色に広がっていて、強い風が吹くたびに砂で、すぐ前が見えなくなった。何十年かしたら、自分が植えたポプラの木が、どうなっているのか見に行きたいと思っていたくせに、街の名前をすっかり忘れている。大切なことはすぐ忘れてしまう。だけど、必ず思い続けていればどこかで出会うことになる。はず。机の上にあるジャムの瓶に入った中国の砂漠から持って帰った砂は、日本の砂場にあるような色に見えてしまうのだけど。それでもたまに、窓から入る陽がどうかすると瓶の砂が輝いて見えてしまうように。そんな、「どうかすると」にかけてみる。


[] シベリア少女鉄道 ある意味解散

今更?気づいたシベリア少女鉄道のサイトのお知らせ文

http://www.siberia.jp/oshirase.html

ここでの彼女達への説明はあまりに心づかいが無いと思う。小劇団にはよくありがちな、人間関係の何やかやだとは思うけど。そして、どう見てもシベリア少女鉄道の男優らが女優より優っているとは思えないが。それでもそれでも、秋澤弥里さんと水澤瑞恵さんがいないといけないとまでは思わないけど。それでもそれでもそれでも、ここでの二人を外したという説明はあまりにも、冷たい説明で。寧ろこんな説明はないほうがどれだけよかったことか。土屋さんがよくわからない。

今、青年団の「S高原」をアゴラで公演しているのだけど。これが今年、ポツドールらいくつかの劇団によって競作される。たしかにリアルさという意味ではポツドールは青年団に似ているのかもしれない。しかし、リアルを装った演劇のうそくささ。みたいな嫌あなところも似ている。劇団は好きなのですけど。

そういうわけで、2005年の演劇はじめは、できれば「猫のホテル」@スズナリから?

[] ヴィック・チェスナット Vic Chesnutt デス・キャブ・フォー・キューティー Death Cab For Cutie

しつこいくらい何度も聴いているダニエル・ジョンストンのカヴァーで、彼らの奇妙に甘い声にはまる。今日、アルバムを探しに行こう。

Silver Lake

2005-01-01 ジャコビニ彗星の日

日の出前に起きて、猫と遊んだり遊ばされたり遊んだりをしていたら、家の窓から富士山が見えて驚いた。が、冷静に考えれば、前から気がついていたはず。親の記憶力の思いきりのいい抜けさ加減がうつったのかもしれない。そういえば、痴呆症という言葉には差別的意味があるとかで、認知症という言葉になったということを痴呆症で通院をしている親から教えられた。とにかく、親も子供もいろいろなことを忘れていく。前はうちの親はどうして何度も同じことを話すのだろうと思っていたが、最近はわたしの方こそ同じことを話しているらしい。と話している本人は、初めて話しているつもりなところが恐いというか、ほほえましい。

と、自分で自分を微笑ましがりつつ、窓から初日の出を猫といっしょに見る。が、猫にもわたしにも特別な感慨は無い。itunesからは、松任谷由実の「ジャコビニ彗星の日」が流れた。


[]松任谷由実

昔、ラジオで渋谷陽一のDJの番組に松任谷由実が出演をして、自分がどれだけ天才なのかということを気持ち良いくらい話しまくっていたが、渋谷陽一が困りながらも最後に「でも、あなたはまだ『ジャコビニ彗星の日』を越える曲を作っていない」と話して、ユーミンが黙ってしまう。という奇妙な場面を思い出した。わたしはすぐにその曲を思い出せずに、CDをがさごそ探して何かのベスト版さがしだした。そしてこの曲がそれほどの松任谷由実の曲の中で優れているのかがわからないまま、そのベスト版に入っている「A HAPPY NEW YEAR」という曲が好きになった。というわけで、想い出はジャコビニ彗星とA HAPPY NEW YEARはぴったり一緒になって記憶されている。

ハッピーニューイヤー/新しいキスをください/そうして鐘の音通りに溢れて/今年もたくさんいいことが/あなたにあるように/いつもいつも

「そうして鐘の音が通りに溢れて」が前後とどう繋がっているのかわからないけど。たぶんどうでもいいのだ。ユーミンはどんなとくにituneやipodでランダムにして聴いていて、どんなジャズやパンクロックの後にきても、そこにユーミンの世界を作り出してしまうから偉い。となぜか正月からユーミンに頭が下がる。


[] せっかくだから

ミドルセックス

ミドルセックス

と、新年として去年読んだ小説をぱらぱらと読み直して、読み直してもいい文書だと思ったもの

村上春樹「アフターダーク」最後のあたり、高橋とマリとの分かれの場面。浅井エリとマリの部屋のシーンが今日のこの夜明けに読むと、本当に群青色の言葉のように入ってきた。

矢作俊彦「 THE WRONG GOODBYE ロング・グッドバイ」わたしは、もう矢作俊彦のどんな殴り書きの文書でも好きなのに。それなのに、こんな原点に戻ってきてくれとは、と目をくるくるさせながらどこを読んでも美味しい。

福井晴敏「6ステイン 」こんなに上手い短編小説を書く人とは思えなかった。その気になれば純文学すら書けてしまうだろう的なくせのある言葉が好き。

ジェフリー・ユージェニデス「ミドルセックス」いろいろ去年の本の特集をしているサイトを読んでみて、そうそう。この本を忘れていた。ジェフリー・ユージェニデスの「ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹」は、寧ろ映画「ヴァージン・スーサイズ」の方が印象に残っているくらいなのに。文体はともかく、こんなに大きなアメリカ小説らしい小説を書く人だとは思わなかった。昔のアーヴィングやヴォネガットのようなアメリカ的大河小説を好きな人にはぜひ。

アンドレイ・クルコフ「ペンギンの憂鬱」何度もペンギンの足音のペタペタという描写をよぶ度に、床をペタペタ歩いてくるきみのことを思うよ。

それでは、ヘリコプターの藤井さん、お願いします。