元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

日常イコール「形」

抜粋・紹介

日本人と「日本病」について (文春文庫)

日本人と「日本病」について (文春文庫)

昨日の抜粋の繰り返しになりますが。。

「岸田 ところが、ノミは血を吸って、馬は草を食うというのは、もう本能的にきまってるのですけれど、人間は本能が壊れてしまっていて、何でもできる。本能というのは形であって、その形が壊れてしまったわけですから。しかし、この世の中に生きていかなきゃいけないので、何らかの形を持たなきゃいけない。ノミが血を吸うという形は本能的なものであって、その形以外にはあり得ないわけで、そういう意味でも根拠があるのですが、人間の場合は、いかなる形をとろうと根拠がないんですね。」

結論から言うと、何をひらめいたのかというと、自分も「何らかの形を持たなきゃいけない」と、最近切実に考えており、その結果として、「形」を「日常」に求めようとしているんだろうなあ、ということ。

自分の衝動のようなものに対して、この本により理論的な裏づけができてよかったなあ、と。。
「なぜ自分はこのような衝動を持つのだろうか?」と自問自答するのは大事ですが、そこで堂々巡りになってくるとストレスがたまる。ですから、「裏づけ」のために「本」の支援を仰がなければならない。

今回、偶然この本を再読したわけですが、やはり自分の心が適切な本を呼ぶんでしょうかねえ。。
因縁めいたものを感じますが。


「何らかの形を持たなきゃいけない」というのは、自分の心に耳をすませば、人間の自然な欲求のはずなのです。
「形を持たなくともよい」というのはその欲求に逆行しているのであって、それを続けていたら生活が苦しくなる(「不満ばかり募ってくる」という意であり、おカネに困るという意味ではない)のは自明なのです。

私は「形を持たなくともよい」というのを「非日常を追い求める」ことだと考えています。「日常」をカタめないこと。「日課」「週課」「月課」をあえてもたないこと。(「課」を持つことにより「自由じゃなくなる」という脅迫観念を持っている)

そんな観念を持ち続けていたら、自覚的にいつまでも「形」を持てないので、そのことに対してストレスがたまります。(ストレスがたまる、イコール不満が募る、でもよいです)

私は全く逆で、最近は、自分の生活のほとんどが「課」で埋まっていればそれは幸せな人生なのではないか、と考えていました。なぜ幸せなのか、といえば、この本を引用すれば「形を持つ」ことにより楽になるということですね。

ただしその「課」は与えられたものではなくて自分で選択した、納得のモノでなければならない。


。。もしかしたら、「形を持たない」ことが自分の形だと思っているとか??
それは何か矛盾しているような。。

根源的な欲求としては、形を持ちたい。でも、表層的な欲求では日常をカタにはめず、形を持ちたくない。
この表層的な欲求というのが、マスコミの影響、それと、アメリカ偏重の間違った戦後民主主義に洗脳された結果なのでしょう。

マスコミの影響を断ち切り、「メディアリテラシー」を持つことにより、やっと自分の根源的な欲求が見えてくる、ということ。


この本で書かれていますが、欧米はぱっと見「自由」で形を持っていないように見えるかもしれませんが、彼らには「神」がいるのです。
そして日本にはどういうわけか、神はいない。


余韻を残しつつ、また何かあれば明日以降に。