【ひとり公論】([新庶民]論) このページをアンテナに追加 RSSフィード

2007-09-08

[](思想への)第一歩 21:19 (思想への)第一歩を含むブックマーク (思想への)第一歩のブックマークコメント

本来の日記部分

テクノロジーからの逸脱って、皆が皆、そういう志向を持っている、あるいは持つだろう、と考えていたのですが、そうではないのですね。。

なぜ、現代人はどこまでもテクノロジー(つまりこれも一種のトレンド)に追従するのか? いいかげんイヤにならないのか? と考えてしまいます。トレンドに鞭打たれているようにすら見えます。

テクノロジー、というのは技術最先端のことではありません。わかりやすいたとえでいえば、ケータイの新機種買い替えの頻繁さ、ですよね。

テクノロジーとは「便利さ」に置き換えてもいいのかもしれませんね。


ところで、自分が今漠然と考えていることがありまして。。

なぜ、高度成長の終焉する頃になって、「今さら」携帯電話とパソコンが爆発的に普及したのか、と。20年、遅いのではないか、と。

なぜ、イケイケドンドンのときに携帯とパソコンが追いつかなかったのか。

それが、わからないのです。人類だったらできたのではないかと思うのですが。。


おそらく携帯電話とパソコンは、次世代のツールだとは思うんですよね。でもなぜ次世代なのか? 現世代ではダメだったのか?

産業革命から200年かけて人類が次世代のために産み落としたテクノロジーの集大成がこのふたつに集約されているような気は、しますね。

ということは、携帯とパソコンは、成長の時代にはそぐわないツールなのでしょうか。


誰かこの疑問に、テクノロジーの専門知識を絡めて答えてくれる方はいらっしゃらないでしょうかね。推測じゃなく。


ミチクサ(散歩、都市論etc)

  • キヨヒサさんのメルマガ 2

先日紹介したキヨヒサさんのメルマガの中で、ご本人は、人生の中で大切な事の9割は読書から学んだ、と書かれていますが、私は5割ぐらいだと思うのですね。

(これは、批判ではありません 人それぞれなのですから)

昨日でしたか、「脳に栄養」の話を書き出しましたけど、脳には栄養(読書)と運動(フィールド・ワーク)がバランスよく必要だというのが私の見解で、私は、極端にフィールド・ワーク重視派です。極端で、5割。

フィールド・ワークだけの人生なんて確かにゼンゼンダメです。それが9割とか10割になってしまうと。。

そのフィールド・ワークを活かす術がわからないはずです。


人生観、のような、思想の話

  • 第一歩

未熟者を承知で言わせていただきますと、「思想」への第一歩はまず、何度も書いているとおり、自分の「死生観」をじっくり考えることです。そのとっかかりとしては、自分にも死は訪れるのだという事実を明確に意識すること。

これにより、自分のココロの中に思想的枠組ができあがる感じがあります。この段階ではまだ枠組に過ぎません。


次に、自分の「怒り」のツボを見つけて、なぜ自分はその対象、事象に対して怒りを感じるのか、どうしたらその怒りをおさめながら生活することができるのか、を掘り下げることです。これにより「枠組」に深みが生まれてきます。

これは実はタイヘンなことで、その怒りの源泉を辿ってゆくと、自分が見たくないモノ、過去が顕わになってくるかもしれません。でも「それ」と対峙しないと深みは生まれないのです。

この儀式を通過すると、人生が少しだけ豊かになったような気がしてきます。これはおそらく気のせいなのですが、その「気のせい」はその後のステップにとってとても大事なことです。とにかく、第一歩は踏み出したわけです。

次は、喜怒哀楽の「怒」以外でも同じようなことをやってみることです。掘り下げること。


これらの作業は、きわめて個人的なことなので、独りで考えてみることです。とことん。


  • 抽象化について

現段階での自分の率直な思い、ということで書き留めておきたいのですが(おそらく考えは変わります)、

概念を抽象化する必要はない、と考えています。

正直にいえば、「できない」。今は、具体的事象に「対処」するのに精一杯で抽象化までアタマがまわらない。

でもいずれ「周辺」の問題をみなヤッツケたら(「ヤッツケる」とは、「解決」するではなくて「消化」するに近い)そちら(抽象化)にいけるかもしれません。


結局、自分がやろうとしていることはすべて自分自身がよりよく生きるため、であって、「世の中」まで考えを及ぼす時間など、全く残っていないという危機感がありますので、やりたいのは、抽象化というよりは、自身での「普遍化」なのでしょう。


  • オリジナリティの話

現代社会を生きていると、どこまでもどこまでも、オリジナリティ「でないもの」が追いかけてきます。

オリジナルな考えだと思っても120%それはオリジナルではなく、「アレンジの妙」にすぎません。

たとえば何か対象があり、それについての「意見、考え」というのは、あらゆるものが即座に出尽くすなあ、という感慨がある。ということは、オリジナリティというのは瞬時に消滅します。そんな時代にオリジナリティを求めてもムダなのかもしれない、と。多くのヒトは考えています。


こうやって書いていることも受け売りですね。

こういう時代に「オリジナリティ」なるものを保持、維持するのはどうするか? 諦めていいのか? と考えこんでしまいます。

。。というのは、ウソです。こういう考えに行き着いてしまうヒトが多いのですけど、

現代社会ではオリジナリティ「でないもの」が追いかけてくるのは事実ですが、逆に、アナタ自身が唯一無二の存在であることから逃れること、こそが不可能なことなのですよ。

マスコミがアナタを、誰かのコピーロボットにしたがります。極限までそうしてやろうと努めても、アナタは結局根本のところではそうはならない。

ヒトビトの悩みは、そこなのです。オリジナルになりたいのではない。自分は誰か(「尊敬できるヒト」「芸能人」など)のコピーロボットになりたくて仕方ないのに、自分がオリジナルであることが足かせになっている。つまりそれは、「凡人」というカテゴリに属するオリジナルであるということ。そこから目を背けたくてたまらない。(【重要】マーク)


だから、むやみやたらに自分探しの旅に出てしまうのですね。探さなくとも、ほしい自分、なりたい自分はそこにあるでしょう? なんですか「スーパーモデル」であったり「トップアスリート」であったり(別になんでもいいのですが)

なりたい自分(ゼッタイになれない自分)は自分の理想像として厳然と意識に存在しているのに、なぜか「旅」に出る。。 旅に出ても、ないものはないのに。

旅に出るのは勝手ですが、戻ってきたら、「自分」を磨きましょうね。


死、あるいは宗教に近い話

井筒俊彦の対談集で、相手の誰かが禅について批判していました。

叡知の台座―井筒俊彦対談集

叡知の台座―井筒俊彦対談集

自分は禅に強い興味を持っていますが、信奉しているわけではないので、なるほど、とうなずけるものがありました。

曰く、禅僧(悟りを開いたと自身は認めている)に禅について聞いても、「禅は言葉を排除する」を隠れ蓑にして黙っている、と。禅の高層は、黙っているだけじゃなくて禅の理論を体系化する責務がある、と、

ここからは私見になりますが、黙っていれば神秘的になる、というネラいもあるのでしょうね。

また、話したところでわかるものか、という諦観というか見下した感じというか、そういうのもあるのでしょう。特にその「見下した感じ」が批判を生むものと推測されますが。。

「理論を体系化する責務がある」というのはなるほどそのとおりだとは思います。全面賛成ではないのですが。。

問題は、その禅僧とやらが果たして表舞台に立つことを望んでいるのか、ということ。そのあたりをちょっとばかし慮ってもよいのかもしれません。

ただ、そのヒトがそういうシチュエーションで禅僧と接したのかはわかりませんが、その禅僧がけっこう野心家で、禅の神秘を誇張したいがためにけっこう意図的に表舞台に出てきていたのであれば話は別で、批判されて当然なのでしょうね。

その禅僧が、本当に、ひっそりと禅の世界に沈澱していたいところを、ムリヤリ引っ張り出しているのであれば、確かに禅僧からしてみれば、ど素人に「アナタには禅を体系化するギムがある!」などと、土足で上がりこまれてずけずけと言われたくはないでしょう。

腹立たしくて、さらに頑なに黙ってしまうでしょうね。


  • 芸能人と宗教

芸能人はカネから逃れることはできません。前にも書いたかもしれませんが。。

なぜなら、それが芸能の宿命だからです。

芸能人が悟りを得るにはカネから逸脱する他なく、つまりは芸能の世界から足を洗う他ないわけです。

と、いう意味では、少し前に、芸能の世界に身をおきながら得度した俳優がいましたが、あの存在はおかしい。

ですが、なぜ現世であの俳優が矛盾なく生きられるか、といえば、宗教法人がカネでまわっているという状況からして根本から矛盾しているからです。


天現寺(広尾の近く)に降り立つと。。交差点の名前の由来になった天現禅寺の並びにビルが立っていて、そのビルには「○○寺」と大きく書かれており、寺がそのビルで不動産業をやってるわけです。おおっぴらに。

あれを見ると、世も末だという感が強くあります。でも、寺という存在が一般市民を末法思想に追い込むというのは、いかがなものでしょうかね。


ところで、「欲望むき出しの坊主」という矛盾した存在がまかりとおるのが現代社会です。


自分について

  • 「テレビという名の怪物」シリーズ

なぜテレビを見ないだけで「めずらしい」と言われるのかはわかりませんが、たかがそれだけの行為で多数派から外していただけるのであれば、喜んで見ません。

それにより日常生活に不便を感じたことは、皆無ですし。むしろ逆で、「おかげさまで」相当生き易くなりました。

まるで「どんどんやってくれ」と言われているような気もしてきます。


抜粋・紹介

山田太一 (略)戦後満州から引き揚げてくるときなどは、現実把握がちゃんとしていなければ生き残れないようなところがありますが、今は現実の把握がかなりいい加減でも生きていける。そのために現実観がいろんな水準で飛びかっているけれども、実はどの現実観も、口にする人が実は自信が持てないし、自分を安っぽいと感じている。だから、本当にすごい人や事柄が出てくると、自分の感情の安っぽさにこたえてしまう。われわれはなにか現実的に生きてない、安っぽく生きているような思いがしている。そういう感情を表現できないか。

河合 経済的な要因とかいろいろあるとは思うのですが、現代人は生々しい現実から遠ざけられて生きている。たとえば、「時間」にしても、われわれが生きている「時間」は時計の上での「時間」であって、生きた時間感覚からは離れてしまっている。(略)

山田 テレビドラマなんかを例にとっても、ちょっと考えたらこんなばかな話はないというようなものが猛烈に高視聴率をとったりする。戦中、戦後、芋を買うことに苦慮して、農家のおばさんがどういう態度をとったら売ってくれるかということを考えたときのわれわれは、もっと人間について知っていたという気がするのです。(略)

河合 その薄っぺらな方の頂点でみんなをパッと引きつけたのが、『一杯のかけそば』みたいな作品ではないですか。

山田 あの程度の作品に感動されると、多くの方々の感動を一応目指しているテレビに関わる人間としては、「エッ、こんなことで感動してしまうの」とちょっとショックがあります。」

「河合(解説) 昔は、ある意味では現在よりも自由がなかったと言える。身分や階級などでがんじがらめである。ところが、昔は「祭」というものが、その本来的な機能を果しており、人間の深部にあるものを一挙に表面化し、各人はそれなりに自分の実存的な存在感を確かめることができた。現代はそのような本来的な「祭」の体験をすることが、ほとんどない。このため、人間の祭への希求の衝迫は一般に「病」とか「異常」とか言われるような行動となって表出される。山田さんは多くの作品の中で、日常のなかに突如として非日常的現象が生じてくることを描いておられるが、これも現代における「祭」の待望がその背後にあると思えぬこともない。」


谷川俊太郎 (略)「常識」を、何故今、事改めて言わなければならないように世の中がなっているのか。そういった世間の変化を河合さんがどう見ておられるか、それをお聞きしたいと思いました。

河合 やはり今の世の中に、常識を教える場が極端に減ったということじゃないでしょうか。それに、常識を持っている人が自信を喪失して、非常識のほうが何か価値があると錯覚を起こしているわけでしょう。(略)個と普遍という問題においても言えるのだけれど、他と違うことをやれば個性だという馬鹿げた思い込みが、今ありすぎるんです。だから「常識」を書かなければならなくなる。

谷川 それと、(略)「昔は良かった」と言う人は、時代の変化について行けてないんだ、と。

河合 ええ。

谷川 すると、僕なんか普通に暮らしていて、やはり今の世の中について行けない面がどうしても出てくる。その場合に、無理してもついて行かなくてはいけないのか、それともついて行かなくていいのか…。

河合 だからね、ついて行っていないんだという自覚があればいいんですよ。その自覚があれば、「昔は良かった、今は悪い」なんて言わないでしょう。自覚のない人がそういうことを言う。(略)

谷川 (略)テレビのワイドショーなどを見ていると、僕らから見ると非常識なことが、一種の常識のようになっている。今までの常識が通用していないだけでなく、一種画一化された非常識が蔓延してきたことが、どうにも不快であるという感じを拭いきれない。

河合 それは私も同感です。やはり非常識な一般的傾向が強すぎるという感じはあります。ただ、それはそれでいい、というか、そう思いたかったら思ってもらって結構なんだけれど、それで不幸になっている人は損をしているなあ、と思います。僕はお節介だから、そういう非常識を本当と思って自分が見えなくなったり、自分を間違っていると責めたりして損をしている人がいると、そんなので不幸になってほしくない、ちょっと常識に乗っかれば不幸にならなくてすむのに、と思ってしまう。」

「谷川 (略)今の「幸福の科学」を始めとするいろいろな宗教が、一種、非常に人の心をとらえている状況は、どんな風にご覧になりますか。

河合 それはやはり、男中心の文化が終わりつつあるということでしょう。男性原理の最たるものは、自然科学で、皆、自然科学をしばらく信仰していた。(略)

それで、どうも自然科学は信仰できないということに、フッと気がついた途端に、本来的信仰の方にはもう免疫がないから、単純な信仰で一遍にガタンといかれるわけです。自然科学信仰は宗教だと思わずに信仰しているから、宗教性に対して免疫が弱い。そういう人が反転した場合は、プリミティブなものほど力を持ちますからね。

谷川 そういう風に宗教的なものがある程度人の心をとらえるようになっていても、どこまで本当に、河合さんのおっしゃる「魂」の変化に結びつくか、僕はよくわからないですね。何か非常に実利的なものが多いような気がする。

河合 今のところは実利的なものが多いと思いますね。やはり本当の宗教性を追求するのは大変ですから。」


「河合 僕が一番好きなのは、青山さんが「魂があるんだったら形にでるはずだ」というようなことを言うでしょう。これには感激しました。簡単に言うと「精神的なものが精神を隠してしまう」、これはまさに名言ですよね。解説する人というのは精神的なことを言うのが好きでしょ。(略)高校野球なんかでも、解説の人がみんな精神的なこと言うでしょ。あれでみんな憂鬱になる。(笑)

(略)河合(解説) 青山二郎の「精神は身長したが、「精神的」なものは認めなかった」は名言であるし、怖い言葉である。」

「河合 (略)先生は青山さんというのが百万人に一人の暇人だと言っている。私は、これが「いまなぜ青山二郎なのか」の答えのひとつだと思います。これが今いない。

白洲正子 できないのでしょうか、やっぱり。

河合 どこかの企業なりパトロンが、百万人に一人の暇人に金を払えばできるんです。つまり芸術というのは何もしない人に金を払ってないとだめなんです。何もせん人に金を払っているうちに何かする人が時々現れるんです。それが今は、何かする人にしか金を払わない。なんでも計算してしまいますからね。計算を越えたところに金を使うべきなんです。昔の貴族たちはそうしてましたよね。私の好きな言葉に「芸術は贋物を厚遇しなければだめだ」というのがありますが、本物だけを厚遇しようとすると、本物は出てこなくなるんです。何にもしない人というのは、なくてはならない存在なのです。」


「河合 一つ好きなことをしようと思ったら、十ぐらいいやなことをしないと。僕は好きなことばっかりしてますけどね(笑)。僕はやらなければならないことは好きになることにしているんです。」

沢村貞子 (略)下町のことですからよくあることですけれども、娘を花柳界に売らなかったし、年頃になって、お金持ちの家からお嫁にっていわれると、そんな、娘を玉の輿に乗せるほど落ちぶれちゃいないっていうんですからね。

河合 なかなかいい筋が通っていますね。

沢村 母もほんとうによく尽くしていましたけれど、それでもってぺちゃんとはなっていなかったですね。台所でちゃんと縄張りを持っていました。

河合 それが昔の、女性として自分を通す一つの方法ですね。だから男子は厨房へ入っちゃいけない。それは、助けに入るんじゃなくて、侵入することになるんですね。

(略)完全に、お前の世界は絶対に尊重する。俺は勝手なことをしてるけれど、という意味で厨房に入らなかったと思うんですよね。

(略)今は、また違う生き方がありますけど。ただ、いまのようにお互いに助け合っている場合は、自分の世界を作るのが非常に難しくなるんですね。

(略)いま、若い夫婦で一緒に厨房へ入ってやっている人いるでしょう。たいてい四十ぐらいになったら入らなくなると思いますね。両方とも「やめたあ」とか言ってね。

沢村 倦きますものね、暮らしにもね。ずっとしなかったことにも倦きるのだろうし、し過ぎたことにも倦きるだろうし。

河合 そうです。早くから協力している人は、早く非協力的になるんじゃないですか。そういう全体のアレンジというのは、いまの老後はほんとに難しいですね。」


「河合 よく日本のユング派の勉強会で、共通の体験として話題になるんですが、西洋でやっていると、大変難しい状態の人でも、よほどのことがあっても、時間外に電話はかけてこないんです。たとえば一週間に一ぺんという契約だったら、その時まで必死になって辛抱してやってくるわけです。ところが日本人は、時間外でも、パッと電話をかけてくることが多い。

遠藤周作 日本人特有の甘えですね…。結局その場合は、分析家がお母さんになるわけですか。

河合 そう、そう。またその関係をパーンと切ってしまったんでは治療出来ないんです。

(略)アメリカで向うのセラピストといろいろ話しますね。そうすると、日本人の患者さんは、こんなにつらかったら、私、死んだほうがましですとよく言うので困るらしいんです。治療者はものすごく怖がるわけです、うっかり死なれて家族に訴えられたら大変ですから。(略)アメリカ人はそんなこと滅多に言わないです。もっとも、言うだけじゃなしに、本当に死ぬケースも日本人は率が高いんですね。そういう点でも日本人のほうが難しいです。」

(抜粋・紹介終わり)

山田太一さんの話にはちょっと批判的です。テレビにはバカな話を信じさせる魔力がある。庶民を衆愚にする負の力があります。この山田さんという方はテレビ側の人間なのですから、庶民を衆愚にすることに加担していた、といってよい。間違いなく、テレビはそういう機能を持った装置だ、ということを知っている。にも関わらず「エッ、こんなことで感動してしまうの」と考えるのは、おかしいですね。庶民をそんなふうにバカにしたのは"you"なのです。("you"は単数形と複数形を包含している)バカにしといてそれをなじるというのは、"you"もバカなんじゃ? とかんぐりたくなります。なぜなら、"you"も庶民であるのには違いないのですから。


都市の人間は、田舎の農家のオバサンにコビを売って芋を買う、という行為がココロからイヤだったから、世の中を発展させてスーパーで野菜を買えるようにしたのです。自らの意志で「生々しい現実」を遠ざけたのです。

現実が希薄化してゆくことについては、メリットのほうがものすごく多いのですよ。

まず、メリットとデメリットの貸借対照表をつくるべきです。


今は、自由だからこそ「祭」は不要なのです。誰もが真に自由を謳歌しているのであれば「祭」は不要なのです。私は、自由な世の中で自由を謳歌できないのは「甘え」だと考えている立場です。

「人間の祭への希求の衝迫」は、世の中が自由であればあるほど希薄になるべきであり、実際そうなっています。商店街の祭りなどは、たとえば「盆踊り」などという形式だけ残存して形骸化していっています。

それでいいのです。

なぜ、自由な世の中で「ワタシは不自由!」と叫び、「『病』とか『異常』とか」に走る必要性があるのか。。それがまったくわからない。かつて、「それは意志の強いものの意見だ」と批判されたことがありますが。。 「なら意志を強くもてばいーじゃん」と反論せざるを得なかった。それは、できないと思い込んでいるだけだから。できないというのは、この現代社会において自分にバリアを張るためのポーズにすぎないから。外部からの進入を防ぐために設けたバリアでもって、内的に鬱屈を抱えているのだとしたら、それこそ「ザマミロ」の人生ですよね。方法論が完全に間違っている。

「常識を持っている人が自信を喪失して」ではないのです。常識を持っている人は、「バカらしく」なっているのです。

「そういう人が反転した場合は、プリミティブなものほど力を持ちますからね。」を読んで、50年前、インテリであっても力道山に熱中した、という話を思い出しました。