Some Came Running このページをアンテナに追加 Twitter

近況

映画『熱波』レビュー、「金曜しねまてーく!」vol.5『オルエットの方へ』(更新2013.7.29)

7月26日(金)にフォーラム山形の「金曜しねまてーく!」におきましてジャック・ロジエ監督の『オルエットの方へ』が上映されます。18時半からの回は、上映の前後に解説をさせていただきます。 7月7日(日)の『朝日新聞グローブ』におきまして、ミゲル・ゴメス監督『熱波』クロスレビューをしています。ウェブ版はこちら。 7月5日発売の『キネマ旬報』7 月下旬号におきまして、『ベルリン・ファイル』のレビューを書いています。


2013年06月30日日曜日 After Earth by M. Night Shyamalan

いきなりクライマックスは「死なないフラグ」なので安心して見られてしまう

──M・ナイト・シャマランアフター・アース



 映画を見るとき基本的に2つのモードがあると思います。1つは「期待モード」で通常は予告編とか見て、映画会社の巧みなマーケティング戦略によって、私たちは「うぉー!」「スゲー!」「見てー!」という、中学生男子のような脳内モードが形成されていき、映画館に突進していくわけです。で、もう1つは何かというと「自虐モード」です。予告編みても1ミリも見たいと思えない映画。もう予告編を見れば見るほど、事前情報を知れば知るほど、こっちの期待値が暴落していくタイプの映画です。にもかかわらず、「見よう!」と決断し、劇場で切符を買うにはどうするか。爆死を覚悟で地雷原を突き進む戦士のごとく、ここを生きのびて帰って来られたことの達成感を味わうために、いや、万に一つの確率で、傑作と出会えるんではないか、という希望を胸に、死地に赴くという究極のマゾヒスティックな心理状態です。

 前置きが長くなって恐縮ですけど、M・ナイト・シャマランの新作がかかるといって、『シックス・センス』見た90年代末の「僕ら」は、「期待モード」マックスだったわけですよ。で、毎回新作を期待していたのですが、わたしはといえば『アンブレイカブル』で、結構ヤバいなと思いました。その不安は彼の作品を見続けるごとに高まっていったわけです。しかしそして終わるたびに、『サイン』のころはまだ良かった、『ヴィレッジ』のころはまだ良かった……という落胆と、いや、でも次は良くなるんじゃ……という淡い期待を胸に帰っていったのです。原案だけの『デビル』は傑作だったしね。

 そして『エアベンダー』ですよ。あれをどれくらいの人が劇場3D版で見たのか定かでないですが、友人に誘われたシャマラン来日プレミア試写に行ってしまった小生にとっては、これは忘れがたい夜となりましたよ。シャマランよ、どこへ行く。そんな悲痛な声にならない叫びが、あのクリリン少年(名前忘れた)の活躍の間中、会場に満たされていたように思います。

 さすがに映画会社もシャマランの名前出すのはヤバいと判断したのか、今回の『アフター・アース』、予告編では一切シャマランの名前は出てきませんでしたね。あ、シャマランですが、ほらほら、スミスさん親子で共演されてますねえとパブリシティのかなり露骨な誘導がされてましたが、そんなことでシャマラン・ファンは欺されない。とっとと劇場にはせ参じたわけです。もう自虐モード最大にして。



 前置きばかり長くなって、アレですが、まず冒頭から今までとは違いますよね。というか、シャマランもこういう話の作り方をするようになったんだなーとひとりで感慨にふけってました。どういう話の作り方かというと「いきなりクライマックス」方式ですね。

 オープニングクレジット出るか出ないかのうちに、まあ大変なことががんがん起こる。まず主人公の宇宙船が落ちる(笑)。しかも主人公に思えたウィル・スミスが吹っ飛ぶ。と思ったら、スミス二世少年がゼゼハハいって倒れてる。ここでナレーションが入って、話が3日前に戻ります。この「〜日前」とか「〜時間前」というテロップ、最近、何度見たかなー。

 急に主人公ピンチで始まるパターン、見る者を「つかまえる」手法って、いかにも映画的だと思われますよね。ただ、これって脚本家が思うほどつかみとしては強くないんじゃないかと思うんです。意外なことに、水木洋子はこういう作劇そのものはNGだといってるんですよね。ご本人の脚本では『浮雲』でも『また逢う日まで』でも、回想を結構使うんですけど、自制のいじくりで興味を操作すること自体は「ドラマ」にならない、というのが水木氏の主張なんです。これは正論すぎるほど正論なんです。あれだけ複雑な時間の操作をしていたタランティーノが、最近どんどんそういうことをしなくなっているのも、(彼の場合、単純に飽きたということもあるんだろうけど)、それだけだと上手くいかないなあということを経験的に体得したからだと思う。

 で、この「いきなりクライマックス」で始まると、もうそういうのに馴れきった映画ファンというのは、「あ、これもう主人公生き残るね」と思ってしまうんです。この種のはじまり方をすると、大体最後まで主人公は死なない。つまり話の構成それ自体が、「死なないフラグ」になってしまうことになり、最初っから安心して見ていられることになる。これってやっぱり、「どんでん返し」の人、シャマランはもう完全にそういうのやめにしますという宣言なんだろうと。

 アーサとかいう怪物をめぐっての演出はそれなりに凝っていて、そこで主人公のトラウマフラッシュバックしていくあたりとかは楽しめたけど、それ自体回想形式を採用して、さらにまた別のフラッシュバックで回想を使うというあたりの無自覚さというんですかね、けっこう雑だと思うんです脚本が。見る前からある程度は予想していましたが、今回シャマランは完全な注文仕事に徹していて、それはかなり潔いなあと思いました。

 またそれで却ってシャマランの作家的な資質は、どんでんがえしよりも、怪物へのオブセッションにあることも分かってきましたし。最後に変なバケモンを出して締めくくるという、シャマランの身もふたもないB級感覚というのは嫌いじゃないんですよね。最初は、野獣の死骸、つぎに人の串刺し死体と煽っていって、何か知らないが恐怖を察知するとかいう特殊な能力の長い説明とがでジワジワと盛り上げて、最後にぶわっ出すあたり、本当はエイリアンの監督とかやらせるともっと資質が発揮されるんじゃないでしょうか。これからももっともっとこの路線でやってほしいところです。

 しかし『オブリビオン』といいこれといい、ちょっと前の『ウォーリー』といい、地球は完全にゴミ溜めですな。ディストピアものも食傷気味になってきた感がありますが、またそんなことを言ってると、地球決戦ものかなんかが流行るんでしょうかね。

 あと、ジェイデン君(やっと名前思い出した)、結構いいじゃん。ウィル親父は、インデペンデンスの頃からぜんぜん変わらないけど、彼はもっといろいろな役柄できるんじゃないかな。

デビル [DVD]

デビル [DVD]

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/SomeCameRunning/20130630

2013年06月23日日曜日 Le naufragé et Un monde sans femmes par Guillaume Brac

楽しさと空しさの紙一重

──ギヨーム・ブラック『遭難者』『女っ気なし』

 すでに先週の宣言を激しく後悔しつつあるのですが、とりあえず行(逝)ってみませう!

 この映画レビューの基本モードは「ユルい」ことを至上としますので、やはり取り上げる作品もそれにふさわしい、「ユルい」傑作であることが望ましいのですが。しかし、これがなかなか見当たらないわけですよ。バズ・ラーマン版『華麗なるギャツビー』も、まあワキが甘かったりするのですが、なんだかんだいって、作り込んであるところは作り込んであり、カチッとできているわけです(できの良さは、ジャック・クレイトン&ロバート・レッドフォード以上かも)。だいたいユルいことと傑作とは相容れない要素なわけで、傑作となるにはユルくはなれないし、逆もまた真だと普通は思うわけです。

 と、そんな常識を覆すような作品が、なんとフランス映画祭で上映されるのです。それがギヨーム・ブラック監督の『遭難者』『女っ気なし』の2本。まず『女っ気なし』というタイトルが素晴らしい。華麗なるユルさ(!)を期待できるじゃないですが。ちなみに原題直訳すると「女性のいない世界」。「男と女のすれ違い」*1という、分不相応にもオサレなタイトルで配信されたこともあるようなんですがね、もう断然『女っ気なし』押しですよ。



 フランスには「ヴァカンス映画」なる奇妙なジャンルがある。

 まんま、ヴァカンスを描いた映画である。念を押すが、本当にそれだけである。都会から若い女の子が田舎にやってきて、土地の男の子ときゃっきゃうふふなひとときを過ごす。それだけ(ルノワールの『ピクニック』)。あるいは、いい年したオッサンが、田舎で元恋人に再会そして(あるいは)ぴちっぴちしたJK(女子高生だよ、為念)と遭遇し、よからぬ計画を立てる。といっても、それはある体の部位に触れるかどうかとかいうそんなどうでもいいことである。それだけ(エリック・ロメールクレールの膝』)。だいたい、ヴァカンス映画はこのギャル系と、オッサン系に二分されると思うのですが、なんちゅーか、フランス人の頭ん中は、中学生かというような内容である。

 ちなみに、映画においてヴァカンスというのは、たいてい「死亡フラグ」です。『ベニスに死す』みたいに、美少年に遭遇しても疫病で死ぬとかですね、テキサス最高とかいって馬鹿モンがはしゃいでいると『悪魔のいけにえ』みたいにレザーフェイスに遭遇するとかですね、休暇とってどっか行くと通常ロクなことにならない。どうしてかというと、それぐらい劇的なドラマを用意しないと、普通は映画として成立しないから。そして旅立ち=死というロマンチックな等式がどっかで共有されているからでしょう。なのですが、そんな地雷原を颯爽と突き進み、出来事の罠をかいくぐり、「何もない」というあっけなさを享受するのが、ヴァカンス映画のヴァカンス映画たるところです。『スプリング・ブレイカーズ』なんかを見ても、アメリカでヴァカンス映画を成立させるには、強盗とか銃撃戦とか、ドラッグとか巨乳ギャルとか、あとなんだろう、かなり無理くりな操作が必要になってくるんだなあと思わせられるのですが、フランスではそれが皆無なわけです。

 最近だと、ジャック・ロジエの『オルエットの方へ』はある意味で、ヴァカンス映画の至高形態というか、ふつうご都合主義的ではあっても、いろいろな人物設定とかをそれなりに作るもんですが、それすらなくただひたすら、ギャル3人が、ぎゃはは、きゃーきゃー言ってる騒ぎまくって、しかも強盗も殺人もない。それで、えんえん2時間40分もの長尺で押し通すあたりがロジエの過激さなのですが。ちなみにこの映画では、やたらデカい網を使った「エビ捕り」という謎のシーンがありますが、今回の『女っ気なし』でもでてきます。

 ちなみに『オルエットの方へ』に出演しているダメ男ベルナール・メネズは、ギヨーム・ブラックの長篇『遠雷』(原題)に出演、しかも『遭難者』『女っ気なし』に出演したヴァンサン・マケーニュと共演(しかもIBDb見る限り親子らしい!)。うーん、この分かっている感。このブラックという監督、ヴァカンス映画の何たるかをかなり真剣に考えていますね*2

 ヴァカンス映画の条件というのは、だから表面的には「何も起こらない」という、否定的な定義付けしかできないようなところがあります。



 じゃあ結局どうなるのかというと、あとは映画を引っ張っていけるようなクセモノを出すかというのが勝負になってくる。ルノワールの映画なんて、ミシェル・シモンみたいなクセモノ揃いですからね。

 さて今回の2本に共通して登場するのは、ヴァンサン・マケーニュという人が演じているシルヴァンというオッサン。このキャラクター造形が素晴らしい。まずデブ。そしてハゲ(全体としてロングなのにてっぺんが薄いという、いわゆる落ち武者ルック)。もちろん独身(親はいないみたい)。趣味はテレビゲーム(愛機はニンテンドーのWiiだ)。これで一本の映画を成立させようというところに、ギヨーム・ブラックの並々ならぬ意気込みを感じる。ブレののないユルさ。

 基本的に彼はとても性格がいい。しかも墓穴を掘る才能がパない(笑)。『遭難者』では、自転車パンクしたイケメンのサイクロストを助けたりするんですが、飲酒運転で違反切符着きられて、サイクリストからもキレられるという。『女っ気なし』では美人母娘に部屋を貸したりしています。しかも運命の悪戯か、『女っ気なし』では、年増のおっかさんにモーションをかけ、えい!と決死の覚悟で手を握ってみるが、結局、なにもなし。が、なんとその娘(コンスタンス・ルソー)との間でリア充展開が起こったりという、全国のオタク男子の希望を一身に背負っているかのような活躍を見せます。

 特に最後の息づまる同衾は感涙ですよ。ここにグッとこない男は漢じゃないです。

 今日は帰りたくないなあ、ここに泊まってもいい? って美少女に聞かれたら、普通歓喜ですけど、シルヴァン、めちゃびびる。「あのベッドどうしましょうか?」とか聞くわけです。で、一緒だろJK!(「常識的に考えて」の意だよ)とJKから一喝、仕方なく(ここが重要)一緒に寝るのですが、「ズボンははいたままでいい?」とか聞いて、「ダメよ」とかいわれちゃうんです。もうここからの数分は、なぜかものすごい手に汗握りますよ。「腕枕していい?」とか聞かれちゃってさあ、シルヴァン「う、うん」とかいって腕を貸すわけです。で、女の子がシャツのボタンを外してくれるんだけど、彼は彼女が外しやすいように上にかかっている毛布をさりげなく下にずらすわけです。で、ぎゅぅっと最後は女の子を抱きしめてあげるのですが、抱きしめ方がやさしくて、しかも下手くそで(笑)、せつなくなります。胸が痛いです。しかも、それで、美人母娘はやっぱり帰っていくんですよね。シルヴァンはひとり残される。楽しさの後の空しさ。

 あ、余談ですが、ここの朝のシーン見てもそうですが、ブラックという監督はものすごく女の子を撮るのがうまいです。寝ている女の子のうなじを撮るというのは、個人的にツボでした。そうだよ、ここだよ、という感じです。



 ヴァカンス映画は、人生の楽しさを凝縮している一方で、ある意味では、人生の空しさが結晶化されているんだと思います。だから面白いし、何度も見たくなる。普通の映画のように「事件」を起点にしてはいないものの、そこにはまぎれもなく人生が、人の愚かな営みがあるという手ごたえがある。にもかかわらず、全体のフレームはユルい(笑)。ここが重要です。カチッと作り込まず、適当にはじまり適当におわる。ヴァカンス映画はだから、多分にブログ的なところがありますよ(笑)。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/SomeCameRunning/20130623

2013年06月16日日曜日 Preface

前口上



 月2回の更新を目指す! という所期の目標はどこへやら。気がつけば3ヵ月が経ってしまいました。まあ、前回の更新が少しヘヴィ(フランス語教師っぽく言えば“グラーヴ”)だったもので筆がつい重くなってしまったのである……。というのは嘘とはいわなくても、七割は態のいい口実ですね。やはり単にめんどくさかっただけです。



 さて、じゃあもういっそのこと、ブログやめてもいいんじゃね? というのはずっと考えてはいたのですがね。未練がましくというか、こんな弱小ブログでも、絶滅危惧種的な憐憫の情のようなものというのでしょうか、ここまでやってきたんだから、なんとかして延命できないだろうか、などととあれやこれやうだうだと考えていたのです。が、やっぱり下手な考えはなんとかに似たり。そのままずるずると、というか急行列車の窓外を流れる街の風景のごとく(安部公房っぽく言えば)、ワンシーズンが過ぎてしまいました。



 でもここ数日のことなのですが、また前のように、本当にサクサクと書くブログを復活させてみたくなってきたのです。理由のひとつとして、書評を依頼されて故・伊藤計劃さんの『Cinematrix』を読んだこと。単純に、こういうのいいよなあ、と。とはいえ伊藤師匠のような芸など到底及ぶべくもないのですが。もうひとつはつい最近ですが(というか一昨日なのですが)、大学院生時代の先輩と再会しまして、思いがけず「実はさあ、梅本(洋一)さんの追悼文読んだんだけど、すごく共感したというか、自分のなかでは喝采って感じだった、うん」と言ってもらったことがあります。



 ブログっていうのは――ツイッター、フェイスブックが席巻した今となっては――ものすごくまだるっこしいコミュニケーション・ツールだ、というか相対的にそうなってしまったんじゃないかなあと思います。もちろんこれを日記として使い続けている人も中にはいるでしょう。ですが、たぶんブロガーは、書くことそれ自体の楽しさ(まあ自己マンですが)もさることながら、書くことで発生する空間をあれこれ構築することに喜びを得ているのではないかという気がします。



 ですが、それはツイッターのリツイート、リプライ、ファボり、フェイスブックの「いいね!」の即効性に比べるとあまりにも遅い。ネット空間の即時性(瞬殺性といったほうがいいのかな)はどんどん洗練されていき、せっかちになって、気がつけばブクマがひとつ増えました、とかアンテナ数が微増、みたいなブログのレスポンスの鈍さはやはり「やってられん」ということになってしまう。



 でもね、そういうリツイート100達成とか、ファボ200達成とかって1週間もしないうちにタイムライン上で押し流されていく。そんなもんだよ、とこの刹那的な宿命を嘆くのはあまりにナイーヴだとは思います。思いますが、やはり何か書くことで得られる手応えからすると、ツイッターもフェイスブックも脆いんですよね。そんなお手軽なレスポンスよりも、3ヵ月経って、いや1年ぐらいして「あのブログ読んだけど良かった」とつぶやくように声をかけられる方がよっぽど書いた甲斐があったなあと思うわけです。



 (しかし2000年代半ばの加熱したブログフィーバーは凄かったですね。先の伊藤さんの小説『虐殺器官』でも、日本はもっとも多くの個人ログを生産している国として登場しますよね(笑)。だれも彼もが狂ったように、ふざけ半分ではじめては見たものの、わりと真剣にテクストを書いていたように思います。)



 わたしの知っている領域は文化系、わけても映画系に偏りますが、2000年代(※ あ、「ゼロ年代」なんて言葉は死んでも使いません)にエキサイトしていたのは紙媒体よりも電子媒体だったんじゃないか、少なくともブログがある種の動員に貢献したのではないかと思います(この煽動性、動員効果は、よりコミュニティを細かく最適化できるツイッター、フェイスブックに移行しつつありますが)。



 ということで、映画レビューを再開してみようと思います。毎週日曜日に更新。テクストの分量は未定ですがまあそんなに力まず、2000ワードあたりを目安に。言葉づかいも、論文系、批評系ではできないぐらい、思いっきりはっちゃけさせて、ライトさを信条とすること。



 速く書く。これを基本にします。推敲に凝らず、可能なかぎりスピーディーに(指先をキーボード上で可能なかぎり迅速に運動させながら)。そんな感じで書いてみようかと思います。



 というわけで、何かひとつレビューを書いてみようかと思いましたが、すでに字数オーバーなので、レビューは来週から。ということで、また来週!


虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

zeroeszeroes 2013/06/16 23:53 こちらも、TwitterやFacebookでなくコメント欄で応援しておきましょう。

SomeCameRunningSomeCameRunning 2013/06/16 23:58 あ、ありがとうございます! 久しぶりに、はてなコメントの通知で携帯がぴろろんと鳴りましたよ(笑)。いったい何年ぶりだろうかという。あの頃のようなハイテンションさを戻せるか正直こころもとないですが、ゆるーくやっていきます。

麻男麻男 2013/06/17 11:26 こちらのブログ、ほぼ毎日覗いております。映画評再開、実に楽しみです!

SomeCameRunningSomeCameRunning 2013/06/17 22:31 すみません。ぜんぜん更新がなくて。あまり期待せずに日曜日をお待ち下さい(笑)。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/SomeCameRunning/20130616

2013年03月15日金曜日 Yoichi Umemoto

f:id:SomeCameRunning:20130315144138j:image

梅本洋一先生の思い出


 映画評論家であり、翻訳者であり、雑誌編集者であり、演劇評論家であり、スポーツ評論家であった梅本洋一先生は、何よりもまず教育者であった。10年以来疎遠で、呼び捨てにしてきたが、今日は久しぶりに「先生」と呼びかけてみる。


 梅本先生との出会いは、わたしが東京大学研究生になった2001年の春にさかのぼる。先生は東大非常勤講師として来られていた(それは2003年まで続き、2004年は青山真治氏に引き継がれた)。だがわたしと梅本先生の交流は2003年秋あたりで中断してしまう。その後復旧することはなかったので、結局2年半しかおつきあいしなかった(その理由を語るためには批判的な内容になってしまうだろう)。だがひとつ確かなことは、わたしが今こうしてあるのは梅本先生の存在によるところが大きいということだ。大学という教育機関において、わたしに映画を教えたのは、佐藤良明氏と青山真治氏の他には梅本氏しかいない(他に、高田康成氏や松浦寿輝氏の授業にも出ていたが、先生方のアシスタントをしていたので受講とは少し異なるのである)。

続きを読む

2013年03月01日金曜日 Steven Spielberg

 ずいぶんと長い間ブログを更新して来なかった。

 このブログを始めたのは2005年の誕生日だったが(その後色々あって初期に書いたものは一度ほとんど削除してしまったのだけれど)、大学院のあの頃、狂ったように(と今にして思うが)更新していた日々は充実しており、このつたないブログが読まれることでその後に原稿料を頂ける仕事が舞いこんだこともあるので、決して徒労だったとは思わない。

 けれども、日記風の書き込みから、いっぱしに映画レビューサイトを気取ってみたり、随筆的な試みに凝りまくったこともあり、いつしかそっけない近況報告となり、それも後から始めたツイッターやフェイスブックによってとってかわり、このブログもずいぶんと静まりかえってしまったものだと思う。

 ネットによる発信技術はこの8年でずいぶんと変化したのは確かで、事実、ブログによる情報発信(?)が下火になりつつあるのはどうも確かだが、それでも、書くことの原初的な喜びというもの、そして書かれた言葉が、他人による表記チェックやら校正やらゲラ確認といったまどろっこしいプロセスを経ず、その日のうちにアップされることの生理的快感といったものも確かにあって、何となく閉鎖するには忍びないのである。

 ともかく、わたしも気ままな(とはいえその実経済的にも精神的にも今よりはるかに切迫していた)大学院生活が終わり、教員のはしくれとして新たな生活が始まったこともあり、ツイッターでは学生からフォローされ、フェイスブックではリクエスト承認した学生の親御さんからダイレクトメッセージを拝領するといった事態になってみると、景気よく放言をいうこともなかなかできなくなるのである。つまりブログという発信形態にあった面白さをどのように存続させていくかも、少し真剣に考えなければならない。

 さて、今日はお定まりの「近況報告」にかこつけて、少しブログを更新してみようかと思う。切りよく3月の朔日であり、まあできれば、月旦評めいたものが書けるとよいのだが。

続きを読む

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/SomeCameRunning/20130301