元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

「貢ぐサン」 「イベント」からの脱却

「こうありたい」または反面教師

  • ヒトのせいにしないで

逃避のために「アヘン」であるシューキョウにハマるのも悪いですが、日常の不満足感の原因をすべて他人のせい、世の中のせいにすることにより「しのぐ」のは同じぐらい悪いと思います。
どちらが悪いというよりは。。どちらもサイアクといってよいのではないでしょうか。

死、あるいは宗教に近い話

  • 「貢ぐサン」

安心を得るために、新興シューキョウへおカネを貢ぐことを厭わない、という人間が絶対数存在する。自分の周辺にもちらほらと、います。

カタクルしいことをいえば、「信仰」に対する多額の献金が、自身の満足という「コストパフォーマンス」に見合うと考えている場合は、自分に関係のないヒトや集団であれば放っておけばいい、という意見もありましょう。

それに対する反論、といいますか、「反」ではないような気もしますので、「意見の意見」としてはいくつかあって、
そういうヒトには私は惜しみない「偏見」の念をいだかせていただきます、ということ。
そして、そのおカネは、もっともっと良い使い途があるに違いない、ということ。「良い使い途」とは、「恵まれないコドモたちへの寄付」的なギゼンではなくて、そのヒトにとって、ということ。それをそのヒト自身が気付かない、気付こうとしない、というのは、不幸ですね、と。


重要なのは、そのカネはいったいどこからでてくるのか?ということ。
新興シューキョウへおカネを貢ぐ場合、不思議なことにほとんどのケースでは、自力で稼いでいるのではなくて家のおカネを使い込んでいるのです。

極限まで生活費、食費を削って、ボロアパートに住み、げっそりやせてしまうほどおカネを信仰につぎこむのであれば、それはそれで構わないと思います。それが「美学」であれば、それこそ信仰のあるべき姿なのかもしれません。

ただしそれは、独りで暮らしている場合に限ります。そして、これからもずっと独りで生きてゆく決意がなければいけません。

家族がいるにもかかわらず生活費、食事を削って、(家族皆が)げっそりやせてしまうほどおカネを信仰につぎこむのであれば、それはサイアクのシナリオでしょう。

そのおカネは、たとえば家族旅行などに充てるべきで、それはゼッタイ的な正論でしょう。

「自分さえよければいい」の最終形がここに見られます。自分さえよければ家族を巻き込んでもいっこうに構わない、罪悪感を感じない、という。。


シューキョウにハマるときというのは往々にして本末転倒であり、信仰のために金ヅルを見つけたりします。
いったいなぜ、それほどまでにカネ、カネなのか、と。そもそも、なぜ自分が稼がず他人のカネを奪ってまでその「教祖様」に貢ぐ必要性があるのか、と。
本末転倒その2は、自分は信仰と活動で忙しくて時間がない、だから働く時間もない、信仰の活動のほうが尊いものだから自分は働く必要はない、というオカシな論法を成立させようとするところです。ここまではまだよい、といいますか、信仰のために自分は働かない、で終わりなのであればまあ餓死でもしてください、といっておけばよいところですが、そこから、「他人の(家族の)おカネは自分のおカネ」というジャイアン理論進化形に飛躍してゆくところです。
他人(家族)のおカネを奪ってシューキョウへつぎこみ、文句を言われると「あなたも幸せになれるから」とオルグ折伏)の絶好の機会とする。
ここまでくると狂っていると断定してよいでしょう。こういう人間が、アナタの身の回りにわんさかいるのです。


自分は、本当に近しい友人知人、家族にこういうシューキョウにハマる人間がいないにも関わらず、なぜここまで腹立たしいのか、自分でもわかりません。
おそらく、真の個人主義の極北にある、自分にとって究極の反面教師だからだとは思うのですが、それにしてもなぜここまで「怒り」を誘発するのか。。

そもそも、本来宗教、信仰というものは
・信仰の「深さ」とおカネ(現世の象徴)は全く相関がないはず
・信仰とはきわめて個人的なものであるはず(他人を誘う必要はまったくない)

という基本的な考え方は確立しています。でもそれに逸脱していく人間が多数いるのだとしても果たしてなぜ、「ほうっておけばいい」ではなく怒りを感じるのか。。
カレらは自分の「どこ」を刺激しているのか。。それこそまさに私自身の「信仰心」なのか。。


いや、こういう状況を放置プレイしている「世の中」とやらに怒っているのかもしれませんね。

自分について

  • 【想い出】「イベント」からの脱却

今思い返せば、イベントというものから精神的に脱却したい、という萌芽は高校ぐらいの頃からありましたねえ。。

その頃でいえばクリスマスやらバレンタインやら、舶来のイベント。。 いや、かつてはイベント性を帯びているのはそのぐらいしかなかったのかもしれませんが。

そういう「イベント」に対して超然としていたかったのですが、もちろん、若かりし頃はそれもできず。。マスコミがつくった世の中のトレンドのとおりに、マリオネットのように振る舞い、ココロの中では「迎合している!」と独り悶々と考えているような。。 とにかく、そんなヤツだったようです。


前にも書いた、自分の中で大きなテーマとしてある「アソビ」ですね。
そもそもなぜアソばなければならないのか、と、ある時期から、そして今でも考えています。

学生時代に、土曜の夜などに外に出ず、家でぼけーっとしていたり本を読んでいたりしていると知らず知らずのうちに罪悪感に苛まれたりして。。「なんで自分はトモダチとアソんでいないのか? 自分の生き方は間違っているのか?」みたいな感じで、そしてそれを打ち消すために「なんで罪悪感を感じなければならないのか?」という感情も出てきて葛藤したり。。

あげくのはてには独りで深夜の繁華街をブラついたりして。。でもそれは決して「アソビ」ではないので、その「焦燥感」のような葛藤が満たされることはなく。。


結局、「超然」とまではいかないまでも、そういうオカシな罪悪感を払拭できたのは、ずいぶん歳を取ってからです。払拭というよりは、「それどころではなくなった」「そんなことを考えているヒマなどない」ということですね。
今はもう、そういう「イベント」に対して意味もなく嫌悪感を持つことはありません。が、そういうイベントそのものを見下しているのは間違いないでしょうね。過去に相当苦しめられた分。
「せめて見下させてくれよ」といったところでしょうね。