元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

整理整頓 社会的動物 

人生観、のような、思想の話

  • 社会的動物

どこかに書いた、「真の柔軟性」のつづきですが。。(もう、忘れてしまっているので重複するかもしれませんけども)
かたくなに自分の主義を貫き通すことで、敵や軋轢をつくる人生が幸せとは限りません。自分の主義を貫き通した、という自己満足を得るかわりに何かを失ったり、それ以上の不満足感が生まれたりしますね。

ですから、ところどころで「柔軟性」を発揮して協調して、最適化をはかる必要があります。
そのさじ加減は確かに難しいのです。

現代人はそれを求められ、自分ですべてコントロールしなければならない「自由」を与えられたからこそ、生きずらくなっていると感じるヒトが増えている、ともいえるのですね。(【重要】)

ムカシはもしかしたら、人生設計すらも「前例にならう」で「それなりの満足感」が得られていたのかもしれません。
でも、現代人は「それなりの満足感」では満足しなくなってしまった。。
それが不幸の始まりかも。。


もちろん、かたくなに自分を貫き通すことによる恍惚感がなにものにも換えがたい、というヒトは、敵や軋轢をつくろうがそれをやっていればいいわけでして。。
そういう「自由」もあります。ただし私はそういうヒトとお付き合いするのはイヤですし、そういうヒトから離れる「自由」もあります。

「さじ加減」を計るためには「自分を見つめる」作業が不可欠です。これがまた、キツいのですね。

  • 【重要】整理整頓

一生のうちのほとんどの時間が、周り(部屋とか、机の上とか)が整理整頓された状態を目にしているヒト(すぐ片付ける)と、一生のうちのほとんどの時間が、周りがちらかった状態で暮らしているヒトでは、そりゃ人生そのものが変わってきますよね。

常に、周囲がちらかった状態を目にして生きているヒトは、たとえそれが慣れていて何も感じないのだとしても、ものすごい不幸だと思いますね。
その「マヒしている」という状況がクセモノなのです。


常に「ゲージツ」を日常に飾っておいて常に目にすることにより、「ゲージツ的感性」とやらを養うべきだ、などとのたまってらっしゃるヒトがいますが、そんなことよりまず、常に「整頓された状態」を目にするようにしておくべきなのです。

私は、はっきりいって偏見をもっていますが、「ゲージツ」派のヒトほど周囲がちらかった状態(カオス)こそがゲージツそのものだ! などと言い訳しますね。
単に片付けられないだけなのに。。
片付かない部屋に「ゲージツ」を置くのは、実は紛らすのが目的という。。

ところで「ゲージツ」家の「アトリエ」って。。コキタナくとも許される、みたいなイメージがありますね。。


現代の日本人は、たまにセンセーショナルに報道される「ゴミ屋敷」に象徴されるように、本来、よくないこと、美徳とされないことに対して何とも思わなくなるような「麻酔」を自身に打てる、とでもいいましょうか。。
おそらく、あの「ゴミ屋敷」に住んでいるヒトは、ホントウに何とも思ってないはずです。

ゴミ屋敷はちょっとオーバーですが、部屋や家の中が「ゴミ屋敷」ライクなヒトを少し知っていますし、そういうヒトたちはそういう状況をむしろ快適、なぐらいに思っています。

特に、自分の住む家の中であれば「ヒトに迷惑かけてないんだから、何が悪いの!」という言い訳も効きます。
(でも、呼ばないでほしいのですけど。。)

それに対して反論はしませんが、そのヒトの生活は決して「最低限度に文化的」ではない、ということは断言できますし、そのヒトも自身の生活が文化的だとは思っていないでしょう。

ある意味、ゴミなのかゴミでないのかわからないモノたちに囲まれている生活というのは、そういう生活が許されているところからして「豊か」かもしれませんけども。。

それは単に「物量豊富」という意味での「豊か」に過ぎません。

あれ? 先日書き出したのも結局こういうハナシになっていったような。。
ちょっと戻して。


その、常識的感覚をマヒさせる「麻酔」というのは、自らの思い込みによるものもありますし、マスコミによる洗脳かもしれませんし、そのヒトが受けた教育によるものかもしれない。

ところで人間というのは、状況が整理整頓されているほうがよいに決まっているのです。「プチゴミ屋敷状態」というのは「健康で文化的な最低限度の生活」ですらないということで、つまりオーバーにいえば憲法で保障されている生活すらしていないということになります。
ということはそれは戦後の貧乏だった時代の日本人と何ら変わらないではないですか。レベルが。

「それでいいのか?」と、思ってしまうんですよねえ。。


でも、「人間というのは状況が整理整頓されているほうがいいに決まっている」というと、必ず「なぜ?」「決め付けるな」という反論があります。

そういう「アタリマエ」のこと、問い返すことが全く意味のないこと、というのは、本来あるのです。たとえば殺生などがそうですね。

それでもこの「成熟した社会」においては、「なぜヒトを殺してはいけないのか?」という反論すら許容してしまう。。

そういう、「文化的でない」問いに対しては、答えに詰まるのが当然なのです。想定すらしていないのですから。
にもかかわらず、大多数の人間が答えに詰まるという事実でもって「へこませた」「一泡ふかせてやった」と考えるヒトもいる。。

おっと、グチレベルになってしまいました。。


自分の視界のまわりが常に整理整頓されている状態は、理屈抜きで「そうあるべき」であって、そのあるべき状態の維持のために、常に「片づけ」という労働が必要なわけですね。
それ(無条件で「あるべき」状況をキープするための労働)を、当然のこととして受け入れることができるかどうか、なのです。自身の人生が「豊か」になるかならないかの分水嶺は。

そういう労働を、「諸行無常」の中の単なるひとつの自分の行動として溶け込ませることができるか。。
自分が世界の中心である、と、無意識に考えてしまっているヒト(驚くほど多い)は、自分が「諸行無常」に組み込まれているとは考えずらいのでしょうね。
だから一旦その「洗脳」をふりきる必要があります。


そういう、「世界の中心で愛を叫ぶ」ライクなヒトに典型的なように、いちいち「オレ(アタシ)は整理整頓している!(どうだエライだろう、ホメて!)」と鼻息荒くしても意味はありません。
そのような行為、今回の例でいえば「整理整頓という労働」を完全に日常生活の中に溶け込ませなければなりません。そうしないと長続きはしません。
長続きさせないと状況を維持できないのです。オソロしいことに、世の中というのは、「定常状態」をほうっておくと維持できないようにできているのですね。そこに登場するのが「人間」で、人間が、あるべき姿をキープするための「労働」をしないといけないのです。

その「世の中」というのは、人工的なもので、先達がつくりあげてきたものです。
自然界であれば、定常状態でもほうっておくことができるのですが、「世の中」はそうもいかない。後を生きる世代が「尻拭い」をしなければならないのです。


考えてみれば、その労働こそが実は「修行」かもしれず、その修行を永久に(ぐらいの気持ちで)継続するのが仏教の根本に近いと思います。その日常の労働に「永遠」を感じられるときに「悟り」は引き寄せられるのかもしれませんね。
「もしかしたら自分は毎朝死ぬまで(いや、死んでも)これを続けるんだろうなあ。。」という感慨。

禅の考えの中にもその修行の継続そのものが悟り、みたいなところがありますね。