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Stahlgewitter2011

2011-07-01

歴史的想像力とは

 歴史は現在にどのように役立つか。

 この問意に直面してまず思い出されるのは、ずいぶんと昔の雑誌の号だが、『朝日ジャーナル』1989年11月24日号に掲載された堀田善衛の文章の書き出しである。この号は、その刊行年月日からわかるように、東ヨーロッパの激変のさなかに出された。堀田善衛はその巻頭の「ドイツのうねり 世界史の奔流 国民軍200年ぶりの撤退」という文章の冒頭で次のように語っている。

「As Ideologies Die, the Historical Analogies Rise(イデオロギーが死んで、歴史を振り返る時代が始まる)」。11月10日付の『ヘラルド・トリビューン』紙に、こういう見出しの記事がありました。やはりイデオロギーが消滅すると、人間は歴史に頼るしかしようがないらしいですね。


 堀田善衛は、Historical Analogies を「歴史を振り返る」とかなり自由に訳しているが、文字通りには「歴史的類比」である。先行きの見えない時代の行動の指針として、過去の類似の状況に手がかりを求めるということであろう。

 アメリカでは、ずいぶんと古くから、実際の政策決定に過去の歴史をどう活用するかが研究されてきた。R. E. ニュースタット/E. R. メイ『ハーバード流歴史活用法』(三嶺書房、1996年)という本まである(原書名はThinking in Time. The Use of History for Decision Makers. で、1986年が初版刊行年である)。
 こういう大学院の授業の話を持ち出さなくとも、多くの人が歴史から教訓を引き出すという形で歴史を現代に役立てようとしている。

 では、逆に、現代は歴史にどう役立つのか。歴史はすべて現代史であるとか、あらゆる歴史にはその時代の価値観が反映されているといったレベルの話でなく、先の「歴史的類比」を介して歴史と現代はどう関係するのか。

 この問題を考察し、実践した貴重な試みが、新約聖書学者の田川建三氏の『歴史的類比の思想』(勁草書房、1976年)、とくにその中の「原始キリスト教とアフリカ」という論文である。
 田川氏は、原始キリスト教がなぜあれほどの速度と伝播力をもって当時の地中海世界全体を風靡したのかという問いに対して、「答はある意味では簡単である。ローマ帝国がつくりだした古代的な帝国主義の状況がそれを可能にしたのである。それ以外に答えはない。キリスト教は(その点イエスとキリスト教の間は明瞭に区別せねばならないが)、その本性からして帝国主義の宗教である」と指摘している。さらに次のように述べている。長いが、長く引用するに値する文章である。

・・・一つの宗教が帝国主義のイデオロギーたりうる資質を持っていたとしても、それが実際にそうなりうるためには、それを受けいれる民衆の側にそれだけの基盤がなければならない。どういう理由で一世紀ローマ帝国支配下の民衆はキリスト教を受け入れたのか。これは決して、キリスト教の神信仰にどういう特色があるとか、その救済の意義にどういう屁理屈が並んでいるとか、そういうことを並べたててもわかることではない。そういうことは、キリスト教徒になったあとで、おのれがキリスト教徒であることのしるしに、坊主の並べたてる能書きを一所懸命覚えて、もしくは適当に片言隻句だけを真似して、口にしているだけのことである。彼らがキリスト教徒となる理由は、もう少し根本的なところに求められなければならない。
 この点で客観主義史学は行きづまる。歴史の研究が客観的であって悪いわけはない。いわゆる客観主義史学が間違えるのは、知識の厳密な正確さを期そうとするところから、資料に書いてあること以外には、何も考えまいとするからである。その結果、自分では意識してそうきめつけるつもりはなくとも、彼らの描く歴史はおのずと、資料に書いてあることしか事実として存在していない、という奇妙な前提の上に成り立つことになる。むろんそんな馬鹿な話はないので、資料に書いてあることなどは歴史のごく一部、それもごく表層の一部にしかすぎない。歴史の最も重要なところ、つまり歴史的動きの広範な基盤をなす民衆のあり様など、普通は資料には書いてない。たまにほんの少し言及があったとしても、たいていは、その時代の権力に近い知識人のあまりあてにならない観察にすぎない。歴史の研究とは、つまり、そういう表層的な、かつゆがんだ性格の資料によりながら、資料に書いてない広範な基盤へとつき進むことであり、そのためには、歴史的な想像力を必要とする。想像力は決して主観的な恣意ではない。事実のひろがりをとらえるためには、想像力が欠如したのでは、かえって恣意的な偏狭さにおちいる。
 このことは歴史研究一般にあてはまることだが、特に、原始キリスト教史の研究については、二重にこの点に留意しなければならぬ。第一に、古代史全体にあてはまることだが、資料の乏しさからして、ますます想像力の比重がます。第二に、ことは宗教イデオロギーに関する。つまり、資料はおのれの宗教の五経しか物語らぬ。歴史的事実のごく表相をさらに屈折して観念化させた宗教の言葉しか語っていないのである。何故原始キリスト教があれほどの伝播力を持ったか、と問うても、護教の言葉は、それは神の意志だから、とか、せいぜいのところ、精霊が使徒達を動かして世界宣教にむかわせたからだ、といった答しか与えてくれない。そういう言葉しか語らぬ資料の間隙につき入って、事態を明らかにしていくことが歴史研究の課題であろう。
 この場合、想像力と言っても、単なるお伽噺的な想像力では意味をなさぬ。歴史的想像力とは、歴史的類比をとらえる力である。類似の歴史的状況をよくとらえることから、類比により資料の背景につき進むことである。この類比をどのようになしうるかに、その歴史家がおのれの生きている世界の歴史的社会的構造をどこまでとらえているかがおのずと反映する。
 一見唐突なようだが、現在のアフリカ大陸でのキリスト教の急激な傍聴の理由をさぐることから、原始キリスト教に接近してみよう。以上述べたような、「歴史的類比」の方法に賛成していただければ、ここで私がとる方法がむしろ自然なものであることも認めていただけよう。現在のアフリカ大陸は、帝国主義の宗教としてのキリスト教をとらえるのに絶好の場である。  (6−7ページ)


 具体的な類比の実践は論文そのものに委ねる。
 歴史的想像力とは何か、という問いに、田川氏は、「歴史的想像力とは、歴史的類比をとらえる力である。類似の歴史的状況をよくとらえることから、類比により資料の背景につき進むことである」と答えたのであった。このような問いに対して、ここまで明快に答えた例を他に知らない。大切に銘記しておきたい言葉である。
 同時に歴史学が現代に強い関心をもち続けなければならない理由はまさにここにある。類比に活用できるような現代の場面局面をとらえる鋭敏な感覚が必要なのである。

 田川氏は、大学紛争で国際基督教大学を辞め、その後は、フランスドイツの大学やアフリカザイールで教鞭をとった経験をもったことはよく知られている。とくに壮絶なアフリカでの経験は、植民地と言語との関係を把握する上で非常に有益だったとあるインタビューで語っている(『考える人』(2010年春号 特集 初めて読む聖書))。植民地を支配する言語を身をもって体験した、と。19世紀末から20世紀初めのアフリカ植民地支配とローマ帝国の領地支配はある意味で非常に似ているのだという。これも「歴史的類比」の発想であろう。