藁人形と戦う前に「最適」の意味を理解せよ

コメント欄延長以外の記事をもう書かないつもりだったが、何度も同じことを説明させられることにもはや我慢が限界に達した。
あまりにも幼稚な話だが、ここに書かせていただく。今後、このような高校生レベルのことを再度説明させられることのないように望む。

「権力の力学」は物理学ではない

学問の世界と日常生活では言葉の使い方が異なる。学問の世界には「力」「情報」など、日常用語に由来を持つ専門用語が存在する。しかし、これらの言葉の持つ意味は、学問の世界と日常用語の間では異なる。学問の世界において、言葉の意味の範囲は日常語よりもずっと狭く、ずっと厳密だ。
たとえば、物理学では「力」の本質を追究する。しかし、ここでいう「力」は、日常でいう「力」とは別物である。「力の強い者の意見が通る」というときの「力」は物理学の対象にはならない。「流体力学」「量子力学」は物理学の理論だが、「権力の力学」は物理学ではない。
なにを当たり前のことを偉そうに、とお思いであろう。私もそう思う。しかし、こと「トリアージ騒動」に関しては、「最適」という言葉が専門用語であるということを、何度説明しても理解しない人が多くいる。これはとても不思議だ。
私はこれまで、福耳氏を批判している人で、「最適」という言葉を明らかに正しく理解していると確信できる人を見た記憶がない。そして、「最適」という言葉を日常用語であるかのように安易に読み解き、その結果大上段に振りかぶって、意味が通じない批判を繰り出すのである。

「最適」概念の最低限の理解

上に述べたように、「最適」という概念はその筋の専門用語であって、日常語ではない。では、その筋ではどのような意味をなすのだろうか。既に何度か挙げているが、最適化問題 - Wikipediaを見ていただくのがおそらくは最も手っ取り早い。しかし、この記事が理解できる方は*1そもそも「最適」概念を濫用して「トリアージ経営学」とやらを批判しようとは思わないであろうから、ここに簡単に「最適」概念を説明しておく。なお、概説なので、細部において厳密性を欠くことはあらかじめお断りしておく。
さて、「最適」概念は応用数学上、経済学や経営学、工学などへの応用で広く用いられる概念であって、以下のように説明できる。

ある問題への対処において、ある選択肢が「最適」であるとは、

  1. その場の状況に応じた制約*2をクリアできるもの中で、
  2. その場の状況に応じた評価基準を最も強く満たすもの

を指す。

ここで注意しなければならないことがある。「最適」概念の定義は、「状況に応じた制約」「状況に応じた評価基準」が何であるかとは全く独立に定められているであるということだ。従って、「制約」や「評価基準」を適切に定めなければ、いくらでもおかしな結論が導かれる。たとえば、「法律的・倫理的制約の中で利益を最大化する」という企業経営の手法が「最適」であるということは上記説明にも日常概念にも合致しようが、「手持ちの兵器の制約の中で敵の犠牲者数を最大にする」というのも「最適」なのだ。このように、具体的な問題に対する「最適」性の評価は、ここでいう「制約」「評価基準」といった外部の価値判断によって変動するということである。逆に言えば、あるものが「最適」であるとの評価は、そのものが選択肢として妥当であるとの価値判断を必ずしも意味しないのだ*3
また、上記説明から当然理解できるとおり、「最適」というのは「願ったりかなったり」という意味ではない。「可能な中での最善」というものである*4

福耳氏が「最適」を説明した文脈

さて、以上のことを理解した上で、話の発端である福耳氏の記事に戻る。揉め事の種になっているとおぼしき部分を引用する。*5

また、別の回に、資源の有限性がその合目的的な最適配分を促し、戦略性やリーダーシップや組織内の規範意識も意思決定も価値判断もそこから始まる、ということをわかりやすく説明したくって、四川の震災のニュースを挙げてトリアージの概念を説明した。絶対的に医療資源が不足しているところでは、「もう助かりそうにない患者」と「患者自身が処置したら大丈夫な患者」はカテゴライズして分けて、その間の「治療しなければ助からないが治療すれば助かるかも」というところに有限の医療資源を配分する、というシステムがあるんだよ、ということを説明したら、やっぱり女子学生のかなりの部分から「かわいそうだ」という反応があった。(略)
そりゃあ、この大学のOGが、福祉業界に入って数年で燃え尽きてしまうというのは当たり前だよこれじゃ。この人たちの目に映るのは「目の前の最善」だけで、「全体や組織から見た最適」というのはコンセプト自体が頭の中にないのだ。
http://d.hatena.ne.jp/fuku33/20080522/1211444127

単純明快、講義として典型的な進行であり、どこにも理不尽な誤解を招く問題点はない。
前項での説明から容易に理解できるように、「最適配分」の概念は日常よく用いる思考、特に組織の中で生活するにあたって必要な思考法を整理したものであるから、賛成するにせよ、反対するにせよ、この思考を理解することによって実生活に役に立つと考えるのは当然、また、理解が得られないことに落胆するのはきわめて自然なことである。
そして、トリアージを例に出したことも全く不適切ではなく、トリアージは「有限の医療資源」の「配分」を

  1. 「絶対的に医療資源が不足しているところでは」という制約のもとで、
  2. 「犠牲者数を最小化する」という評価基準(合目的性)に基づいて

行動するための手法*6である。「最適」性の例としてきわめて明快であり、そしてこの「最適」性は、上記制約および上記評価基準を前提として成立するのであり、従って「経営学トリアージが適用される」という批判は、そもそも字義からして理解不能であることもおわかり頂けるだろう。
そして、福耳氏が「合目的的な最適配分」から始まるものとして挙げた「戦略性」「リーダーシップ」「組織内の規範意識」「意思決定」「価値判断」は全て、現実の客観的認識を前提として成り立つものであることを思い出すと、現実の客観的認識を可能とするための「有用な道具」である「最適配分」の概念が、上記のものを得るために必要欠くべからざる道具として評価されることは十分あり得ることなのである*7

追記

はてなブックマーク - 藁人形と戦う前に「最適」の意味を理解せよ - 吾輩は馬鹿であるに返信。

b:id:K416 注3の部分で、「だから前提も含めて問わないと」って立場と、「妥当じゃない前提は棄却されるってことなの」って立場の齟齬が本件の要因の一つかと思ったり。/諸々を好意的に解釈するとこうなるだろうなとは思う。

私から見れば、対立点はむしろそこではないと思います。私はむしろ、「だから前提も含めて問わないと」「妥当じゃない前提は棄却されるってことなの」という立場は両方とも意識されて然るべきものに思えます。むしろ、前者の立場が福耳氏批判に繋がる理由がわからないのです。こういう枠組みの話をする以上、上記の両方の立場は常識レベルのものとして織り込み済み*8というのが暗黙の了解だと思います*9
そして、私の読解は別に「好意的」であるつもりはなく、最も素直に読み解いたつもりです。むしろ、この部分から「ホロコーストに通底する危険性」を読み取るのは、私には「国家安康」レベルの無理筋に見えます。そして、そう感じた人が多くいるからこそ、福耳氏を批判した人たちに対して反発が噴き出しているのではないでしょうか。

b:id:fuldagap はてな, 揉め事 「トリアージというシステム」が公平に設計されているからといって、「公平に設計されたトリアージというシステムを採用する事」に恣意性がないことを保証するわけではない、という話なので、単語を突き詰めてもなあ

これも同じで、織り込み済みの話です。また、この記事はこれ単独で反批判となることを志向したものではなく、議論以前の段階で話がかみ合わないことに反発して書いたものなので、ご承知おき下さい。

b:id:rs6000moe 見えない敵と戦う人々 これだけの長文であるにかかわらず、一切有益な情報が無い。実に驚嘆に値する。

その通り、最初から書いているとおりこれは「幼稚な話」なのだ。しかし、その程度の話も理解していない人が多すぎるからこそ、この騒動はいつまでも話がかみ合わないままなのだ。

b:id:kmiura データと評価関数が定義されてても、多変数では使うアルゴリズムによって落ちるところがかわっちゃうってのはNumerical recipeに書いてある。これは大学生レベルかな。

具体的に何がおっしゃりたいのかわかりませんが、そういう技術的な細かい話*10は「概論」には関係ない話でしょう*11。あと、余談ですが"Numerical Recipe"はマニュアル本としては便利ですが、勉強や引用元には向かないですよ*12

b:id:snobbishinsomniac 彼にはトリアージありきなのかな/トリアージをしないで済む方向には頭が回らないんだろうか/彼にはトリアージが次善の策のように見えているのだろうか?/最悪よりマシというだけなのに

他ならぬあなたのために書いた記事なのに、そのような返事をされると脱力するほかない。「次善の策」だの「最悪よりマシ」だのというレトリックが「最適」の定義と無関係であることは明らかだろう。まして、「最適化」の手法やまして本記事の趣旨が「トリアージ」の是非と無関係に成立しうる議論であることは本文中で何度も強調しているとおり。その程度の読解もできないとは情けない限り。あなたが「科学者」を自称したのがハッタリであることを祈るばかりだ。

b:id:comzoo はてな, 終わらない夏休み, とりあえず, 閉鎖する前に, ポイント返せよ

これについては何も言うことはない。確かにこの人はなぜか私にはてなポイントを1000ポイントくれたのだが、それについて「返す」という約束をした覚えはない以上、これ見よがしに何度も何度も「返せ」と要求されるのは迷惑だと返事しておく。正確には、この人に文句が言いたいのではなく、事情を知らずにこれ見よがしに星を付けているid:atawiid:blackseptemberid:NO_THINKid:rs6000moeの各氏に腹が立つだけなのだが。

b:id:buyobuyo これが若さか, あたまがわるい 俺にはトリアージは戦術レベルの選択に思える。「戦略」という言葉自体に違和感を覚えるね。/ また、それ自体が全体最適を目指す戦術でもないことも現場に携わる人が指摘していたはずだが。/ ご祝儀に「あry」を進呈

はいはい、「あたまがわるい」来ましたよ。他読者のために補足しておくが、本記事の趣旨が「トリアージは戦略的か戦術的か」なんて議論とは全く無関係であることは言うまでもない。「トリアージ」が最適化の枠組みに落ちることと、戦略の策定の道具として最適性の考え方が有用であることに、必然的な関係はどこにもない。ところで、当事者云々については既にコメント欄のどこかで言及済であるし、まして「現場に携わる人」を「十字砲火」などという言葉で恫喝したあなたが「現場に携わる人」を盾に取るなど悪い冗談にしか見えないのだが。

追々記

さらにはてなブックマーク - 藁人形と戦う前に「最適」の意味を理解せよ - 吾輩は馬鹿であるに返信。さらに質が下がるので、良識ある方はお読みにならぬが賢明。

b:id:ohkami3 コメント欄, だぶ☆すた お返事が面白すぎる!!!/あんだけ話を詰めてきて今になって「私の定義は違います」ってどんだけ文脈読解力ないんですか。

ダブスタはどっちなんですか、まったく。「私の定義」以前に、業界では相当昔からの常識レベルの定義なんですが。その「文脈」が読めてないのはいったいどっちですか。まあ、あなたの好きな「文脈」を設定してからの読解ならば、そりゃトートロジー的な意味で福耳氏は邪悪なんでしょうけどね。

b:id:Apeman タイトルの前半みて反省文か、と思ったら違うのかw

ええ、勿論です。反省すべきは当然あなた方ですから。

*1:正確には、虚心坦懐に理解しようという気がある、という前提が付け加わる。

*2:物理的制約、経済的制約、倫理的制約などが考えられる。なお、時間的制約および技術的制約、人員的制約は物理的制約や経済的制約に含まれると考えてよい。

*3:もっと極端な例として、確かにある種の前提の元では「ホロコースト」も「最適」解であり得るかもしれない。しかし、それはいうまでもなく、ある種の「言語道断な」前提に従った故の結論なのであり、このような状況では逆に、「その前提を置いてしまうと最適解としてホロコーストが出てしまう」ことを材料として、その前提を棄却すべきなのである。良くも悪くも「最適」概念はそのような「便利な道具」でしかない。

*4:つまらない揚げ足を取られないように先に言っておくが、「最適化」(optimization)を目指すことは、「最善説」(optimism)を意味するものではない。なぜなら「最善説」にはもっと別の含意があるからだ。思うに、トリアージ論争が不毛な原因は、ひとえにこのような言葉遊びが跋扈していることである。

*5:省略・強調部引用者。

*6:アルゴリズムと言った方が用語として適切だろう。念のため、「人間をデータ扱いするな」という、それこそ「ナイーブ」な反応をされないように望む。

*7:念のため注意しておく。「意志決定」「価値判断」の道具として「最適配分」が用いられることは、「最適配分」から直接に「意志決定」や「価値判断」が得られることを意味しない。これは、たとえばあなたが出かける前に傘を持っていくかどうかの「意志決定」や「価値判断」の一助として天気予報を見たとして、あなたが天気予報に命令されて「意志決定」や「価値判断」をしたことにならないのと同じことである。

*8:別の問題として検討する必要があるが、今回は社会通念に従い合意が得られているものとみなす、という意味で。

*9:話を蒸し返してごめんなさい。お返事を要求するつもりはありませんので、どうぞお気遣いなく。

*10:しかも、いわゆる非線型計画問題に限定されているし。これはむしろ組み合わせ最適化問題でしょう。

*11:それにしても、「数学は苦手」と言っている癖にこのコメントに星を付けているid:ohkami3氏はいったい何なのだろう。意味がわからなくても、私に対して批判的な香りがしていればよいのだろうか。どれだけ党派的なのだろう。

*12:参考:Why Not Numerical Recipes?