Hatena::ブログ(Diary)

吾輩は馬鹿である

2010-11-20

「掛け算は非可換」論者は日本版の「創造説」論者である

先日の記事それでも自然数の積は可換である - 吾輩は馬鹿であるは怒りにまかせて喧嘩腰に書いたもので、内心を有り体に言えば「屁理屈を捏ねて子供をいじめる半可通ども、この印籠が目に入らぬか」というようなものだったのだが、思いのほかの好反響で驚いている。

だが、さらに憎まれ口を聞くことにしたい。理由であるが、

  • 誰が何と言おうが、指導要領や教科書に書いてあれば全て正しい
  • テストの○や×に四の五の言うな

という態度が、片や科学技術で飯を食うものとして、片や子供の頃教師の「善意」に苦しめられたものとして、絶対に許せないからだ。

スターリン体制をモデルにしたディストピア小説「1984年」の中で、作者ジョージ・オーウェルは主人公に

「自由とは、二足す二は四だと言える自由のことだ。これさえ認められれば、あとは全部ついてくる」

という台詞を言わせている。ところがその後、主人公は秘密警察に逮捕されることとなり、取調官は「党が二足す二は五だと言えばそれが正しいのだ」と主人公に言い放つ。そして最後、「二足す二は五」と思えるようになった主人公は、独裁者「偉大なる兄弟」を愛することができるようになっていたのだった。

残念ながら、「自然数の積は可換」ということを頑として認めない教師が支配する小学校の教室は、比喩でも何でもなく「真理省」*1だと言わざるを得ない。数学的真理以上に確かなものは世の中にない。それをねじ曲げるということはあらゆるものをねじ曲げることが許されるということだとなぜわからないのだろうか。

非可換な自然数の掛け算を創造する「高次の存在」

その意味で私が一番許せないのはこの発言だ。

うーん…交換法則もきちんと発見させた上で、あのテストは行われているんだけどなぁ。要するに、式を逆にしても答えは同じなんてことが完全に子ども達にも浸透した状態であっても、5×3は誤答という事なんだよね…。

-suzu-(@suzusuke)さん | Twitter

この人が現役の小学校教師でなければただの愚かな思いこみにすぎないが、このような意識で子供達を見ているとしたらこれは犯罪といってもよい。この人のブログ記事から引用する。

式を聞かれたときは、式から読み取れる「考え方」が「指導内容と」合致しているかを聞いているのであって、正しい計算結果が出るように式を立てたかどうかを聞いているのではありません。

いくら数学的や考え方が合っていたとしても、指導したことと違うことを書いているので×をつけざるを得ないのです。

Kidsnote-

その考え方は直ちに改めてもらいたい。もし、指導要領が「天皇陛下のために死ね」と説いていたらあなたはそれを教えるのか。

逆にしてもいいとすることの弊害

  • 倍の概念が育ちません
  • 割り算の時にも引っかかりが出ます
  • 計算に小数が入ってきたときにつまずきます
  • 平均、単位量あたりの大きさでつまずきます
Kidsnote-

反例がここにいる。私は躓かなかった*2

当たり前のことだが、子供は規格品ではないのである。もしこれが計算機ならば「このソフトウェアはそのソフトウェアの前にインストールしなければならない、そうしないとライブラリが低いバージョンで上書きされてしまい、先にインストールした方が正常に動作しなくなる」ということはあり得るし、そういうノウハウは積極的に共有されて伝達されるべきであろう。しかし子供は計算機ではない。概念を獲得する順番など、まったく一定ではない。

あなたがどれだけ善意でもって、どれだけ過去の経験から学んで教育を計画したとしても、それが全ての子供に完璧に当てはまるなどと考えるのは傲慢極まりない考え方だ。

ちなみに、米国にもあなたと似たような教師がいる。「人間は猿から進化した*3」と教えれば、「人間の尊厳」が身に付かない、と考えて、「地球は四千年前に『高次の知的な存在』が想像した」と教えるのだ。そう、「創造論者」である。

あなたやこのような教師が「善意」でこういうことをやっているという事実自体を否定するつもりはない。しかし、「善意」があれば嘘をついてもよいという集団がどのような結末を辿ることになるかはオウム真理教や連合赤軍などが十二分に証明しているだろう。

同じようなことを主張してのける人は他にもいる。

もちろん,「と表すことができる」であって「と表さなければならない」ではないのだから,逆の書き方だっていいじゃないかと言うことは可能です.そう主張する人は,それで統一すればいいんじゃないでしょうか.私は,結論は同じでも見せ方次第で分かりやすくも分かりにくくもなり,分かりやすくする手段の一つが「標準的なものを採用すること」だと,プレゼン指導を通じて強く感じているので,乗算の立式は

乗法は,一つ分の大きさが決まっているときに,その幾つ分かに当たる大きさを求める場合に用いられる。つまり,同じ数を何回も加える加法,すなわち累加の簡潔な表現として乗法による表現が用いられることになる。また,累加としての乗法の意味は,幾つ分といったのを何倍とみて,一つの大きさの何倍かに当たる大きさを求めることであるといえる。

(p.87)

という「標準」に基づいて行うこと,したがって例の画像については5×3=15という式をバツにするのに賛成です.

0×3と3×0は違う - わさっきhb

プレゼン指導を通じて強く感じている」という程度の主観に基づいて客観的事実をねじ曲げることに「賛成」と臆面もなく言ってのける、こんな人が工学の研究者であるということを私は同業者として深く恥じるものである。

「知識があっても心は子供」

私が許せない言説のもう一つは以下のようなものだ。

そもそも義務教育とは国民の最低レベルを中卒レベルに引き上げるための制度であり、優れた子に英才教育を施す事よりも、おばかな子をまともな子にしてあげる事が優先されます。

最後の子が数学嫌いになる云々と抜かす方もいるようですが、心配しなくとも本当に賢い子は「式は"ぼくはわかっている"という事を先生に分からせるためのものなんだ」というルールをかなり早い段階で見抜きます。

5x3と3x5は違います。 - いま作ってます。

自慢ではないが、私がそのことを理解できるようになったのは二十歳を過ぎてからである。私は「優れた子」でありつつ、どうしようもなく「おばかな子」であったのだ。このような、「知識の多い子」と「世慣れた子」を同一視する視線に私はどれほど苦しめられたことか!

私は子供時代、早生まれだったこともあってどちらかというと同年代の子供よりも精神的に幼かった。周りの子供が「ドラゴンボール」を観始めている頃にまだ「にこにこぷん」を観ていた*4。単に、「コロコロコミック」や「少年ジャンプ」よりも算数や理科の本が好きだったという以外は、他の子供よりもむしろ余計に無邪気だったと言ってもよい。子供っぽい下らないいたずらを率先して行ったりもしたし、ちょっと悪口を言われたぐらいでムキになって怒ったり、まあ非常に「子供らしい」子供だったと思う。いずれにせよ、典型的な「優等生」ではなかった。

にもかかわらず、公立小学校の教師の大半は私をそのように扱ってくれなかった。最初のうちは「ちょっとからかわれたぐらいでムキになって怒らないの。あなた、頭いいのにそんなことがなんでわからないの」と言われ、そのうち「親に勉強を強要されて人格が歪んだかわいそうな子供」という風に扱いは変わった。実は私はそのどちらでもなく「学力面では早熟でも社会的にはその反対」という個性を持っただけのただの子供に過ぎなかったのだが、それをわかってくれたのは特に評判のよかった数人の先生にすぎなかった*5

どうして「勉強ができる」ことと「空気読み能力」が高いことに必然的な関係があると思いこむのだろう。ある程度の相関はあるのかも知れないが、私のように「人並み以上に勉強はできるが人並み以上に空気が読めない」という子供がいることぐらい、どうして想像できないのだろう。

そして、「子供の立場に立つ」と称する教師の多くは、「勉強ができる子供」を「人間味に欠けるガリ勉」という一面的なステレオタイプで切り捨ててしまうのだ。現実の子供がどれほど違った姿を見せていても、そのことには目もくれない。これが勉強ではなくてスポーツや芸事ならその子の「個性」を褒めることになんのためらいもないのに、どうして「勉強」だと差別されるのだろう*6。それでも、子供を育てるプロなのだろうか。本当に信じがたいことである。

試験の点数がちょっと低くなったから、だからなんだと言うのですか?定期試験のスコアで一喜一憂するなんてのは、ミニスカートの丈を競う女子高生以下でしょう。目的は学びであり、点数は目安に過ぎません。

5x3と3x5は違います。 - いま作ってます。

あなたが記事中で書いた「巫山戯るなボケ!」という台詞をそのままお返ししよう。「ミニスカートの丈を競う女子高生」は幼稚に見えるかも知れないが、当人にとってはアイデンティティを賭けた闘争かもしれない、その程度の想像力がなぜないのか!まし、掛け算を習う小学校2年生はその「女子高生」の半分程度しか人生経験がないというのに!

コミュニケーション能力を測っています。数式はコミュニケーションの手段です。可換なものを、どのような順序で並べるかという部分で、計算者の意図を表現します。

5x3と3x5は違います。 - いま作ってます。

何が「コミュニケーション能力」か*7。学術上の「コミュニケーション」とは、学問の対象から離れたものをできるだけ排除して、できる限り客観的視点だけで黒白をつけられるような禁欲的態度を指す*8。そのような場に「空気読み能力」のような不純物を持ち込むものこそ、真っ先に「トンデモ」扱いされて排除されるべきものである。

子供を「プログラミング」するな!

以上、色々述べてきたが、私の言いたいことは結局のところこの人が一言で述べていることに尽きる。

@kikumaco 「知識がある子供はケシカラン」。以前もそういう風潮はありましたが、ごく一部のベテランは「知識があっても心は子供」「知識は好きなだけ得ればよい、心のバランスを取りながら吸収させればいい」という対応ができた。今は、そういう対応のできる大人がいないのかもしれません。

KGNさんのツイート: "@kikumaco 「知識がある子供はケシカラン」。以前もそういう風潮はありましたが、ごく一部のベテランは「知識があっても心は子供」「知識は好きなだけ得ればよい、心のバランスを取りながら吸収させればいい」という対応ができた。今は、そういう対

本当に昔と現在で差があるのかは保留するが、少なくとも過去一部の教師がそのような対応をできたことは私は実体験として知っているし、現在「そういう対応」ができない教師が少なくとも一名存在することもまた確かなようだ。

いや、一人や二人ならよいのだが、教科書会社のトップ「東京書籍」に言わせると、「5×3≠3×5」らしい。 - 小学校笑いぐさ日記のように、教科書会社の本音がそのようなものなら問題は深刻だ*9

このような教育が罷り通る背景には、「子供はこのようなものだ」という思いこみがあると言って差し支えないだろう。「自分たちは子供のことがわかっている、子供はこのようなものだ、だからこそこのように教えることが正しい」。まるで計算機を扱う態度である。計算機をプログラミングするのであればデータシートを見てその通りに作れば基本的には問題ない。予期せぬ挙動があれば、データシートが間違っているか不良品か自分が誤解していたかそのどれかしかない*10。しかし子供は計算機ではない。予期せぬ挙動をすることはむしろ「仕様」である。にんげんだもの

そのことがまるで理解されず、「プロクルステスの寝台*11が跋扈している日本の学校とは本当に恐ろしい世界だとしか言いようがない。何度でも言うが、これほどまでに「真理省」に近い組織が他にあればお目にかかりたいものだ。遠山啓は泉下で涙に暮れていることであろう。

*1:「1984年」において、歴史や記録の改竄などの情報操作を行っている省庁。主人公の勤務先でもある。

*2:ちなみに小学校教師が「躓く」を「つまく」と書いているのは全く問題であろう。書く前に「爪で突く」から「つまづく」なのではないだろうかと考えれば防げる誤記である。追記:これについては誤りではないとの指摘をコメント欄で頂きました。

*3:正確には「猿と共通の祖先から進化した」というべきであろう。

*4:年や性別がばれる発言だが、まあいい。

*5:その先生方とは年賀状のやりとりが実に二十年近く続いている。

*6:私が小学生の時、とある教師が「自己紹介をしましょう。名前と得意なことを言って下さい」と言った。最初に指名された子が「○○です、体育が得意です」と言った。そして次に指名された私が無邪気に「Sokalianです、算数が得意です」と言ったところ、教師の目が吊り上がり、私は頭ごなしに怒られた。その時の教師の言い分は「運動ができることを自慢してもよいが、勉強ができることを自慢してはいかん」というものだった。これに象徴される出来事の多くは私の人格形成のうちの少なからぬ部分を占めている。

*7:「豆腐の角に頭ぶつけて死ね」と一度は打ち込んだことを敢えて告白しておく。

*8:無論、夢や情熱を語る場というのもそれはそれで必要である。しかしそれは酒を飲みながら話すべきものと大抵相場が決まっている。学会には必ず懇親会があり、お客さんを呼んで講演を聴けば得てして「夜の部」があるのもこのため、とまあこれは余談なので冗談半分本気半分で聞いていただきたい。

*9:さすがに教科書には載っていないようだ。さもあろう。そんなトンデモな教科書は検定を通るはずがない。いや、ことにするとあるいは、「つくる会」教科書のように、初稿はトンデモまみれだったものを、検定意見に従ってトンデモを削除した結果、最終的に検定をくぐり抜けてしまったということなのだろうか。

*10:大抵は一番最後の選択肢である。

*11:たとえば、プロクルーステース - Wikipedia参照。

ごんべえごんべえ 2010/11/21 14:08 *2
「つまずく」方は、文部省でそう決めたからで、仕方がないのでしょう。
ぢ・じの使い分けと同様、そう決めたもので、現時点では誤記とは言えないでしょう。

*9
教科書の指導用本は東京書籍だけじゃなくて、ほぼすべての教科書会社がだめなみたいです。しかも、増加した結果?
よく考えないでマネるひとが作っているんですね。
http://ameblo.jp/metameta7/entry-10461348378.html

SokalianSokalian 2010/11/21 16:40 コメントありがとうございます。

>「つまずく」方は、文部省でそう決めたからで、仕方がないのでしょう。

確かにこれは誤解していました。調べてみたところ、「つまずく」でも誤りではない、というかむしろそちらが本則で、結論としてはどちらでもよいとされているのですね。

http://www.bunka.go.jp/kokugo/main.asp?fl=show&id=1000001727&clc=1000000068&cmc=1000003927&cli=1000004142&cmi=1000001718

その「ルール」自体は何となく承知していましたが、私の感覚ではこれは「現代語の意識では一般に二語に分解しにくいもの」にあたるとは到底思えなかったので、「つまづく」だけが唯一の表記法だと思っていました。

指導書の件は本当にひどいですね。これはもはやスキャンダルだと思います。

abcabc 2010/11/21 17:01 素晴らしい。
キチガイ馬鹿共にもっと言ってやってくれ。
http://swinglike.ojaru.jp/

SokalianSokalian 2010/11/21 18:23 コメントありがとうございます。しかし、関係ないサイトへのリンクを張ったり、罵倒「のみ」で構成されたコメントは次回からご遠慮下さい。

saruknightsaruknight 2010/11/21 20:14 要は権威が欲しい層がどこかにいるってことですよね。
宗教でも、科学でもこんな方、多いですよ順序がどうとか。

最近、内向きの力って怖いなあと思うことがあります。
やることない・・から何かに依存するみたいな。

部活を担当している先生だったら授業と部活でいっぱいいっぱいなんでしょうが、
歴史の先生とかこの先生とか余ったエネルギーをこんなところに使っているもんなんでしょうかね。

takehikomtakehikom 2010/11/21 20:47 コメント・トラックバックありがとうございます.書く励みになります.
なのですが,残念ながら現時点では,益するところが乏しいと判断しましたので,当ブログのSokalianさんによるコメント・トラックバックは削除させていただきました.
もし,書かれたコメントをお持ちになりたければ,メールで返送可能ですのでお知らせください.

makimaki 2010/11/21 22:34 >それが全ての子供に完璧に当てはまるなどと考えるのは傲慢極まりない考え方だ

まさにそのとおりで、こうした意見の酷いところは、出来る人が論を構築するところだ。
出来ない人には効果的かもしれないというのが、意見に現れない。

出来る人は、こういっては何だが勝手に出来るようになるよ。
「出来る子」だからね、なぜ×がついたのか、自分でおかしいと判断出来るし、親兄弟にも聞ける。
だからこそ、こうして問題になるわけだ。
別の視点では、そうした「否定」が大発見のトリガーになる事だってある。

けれど、出来ない子はそもそも「出来ない」のだよ。
書いた式に×を与えられないと、理解していない事(単に数字を並べただけ)にも気付けないかもしれない。
そうした損失のほうが酷いのに、「出来る人」はそれを考えられない。
「出来ない」ことが想像できてない。

じゃぁ、教師はそうした子供個々人の素養をきっちり見抜いて、個々人に的確な教育をしろってか?
それなら、医師なみの給与を払わないとやってられないだろうし、まずはそっちの議論が先じゃないか?

SokalianSokalian 2010/11/21 22:56 id:saruknight
>歴史の先生とかこの先生とか余ったエネルギーをこんなところに使っているもんなんでしょうかね。

私の知る限り、歴史の先生は学識豊かな人が多いように感じています。元々網野善彦が高校の歴史教師だったように、歴史教師はアカポスに恵まれなかった人が死亡するなどで、外部からの知的刺激が強いからでしょう。「つくる会」教科書の採択率が極端に低くとどまったのもこのためではないかと憶測しています。
反面、数学や英語に関しては数学教育、英語教育の分野の水準は私の知る限り非常にお寒い限りです。理由はわかりませんが、
http://m-ac.jp/me/instruction/subjects/number/composition/book/doc/composition.pdf
先日から話題に上がっているようなこの北海道教育大の教授の文章のように、はっきりいって素人レベルの論考が「研究」のような顔をして罷り通っている現状があるようです。

id:takehikom
そのようにお考えになられたのは残念ですが、了解しました。
コメントですが、ここにメールアドレスを貼ればスパムが飛んでくるだけだと思いますので、当記事のコメント欄に貼り付けていただけないでしょうか。一度貼り付けていただければ当方にメールが飛びますので、後は削除して頂いても放置して頂いても構いません。

>maki様
はじめまして。私はコメント欄で基本的に敬語で応対しているので、次回からはそのおつもりで文体をお考えいただけるとありがたいです。

>「出来る子」だからね、なぜ×がついたのか、自分でおかしいと判断出来るし、親兄弟にも聞ける。

その「親兄弟」がろくに理解していない可能性が高いことがわかったのが問題なのですよ。なぜかというと、学校で「掛け算には順序がある」というトンデモを教え込まれて、それをご丁寧に大人になるまで覚え込んでいる(つまり教える側の「方便」だと理解できていない)からです。

>書いた式に×を与えられないと、理解していない事(単に数字を並べただけ)にも気付けないかもしれない。

この問題の場合、「掛け算」だということがわかれば「単に数字を並べただけ」で正解なのだからどうしようもありません。3×5と5×3はどちらも「同等に」正しいので、片方を×にするくらいなら両方を×にした方がまだマシです。問題が悪いのに、生徒に当たり散らすなど言語道断です。

>そうした損失のほうが酷いのに、「出来る人」はそれを考えられない。
>「出来ない」ことが想像できてない。

遠山啓のように、本職の数学者でありながらそれを「想像」できて、教育方法の改善に貢献した人はいます。ところが遠山は名前だけが崇拝されて、その思想は全く理解されずに、教科書会社が平然とトンデモを出版し、教師がそれを真に受けている。これが問題なのです。
相手は小学校の算数です。そのレベルのトンデモをトンデモと見抜けない人間に教師の資格はありません。

>じゃぁ、教師はそうした子供個々人の素養をきっちり見抜いて、個々人に的確な教育をしろってか?

あのですね、今回言っているのはとてもそんな高いレベルの話じゃないでしょう。「子供にトンデモを教えるな」それだけです。それぐらいできるでしょう。プロなんだから。

SokalianSokalian 2010/11/21 22:58 それからもう一つ。

>なぜ×がついたのか、自分でおかしいと判断出来るし

相手は小学生です。親や教師に精神的に依存しきっているし、まさか親や教師が間違っているという考えが浮かぶことはそうありません。
私自身そうでした。「できる子」というのは「世慣れた子」とは限らないんです。記事中でも触れてますが、「できる子」をみなさん過大評価しすぎです。

saruknightsaruknight 2010/11/21 23:36 管理人へ

”プロなんだから。”はいいので、子供といい時間過ごして欲しいです。これらのコメントの欄とか見てるととても面白そうに見えないです。まあ数式の法則くらいはきちんと教えて欲しいですが、大事なのは卒アルとかでいい感じで書かれるのが一番の幸せなんじゃないかと。。自分も小学生の先生にスクワット300回やれと言われたことありますがいい思い出でした。


つーか才能とかあるんだったらまともなところで研究しましょうよ。上の下位層とかの研究には興味がないです。自分も国際的な研究分野のアカポスですが、マジでアメ公うざいです。けど面白いかも。

SokalianSokalian 2010/11/21 23:43 ごめんなさい、おっしゃりたいことがよくわかりません。そもそも、私は小学校教師ではありません(中高の教員免許を持っているとは書きましたが小学校の免許を持っているとも書いていないはず)。
また、このブログの更新頻度を見ていただければわかると思いますが、私の私生活の中でこのブログの比重というのは非常に低いので、私の精神生活を心配していただくには及びません。

makimaki 2010/11/22 00:52 ところで、初任給20万程度、勤続20年で40万程度の「プロ」に、何を期待していますか?
そのくらいの給与で働く人は、大概は決められたことをこなす「普通の人」ですよね。
形に合わせて考えれば、大筋日常生活には困らない知識が得られる。
形を外れた考えは不正解とする。
今の公立の学校の先生は、これで良いですよ。

それに疑問を持つ人は、それなりの教育を自己責任で子供に施します。
良い環境、良い教師、良い学友、それらはお金で買えますね。

あと、中学高校で上書きされる知識など山ほどありますが、小2へ算数を段階的に教えていく過程の「途中」を、トンデモとするのはなぜですか?

SokalianSokalian 2010/11/22 01:04 >ところで、初任給20万程度、勤続20年で40万程度の「プロ」に、何を期待していますか?
>そのくらいの給与で働く人は、大概は決められたことをこなす「普通の人」ですよね。

「決められたことをこなす」だけでそれぐらいの給料がもらえるよい身分になってみたいものですが、それはさておき、教職をマクドナルドのアルバイトのように心得る人間がそもそも教職に就くべきではないでしょう。だいたい、どれだけ金を積んだって子供に対する愛情は買えませんよ。職として選ぶのに躊躇させるような安い給料ではないのだから。

>形を外れた考えは不正解とする。
>今の公立の学校の先生は、これで良いですよ。

それが正しいとして、「掛け算は非可換」なんて「型」は「型」としても不適切ですから無関係の議論ですね。

>それに疑問を持つ人は、それなりの教育を自己責任で子供に施します。
>良い環境、良い教師、良い学友、それらはお金で買えますね。

それが正しいとして、お金がない人はどうせよと?

>あと、中学高校で上書きされる知識など山ほどありますが、

例えば?「厳密化」はされていっても「上書き」なんてされませんよ。

>小2へ算数を段階的に教えていく過程の「途中」を、トンデモとするのはなぜですか?

誰もそんなことはしていませんが。「途中」が絶対であるかのごとくに言い募ることをトンデモだと言っているわけです。それにそもそも「途中」であるからといって×にされるのは、公理的な態度をどこまでも貫き通した場合に限ります。
早い話これが、大学生相手に「自然数の公理系」を講義していく過程であれば、交換法則を「証明なしに」使った場合は×をしてもよいでしょう。それは「交換法則が」間違っているわけではなくて「論法が」間違っているからです。
ところが、小学校ではそこまで厳密さが要求される段階じゃないし、実際に教師だってそういう態度で教育をしているわけではない。だとすれば、「途中」を通り越したその先にあるものを証明なしに使うことは何ら責められるべきではない。誰かも言っているように、件の問題では「立式」の正しさが問われている。そして、掛け算の順序にかかわらず「立式」は正しいですよ。

通りすがり通りすがり 2015/05/31 12:18 この話は、数学の問題ではありません。人間の性質の問題です。わたしは心理学や精神医学を通して独自に人間の行動について分析してきたのですが、そこでわかってきたことがあります。人格によって非可換性を武器にしている人たちが存在しているのです。なぜこれが武器になるのかといいますと、それは暗号の解読のようにその間違いあるいは矛盾の存在を発見すること、そしてそれらを説明するには多くの計算量が必要になり大多数の人たちには難しくてわからないことだからです。極一部の人間がおかしいとさわいだところで相手にされることはありません。これもまた、人間の性質に基いています。人は長いものに巻かれたがります。どっちが正しいかを決めるのは数学的にはヴィザンチン将軍問題となりますので、バカを攻略した者が世界を支配することになります。おおかた、このような作りですが、まだ別の作用もあります。ココではそれには触れません。

通りすがり通りすがり 2015/05/31 12:23 そうです。彼らは自分で気が付かずにその性質を発揮して、非可換戦略を実行したにすぎないのです。遺伝子あるいは本能的な行動の性質ですので、彼らが考えてやっているとは思えません。せいぜい、こうすれば分かりやすいとか教えやすいとかの程度でしょう。もちろん、それらが学問である数学の結果と矛盾するのは明白です。

通りすがり通りすがり 2015/05/31 12:48 もうひとつあります、教えられる子供の人格によってはこの非可換な方が分かりやすい人もいる可能性があります。とはいえ、そういう人達は非可換なまま世界を構成していくことになり長い間に学問的には間違ったところに到達することになります。本来は、教育において可換な系と非可換な系の両方を教えるのが必要なのですが、小学校ではちょっと早すぎるのかもしれません。学問的に間違いではない以上、教え方はいいとしてその採点行為に誤りがあるといえるでしょう。考え方が必要なら、どう考えたかを書かせる以外に相手の思考を知るすべはありません。しかし、実際に行われているのはそうではなくただの数字の順番で教師が勝手にそう推定しているだけなのです。