元祖【ひとり公論】

誰かには必ず、ほんの少しだけでも役に立つに違いない、という意味での公論

原始的な欲求の実現 医師の質、教師の質

本来の日記部分

8月上旬から自分の書き出しの方向性が明らかに「思想」「宗教」の方向へシフトしていったことを感じました。
やや「突然」な感じがありましたが、トリガはおそらく、鈴木大拙の本を読んだからだと思われます。
そこで一気に、「ギアチェンジ」したようなイメージ。。

その後は、それを「見守っていた」ような感じだったのですが、およそ4ヶ月経った今、とりあえずひとつの書き出しの「流れ」が収束しつつあるような気がしています。

この4ヶ月の試行錯誤に、おぼろげながらも「結論」が出てきているような気がしているのです。

やはり、私の思索のサイクルは「4ヶ月」のようです。

「次のステージ」への展開を我ながら、楽しみにしているところです。

  • 体調

腰の調子がいまいち。
そういえば。。と思い当たるのは、先日、朝の散歩をして、ちょっと立ち止まって体操をしたんですよね。。
それで身体をひねったときにちょっと違和感があったような。。

体操で腰を痛めるなんて。。

  • 仕事

副業で相当な損失。気分は損失以上にブルー。。

人生観、のような、思想の話

  • 原始的な欲求の実現

どうやら、「滅私」という概念と、自分の原始的な欲求の実現というのは両立できるようです。

たとえば自分は、なるべく、おなかがすいたときにごはんを食べたいと思い、甘いものが食べたいときにおやつを食べるようにし、トイレにいきたいときは我慢の限界に達する前、初期の段階でトイレにかけこむようにしています。
そして、これらはある程度実現されています。

実現されているということはつまり、そういう行動に走っても世の中からは「生意気」とか「自分勝手」とは思われない、ということではないでしょうか。

原始的欲求を実現させるほうを優先しても「スタンドプレイ」にはならない。

たとえば。。会社や上司は、私を、メシ抜き、トイレに立つこと禁止で働かせたりはしない。
オフィスは空調がきいている。
私は、朝、眠いなあとかちょっと頭痛いとか、会社に行くことを阻害する要素があったとしても、ちゃんと「滅私」して、さらに、通勤ラッシュに揺られて、会社にきますね。
そして、きたからには、会社の利益のために働く。

そして、「滅私」と能力の度合いによって(おそらく)賃金をもらえる。

見事に関係性が、できているような気がしますね。
でもなぜだろう? それは当たり前なのだろうか?


このハナシを書き出したのはなぜでしたっけ。。

滅私という概念の「私」には、根源的欲求は含まれないのだな、ということを、今更ながら理解した、というか。。

そう、それは「幸せなのだなあ」ということを言いたかったのです。


たとえば、軍隊だったらそうはいかないのかな、と。
南極とか熱帯のジャングルでの戦闘にかり出されたら空調がどうの、とか、トイレがどうとか、いってられません。
風呂は、何ヶ月も入らないのでしょう。洗濯は、たまに川でできればいいほうなのでしょう。食べるものはほとんどないのでしょう。


我々の先達、戦争経験者は、そのような、滅私でかつ、人間としての欲求の実行すら制限されて、一億総勢で戦争に向かったわけですね。

「なぜだろう?」は、そっちですよね。なぜ、思想だの命令だので、そこまでできてしまうのか?という。

日本人はホントウに「ひ弱」になったのか? 炎天下で立たされたら倒れるのが本来の人間の姿ではないのか? みたいな。。


そういうこと、前にも書きました。つながってきましたね。。
トイレが確保できない「運動」は現代人はしない、みたいなハナシ。。(ここ
思想や情熱があっても、まずは「衣食住」を確保すること。それが悪いですか、と。。

  • つづき?

お腹が空いたときに何か、大好きではないけどふつうにキライではなく、かつ栄養のあるものを即座に食べれるという幸せ。。

トイレもそうですよ。「もよおす」即トイレに行ける幸せ。これは、実はアタリマエのことではない、のではないか、と。

何かを欲したときに、No.1ではないけどNo.2〜3ぐらいのことがかなう。それを繰り返していけば必然的に幸せになれますよ。

だから、まず、ちいさな欲求に対して、意識的に、実現させていけばいいのです。(【重要】)
そして、もっとも実現できやすい「根源的欲求」から始める。そして、小さな小さな幸せをつかんでゆく。
寒いときにはコートをはおって暖かくなればよい。ただし、そこで意識して「コートがあることの幸せ」を感じるクセをつける。

常にNo.1を求めるのは、ムリです。仮に常にNo.1が実現されたとしても、飽きるのでしょうし、それが「ぜいたく」なのです。「それ」というよりはそれを求めるプロセスそのものが。


お腹が空いたら何か食べる(腹7分目)を繰り返していたら、お腹が空いたときというのははっきりいって何でもいいわけですよね、明確にキライでなければ。
よけいな「あれがいい、これがいい」という欲求がなくなるわけです。

指定で、「○○(店名)のみそラーメンが食べたい!」とか、思うときもありますけどねえ。。
それを実現させてゆくのは、「ぜいたく」なのでしょうね。値段は関係なく。

抜粋・紹介

水道橋博士の日記で。。

博士の意見ではなく、他のヒトのハナシの引用ですが、「日本の医療保障制度は最良、医師の質は最低」というのがあり。。
「やっと気付いてくれましたか!」と思いましたね。

昨今いわれている学校の先生の質の低下などと同じなんでしょうね。プロフェッショナリズムの崩壊と、良い人材が集まらなくなっている、ということ。

理由は単に、キツいからでしょう。収入に対して割りに合うキツさじゃない、と。医者がいくら良いカネをもらえるとはいっても。それを遥かに超えた激務なのでしょう。


それと。。もうひとつ、なぜ医者が「キツい」かわかりますか?
それも、学校の先生と似ていますが。。 患者の質の低下ですよ。患者が「モンスター化」している。セカンドオピニオンなど、患者が知恵をつけている。
患者が「知恵をつける」ことがなぜか、医者にとっては患者の「質の低下」と感じてしまう。

学校もそうですよね。親が高学歴化して、教師とのパートナーシップが強化されるかと思いきや、現実は逆になっている。。
親の、教育現場への不当な介入。これはつまりは「つけあがり」ですね。

医者もそうで、患者がつけあがる予兆を感じて逃げ出しているのではないですか。


ところで、こういうご時勢でも、保険がきかない医療分野には優れた医者はいますよ。儲けられますからね。
これは、当然です。

患者は、1治療あたり数十万、数百万単位で治療費を払う覚悟を持て、ということです。特に、命にカラむ場合は。。


なんでもかんでも、3割負担で済むから、と、まず医者に行くっていうのも、おかしいと思うんですよね。
(授業料の安い公立小・中学校みたいだ。。)

そして、気軽に医者に行くのであれば、それ用の病院を決めて、そこでのサービスにはあんまり期待するな、と。(「安かろう悪かろう」)
そして、「勝負病院」は決めて、そこに期待しましょう、ということです。

いつも最良のサービスを求めるほうが間違っている。


医者にも先生にも、かつて「奉仕の精神」が求められてきていましたよね。それが、崩壊しています。
それについて当人たちを責めてもしょうがないでしょう?
薄給でやってくれてるだけで、まず感謝しないと。。


医者や先生を持ち上げて「たてまつった」時代は、彼らはいい気分で「奉仕の精神」を発揮してくれたのでしょうが。。

今は、医者や先生を「庶民の総体」が対等にみようとするから。。
さらに、病院や学校が、「患者(生徒)はお客様です」なんて言い出すから、さらにつけあがる。


ここでも「馬鹿らしい」ハナシにつながる。。つけあがる「庶民の総体」に、医者や学校の先生が、もみ手をしながら対応するのは、「馬鹿らしい」と思うでしょうね。。
なぜならば、その、医者なり先生という地位にたどりつくまでにやや特殊な努力をしているわけで。。その努力をまず、全否定されるわけですから。

彼らにもプライドはあるわけですから、それをまず、持ち上げないと!
そこからはじめないと、彼ら自身もプロフェッショナルとして成長しないのですよ。彼らは最初からプロではない。成長してゆくのです。

それに、医者は、カンタンにヒトを殺せます。単にモラルに期待するだけでは、コワいですよ〜。(逆ギレされたら)


プロフェッショナリズムの低下というのは、いよいよ日本が「高度な」(イヤミですが)資本主義社会に突入したなあ、と感じさせられますね。

医療や教育においてプロフェッショナリズムが低下しているということは、どこかのビジネスの分野では、逆にプロフェッショナリズムは劇的に向上しているわけです。カネの集まるところ。良質な人材が集まるところ。


では、それはどこなんだろうか? そのへんちょっと詳しくないのでわかりませんが。。
金融なんでしょうかねえ。直接金融で、リスクはありますが儲かりそうですから。。

医療業界というのは、かつては花形でしたが、カネが集中的に集まるビジネスではなくなってしまったのかもしれませんね。


それと、支配欲でしょうね。「業界」という区分けではなくて、
有能な人材が集まるイコール、支配欲を満たせるところ。仕事の「やりがい」とか「社会貢献」ではなく。。

医者と先生というのはかつては、「支配欲」は満たせたはずですね。
支配欲だけでなく、先生先生とたてまつられていくうちに、オトナになっても、コドモの頃の「万能感」に近いものを仕事で得られたはずです。

それも「崩壊」しましたからね。。見事に。たてまつられるどころか「庶民の総体」に揉み手しないといけないですから。