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白日別日記   ~それなんてマユゲ?~

2009-02-01

[] 怪音(駄文) 09:38

HDDの中を整理していたら、大変な駄文がしたためられた「怪音.doc」なるファイルを発掘した。(これはひどい)と思いつつも、何となく捨てるには惜しいような気がしてしまったものだからコピーペースト。

怪音 -----------------------

男は思わず足を止めた。

個室便所の方向から伝わって来たそれは、排便にまつわる音声出力としては甚だ不適当であると判断せざるを得ないサウンドであったからである。よしんばそうであったとしても、何か尋常でない、通常の段取りには決して含まれない、非常の事態が発生したのであろうと推定される、

そんな珍奇な、硬質な音であった。

男は眼を見開き、生唾を嚥下し、状況の進行が謎を解明するまで至らなくとも新たな情報をもたらすのを待った。理性では嗅覚の働きを停止させたいと思っても、状況判断の材料を欲する本能が鼻腔粘膜の神経を研ぎ澄ます。

一体なにが起こっているのか?

ここは危険ではないのか?

奇妙な音が男の鼓膜を震わしてから、事態はそれ以上の進展を見せない。時空がその音を合図に凝固してしまったかのように。こちらの存在を気にしているのならば、ここから離れたところからトイレの出入り口を監視する方が良策ではあるまいか?いやしかし、こちらの存在に気がついていることを裏付けるような材料はない。男はその時、いつもそうするように静かに扉を開きトイレに足を踏み入れるか入れぬかという時に音波を傍受したのだから。

しからば何ゆえそこから動きがないのだろう。よもや、死んではおるまいに。

空気の音が、耳障りな静寂のハウリングだけが聴こえる。情報の途絶を伝えている。

男と、そして個室内にいるであろう存在は、彫像のように待っている。沈黙の呪縛が解けるのを待っている。

男は注意深く、音を抑えながらもう一度ゆっくりと唾を飲み込んだ。

未完断筆

[]コミュニケーション能力 07:21

文系はコミュニケーション能力という名の処刑斧をふるった::うさだBlog

コミュニケーションには、その相手によって異なる、多様な目的がある。ビジネスライクな場、他人との間で行われるコミュニケーションは協力・コラボレーションや利害調整を目的とすることが多く、上記のうさだ氏の文章はそういった状況におけるコミュニケーション能力に限定した議論と言えると思う*1。ただし、個人的には異論がある。

相互の利害が絡むコミュニケーションの目的は、当然、状況を自らにとって望ましい方向へ導くことだ。望ましいというのは、自らが価値を置く実現したい物事の優先順位に従い、より大切なことを可能な限り多く手に入れ、あるいは守り、譲歩が必要であればそれが最小にするということになる。優先順位は個人の事情や彼我の関係などの状況によって変わり、その中には将来に亘っての信頼を守るとか、立場を守るとか、もしくはただ相手を潰したいというような憎悪なども含まれてしまう。

波風を立てない言動は、反抗を示したところで勝算のない相手や集団に対して、守りたいものを守るために必要な譲歩として合理的な行動選択肢の一つたり得る。したがって恭順を示すことで、より重大な得るもの守れるものがあるとすれば、それもまた腹芸の内であろう。だが、自分にとって揉め事によるデメリットよりも大切にしなければならない事由の存在を自覚しながら、波風を立てない選択をとって大切なことを失う人間がいたとすれば、私はその人がコミュニケーション能力に優れているとは思わない*2。本当にコミュニケーション能力に秀でた人間は、そういう場合にも自らの主張を通した上で人間関係を悪化させない手管や空気を持ち、そしてよく「憎めない奴」と呼ばれている。うさだ氏のコミュニケーション能力の分類は、それを無闇やたらと求める世の風潮に対する嫌悪感故に意図的に辛辣に解釈したもののように読める。上で述べたように私は、波風を立てない能力は一概にコミュニケーション能力として評価されるものではないと思うし、それが奏功する場合には腹芸の一様式であると考えている。

ビジネス上のコミュニケーションにおいて、腹芸の能力が重要な要素であるという主張はその通りだと思う。力関係や利害関係、相手の目論見・思考パターン・怨恨・メンツ・打算・体力的要素などなどを考慮した上で最良のアプローチを実行するためには、相手の意図や立場を読む洞察力と反応を予測して引き出す計算高さと回転の速さが必要になる。私が考えるコミュニケーション能力の半分は結局のところこの腹芸の能力*3状況に柔軟に対応して目的を達成する戦略性のことであって、個人的に自信を持っている素養でもある。そのようなコミュニケーション能力の本質的な部分を指して汚いと評するのは、つまり相手に損や犠牲を強いて自己の利益を得ようとする手管の善悪を問うているのかなと思うけれども、現実として反社会的とされず個人の権利として自己実現を目指すだけで要求される能力である以上、個人的には清濁にあまり関心がない。他生物を殺して食べることで生命を維持する原罪を問うのに似ている印象。


うさだ氏が指摘していない、私がコミュニケーション能力として求められる性質の残り半分として考えるのは、前段で述べた腹芸を交えて相手の言動ひいては議論の着地点を誘導する能力の裏返し、すなわち相手の主張を自論に反映させる能力である。それは水掛け論となることを回避し、相互に承服可能な妥結を導く議論や、コラボレーションによって互いのアイデアを鍛え高めていくことを目的とする議論を行うときに、それを建設的なものとするために必ず要求される能力である。お互いに相手の主張をただ受け入れられないと全否定すれば、空転して何一つ進まず議論の体をなさない。争点の解決に寄与しないばかりか貴重な時間をいたづらに浪費するという点で解決が必要な問題については害悪ですらある*4。彼我の主張にはどの点で同意可能でどの点で溝があるのか、その点での折衷案はあり得ないのかもしくは双方の極論よりも悪しき結果をもたらすのか、妥結できない点を除いて部分的に先に進行できる点はないのか。優先すべき事柄の順序を踏まえ、自らの主張を相手の意見を考慮して再構築する創造性、相手が受け入れられない点を引き出して言質を取った上で、じゃあこれならお互い文句はないだろう、というところに引き込む機転もまた、コミュニケーション能力として重要なものだ。何が優先されるべき価値か考慮せず、相手の指摘から学ぶ可能性を排除し、解決スピードが重要な問題に関して合意不可能な最善の策は合意可能な次善の策に劣ることを理解せず、建設的議論を通じて妥結を探る試行錯誤を弱腰だの姿勢が定まらないだの言う者は所詮学者・批評家であって実務において畢竟役に立たない。ついでにいうと与党どころか野党としても役に立たず悪影響しかもたらさない。


以上、二つ。どちらも自らの利害に関する冷徹な優先順位付けを前提として、1.相手の思考・主張を誘導する腹芸の能力、2.相手の思考・主張を考慮して自論を再構築する能力、これらを総じてコミュニケーション能力と呼ぶのだと考える。特に後者について、モノローグに偏りがちな日本人の多くは認識が乏しいように感じる。


以下、脚注補足。

*1:たとえば、家族間コミュニケーションにおいて腹芸なんぞは必ずしも重要な能力ではなかろう。

*2:空気を読めとはよく聞く文句であるけども、大切なのは空気を読んだ上で従うべきか無視するべきか判断する能力であろう。空気を読まない者は何かと批判されがちだが、そもそも空気を読めという主張は、事実として暗黙のコミュニケーションに頼って明確なメッセージを言葉として発していないという論理的弱点を持っている。だから事後に批判はできても、空気を読まない行為を論理的裏づけと共にその場で処断することは出来ない。もっと言えば空気を読めという主張には、そういう自らが口を開き発言に責任を持つことを避けながら、他人を意図通り動かそうという本質的な甘えがある。KY能力を求める人を忌避するかどもあるようだが、むしろそういった人たちというのは主張の弱い利用し易い存在であって、敵ではなくカモである。面と向かって異論をぶつけてこない、こちらを実効的に断罪もできない相手は敵たりえないではないか。空気を読む人々がマジョリティである世の中というのは、空気を読む人間にとっても、読んだ上で無視する人間にとっても、好都合である。

*3:腹芸というと虚虚実実な二枚舌や不誠実な印象を与えがちな言葉かも知れないが、ウソは露顕した場合に持論の論理性という点で回復不可能な決定的ダメージを与えることが多く、絶対にバレない自信もしくはウソであるという証明の不可能性が担保されない限り基本的に避けるべきだ。信頼を勝ち得ることは相手から妥協を引き出したい場合や後々の関係継続性という観点で重要なアドバンテージであって、虚言を弄して到達可能な目的はたかが知れている。しかし、一応言っておくが、ウソであるという証明が不可能もしくは証明に要するコストがゲインに見合わないウソというのは、決して少なくない。

*4:解決が求められる問題において、彼我の主張が乖離する場合は妥協が必要となってくる。しかし、世の中には未解決のままグレーであれば十分、相手の主張を受け入れさえしなければそれで良い係争案件がごまんと存在する(竹島領有問題等、ただし尖閣はそうではない)。その場合には、意図的に水掛け論に終始するのもまた巧みなコミュニケーションというものではないか。