Hatena::ブログ(Diary)

音楽友に、今日も安眠 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2018-02-07

[]問題関心:自由主義について

思想史研究者はしばしば、自分の研究対象の思想にシンパシーを覚える。かくいう自分もこれまで「自由主義」思想の研究をしてきたわけだが、他の思想と比較して、自由主義にもっとも共感を覚えている(もっとも自由主義それ自体、きわめて多義的なイデオロギーであるが)。自由主義の中心理念である、人権、多様性の尊重、自由を通じた社会秩序形成、といったものに惹かれる自分を自覚することができる。

 ともあれ、自由主義も完璧な思想ではない。とりわけ、(1)格差と貧困の放置、(2)公的領域からの女性の排除、(3)知的・精神障害者の社会的排除、の三点は、自由主義の論理そのものから、歴史的に正当化されてきた側面が大きい。これらの社会的課題を、自由主義の放棄ではなくそのバージョンアップによって思想的に克服できるかを、今後も考えていきたい。そのためには、ミル、グリーン、ロールズらによる自由主義思想(リベラリズム)はもちろんのこと、上の三点それぞれの観点からの自由主義批判(社会主義、フェミニズム、障害学およびケア倫理学)についても、深く検討していく必要があると感じている。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/Sillitoe/20180207

2017-09-15

[]近況:紀要論文を書いています

久々のブログ。結局この夏はこまごました家のことや論文執筆に追われて、まったく更新できなかった。自分の要領の悪さ、仕事の遅さがいつもながらの課題。本当は7月に行ったイギリス理想主義ワークショップの記録も書きたいのだが…。それはまたいずれ。

執筆中の論文というのは学内の紀要論文で、これまでの研究とは少し趣を変えて、20世紀初頭イギリスの優生思想について、はじめてまとめてみた。はじめはカール・ピアソンについて書こうとしたけどうまくいかず、もう少し範囲を広げて、アルフレッド・トレッドゴールドやメアリ・デンディの知的障害者論について主に書いた。今日ひとまず第一稿を書き上げることができてほっとしている。しかし論文のクオリティは、自分で読んでも正直うーん、という感じ。新しいテーマなだけに、一次文献の読み込みがいろいろ足りてないし、構成も今いち。はじめの方のゴルトンやピアソンの話とかはいらないのかも。査読論文だったらおそらく大幅な修正を要求されるだろう。ともあれ、この論文を皮切りに、イギリス優生思想史についても今後さらに研究を深めていきたいと思っている。

来週から新学期が始まる。また授業と校務に追われる日々だが、実は論文の締め切りも12月と3月に一本ずつあって、なにげに忙しい。後期は授業数が例年プラス1の週7コマだし、健康を保てるかが不安。ここ数年は、仕事と家事育児の忙しさによる疲労と寝不足から冬に毎年体調を崩している(去年は帯状疱疹にかかり、おととしはインフルエンザに苦しんだ)。今年はそうならないことを願うばかりだ。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/Sillitoe/20170915

2017-04-06

[]報告原稿を書いています

この2月3月はけっこう文献を読み進められました。学生の海外引率がこの冬はなかったことが大きいです。しかし肝心の執筆の方はあまり進まず、新年度の授業開始が見えてきた焦りから(貴重な研究期間が終わってしまう!)、ようやく3月後半から筆が進むようになりました。

7月に某所で報告をする予定なのですが、テーマに悩んだあげく、結局3つほど前の記事で今後の課題として取り上げた2つのテーマ(T.H.グリーンの倫理思想とイギリスにおける障害者の歴史)の合わせ技でいくことにしました。グリーンは知的障害について何と言っていたか、知的障害者の権利についてグリーンの倫理思想から何を言えるか、こういったことを考えつつ、いま報告原稿を書いています。

最初はちょっと強引な問題設定かな?と思いましたが、書き進めていくうちに、意外と面白いテーマであることが見えてきました。イギリス理想主義研究としては珍しいタイプの報告だとは思いますが…。聴いていただく方々にどのように受け止められるか、今から期待半分、不安半分です。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/Sillitoe/20170406

2017-02-21

[][]自立と介入の適切な関係とは?(知的障害者福祉をめぐって)

引き続きイギリスの知的障害者福祉の歴史を勉強中。以下の本は、第二次世界大戦後から2001年までの知的障害者をめぐる思想、政策、生活実態、国際比較が網羅的にまとめられていて、基礎知識やイメージを得るうえでとても有益だった。ただし、著者たちはイギリス保健省の出した2001年白書Valuing Peopleを、知的障害者福祉の目指すべきゴールとして理想化しているふしがあり、その点はやや気になった。Valuing Peopleは、「自立、選択、権利、インクルージョン」の4原則を、知的障害者福祉の新たな理念に掲げている。その意味では、「恩恵から権利(シティズンシップ)へ」、という社会福祉史・障害者福祉史の大きな流れに沿うものではある。しかしながら、自立や選択の過度の優先は、知的障害当事者のQOLや、安全にとって必要な介入を怠ってしまうことにもなりかねないのではないか。(政治哲学的にいえば、古典的な「消極的自由」と「積極的自由」の問題につながりそうだ。)



そんなことを感じながら他にも文献をサーチしていたら、以下の論文で、選択の自由を重視するリベラルな権利論が、知的障害者福祉と鋭い緊張関係にあることが指摘されていた。


Rachel Fyson & John Cromby (2013) ’Human rights and intellectual disabilities in an era of ’choice’’, Journal of Intellectual Disabilities Research, 57, 12: 1164-1172.


この論文でも言及されているように、イギリスでは2007年に、重度の知的障害の男性が健常の「友人たち」と自立生活を送っていたところ、同居人からひどい虐待を受けたのちに殺害されるという、痛ましい事件が起きている。その際、とくに問題視されたのは、ソーシャルワーカーが彼の生活状況を把握していたにもかかわらず、同居人からの危害のリスクよりも男性本人の「自由」を優先し、介入を行わなかったことだ。以下のガーディアン紙の過去記事には、事件の生々しい詳細が記されている。


Tortured, drugged and killed, a month after the care visits were stopped’(4Aug2007, The Guardian)


障害一般についても言えることであろうが、判断や選択においてサポートを必要とする知的障害者にとって、「自立と介入」あるいは「自由とケア」の関係は、とくに丁寧に考察されるべきであろう。パターナリズムに陥らない適切な介入とは、どのようなものであるべきだろうか。

まーめまーめ 2017/03/10 15:09 門外漢ですが,とても勉強になりました.社会の構成原理にまさに関わって来る話ですね.例が不適切かもしれませんが,「交通法規をがちがちに定め,それを守っている限りは国という『父』が守ってくれを皆期待する社会」OR「法規はあるが,それを守った場合はある程度の保護があるだろうが,それよりも個人の自由を重んじることが重視される」という,どこぞの島国を2つ観察すると出てくるような状況が脳裏に浮かびました.そこからの感想は,結局のところ,個人の認知,人と人のつながり,制度のあり方という大中小を考慮に入れる必要があるのではないかというものでした.

また,2007年の事件のこと,初めて知りました.この事件なのですが,「知的障害者の自由を推進するべきである」という立場からすると,ある意味で仕方のないことという受容をされたのでしょうか.もっとも受容といっても,「誰にとっての」という点が鍵となってきそうなので,その辺についてもすぐに分かるようでしたらご教示くだされば幸甚です.

SillitoeSillitoe 2017/03/29 17:43 まーめさん
お返事が遅くなり大変申し訳ありません。記事を書いた後しばらくこのブログを見なかったもので、コメントをいただいていたことに気づきませんでした。すみません!

重要なコメントをありがとうございました。私もこの事件の受容のされ方について少し調べてみたところ、以下の動画(イギリスのドキュメンタリーの一部?)と記事が参考になりました。

http://www.scie.org.uk/socialcaretv/video-player.asp?guid=55e3a233-c880-4cb4-8701-4acb9d243d39

http://www.communitycare.co.uk/2011/06/29/five-years-on-from-steven-hoskin-has-safeguarding-improved/

これらをみると、少なくともコーンウォールの自治体は事件を重く受け止め、地域で暮らす障害者の把握をソーシャルワーカーがより丁寧に行うよう、態勢の改善を図ったことがわかります。
 ただ、2番目の記事で知的障害者の権利擁護団体MENCAPの人も指摘しているように、サービス利用者(この場合障害者の人びと)の自由が、自治体の不作為の口実に使われやすい構造が残っているのも確かでしょう。歳出削減路線によって障害者福祉も悪化していると聞く現保守党政権下のもとでは、なおさらその問題は残っているのではないでしょうか。
 自由と保護のバランスという哲学的な問題とあわせて、そもそもマンパワーが足りない、という日本の児童相談所などにもみられる問題が、事件の大きな要因としてあったのかなと考えています。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/Sillitoe/20170221

2017-02-14

[][]マシュー・トムスン『精神薄弱の問題――イギリスの優生学、デモクラシー、社会政策1870-1959』



10日ほどかけて読了。面白くてどんどん読み進められた。対象とされている主な時代は、知的障害者の施設収容を法制化した精神薄弱者法(Mental Deficiency Act)の成立(1913年)から戦後NHS体制ができあがる1940年代まで。それ以前は救貧院や監獄、家庭などにいた知的障害者が、ソーシャルワーカーや精神科医によって分別され、障害者施設へと「保護」されていく、いわば障害者福祉の合理化の時代である。著者のトムスンは、大規模コロニーに代表される施設化が、家族・地域・地方自治体が協同で担ったコミュニティケアと並行して進められたという重要な事実や(つまり施設VS家族VS地域では必ずしもなかった!)、合理化の背後に、医師、看護師、ソーシャルワーカー、省庁どうしの利害が複雑に絡み合っていた事実を、丁寧に描きだしている。

また、この時代の米国や北欧諸国で広く実践されていた知的障害者への断種政策が、なぜか優生学発祥の地イギリスでは法制化されず、医師による実践も限定的であったという、優生学史研究でしばしば指摘される「謎」についても説得的な説明がなされている。この時代のイギリスには、個人の自由や身体への過度な公的介入を嫌うという独自のリベラルな政治文化が存在しており、また優生学者たちも必ずしも断種にはこだわらなかったのだ。

その一方で、知的障害者は市民のカテゴリーから排除され続け、T.H.マーシャルが定式化した市民権、政治権、社会権の主体とはなりえなかった。市民社会には障害の程度に見合った適切なケアを彼(女)らに与えるべきとの道徳的なコンセンサスがあった一方で、それは障害当事者のシティズンシップとセットだったわけではなく、あくまでパターナリズム権威主義の枠内のものであった。

この本を読んで改めて感じたのは、社会が高度に合理化されればされるほど、障害者のなかでもとりわけ知的障害者はより弱い立場へと追いやられてしまうということだ。そんな彼(女)らがそれでも声をあげることを試みた抵抗の歴史とはどのようなものであった(ありうる)か。この問いこそ、知的障害の歴史研究と障害学をつなげるひとつの重要なテーマとなりうるように思われる。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/Sillitoe/20170214