Hatena::ブログ(Diary)

吾輩は馬鹿である

2010-11-16

それでも自然数の積は可換である

このブログは、専門外の人間が外から密輸した理屈で、正しいことを正しいと主張することを禁止する風潮を批判するためのものである。そんな私にとってどうしても看過できないのが、今回の「掛け算の順序」騒動だ。詳細は以下を参照。

かけ算の5×3と3×5って違うの? - Togetterまとめ

特に、応用数学を専門とし、中高の数学教諭の専修免許も持ち、さらに子供時代に遠山啓の本で数学に親しみ現在も遠山啓の著作集が本棚に並んでいるというような私としては、まるで掛け算の順序を区別することが遠山啓の意にかなっているかのごとく喧伝される*1のは我慢がならない*2

この件については、上記togetterで既に、学識豊かな方々が大抵の論点には触れてくださっているので、私は今まで余り触れられていない論点

  • 「積は一般に非可換」という言説の妥当性
  • 交換法則の証明は必要か
  • 「定義」や「立式のルール」をどの程度遵守すべきか
  • 北海道教育大教授の論考「『かけ算の順序』の数学」批判

について簡単に触れてみることにする。

なお、以下の議論はかなり技術的詳細に立ち入り、長くなる。ある程度の数学の素養がない方は、途中を読み飛ばし、文末の「おわりに」に飛ぶことをお勧めする*3

素人さんは知ったかぶりをしなさんな

ただし、その前に一言述べておく。この件に関して居丈高に「かけ算の順序」否定派を批判しているこのような人たち

b:id:t-murachi はてな, 大人問題 …そりゃ、スパゲティみたいなコード吐くバカが量産されるわけだよな…orz 2010/11/16

はてなブックマーク - はてなブックマーク - 【ゆっくり理解】なぜ3×5で正答で、5×3が誤答なのか | Kidsnote

b:id:ahyask ブコメひでー.くだらない負け惜しみみたいなのに大量の星がついとる 2010/11/17

はてなブックマーク - 【ゆっくり理解】なぜ3×5で正答で、5×3が誤答なのか | Kidsnote

に代表されるような人、また逆ポーランド記法などと言ってわかった気になっているような人は「釈迦に説法」という言葉を辞書で引き、黙ることをお勧めする。

まず、この件で「かけ算の順序」肯定派を批判している人には前野昌宏先生や菊池誠先生をはじめとする本職の物理学者やその卵がたくさんおり、大抵の素人さんや並の数学教師とは比べものにならないほど数学を骨肉としている。少なくとも、例えば「整数は和と積に関して可換環になる」という文を何も見ずに理解できない人は偉そうな真似をよした方がよい。

また、逆ポーランド記法を用いたところで、自然数の積が¥mathbf{N}^2 ¥to ¥mathbf{N}という形の写像である事実は何も変わっていないのだから何の解決にもなっていない。え?何を言っているかわからない?ならばあなたも上からものを言うのをやめた方がいい。あなたの考える程度のことを、「かけ算の順序」批判派が考えたことがないと思うのはとんでもない思い上がりである。

「積は一般に非可換」という言説について

さて、本題に入る。

この件に関して、「積は一般に非可換なのだ」といって正方行列の積や3次元数ベクトル外積を挙げる人が多いようだ。そして、「積は可換に決まっている」と主張する人間をナイーブであると批判する。

しかし、この主張は論理的にこそ正しいが、教育的観点からは全く意味がないと言っておきたい。非可換な積という概念の登場は 1843-44 年まで待たねばならず*4紀元前から存在する自然数の積という概念に比べて歴史が極めて新しいことを知れば、いかに「非可換な積」という概念が「可換な積」に比べて高次の概念であるか理解できるであろう。

そのようなことを言えば、論理上は自然数よりも集合概念の方が根本的なのであるから、自然数を教えるときに0 := ¥emptyset, 1 := ¥{0¥}, 2 := ¥{0, 1¥}, ¥ldotsと教えるべきだ、ということになってしまうが、まさかそのようなことは誰も主張しまい。このような定義は論理的には堅固であるが、直観にまるで訴えかけてこないからである*5

交換法則の証明は必要か

もっとも、こういったところで「とはいえ、自然数の積が可換であることは自明ではない、証明できていない事実を使うべきではない」という反論があるだろう。例えばb:id:Youth_Labo氏のこちらである。

数学的に、交換法則を適用していいのは交換法則の証明を前提とします。その証明を履修する以前に無思考に適用するのは受験数学的手法であり、教科としての数学として正しくありません。

http://togetter.com/li/69117

吉田勇気さんのツイート: "数学的に、交換法則を適用していいのは交換法則の証明を前提とします。その証明を履修する以前に無思考に適用するのは受験数学的手法であり、教科としての数学として正しくありません。 http://togetter.com/li/69117"

また、ブックマークにも同様の指摘があった*6

b:id:kunimiya このエントリがここまで批判されることに驚く。乗法に交換則があるといっても、児童が自力でその法則を導き出さない限りあのケースでは使ってはならないのではないだろうか。 2010/11/15

はてなブックマーク - 黄金原本更新, 【最短理解】なぜ5×3ではなく3×5なのか - ワタタツの日記!(2010-11-13)

これについては、「数学的に、極限操作を適用していいのは実数の完備性の証明を前提とします」云々と混ぜっ返し、高校のカリキュラムにその証明がないことを指摘して終わりとしてもよいのだが、実はこの発言自体、この人が自然数の交換法則をどのようにすれば証明できるかをろくに考えていない証拠であることを指摘しておこう。

さしあたり、自然数の和の結合法則と交換法則は既知とし、乗算を同数累加で定義するものとしてみよう。そうすると、ここから積の交換法則を証明するには、おそらく数学的帰納法を用いるしかない。具体的には、nm=mnを既知とし、和の交換法則と結合法則を用いて

¥begin{eqnarray}	(n + 1)m  = (n + 1) + ¥cdots + (n + 1)		 &=& (n + ¥cdots + n) + (1 + ¥cdots + 1) ¥¥		 &=& nm + m ¥¥		 &=& mn + m ¥¥		 &=& (m + ¥cdots + m) + m = m(n + 1)¥end{eqnarray}

などとする。これ以上単純な証明は私には思いつかない。

これが小学生に教えるべきことかどうかは明らかである。まして、分数・小数といった概念が入ってくれば自然に有理数実数の交換法則をも扱うこととなるが、これをやるためには後述するような有理数実数の構成を同値類だのコーシー列だのといった概念を用いてやらねばならぬこととなる。こうなると並の大学生でもお手上げのはずだ。

ニュートン力学を完全に理解していない人が特殊相対論を批判するのと同じ構図のような気がしてならない。 http://togetter.com/li/69117

吉田勇気さんのツイート: "ニュートン力学を完全に理解していない人が特殊相対論を批判するのと同じ構図のような気がしてならない。 http://togetter.com/li/69117"

私にはむしろ、あなたこそが「相対性理論だかなんだか知らないが慣性の法則が成り立たない理論など誤りに決まっている」と騒ぎ立てている立場にしか見えない。

「定義」や「立式のルール」をどの程度遵守すべきか

以上のことから、「定義・定理・証明」という論理的な順序を厳格に遵守することの無意味さはおおよそ見当がついたかと思われるが、それでもなお、「かけ算を略記法として 3 ¥times 5 = 3 + 3 + 3 + 3 + 3のように定義した以上は、証明抜きにでも交換法則を教えられるまではこれを使うべきではない」という主張があるかと思う。

しかし、これも目的と手段を取り違えた議論と言わざるをえない。上に見たように、小学校段階では「定義・定理・証明」のような論理の流れではなく、直観的に自然数有理数実数といった概念に親しむことが数学(算数)教育の目的である。同数累加などのやり方で積を教えるのはそのための一つの手段にすぎない。そして、教えられずとも交換法則に気づいている子供というのは、自然数の積という概念を既に体得しているのだから、理解が不十分だなどと責められるいわれは何もないのだ。

とはいえ、それでも「『かけられる数』を前に書くのが、具体的問題を数学の世界に落とし込む『立式のルール』であるはずだ、そのルールを破ってよい理由はない」という抵抗があるかもしれない。これは確かに反論としては最も有力なものであろう。だが、結局のところこの「ルール」は、「日常言語」を抽象化によってどのように「数学語」に翻訳するかということであり、本来は正解などないのだ。

2年生でかけ算を習う段階では、「なにがいくつ分ある」というかけ算の元々の意味をきちんと理解した上で式が立てられることと、数の計算の上で可換性があることを知っていて計算に使うことは別だと理解しているか確認するのがこのようなテストです。

no title

これは、日本の英語教育の因習とそっくりである。つまり、疑問文に対する応答には毎度ご丁寧に "yes, I do", "no, they aren't" などと念押しをしたり、"often" は「しばしば」のように訳語が決まっていたり、どれほど語順を入れ替えても修飾構造を変えてはいけなかったり、どれほど文が冗長になろうとも代名詞を一々「彼」「彼女」「彼ら」「その」「するところの」などと訳すことによって、自分は文法や単語を知っているということを主張せねばならない、さもなくば減点する、という迷信である。そんな「ルール」があると信じられているのは学校の中だけであり、しかもその「ルール」たるや、生徒に英語を「言語」として体感させることを妨げるだけの有害無益なものでしかないのである。

百歩譲って仮にそんなものが必要だとしても、「『かけられる数』を前に書く」という見るからに不格好で美しくない「ルール」、「かけ算とは、同数累加の略記法である」という冴えない「定義」は所詮、「前置修飾という日本語の構造」という、「日本の学校」特有の事情から生まれた便宜上のものに過ぎず、工事現場の足場のように、用が済んだ後は取り払われるためだけのものなのである。実際、交換法則の導入と共にこのような「ルール」は実は「『かけられる数』を後ろに書く」「どちらを先に書いてもよい」と全く等価であることは自明となり、全く無用の長物であったことが明らかにされる。数学に強い大人ほど「かけ算の順序」などという話に反発を覚えるのはこのためである。立派なビルが既に建っているのに、工事の時点で足場が東側にあったのか西側にあったのかなど無意味な議論だ、どちらからでも建てられるのだから、と。このあたりの感覚は、

Ricciテンソルが256個の独立なパラメタを持っていないように。波動関数全体に適当な位相を与えても同じ状態を指しているように、自然数の乗法においてqpとpqは並べて書く際の表記の自由度に過ぎず、両者はまったく同じ対象を指しているとまだ思ってる。それが可換であるということ。

ACTIVE GALACTICさんのツイート: "Ricciテンソルが256個の独立なパラメタを持っていないように。波動関数全体に適当な位相を与えても同じ状態を指しているように、自然数の乗法においてqpとpqは並べて書く際の表記の自由度に過ぎず、両者はまったく同じ対象を指している

というのが最も近かろう*7

そしてこれはかけ算の概念を体得した子供も全く同様である。まして先ほどから何度も述べているように、小学校の算数とは論理的に破綻がないように公理系を構築していくような段階では到底あり得ない。どのような「ルール」つまり「公理系」を採用したかを覚えておき、それに矛盾のないように試験に答えよというのがいかに難しいかは、1999年度の東大入試問題

  1. 一般角¥thetaに対して¥sin¥theta, ¥cos¥theta の定義を述べよ.
  2. 1. で述べた定義にもとづき,一般角¥alpha, ¥betaに対して,¥sin(¥alpha+¥beta) = ¥sin¥alpha¥cos¥beta + ¥cos¥alpha¥sin¥beta, ¥cos(¥alpha + ¥beta) = ¥cos¥alpha¥cos¥beta - ¥sin¥alpha¥sin¥betaを証明せよ.

に象徴されているだろう*8。私の知る限り、 ¥sin¥theta, ¥cos¥theta幾何学的に定義した上で、公式 ¥sin(¥alpha+¥beta) + i¥cos(¥alpha+¥beta) = (¥sin¥alpha + i¥cos¥alpha)(¥sin¥beta + i¥cos¥beta)の実部と虚部を比較して一丁上がりとしてしまうという注文通りの罠に引っかかった受験生が非常に多かったとのことだ*9。普通に幾何学的に証明しても決して難しくもないのに、わざわざ見え透いた餌に飛びついてしまうのである。かくのごとく、東大受験生でも公理的な態度は通常身に付いていない*10のに、それを小学生に要求できようはずがないのである。

北海道教育大教授の論考について

さて、最後に北海道教育大学の宮下秀昭教授の「『かけ算の順序』の数学」について。正直なところ、私はこれは論じるに値しないと思っていたのだが、

id:kingate http://m-ac.jp/me/instruction/subjects/number/composition/book/doc/composition.pdf の初出後、これを読んで無さそうなツィートが散逸。読み止め。「理論的( 数学的) には順序が問題になり、実用的には順序は問題にならない」。 2010/11/16

はてなブックマーク - Togetter - 「かけ算の5×3と3×5って違うの?」

というような意見があったので、一言だけ*11触れておくことにする。

この文章のくだらなさは、

「理論的( 数学的) には順序が問題になり,実用的には順序は問題にならない。」

数学は,規範を構築する論理ゲームです。

そして,このゲームの結果を回収したところで「実用論」が出てきますが,これは数学の埒外ということになります。

学校数学の教授/ 学習では,規範論を大事にするようにしてください。規範論をきちんとやることが,数学だからです。

数学は,規範学です。

翻って,数学規範学であることを妨げるように働くものは,学校数学の「数」を数学にさせない勢力になります。

というところに象徴されているだろう。

よろしい、そんなことを言うのであれば、ニュートンライプニッツの時代の微積分は「規範」に裏付けられていない極めて曖昧なものであった。「無限小を無限小で割る」などという、現代の目では曖昧としか言いようのないことを当時はやっていた。これには当然非難もあったし、フーリエ解析カントル集合論ディラックデルタ関数など、新しい概念が登場する度に同じようなことは繰り返された。しかし、一般に数学者と呼ばれないディラックはともかくニュートンライプニッツやフーリエやカントルの業績を今になってなお「数学」から除外する者は数学に弓を引く者と言って差し支えあるまい。

実際は全く逆なのだ。公理系というものは、既成の概念の範疇におさまらなくなって厳密な議論ができなくなったときにはじめて整備されるのであって、その逆ではない。工業上の標準規格などとは違うのである。なるほど確かにコンパイラを設計していてプログラミング言語の解釈に迷った時は標準規格を参照すべきだ。だが数学公理系はそういうものではない。感覚的に捉えられてきた対象を論理の世界に取り込むために後付けで設計されるものだ。それは工学の世界で言えば「モデル化」やその精密化に相当する作業である。

無論、0 := ¥emptyset, 1 := ¥{0¥}, 2 := ¥{0, 1¥}, ¥ldotsとして自然数の集合¥mathbf{N}を定義した上でこれが可換半群であることを証明し、これに負の数の概念を追加するために¥mathbf{N}^2をしかるべき同値関係で割って整数の集合¥mathbf{Z}と定義してこれが可換環であることを証明し、さらにこれに除算の概念を追加するために¥mathbf{Z}^2をしかるべき同値関係で割って有理数の集合¥mathbf{Q}と定義してこれが可換体であることを証明し、さらにこれを完備化するために¥mathbf{Q}上のコーシー列の全体をしかるべき同値関係で割って実数の集合¥mathbf{R}と定義してこれがなおも可換体であることを証明し、最後に¥mathbf{R}^2上に演算を入れて複素数の集合¥mathbf{C}と定義してこれが代数的閉体になっていることを示すというような作業はそれなりに大事である。しかしながら、この一連の作業は論理的にはともかく、認知的には「数」を構成的に「定義」しているということではない。むしろ逆で、これは我々が感覚的に慣れ親しんでいる自然数整数有理数実数複素数などが、我々の期待した性質を持っていることを確認する「検査」のようなものだ*12。その証拠に、数学者といえども普段から自然数を「有限集合」だと認知していたり、実数を「有理数の列の同値類」だの「有理数の切断」だのと意識している人などまずいまい。いたらお目にかかりたいものだ。

つまるところこの人は、論理的に堅固な公理系を構築することが数学の本質だと言っているのである。なんと無味乾燥数学観だろう!本当にこんなことを思っているのなら、この人の頭の中の「数学」は「仏作って魂入れず」の好例でしかない。言ってみれば、コーランをアラビア語で全文諳んじているが、自分はアラビア語を全く解さず、にもかかわらず「コーランと呼べるのはアラビア語版のみだ、翻訳で知ろうとするなど何事か」と、岩波文庫版の井筒俊彦訳のコーランを読む人を見下す人が「イスラーム学」の教師を名乗っているようなものだ。

先日亡くなったロシアの大数学者、V.I. アーノルドの言葉を宮下氏に贈ろう。

物理から切り離されたスコラ数学は教育にも他の諸科学への応用にも向かず、その帰結は数学者へのあまねき憎悪であった。気の毒な生徒達(その一部が大臣になったりする)や、数学を使う側からの。

劣等感に取り憑かれた、物理学に馴染めない教養のない数学者たちによる構造物からは、厳密な奇数公理論を想起せざるには得られない。無論、そのような理論を作り上げ、生徒達にその構造(たとえば、奇数個の項の和および積が定義できる)の内なる無矛盾性を礼賛させることは可能だ。こうした分派主義者から見れば、偶数は異端の宣告をなされ、のちに「観念上の」対象として(物理学への応用を口実とした)理論に再導入されることとなるのだろう*13

V.I. Arnold, On teaching mathematics

私には、宮下氏の数学観がこれよりも豊かなものとは思えない。

そもそも、数学を少し本格的に勉強したことがある人ならば誰でもわかるはずだが、

  • 重要な概念の定義には通常、同値なものが複数存在する
  • 定義を暗記することと、概念を体得する間には大きな落差がある

ということがある。つまり、概念を体得する過程にある人においては、一つの定義とその他の定義が違うことを見ることは決して容易ではないかもしれないが、概念を体得してしまった人にとっては同値な定義どれを取っても同様に明快であり、理屈以前に感覚的に体に染みついてしまっているものなのである。たとえば、指数関数 e = ¥lim_{n ¥to ¥infty} ¥left(1 + ¥frac{1}{n}¥right)^nとした上で¥exp x := e^xと定義しようと、無限級数を用いて¥exp x := ¥sum_{n = 0}^¥infty ¥frac{1}{n!}x^nとしようと、はたまた「常微分方程式の初期値問題¥frac{dx}{dt} = x, x(0) = 1の解」としようと、どれも間違いというものではない。重要なのは、これらが全て同値であり、一つの定義からお互いを導き出すことができるということだ。そして「指数関数」の本質は、こうした定義(定理)全ての上に成り立つものであって、決して定義一つを論理的に厳密に理解していることなどではないのだ。

そのことを、宮下氏のみならず

何が定義で何が定理なのかを曖昧にしたままでは、かけ算という人類の獲得した知性のアイディアをきちんと味わえません。

no title

この人も勘違いしていると言わざるを得ない。上に述べたように、「かけ算という人類の獲得した知性」は、公理系が整備されるより以前からあったからだ。数の体系の代数系としての定式化は、壮大な大伽藍に耐震検査をしてその頑健性を確認したといったそれだけのことにすぎない。確かに現代の「建築家」は皆「耐震設計」の訓練を受けているが、近代的な「耐震設計」の方法論ができあがる前に立てられた「建造物」が全て地震に対して脆弱ではない、それだけのことである。

最後に、宮下氏の論考の結論についても触れておこう。

イデオロギーは,きちんとした勉強に向かわない/ 向かえない者に,「それでいいんだ」と慰撫します。「われわれが正しい考え方を示すから,これの外に出る必要はない」と教えます。

「正しい考え方」は,日常言語におさまるようになっています。実際,日常言語におさまっていることは,イデオロギーの要諦です。

遠山啓・数教協の説く「数学」が今日学校数学を席巻するに至ったのには,ひとの受け入れやすいものであったということが,理由としてひじょうに大きい。そして,受け容れやすいということには,日常言語におさまっているという要素が大きい。そして日常言語におさまっていたのは,考え方が反映論/ 唯物論だったからです。

言語明瞭意味不明もよいところだが、遠山啓が「かけ算の順序」に反対したことを正しく捉えているらしいことだけがこの文章の唯一の価値といってよいだろう。

おわりに

以上、小難しいことを延々と述べてきたが、そもそもこのような議論を費やす必要がないことに気づかれたのではないだろうか。

「仮に、学識経験者が雁首揃えても結論が出ないほど難しい話ならば、どうして子供に理解できようか?」

その通りである。普通の人よりもはるかに数学に慣れ親しんでいる者が「かけ算に順序がある」ということを頑として認めないのであれば、百歩譲って「かけ算に順序がある」という考え方が正しかったとしても、それは子供に教える教材には不適切であるということだ。そのような高尚な議論は、自転車置き場あたりで暇な大人が井戸端会議でやるのがよいのである。

大人の馬鹿な喧嘩に子供を巻き込むのはみっともない、それだけでも「かけ算に順序がある」を教えるべきではないということはもはや明らかであろう。

追記

11/17に記述を一部追加・修正した。

ブックマークコメントへ返信(随時追加予定)

以下の引用元はすべてはてなブックマーク - それでも自然数の積は可換である - 吾輩は馬鹿であるである。

b:id:fnorder なんだ、専門なら裸踊りせずまともに振る舞えるんじゃないですか。でも自然数は可算だけど有限じゃないよね? 2010/11/18

前半については「お里が知れますよ」とだけ述べておく。なお、純粋数学と数理計画*14のどちらが専門に近いかと言われれば明確に後者だ。後半についてだが、ここでは(公理的)集合論に基づく自然数の定義0 := ¥emptyset, 1 := ¥{0¥}, 2 := ¥{0, 1¥}, ¥ldotsのことを語っており、自然数が有限集合として定式化されることを言っている。自然数集合が無限集合であることは言うまでもない。

*1:論外である。遠山啓がそのようなことを主張していないのはここを参照。また、遠山啓を師として数学を学んだと言える私でさえ、かけ算の順序の区別に意味があるという主張は想像の埒外であったことことを述べておく。

*2:特に、遠山啓の信奉者を自称するこの人が「かけ算の順序」を推進するのには絶句するしかない。

*3:そもそも、この記事の核心は「おわりに」にある。

*4:N. ブルバキ数学史」(村田ら訳)東京図書、1970年より「非可換代数学」の章を見よ。

*5:敢えて言うならば、集合の要素数とそれが表す数を一致させている。

*6:星を付けているid:mujisoshinaid:hajimehoshiの両氏にもコールしておく。

*7:この意味がわかる人ならこんな議論を読む必要もなかろうが。

*8:ついでに述べておくが、「東大受験生でも加法定理を証明できない」として学力低下の象徴であるかのようにこの問題が取りざたされたが、ことはそう単純ではない。理由は以下に述べる。

*9:後者の公式は決して自明ではなく、また高校の教科書では通常これを加法定理を用いて証明している。従ってこれは論理の飛躍または循環論法と見なされる。

*10:日本のカリキュラムがもともと、高校段階まではそのように設計されていないのだから当然である。なお、歴史的にも数学の厳密化の流れが起こったのは19世紀以降であり、これは決して日本の教育制度が悪いということではない。

*11:と言いつつ非常に長くなってしまった。本記事の趣旨からは余り意味がないのだが、自分の専門性の関係上どうしても熱くなってしまう。

*12:そもそも、群・環・体のような代数系自体、整数有理数実数多項式のような我々のなじみ深い対象を抽象化したものであって、その逆ではないのだが。

*13:リンク先URLの英語版からの引用者による重訳。

*14:比較の次元が合っていないが言わんとすることはわかると思う。

積分定数積分定数 2010/11/18 10:29 初めまして。塾で数学を教えている積分定数と申します。「とりあえずつけるけど、どうでもいい存在」ということでつけたブログタイトルをHNに流用した物です。

読んでいて、溜飲の下がる思いです。また、順序派の主張にいらつくことが多いのですが、その原因の一つが分かった気がします。

 定義が本質、ということではないのだと思います。確率の期待値も、定義式を与えないで、「平均値みたいなものだ」ということで期待値を求めさせても、生徒は正しく求めることがあります。サイコロを3個振ったときの目の合計の期待値など、定義式に従うと複雑になるのに、感覚的に1個の期待値の3倍と理解します。

 かけ算も、どちらが(1つあたり)で、どちらが(いくつ分)かなんて意識すらしない、かけ算はかけ算であり、a×bは、aがb個とか、bがa個とも言える。それが普通だと思っていました。ところが順序派は、(1つあたり)×(いくつ分)が「かけ算の本質、本来の意味」だと思っている節があります。仮にそのような順序で固定しても、(1つあたり)と(いくつ分)は視点の違いで逆転可能であり、このような区別自体が困難で、結局、(1つあたり)×(いくつ分)というのは、最初にかけ算を導入するときの便宜的暫定的方便に過ぎないと思います。

>その証拠に、数学者といえども普段から自然数を「有限集合」だと認知していたり、実数を「有理数の列の同値類」だの「有理数の切断」だのと意識している人などまずいまい。いたらお目にかかりたいものだ。

その通りで、実数は実数として認識しているのが普通。イメージとしては、数直線。濃度だとかの話になったら、コーシー列やデデキント切断から考えることはあり得るが、それはそれである。

 小学校の時に、級友が「直線に垂直な2直線を平行という」とかの教科書の文言を覚えようとしていて、「どこまで行っても近づいたり離れたりしない」というイメージで捉えていた私は、「そんなこと覚えないといけないの?」と驚いたことがあります。

「どこまで行っても近づいたり離れたりしない」という認識に対して、「本来の定義を忘れている」と言われる。
0以上の整数nに関してある命題が成立することを、「n=0で成立。n=kで成立すると仮定すると、k+1でも
・・・」と証明したら、「数学的帰納法は、n=1で・・・となっているから、」と減点される。

 順序派が、(1つあたり)×(いくつ分)を過剰に重視して、「これがかけ算の本来の意味。逆にしても結果は同じになるが、3×4と4×3では意味が全く異なる」と言うことに対してのいらだちは、例えて言うと上のようなときに感じるであろう不快感に似ていると思います。

 ついでに言うと、わり算の包含除と等分除も、便宜的な区別に過ぎず、わり算を理解して使いこなしていれば、両者の区別は意味のない物になると思います。

長文、失礼しました。

なんとなくなんとなく 2010/11/18 15:16 こんにちは。
掛け算の順番はどうでもいいのですが、(1つあたり)についての理解は重要だと思います。後の単位変換とか比例とかで躓くのは(1つあたり)を理解していないからではないか、と思うのです。掛け算はとりあえず数字をかけておけ、では高学年ででてくる距離=速さ×時間の計算で単位変換をしないで間違えるでしょう。
特に比例の考え方は計算が必要な分野で最も重要な考え方じゃないでしょうか。

SokalianSokalian 2010/11/19 01:11 >積分定数様
こちらこそはじめまして。実は某ブログの書き込みからお名前は存じ上げておりました。どうぞよろしくお願いいたします。

>定義が本質、ということではないのだと思います。確率の期待値も、定義式を与えないで、「平均値みたいなものだ」ということで期待値を求めさせても、生徒は正しく求めることがあります。

おっしゃるとおりで、この記事は若干虚仮脅かし気味に書いてありますが(別に指数関数の定義とか実数の構成)、「定義定義というならお前らはどれだけ定義を理解しているんだ」と威嚇するためでもあったのですが、確率論だとさらに一段きつい脅かしが効きますね。確率空間上のσ集合系が云々という言葉をちらつかせるだけで、下らない批判をする人を追い返すことはできるでしょう。

>わり算の包含除と等分除も、便宜的な区別に過ぎず、わり算を理解して使いこなしていれば、両者の区別は意味のない物になると思います。

本当におっしゃるとおりだと思います。本質的な違いでないものを切り落として簡潔な表記に落とし込み、「一見違うものが実は本質的に違わない」ことを体得することこそが、数学などに典型的に見られるような抽象化の意義であるはずなのに、わざわざ「かける数」「かけられる数」のようなあやふやな概念に拘泥しては理解できるものも理解できなくなってしまいます。その意味でもこのような指導は罪深いと言わざるを得ません。
なお余談ですが、私の数学観は基本的に、本文中でも引用したこの文章の受け売りです。本職の教育者の方にぶしつけではありますが、お時間があればぜひ一度目を通して頂ければと思います。
http://pauli.uni-muenster.de/~munsteg/arnold.html

>なんとなく様
>掛け算の順番はどうでもいいのですが、(1つあたり)についての理解は重要だと思います。

それはもちろんおっしゃる通りで、私の浅い経験でいえば、「算数」最大の難関である分数の割り算に引っかかっている子供はたいてい、「単位あたり」の考え方ができていません。
ここで問題なのは、その概念を教え込むために掛け算の順序に意味があると強弁するという、かえって理解の妨げになるような行為(はっきり言えば、独りよがりの意図で嘘を教える行為という意味で、「創造説」を教え込むことと何も変わらないと思います)が蔓延しているということです。
ではどうすればよいかとなると、答えは簡単で遠山啓に戻ればよいわけです。「単位あたりの量」という概念の間違った理解は、遠山啓の主張を誤解した結果なのですから、遠山の言ったことをきちんと学べばよいだけです。
ただしここで問題なのは、遠山の数学教育論は、文章が平易な割に内容がそれほど易しくはないということです。遠山は本職の数学者なので、数学に関して書く際には細部まで注意を払っていますが、なまじ文章が平易なために、それを読む人は自分の知識不足に気づかない場合があるようです。数学を専門としない小学校教師がこれを誤解するのはある意味では仕方のないことなのかもしれません。
そこで本当は、難解な理論書をいきなり読むのではなく、遠山が子供向けの教材として著した本を詳細に検討するのが、教育的見地からも、遠山の考えの神髄を理解する意味でも一番よいはずなのですが、どういうわけか遠山が描いた数学の絵本はことごとく絶版になってしまっています。あの伝説的な教材に育てられた身としては、本当に嘆かわしいことと言わざるを得ません。

積分定数積分定数 2010/11/19 04:06 >本職の教育者の方にぶしつけではありますが、お時間があればぜひ一度目を通して頂ければと思います。

教育者というほど大層な者ではありませんが、有り難うございます。ゆっくり見てみたいと思います。

>本質的な違いでないものを切り落として簡潔な表記に落とし込み、「一見違うものが実は本質的に違わない」ことを体得することこそが、数学などに典型的に見られるような抽象化の意義であるはずなのに

まさにその通り。3を4個足す も 4を3個足す も、抽象化してみたら同じこと、というのは、三角関数と指数関数が、複素数から見たら実は同じ というのと同様の面白さがある。「計算結果が同じだから同じというのは皮相的。意味は全く違います。」という主張が皮相的。

ところで、水道方式を支持する人が、かけ算を(1つあたり)×(いくつ分)をやたらと強調することに、違和感を感じることがあります。
要するにかけ算はかけ算であり、(1つあたり)×(いくつ分)だろうが、累加だろうが、ようは解釈の仕方で結局同じことだと思うのです。私自身は、累加で構わないと思っています。「かけ算といえども、足し算の連続に過ぎない」と思っていれば、子供も、分からなくなったら足し算に戻って考えればいいと思うと思います。
分数のかけ算になったら、またそのときはかけ算の新たな解釈を、これまでのかけ算の解釈の類推・拡張として考えればいいと思います。そうやって、拡張・一般化の度に、定義をやりなおす、そこから、1/2乗がルートになることに気づく面白さもあると思います。

また、(1つあたり)×(いくつ分)という方法も、それはそれで利点があるとは思うのですが、

http://plaza.rakuten.co.jp/nakamoto1236/
>かけざんは、たしざんとは違うけいさんということで、
2×3は2+2+2のことではなくて、
1当たり量のいくつ分で全体量を求めるけいさんのことだよということで

というのを見ると、不安になります。教える側が、(1つあたり)×(いくつ分)と教えても、教わる側が累加として理解するのは全く自由だと思います。敢えて「累加ではない」というと、累加だと思っていた生徒、あるいは、「(1つあたり)×(いくつ分)も累加も同じことじゃん」と思う私みたいな生徒が混乱してしまわないかと心配になります。

kunimiyakunimiya 2010/11/20 01:50 はじめまして、id:kunimiya と申します。文中にて言及されたのでコメントさせて頂きます。

私の「乗法に交換則があるといっても、児童が自力でその法則を導き出さない限りあのケースでは使ってはならないのではないだろうか。」というコメントは、児童に実際に証明を求めたわけではなく、 id:Sokalian さんが書かれていた、

>「かけ算を略記法として 3 ¥times 5 = 3 + 3 + 3 + 3 + 3のように定義した以上は、証明抜きにでも交換法則を教えられるまではこれを使うべきではない」

という意見に近い意図で書きました。

また、議論の発端である算数のテストの採点についての問題の要点はあの採点の後に教師がどのようなフォローを行ったかであり、その点が明確でないため件の教師の採点が妥当かどうかであったかの判定はできないというのが私の立場です。

以上、私の意図について明確にさせて頂きました。

SokalianSokalian 2010/11/21 00:53 >積分定数様
>「計算結果が同じだから同じというのは皮相的。意味は全く違います。」という主張が皮相的。

本当にその通りで、「意味」なんてそれを言っている人の独りよがりに過ぎないのですね。

>水道方式を支持する人が、かけ算を(1つあたり)×(いくつ分)をやたらと強調することに、違和感を感じることがあります。
>要するにかけ算はかけ算であり、(1つあたり)×(いくつ分)だろうが、累加だろうが、ようは解釈の仕方で結局同じことだと思うのです。

そうですね、遠山の意図がどうであったかはともかく、ドグマ化した「信者」たちの「同数累加『ではない』」と固執することには意味がないと思います(奇妙なことに、今回の件は「掛け算は同数累加『である』」という人が元は順序に固執していたわけですが)。
本文中の指数関数の例でも書いたように、私は、同じものに複数の同値な定義が可能であるときはその全てが重要であると考えています。また、定義の一般性と教育上の善し悪しもまた別物だと思います。たとえばまた指数関数の定義を例に取れば、複素領域への拡張を考えるならば無限級数の定義が筋がよいでしょうが、高校生に最初に指数関数を教えるときは天下り的にeの定義を与え、その後e^xをxで微分してもe^xのままであることを示す方がずっとわかりやすいはずです。「指数」関数がなぜか「指数」ではなく無限級数だったり微分方程式の解だったりすれば全く意味不明でしょうし、それこそ歴史的発展の順序を無視していますから。

id:kunimiya
はじめまして。交換法則の件了解です。しかしそれでもその件には賛同いたしかねます。理由は本文中に書いたとおりで、「教えられずとも交換法則に気づいている子供というのは、自然数の積という概念を既に体得しているのだから、理解が不十分だなどと責められるいわれは何もない」ということです。
また採点についてですが、私としては、そもそも正しいものに×をつけることはいかなる理由があっても認められないと考えています。無論、大学の数学科のように定義→定理→証明という厳密な議論が要求される場であれば、「論法」が誤っていれば×をつけることは当然のことですが、小学校はそういう場ではないのですから。

kunimiyakunimiya 2010/11/22 00:37 id:Sokalian

返信ありがとうございます。
交換法則の件についてはおっしゃる通り、どちらの意図であっても文中で反論されていることは了解しています。また、その点について再度反論するつもりはありません。

採点の件についての反論につきましても異論をとなえるつもりはありません。テストと指導はセットで語られなければ議論できないと考えているため、採点のみに絞った議論に意見を提出する意思は現在ありません。

SokalianSokalian 2010/11/22 01:14 id:kunimiya
了解しました。たたみかけるような書き方をしてしまってすみませんでした。

積分定数積分定数 2010/11/23 22:39 >Sokalian さん

回答ありがとうございます。水道方式についてお聞きしたいことがありますが、ここで質問するのも何ですので、差し支えなければメールいただけないでしょうか?

Domino-RDomino-R 2010/11/25 18:03 こんにちは。コメントありがとうございます。一応トラバという形で返答させていただきました。
私は低学年においてテストは教育のプロセスの一部にすぎないと考えています。そういう観点からの見解で、ひょっとしたらそこのところが相違の原因かもしれないですね。
気が向いたら読んでみてください。

shiracha_rikyushiracha_rikyu 2010/12/15 16:58 基本的には同意できるのですが,途中に出てきた東大受験生のお話は,むしろ逆さまのお話ではないでしょうか.
つまり,東大受験生になっても未だに公理的立場を取ることが出来ない生徒が多いのは,ずっと教育の現場で公理的立場を教え込むことを避け続けてしまったせいではないでしょうか.

SokalianSokalian 2010/12/15 22:06 id:shiracha_rikyu
コメントありがとうございます。
そういう立場もあるかとは思いますが、私は反対です。理由は、「公理的立場」を教えるにふさわしい例が高校までの段階では見あたらないし、また「公理的立場」を強調することの重要性が、初等関数や複素数をきちんと教え込むことと同等以上とはとても思えないからです。

前者については、そもそも定義とか定理ということをやかましく言い出したのは19世紀以降であり、高校段階では18世紀以前に知られていた程度の内容しか教えていないわけで、つまり歴史的にもこの段階まではあまり問題が起こっていないのに無理に公理的立場を教えても生徒にとっては有り難みがわからないでしょう。敢えて言えば初等幾何ですが、日本の中等教育で教えられる初等幾何はかなりいい加減なもので、たとえば平行線公理を「平行線とは交わらない2本の直線であり、1点を通ってある直線に平行な直線は1本しかない」というようないい加減な与え方をしています。これでは「同位角は等しい」こともまともに証明できず、従って「平行線は無限遠点で交わると解釈できるから」などという無理のありすぎる論法で「同位角は等しい」ことを「証明」できません。私は実際この段階で初等幾何には不信感を持ち、今でも嫌いなままです(と、これを書くために調べてみたら、ユークリッドはもっと厳密な言い方をしていたことがわかりました。これならこの点には何の問題もありません。私が理解できなかったのは当たり前なのですね)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E7%90%86#.E6.AD.B4.E5.8F.B2

後者については、そもそも「公理的立場」を教えようという、数学教育の「現代化」が世界的に失敗に終わり、数学の学力低下、数学嫌いの量産という結果を生み出してしまったことも考慮すべきでしょう。具体例がないのに抽象化・厳密化をしても仕方がないわけで、一方で初等関数とか複素数とかは「理系」に限らず「文系」の非常に幅広い分野でも「道具」として使いこなせなければならないものです(本当はそれでも足りず、偏微分や行列ぐらいも理解しておく必要がある)。そう考えると、どちらを優先すべきかの答えは明らかに思えます。

shiracha_rikyushiracha_rikyu 2010/12/16 13:07 >Sokalian様
丁寧なお返事,ありがとうございます.
現代的な学問の習得を最優先する形でカリキュラムを組みたい,という立場でおられるのですね.それなら,全体で納得です.

ただ,私個人の立場としては,数学教育では,論理性の習得を最優先するのが良いかなと想っています.
回り道にも想えますが,その基盤が出来ていなければ他の学問でも大きな壁にぶつかってしまうからです.
これは所謂,文系・理系の双方の学問にとっての壁というだけではなく,むしろ社会生活を営む上で大きな壁になると想われます.
事実として,議論の出来ない日本人が多くの場所で問題として取り立たされています.
これは,論理性に欠けるという点に根本的な原因があるように想います.

さて,そのためには,ZFCという程に厳格ではないにしろ,ある定義から導出を行う(まあ本来の公理的立場とはそういう物です)と言うことを,ゆっくりとでも浸透させる必要があるように想います.
公理的立場を恐れる人は多いですが,このような立場は,むしろ定義無く行う数学よりもずっと楽しい物だと私は感じます(この点も,幾何のお話を読む限り,Sokalian様は同意して頂けると想います)
極端な話しですが,定義から出てくる物があまりにも抽象的で,その数学以外には何の役にも立たないとしても,むしろ自力で演繹をして納得ができるような物なら,そちらの方が楽しく学べるのではないでしょうか.
ですが,この公理について,現代の数学教育というのは,実は非常に中途半端な立場を取っているのだろうなと想います.
つまり,学問の修得のための基盤としての数学でも,論理性の習得のための数学でもなくて,よく分からない算数という物をやってしまっている.
失敗の原因はこの辺でしょう.そして,その意味でSokalian様の意見の全体に同意できます.(算数の「掛け算」の定義や,その立場は非常につまらない物になっていると想います)


ところで,ここからちょっとした余談なのですが.
掛け算を,ある現実の状況をモデル化するために用いるなら,3x5とも5x3とも書いて良い,とするような,掛け算の定義ってどういう物か,というと
 1.○個の何かが×枚の入れ物に乗っていることを○x×という形でモデル化したとき,そのときのxのこと
 2.ただしxは可換性を持つ物に限る
という2つによるxのことではなくて
 1.○個の何かが×枚の入れ物に乗っていることを○x×という形でモデル化したとき,そのときのxのこと および
 2.○個の何かが×枚の入れ物に乗っていることを×x○という形でモデル化したとき,そのときのxのこと
という定義になるかと想います.

実は2の定義は可換性を持つような掛け算定義と微妙に違った話です.
前者の可換性を持つ定義の元では,あくまで5x3と立てた後に,それが可換性の元で3x5が同値であることを主張しなければなりませんが,
後者なら,まあどちらで立てても,それその物が定義ですから構わないですね.
この辺のお話って,この議論に参加している方が,どれくらいの比率で理解しているのかに,ちょっと興味があります.(つまり,皆さんどれくらいの論理性を備えているのだろう?)
これを理解せずに立式(=モデル化)を行う人は,同値だからと言う理由で3枚の皿の上の5個のみかんを「1=1」とモデル化して,したがって15である.と言い出すような人だったりしないか不安です.
型にはめた算数の元では,まあそういうことは起こさないでしょうけれど,現実の議論の上ではこのような人を・・・・・・ちらほら見る気も.
とはいえ,小学生にまで私もこれを求めるわけではないのですが.現実に数学的議論を,正しく当てはめることの出来ない数学のユーザって,本当に大丈夫なんだろうか.
・・・・・・いや,そう.これは完全に余談だったわけです.無視されて結構です.

SokalianSokalian 2010/12/18 13:20 id:shiracha_rikyu
>ただ,私個人の立場としては,数学教育では,論理性の習得を最優先するのが良いかなと想っています.
>回り道にも想えますが,その基盤が出来ていなければ他の学問でも大きな壁にぶつかってしまうからです.

「論理性」といっても色々な水準があると思います。数学における「論理性」は相当厳格ですが、そのかわり扱える対象はかなり狭い。物理学や化学あるいは工学ではもう少し緩く、もう少し幅の広い対象を扱える。生物学、社会科学、人文科学などその他の分野ではますます「論理性」は緩くなるでしょうし、逆に論理学の方に行けば「論理性」は数学よりも厳格です。
さてそこで、数学における「論理性」を特別視する必要があるのかは私は疑問です。むしろ、諸学問の言語法というのは自然言語の用法を制約することで論理性を高めたものなので、その分野特有の「特殊」な語法ではあっても、他学問分野や社会生活に応用が利くかというと意外とそうでもないのではないでしょうか。
個人的には「論理性」の涵養は国語教育でもっと重視されるべきだと思います。現在は「文学」を受身に「鑑賞」するという比重が重すぎて、大学新入生はレポートの書き方を一から指導されなければならないという歪なことが起こっています。分野を問わず共通な範囲での言語能力は言語教育の枠内で育成されるべきではないでしょうか。

>事実として,議論の出来ない日本人が多くの場所で問題として取り立たされています.
>これは,論理性に欠けるという点に根本的な原因があるように想います.

私は「日本人」が特別議論ができないとは思いません。確かに日本人は「一見もっともらしい」文体を使う能力が育っていない人は多いかもしれませんが、「中身」まで問えば五十歩百歩に思えます。少なくとも私の知っている狭い範囲では、どこの国の人間も、自分の思いこみを事実と信じて曲げない、「自分は正しい、だからお前は間違っている」という視線から抜けられない人、という人が大半で、一言でいえば「2ちゃんねらーレベル」なのです。要するに日本人と同レベルです。

>公理的立場を恐れる人は多いですが,このような立場は,むしろ定義無く行う数学よりもずっと楽しい物だと私は感じます(この点も,幾何のお話を読む限り,Sokalian様は同意して頂けると想います)

私は余りそう思いません。公理的立場は必要ですが、単なる言葉遊びは嫌いです。本文中でも触れた「奇数の公理系」のように公理化が自己目的化した「学問」は、読み解くのが苦痛なだけでなにもよいことはありません。

>とはいえ,小学生にまで私もこれを求めるわけではないのですが.現実に数学的議論を,正しく当てはめることの出来ない数学のユーザって,本当に大丈夫なんだろうか.

まあ、例の「ゆとり教育」議論でも、「円周率は厳密に3.14である」と信じているとおぼしき人が多くいましたからね。私はそういう人には「顔を洗って出直してこい」というだけです。知らないことよりも、知ったかぶりをすることの方がよほど恥です。

shiracha_rikyushiracha_rikyu 2010/12/18 18:32 id:Sokalian
今回も丁寧なお返事ありがとうございます.

まず,誤解を与えてしまった言い回しについて釈明をさせて下さい.
 日本人が多くの場所で議論が出来ない
ことは,決して
 世界中の全ての人が多くの場所で議論ができない
ことと,矛盾しません.
 世界中の全ての人が多くの場所で議論ができない ならば 日本人が多くの場所で議論が出来ない
という類の物です.

今回,特別に日本人を取り上げたように見えますが,
私は今回の問題は日本における教育の問題ですので,全体を日本人だと見なして,「日本人は」と言っただけの話しです.
(そして,どの国の教育も完璧ではなくて,また違う方法をとっていますので,様々な国を持ち出す場合,論理性に欠ける根拠は,それぞれ独立に語らなければならないと想います.)
日本人だけが特別に論理性に欠けるように考えていると,誤解を招いたことをお詫びします.

しかしまあ,この場合は結局,日本人は論理性に欠けているわけですよね.
私は結局,日本人に限らず,人にとって論理性は大事な物でしょう,と想います.

>むしろ、諸学問の言語法というのは自然言語の用法を制約することで論理性を高めたものなので、その分野特有の「特殊」な語法ではあっても、他学問分野や社会生活に応用が利くかというと意外とそうでもないのではないでしょうか。
なるほど.確かにそういわれるとその通りだとも想います.

数学における論理は確かに語彙を主に命題論理,述語論理程度に制限した物が用いられることが多いようですね.
既に論理学上に発見されている物だけでも,様相論理などを代表として,多くの別の論理が存在することを考えると
これが,非常に狭い領域であることは仰るとおりだと想います.

そのため,国語教育のような,一般の自然言語の持つ力を生かせる場で広い範囲の論理の経験が必要だろうと私も想います.

しかし同時に,数学の意味での,厳密な論理を扱えるようになることも大事だと想います.
自然言語は勿論,これらの論理を含んでいるのですが,やはり非常に緩く運用されています.
ところが,現代生活で議論が起きると,むしろ厳密な論理を運用することを求められるように想います.
また,厳密な論理は応用が利かないということは無いと想うのです.
なぜならば,他の論理は,厳密な論理を含む部分があるためです.

この教育を行うには,元々厳密な論理を扱うことが主軸である,数学が担当するのが良いと想います.

その逆さまに,国語教育において,厳密な論理を導入して文章を書くように求めるのは,
自由な文章構成を妨げることになり,これはこれで問題が起きると想います.
そのような方法をとってしまえば,自然言語の広い論理を自由に扱うことが,生徒達に出来なくなってしまうからです.

これは現在の国語教育がよい物だと言いたいわけではありません.
ただし,比較的厳密な論理を教えるには国語は向かないだろうということです.


この立場を掛け算の教育に求めるのはやはりおかしいというのもわかります.
掛け算の可換性について,大きな混乱を呼ぶ可能性があるためです.

その意味で数学教育は掛け算のカリキュラムで,掛け算だけで全てを教えようと無理をせず,
一度話しを分解し,良い意味で言葉遊びに徹する必要があるのではないだろうか,と想います.
そのような教育のために,もっと分かりやすい定義をもつ,単純な対象を扱えばよいのです.
公理を立てられれば,何でもこのような教育に向いた数学になります.

たとえば入れ物についての代数,などはよほど掛け算より簡単でしょう.

・からっぽ というなまえの,いれものが,あります.
・いれものは,ものをいれることができます.
 ものをいれることを,ものと,いれものを|でつないでかくことにしましょう.
 りんごがものなら, りんご | からっぽ は,あたらしい,ひとつのいれもので,なかには,りんごが1つはいっています.
 ルールとして,|のひだりがわには,かならず もの をかきます.|のみぎがわには,かならず いれもの をかきます.
※|でつないだら,いれものになるのでした.ですから,りんご | りんご | からっぽ というのは,ルールどおりにかけています.
 りんご | からっぽ という,いれもの に りんご を入れたことになるからです.
・おなじものが,おなじかずだけ,はいったいれものは,なかみがおなじ,といいます.
 このことは○と×を,いれものとして,○=×という,かきかたをすることにしましょう.
※たとえば, みかん | りんご | みかん | からっぽ = みかん | みかん | りんご | からっぽ です.

ここからいろいろな物事を見ていくことが,おそらく小学生にも,先生が付いていれば出来て,そこそこの実りも経験出来ると想います.
(もちろん,これは多重集合だ,という話しは,この時点では必要ありません.)
これは応用があまり利かないと言う意味で,純粋に言葉「遊び」だと想います.
しかし,それは十分「遊べる」,楽しい物になっていると想います.

しかしこれを踏まえて,「そんなことは出来ない,この時点で掛け算の計算を教えることが非常に大事だ.」と考えるなら,(たとえば実用性のある物を教えなければ意味が無い,というのはこれに十分な根拠です.)
掛け算を教えつつ,掛け算は順序に関係なく運用されるべきであると私も想うのです.

結局,この話しが,前回「中途半端な教育になっている」と書いた理由です.虻蜂取らず,といいましょうか.

いずれにしろ(何度も強調しておきますが)私は掛け算の立式を非可換にするような定義で採用するのには反対でして,これはSokalian様と同じでして.
現代の数学教育って,なんでこうなっているんでしょうねぇ・・・・・・.

>まあ、例の「ゆとり教育」議論でも、「円周率は厳密に3.14である」と信じているとおぼしき人が多くいましたからね。
ええ?そうだったのですか.そちらの議論には参加していないので,私は事情をよく存じ上げませんが.
これも余談ですが,その話だと逆さまに,厳密にπであると想っていない方も問題になったりしますよね.
超越数に対してπという表示が出来ないと思い込むというか...
まあ,そのような人を見かけたら私は顔を洗って出直してこいとは言いませんが,
代わりに「ああ,それはちょっと違うのだよ.私の言っている円周率とはね・・・・・・」と言うかも知れません.
ただ,このときに,相手が論理の解らない人だったら,伝わらないわけで,そのときは私も「顔を洗ってきてね」と言うほか無いです.

nomisukenomisuke 2014/01/09 07:12 はじめに。貴殿における数学の理解も数学観も世間一般の標準をハルカニ超えていることはよーく分かる。で。以下は「間違いを自覚されての転向」を貴殿に期待してのコメントである。教育上の問題は論じない。純粋に「数学の考え方」の問題として「掛け算で順序を論ずる事はナンセンス」という主張が(自分の理解していないことを受け付けない類いの)センパクな独断に過ぎない事を指摘する。(だがメンドウなんで筋道だてて論じることはしないよ。貴殿の書かれたことにコメントするに止める。)

>まず、この件で「かけ算の順序」肯定派を批判している人には前野昌宏先生や菊池誠先生をはじめとする本職の物理学者やその卵がたくさんおり、大抵の素人さんや並の数学教師とは比べものにならないほど数学を骨肉としている。

素人はともかくとしてもそん所そこらの物理屋や工学屋の考えなどであっても、この問題の「純粋数学的側面」においては「物理サイドあるいは工学サイドからの一意見」程度の価値しかない。(で、まちがっている。というか、分かっていない(現代数学の考え方が)。)「少なくとも、例えば「整数は和と積に関して可換環になる」という文を何も見ずに理解できない人は偉そうな真似をよした方がよい。」には全く以て同感だが、単なる計算道具として「数学を骨肉としている」ように見えるからと言って(それは数学的な理解を身につけているのとはちがう)そういう連中の言うとることが無条件で正しいかのような言い方や考え方は如何なものか。現に「正真正銘の数学者」で「掛け算には倍算と積算」と言明しとる先生もいる。「倍算」と「積算」の定義は小生も確かめておらんが「この文の意味する所に「ははーん」と来ない人は偉そうな真似をよした方がよい。」

>「積は一般に非可換」という言説について

ここでブログ主が書いていることは自らも書いているように「教育的観点からの問題」であるな。その場合意見は人それぞれであろう。「積が一般に非可換」であり「整数環は可換である」ことを認めた上で「可換環である整数環」の饅頭の個数への掛け算作用について「一般の積の非可換性」を意識して「掛け算の順序」を意識すべきか否かを論ずるのであれば、それは「数学上の問題」だ。そういう視点が(ブログ主に限らず)大騒ぎしている連中(数学屋や物理屋を含む)には欠けている。(非可換な環を持ち出しただけで「そのこと」だけを批判する阿呆だ)。森毅はたとえば「数学大明神」でそういう視点から論じているのだが分かろうともせんようだ。

>「数学的に、極限操作を適用していいのは実数の完備性の証明を前提とします」云々と混ぜっ返し、高校のカリキュラムにその証明がないことを指摘して終わりとしてもよいのだが、

ひと言。こーゆータイドはよくないね。

>具体的には、を既知とし、和の交換法則と結合法則を用いて(略)などとする。これ以上単純な証明は私には思いつかない。これが小学生に教えるべきことかどうかは明らかである。

それはそーだが、長方形に並べて直感的に「証明」するのだよ。「それは「証明」ではない」などとは言わんだろーな。「数学的に、交換法則を適用していいのは交換法則の証明を前提とします。その証明を履修する以前に無思考に適用するのは受験数学的手法であり、教科としての数学として正しくありません。」はその上で、その「証明」が済むまでは・・・と読むべきなんだぜ。

もっともアタシは「その証明が済んでも」饅頭3個5袋は
 饅頭3個×5
とすべきだと主張するのだがね。

>「定義」や「立式のルール」をどの程度遵守すべきか

ここに書いとることは「教育論」だな。数学的内容じゃあない。

>このあたりの感覚は、
「Ricciテンソルが256個の独立なパラメタを持っていないように。波動関数全体に適当な位相を与えても同じ状態を指しているように、自然数の乗法においてqpとpqは並べて書く際の表記の自由度に過ぎず、両者はまったく同じ対象を指しているとまだ思ってる。それが可換であるということ。」というのが最も近かろう。

ザンネンながら「この意味は分かる」が最も近かろとは思わんな。で。この感覚で掛け算の順序を論じるのが数学的にはオオバカマチガイ。自分は数学が得意ちゃんだから自分の感覚でやっちゃうよ。と言っているに過ぎん。貴殿の言を拝借すると「偉そうな真似はよした方がよい。」

>それを小学生に要求できようはずがないのである。

これはその通りだろうな。だが。だからこそきちんとした感覚を身につけさせるべきじゃないのかね。たかが掛け算だぜ。定義を強調する必要はないしそれは有害かもしれんがね。おっと。これは教育論であった。

>よろしい、そんなことを言うのであれば、ニュートンやライプニッツの時代の微積分は・・・

ぜんぜん駄目な反論だよ。アタシも「数学は規範学」なんて言われちまったら反発するがね。だからと言って「勝手気ままに式計算をやっていい」なんて教え方はせんもんだ。教える側は規範に厳格に教え「それが分からん天才」のみが「自らの力で」「自由な式計算」を発明する。その背景には「厳格な規範に基づいて書かれた教科書」が必要。ガリレオに対するアリストテレスの自然学は知っとるだろ?。それと。ブログ主は「数学観」と「教育の在り方」を取り違えとるよ。

>そして「指数関数」の本質は、こうした定義(定理)全ての上に成り立つものであって、決して定義一つを論理的に厳密に理解していることなどではないのだ。

そのとおりだね。同じことは「掛け算」にも言える。「掛け算には順序を考えねばならぬ場面もある」と、「交換法則」を知った上でそういう認識も持っているのはきわめて豊かな数学観であるよ。(そして「数学的に正しい」認識であるのだ)。

>百歩譲って「かけ算に順序がある」という考え方が正しかったとしても、それは子供に教える教材には不適切であるということだ。

反例あり。きちんと理解している子どもも少なからずおる。むろんその中には先生にこう教わったからそう身についとるだけという子どもも少なくなかろう。だが。そういう子も長じてきちんと理解するようにならんとどうして断言できるだろうか。

>学識経験者が雁首揃えても結論が出ないほど難しい話ならば、

ちがう。分かっていない「数学屋」「物理屋」が多いだけである。ナイーブに考えれば「掛け算の順序」を考えるのは自然なのだ。むしろ整数環の場合「順序は考えなくても同じ」ということを説明する方が難しい。単純な交換法則じゃあないぜ。交換法則は「数」同士の掛け算の順序交換。これはまったく正しい。饅頭3個は単なる数じゃあない。抽象化が大事なんて言うなよ。饅頭3個を「現代数学的に」抽象化して表記すると「3」ではなく「3m」などと生成元を書く。そやから「3」とはちゃいまんねん。森毅がたぶん書いとるはず(と期待する)。

>大人の馬鹿な喧嘩に子供を巻き込むのはみっともない、それだけでも「かけ算に順序がある」を教えるべきではないということはもはや明らかであろう。

大人の馬鹿な喧嘩に子供を巻き込むのはみっともない、それだけでも「交換法則がある以上、かけ算に順序はない」などといつまでも大声で駄々をこねるべきではないということはもはや明らかであろう。とも言えるな。笑。

なお「交換法則がある以上、かけ算に順序はない」は理屈になっとらんことを再度明記しときます。

またどう教えるべきかは算数教育上の問題として別のハナシだ。

nomisukenomisuke 2014/01/09 07:40 積分定数(2010/11/18 10:29)へのコメント

>定義が本質、ということではないのだと思います。確率の期待値も、定義式を与えないで、「平均値みたいなものだ」ということで期待値を求めさせても、生徒は正しく求めることがあります。サイコロを3個振ったときの目の合計の期待値など、定義式に従うと複雑になるのに、感覚的に1個の期待値の3倍と理解します。

これには同意する。

>かけ算も、どちらが(1つあたり)で、どちらが(いくつ分)かなんて意識すらしない、かけ算はかけ算であり、a×bは、aがb個とか、bがa個とも言える。それが普通だと思っていました。ところが順序派は、(1つあたり)×(いくつ分)が「かけ算の本質、本来の意味」だと思っている節があります。仮にそのような順序で固定しても、(1つあたり)と(いくつ分)は視点の違いで逆転可能であり、このような区別自体が困難で、結局、(1つあたり)×(いくつ分)というのは、最初にかけ算を導入するときの便宜的暫定的方便に過ぎないと思います。

同意しない。現に「a×bは、aがb個とか、bがa個とも言える。それが普通だと思っていました。」と正直にお書きだ。「そう思っていたから」こそ「(1つあたり)×(いくつ分)が「かけ算の本質、本来の意味」」などと言われると反発するのだろう。なお「(1つあたり)×(いくつ分)が「かけ算の本質、本来の意味」はビミュ〜に誤解を生む表現だな。(なかなか正確やけどね。)

>(1つあたり)と(いくつ分)は視点の違いで逆転可能であり、このような区別自体が困難で、結局、(1つあたり)×(いくつ分)というのは、最初にかけ算を導入するときの便宜的暫定的方便に過ぎないと思います。

「(1つあたり)と(いくつ分)は視点の違いで逆転可能であり、」における「視点の違い」とは何を(数学上)意味するのか、考えてみたらよかろう。

>>その証拠に、数学者といえども普段から自然数を「有限集合」だと認知していたり、実数を「有理数の列の同値類」だの「有理数の切断」だのと意識している人などまずいまい。いたらお目にかかりたいものだ。>その通りで、実数は実数として認識しているのが普通。イメージとしては、数直線。濃度だとかの話になったら、コーシー列やデデキント切断から考えることはあり得るが、それはそれである。

だから〜それはそれでそうなんだって。掛け算の順序とは関係ないね。無関係なもんを持ち出して無駄なことを読ませるなよ。

>小学校の時に、級友が「直線に垂直な2直線を平行という」とかの教科書の文言を覚えようとしていて、「どこまで行っても近づいたり離れたりしない」というイメージで捉えていた私は、「そんなこと覚えないといけないの?」と驚いたことがあります。

なるほどね。まあどちらがよいかは知らんが、「「直線に垂直な2直線を平行という」」ちゅうのを聞くとなるほどと思うがね。

>「どこまで行っても近づいたり離れたりしない」という認識に対して、「本来の定義を忘れている」と言われる。0以上の整数nに関してある命題が成立することを、「n=0で成立。n=kで成立すると仮定すると、k+1でも・・・」と証明したら、「数学的帰納法は、n=1で・・・となっているから、」と減点される。

後半はイチャモンだよ。言うまでもないが(コメント主がゲキドするとあかんからコメントすると)後半の減点は数学的に意味がない。そのとーりだな。

>順序派が、(1つあたり)×(いくつ分)を過剰に重視して、「これがかけ算の本来の意味。逆にしても結果は同じになるが、3×4と4×3では意味が全く異なる」と言うことに対してのいらだちは、例えて言うと上のようなときに感じるであろう不快感に似ていると思います。

ほらな。「例えて言うと上のようなときに感じるであろう不快感に似ている」のはそう思う連中だけであって「ぼくワカラン」と言うてるのと同じ。全然ちがうぜ。

nomisukenomisuke 2014/01/09 08:00 Sokalian(2010/11/19 01)へのコメント。

>積分定数様
 >定義が本質、ということではないのだと思います。確率の期待値も、定義式を与えないで、「平均値みたいなものだ」ということで期待値を求めさせても、生徒は正しく求めることがあります。
>おっしゃるとおりで、この記事は若干虚仮脅かし気味に書いてありますが(別に指数関数の定義とか実数の構成)、「定義定義というならお前らはどれだけ定義を理解しているんだ」と威嚇するためでもあったのですが、確率論だとさらに一段きつい脅かしが効きますね。確率空間上のσ集合系が云々という言葉をちらつかせるだけで、下らない批判をする人を追い返すことはできるでしょう。

残念ながら追い返されんね。ヒトを脅かしたり威嚇しちゃあいかんよ。

アタシはそういう生半可な数学通がデエキレエでねえ。笑

>>わり算の包含除と等分除も、便宜的な区別に過ぎず、わり算を理解して使いこなしていれば、両者の区別は意味のない物になると思います。
>本当におっしゃるとおりだと思います。本質的な違いでないものを切り落として簡潔な表記に落とし込み、「一見違うものが実は本質的に違わない」ことを体得することこそが、数学などに典型的に見られるような抽象化の意義であるはずなのに、わざわざ「かける数」「かけられる数」のようなあやふやな概念に拘泥しては理解できるものも理解できなくなってしまいます。その意味でもこのような指導は罪深いと言わざるを得ません。

小学生に包含除と等分除を教えるべきかどうかはしらんけどね、アタシは上手いこと説明するなあとカンシンしますがね。何度も言うとくが「教育上の問題」での主張を通すために「数学的にもオカシイ」とウソを言うのはお二方ともやめるべきですぜ。アーノルドもお怒りですぜ。

>なんとなく様
 >掛け算の順番はどうでもいいのですが、(1つあたり)についての理解は重要だと思います。
>それはもちろんおっしゃる通りで、私の浅い経験でいえば、「算数」最大の難関である分数の割り算に引っかかっている子供はたいてい、「単位あたり」の考え方ができていません。
ここで問題なのは、その概念を教え込むために掛け算の順序に意味があると強弁するという、かえって理解の妨げになるような行為(はっきり言えば、独りよがりの意図で嘘を教える行為という意味で、「創造説」を教え込むことと何も変わらないと思います)が蔓延しているということです。
ではどうすればよいかとなると、答えは簡単で遠山啓に戻ればよいわけです。「単位あたりの量」という概念の間違った理解は、遠山啓の主張を誤解した結果なのですから、遠山の言ったことをきちんと学べばよいだけです。
ただしここで問題なのは、遠山の数学教育論は、文章が平易な割に内容がそれほど易しくはないということです。遠山は本職の数学者なので、数学に関して書く際には細部まで注意を払っていますが、なまじ文章が平易なために、それを読む人は自分の知識不足に気づかない場合があるようです。数学を専門としない小学校教師がこれを誤解するのはある意味では仕方のないことなのかもしれません。
そこで本当は、難解な理論書をいきなり読むのではなく、遠山が子供向けの教材として著した本を詳細に検討するのが、教育的見地からも、遠山の考えの神髄を理解する意味でも一番よいはずなのですが、どういうわけか遠山が描いた数学の絵本はことごとく絶版になってしまっています。あの伝説的な教材に育てられた身としては、本当に嘆かわしいことと言わざるを得ません。

なかなかいいこと言うね。そーゆー貴殿がナンデ掛け算についてはオカシクなっちまったんかな?ワカランからオカシイ。は数学でもっとも戒めるべきタイドちゃうかな?数学の概念をまき散らして(自分の意見に合わない)シロートを「威嚇」したり品がないですぜ。遠山さんも泣いてるよ。

nomisukenomisuke 2014/01/09 08:08 続き。

もっとも一つ目のコメントにも書いたが、「少なくとも、例えば「整数は和と積に関して可換環になる」という文を何も見ずに理解できない人は偉そうな真似をよした方がよい。」には全く以て同感だぜ。

アタシがアンタラに反吐がでるのは(ちゅうのは言い過ぎでニヤとしとるだけだがね)「掛け算」とはエンもユカリもない「指数関数の定義やらデデキントの切断やらリッチテンソルやら確率空間を持ち出して」シロートを威嚇しよーとしちょる所。スコシは反省せい。

nomisukenomisuke 2014/01/09 08:25 また続き。

なかなかええこと言うね。と書いちまったが、コマカクコメントさせていただく。

>ここで問題なのは、その概念を教え込むために掛け算の順序に意味があると強弁するという、かえって理解の妨げになるような行為(はっきり言えば、独りよがりの意図で嘘を教える行為という意味で、「創造説」を教え込むことと何も変わらないと思います)が蔓延しているということです。

おいおい。自分の主張をナットクさせるためのプロパガンダじゃないんだろ?

「掛け算の順序には意味がある」場合があって「饅頭3個5皿の饅頭の個数は3個×5」は典型的なそのバアイ。貴殿がこの文の意味がワカランからちゅうて「強弁」とか「嘘」とか言うたらアカンだろ?え?

そう(掛け算には「どない場面でも」順序がないと)信じ込んどんのやったら、ためしに
 饅頭3個×5=饅頭3個+饅頭3個+饅頭3個+饅頭3個+饅頭3個
から
 5×饅頭3個=饅頭3個+饅頭3個+饅頭3個+饅頭3個+饅頭3個
を証明してみいや。オノレの愚かさに気付くで。多分。

>ではどうすればよいかとなると、答えは簡単で遠山啓に戻ればよいわけです。「単位あたりの量」という概念の間違った理解は、遠山啓の主張を誤解した結果なのですから、遠山の言ったことをきちんと学べばよいだけです。

ここアタシには正直分からんから、遠山を引用して説明してくんないかね。

>ただしここで問題なのは、遠山の数学教育論は、文章が平易な割に内容がそれほど易しくはないということです。遠山は本職の数学者なので、数学に関して書く際には細部まで注意を払っていますが、なまじ文章が平易なために、それを読む人は自分の知識不足に気づかない場合があるようです。数学を専門としない小学校教師がこれを誤解するのはある意味では仕方のないことなのかもしれません。

これはあり得る、思うな。

>そこで本当は、難解な理論書をいきなり読むのではなく、遠山が子供向けの教材として著した本を詳細に検討するのが、教育的見地からも、遠山の考えの神髄を理解する意味でも一番よいはずなのですが、どういうわけか遠山が描いた数学の絵本はことごとく絶版になってしまっています。あの伝説的な教材に育てられた身としては、本当に嘆かわしいことと言わざるを得ません。

これについては正直分からん。(考えたことないんでね)。

nomisukenomisuke 2014/01/09 08:39 挨拶が前後したが、このブログ。最近たまたま発見したのであるが、なかなか面白いのでちょいちょい読ませていただこうかなと思っている。最近更新はないようで残念じゃが。

掛け算については貴殿が「よく考えて」いることも分かるのだがもうちょいである。貴殿がトンデモ言説を心底嫌悪し威嚇するのは構わんが、掛け算の順序については惜しかったナ。

あともう一言。気に沿うコメントにはおかしなことが書いてあっても触らずに「おっしゃるとおり」とする態度も好かないね。「知の欺瞞」を馬鹿にしたいのなら徹底し給え。

SokalianSokalian 2014/01/26 01:13 コメントにしばらく気付かず、返事が遅くなり申し訳ありません。
ただしまず最初に、私は「生半可な数学通」ではなく、「そん所そこらの物理屋や工学屋」よりは若干数学に慣れ親しんでいる立場であると申し上げておきます。その上で、あなたのご見識に敬意を払って今回は不問としますが、私はネット上といえど見ず知らずの人間にいきなりぞんざいな口調で語りかける態度を好みません、と申し添えておきます。

さて、まず「威嚇」についてですが、これは「人の話を聞かず、あるいは理解できずに罵倒をぶつけてくる連中」にのみ向かっていることが、本文を読めばご理解頂けるはずです。実際、大学レベル以上の数学を用いて書いた部分については、そもそもそのあたりを学んだことがない人には理解すらできない話でしょう。ですのでその批判はお受けいたしかねます。

次に、私は本文・コメント中に意図的に数学的な嘘を書いた覚えはありません。もし誤りがあれば理由付きで指摘して頂きたいのですが、具体的にそれらしき箇所は見当たらないようです。

唯一それらしき箇所は

> そう(掛け算には「どない場面でも」順序がないと)信じ込んどんのやったら、ためしに
>  饅頭3個×5=饅頭3個+饅頭3個+饅頭3個+饅頭3個+饅頭3個
> から
>  5×饅頭3個=饅頭3個+饅頭3個+饅頭3個+饅頭3個+饅頭3個
> を証明してみいや。オノレの愚かさに気付くで。多分。

ですが、それは単なる詭弁というものですね。要は「饅頭○個」に対して自然数を右から、あるいは左からかける定義の取りようによる、と言いたいのでしょうが、 自然数 a, b に対して「a ×饅頭 b 個≠b ×饅頭 a 個」とするような恣意的な定義を採用するのは単なる「数学的言葉遊び」に過ぎませんよ。少なくとも小学校教育とは何も関係がない。小学校で教えている体系は「a ×饅頭 b 個=b ×饅頭 a 個」が任意の自然数 a, b について成り立つ体系なのであって、それ以外の体系の話をしているのではありません。

あなたに限らず、数学を知っている人でも掛け算に順序はあるとか言い出す人(その最たる例が本文中に登場する宮下氏です)は、自分が言っていることがその種の「数学的言葉遊び」であることの自覚がないのですよ。

> ここに書いとることは「教育論」だな。数学的内容じゃあない。

そうですよ。それ以外何の話をしていますか?

> 整数環の場合「順序は考えなくても同じ」ということを説明する方が難しい。

逆ですね。交換法則が成り立つように整数環が定式化されたのであって、逆ではない。

あなたのような方は、先に現代数学ありきで小学校の算数はそのサブセットであるかのように論じたがりますが、人間の思考の発展過程を見ても、あるいは数学史を見ても、先にナイーブな概念があってその後に厳密な定式化がついてくるのですよ。

ついでに言えば、数学の定式化は必要な限りにおいて厳密に用いられているのであって、物理や工学の人間が数学を割と直観的に用い、その他の分野の人間がもっといい加減に用いているのは必ずしも「手抜き」とは言えませんよ。実際、数学屋さんだって通常は公理的集合論なんて等閑視していますからね。

言い換えれば、高校を卒業したら殆ど数学に触らないような一般の人にとっての「積」は飽くまで可換なものであって、数学屋さんその他がいう「非可換な積」というのはそれを拡張した「業界用語」に過ぎないわけですよ。物理屋さんが「『力』には 4 種類しかない、『政治力』などという力はそんざいしない!」などと言えば失笑を買うわけでしてね。でも、この問題で「積は一般に可換である」という議論を持ち出すのはそれと同じぐらいナンセンスなことですよ。

> それはそーだが、長方形に並べて直感的に「証明」するのだよ。

そうですね。で、この件が問題になっていた「テストで×をつけられる」という問題については、そのあたりのことを理解していようが理解していまいがテストで×をつけられてしまう、というところが大きな問題なのではないですかね。

あなたあなた 2014/02/04 21:47 > 整数環の場合「順序は考えなくても同じ」ということを説明する方が難しい。

逆ですね。交換法則が成り立つように整数環が定式化されたのであって、逆ではない。

あなたのような方は、先に現代数学ありきで小学校の算数はそのサブセットであるかのように論じたがりますが、人間の思考の発展過程を見ても、あるいは数学史を見ても、先にナイーブな概念があってその後に厳密な定式化がついてくるのですよ。

ついでに言えば、数学の定式化は必要な限りにおいて厳密に用いられているのであって、物理や工学の人間が数学を割と直観的に用い、その他の分野の人間がもっといい加減に用いているのは必ずしも「手抜き」とは言えませんよ。実際、数学屋さんだって通常は公理的集合論なんて等閑視していますからね。

言い換えれば、高校を卒業したら殆ど数学に触らないような一般の人にとっての「積」は飽くまで可換なものであって、数学屋さんその他がいう「非可換な積」というのはそれを拡張した「業界用語」に過ぎないわけですよ。物理屋さんが「『力』には 4 種類しかない、『政治力』などという力はそんざいしない!」などと言えば失笑を買うわけでしてね。でも、この問題で「積は一般に可換である」という議論を持ち出すのはそれと同じぐらいナンセンスなことですよ。


あれれ?少なくとも、例えば「整数は和と積に関して可換環になる」という文を何も見ずに理解できない人は偉そうな真似をよした方がよい。と言い放ったヒトが。笑

あなたあなた 2014/02/04 21:55 次に、私は本文・コメント中に意図的に数学的な嘘を書いた覚えはありません。もし誤りがあれば理由付きで指摘して頂きたいのですが、具体的にそれらしき箇所は見当たらないようです。

唯一それらしき箇所は

> そう(掛け算には「どない場面でも」順序がないと)信じ込んどんのやったら、ためしに
>  饅頭3個×5=饅頭3個+饅頭3個+饅頭3個+饅頭3個+饅頭3個
> から
>  5×饅頭3個=饅頭3個+饅頭3個+饅頭3個+饅頭3個+饅頭3個
> を証明してみいや。オノレの愚かさに気付くで。多分。

ですが、それは単なる詭弁というものですね。要は「饅頭○個」に対して自然数を右から、あるいは左からかける定義の取りようによる、と言いたいのでしょうが、 自然数 a, b に対して「a ×饅頭 b 個≠b ×饅頭 a 個」とするような恣意的な定義を採用するのは単なる「数学的言葉遊び」に過ぎませんよ。少なくとも小学校教育とは何も関係がない。小学校で教えている体系は「a ×饅頭 b 個=b ×饅頭 a 個」が任意の自然数 a, b について成り立つ体系なのであって、それ以外の体系の話をしているのではありません。

あなたに限らず、数学を知っている人でも掛け算に順序はあるとか言い出す人(その最たる例が本文中に登場する宮下氏です)は、自分が言っていることがその種の「数学的言葉遊び」であることの自覚がないのですよ。

笑った。

??数学的な嘘はなくても間違いはあるのではないか?唯一それらしき箇所がそれに当たるのでは?指摘されたら「詭弁」と言って逃げるのは世の中によくある手ですね。「要は」で自分勝手に(自分の知らない数学を)解釈し「言葉遊び」と決めつける。小学校教育とは何の関係もない?だったら「「そん所そこらの物理屋や工学屋」よりは若干数学に慣れ親しんでいる立場」としてあえて今の教育について意見しなくてよい。「数学」をしらないひとが「順序否定」を批判していると言いたいのではなかったのかなあ?リッチテンソルとかこけおどしを持ち出して。笑。

あなたあなた 2014/02/04 22:23 >「積は一般に非可換」という言説について

ここでブログ主が書いていることは自らも書いているように「教育的観点からの問題」であるな。その場合意見は人それぞれであろう。「積が一般に非可換」であり「整数環は可換である」ことを認めた上で「可換環である整数環」の饅頭の個数への掛け算作用について「一般の積の非可換性」を意識して「掛け算の順序」を意識すべきか否かを論ずるのであれば、それは「数学上の問題」だ。そういう視点が(ブログ主に限らず)大騒ぎしている連中(数学屋や物理屋を含む)には欠けている。(非可換な環を持ち出しただけで「そのこと」だけを批判する阿呆だ)。森毅はたとえば「数学大明神」でそういう視点から論じているのだが分かろうともせんようだ。

にブログ主の反論が欲しいなあ。数学的な。笑。

あなたあなた 2014/02/04 22:25 素人はともかくとしてもそん所そこらの物理屋や工学屋の考えなどであっても、この問題の「純粋数学的側面」においては「物理サイドあるいは工学サイドからの一意見」程度の価値しかない。(で、まちがっている。というか、分かっていない(現代数学の考え方が)。)「少なくとも、例えば「整数は和と積に関して可換環になる」という文を何も見ずに理解できない人は偉そうな真似をよした方がよい。」には全く以て同感だが、単なる計算道具として「数学を骨肉としている」ように見えるからと言って(それは数学的な理解を身につけているのとはちがう)そういう連中の言うとることが無条件で正しいかのような言い方や考え方は如何なものか。現に「正真正銘の数学者」で「掛け算には倍算と積算」と言明しとる先生もいる。「倍算」と「積算」の定義は小生も確かめておらんが「この文の意味する所に「ははーん」と来ない人は偉そうな真似をよした方がよい。」

ああ。これにも反論が欲しい。(読者として)
他にもありそうだけど本文もコメントも長い!!

あなたあなた 2014/02/04 22:31 >自分が言っていることがその種の「数学的言葉遊び」であることの自覚がないのですよ。

>あなたのような方は、先に現代数学ありきで小学校の算数はそのサブセットであるかのように論じたがりますが、人間の思考の発展過程を見ても、あるいは数学史を見ても、先にナイーブな概念があってその後に厳密な定式化がついてくるのですよ。

>ついでに言えば、数学の定式化は必要な限りにおいて厳密に用いられているのであって、物理や工学の人間が数学を割と直観的に用い、その他の分野の人間がもっといい加減に用いているのは必ずしも「手抜き」とは言えませんよ。実際、数学屋さんだって通常は公理的集合論なんて等閑視していますからね。

上に引用したところへの反論がこの3つだけではなあ。なんか苦し紛れな言い返しにすぎなく見える。

>言い換えれば、高校を卒業したら殆ど数学に触らないような一般の人にとっての「積」は飽くまで可換なものであって、数学屋さんその他がいう「非可換な積」というのはそれを拡張した「業界用語」に過ぎないわけですよ。物理屋さんが「『力』には 4 種類しかない、『政治力』などという力はそんざいしない!」などと言えば失笑を買うわけでしてね。でも、この問題で「積は一般に可換である」という議論を持ち出すのはそれと同じぐらいナンセンスなことですよ。

これが「>「積は一般に非可換」という言説について
「積が一般に非可換」であり「整数環は可換である」ことを認めた上で「可換環である整数環」の饅頭の個数への掛け算作用について「一般の積の非可換性」を意識して「掛け算の順序」を意識すべきか否かを論ずるのであれば、それは「数学上の問題」だ。そういう視点が(ブログ主に限らず)大騒ぎしている連中(数学屋や物理屋を含む)には欠けている。(非可換な環を持ち出しただけで「そのこと」だけを批判する阿呆だ)。森毅はたとえば「数学大明神」でそういう視点から論じているのだが分かろうともせんようだ。」への反論かなあ?だとしたらピント外してるね。再反論を期待!

SokalianSokalian 2014/03/19 12:46 申し訳ありませんが、おっしゃりたいことがよくわかりません。
「反論せよ」といわれても、「だから何?」というのが正直なところです。私の書いたこととあなたの書いたことが衝突するというのであれば具体的にどこがどうと書いていただけませんか。
私が読んだことのない森毅氏の本を持ち出されてああだこうだと言われたり、私の書いたことがお気に召さないからもっと書けだの、はては本文もコメントも長いなどと言われても「あなたがそう思われたということは理解しました」以上のことは言いようがありません。

スパム対策のためのダミーです。もし見えても何も入力しないでください
ゲスト


画像認証