性に合う

  
  一人で営業に出るようになって、時折、私は岸野さんの言葉を思い出す。


「七階のにぎやかな感じもいいですが、
 一人ひとり丁寧に接するのが彩乃と性に合っていたんじゃないかと
 勝手に思っています。」


  アルバイト最後の日、こんなメールが来たのだ。


  地下一階の珈琲豆屋で一人ひとりとゆっくり接するのが彩乃には合ってる、
このお店でやろうとしていることに彩乃は向いている、
それは、大学二年の夏に地下一階の珈琲豆屋で働き始めた頃からずっと、
岸野さんに言われていたことだった。
「とにかく彩乃は続けることが大事だから。」
最初の一年はそんなことを言われ続け、そしてその言葉の後には必ず
「このお店は彩乃に合っている。」
と続いた。
飲み物を作ったりレジからオーダーをとばしたり、
そういう仕事を半年でさっさと辞めてしまったのにも関わらず、
同じ会社の珈琲豆屋では二年半働き、大学卒業まで続けられたのだから、
多分本当に合っていたのだろう。


  岸野さんの言葉に暗示をかけられたのか、
それとも、
二年いるうちに自分でも気付いたのか、
私はこの会社に就職したいわけではいなぁと、
ずっと思っていた。
私はこの店で珈琲豆を売るのは好きだけど、
この会社に残って働きたい訳ではないと。


  それはやはり、半年で辞めてしまった七階の経験があるからこそ、
強く感じたことなのかもしれない。
だから、どんなに就職が決まらなかったときでも、
この珈琲屋で社員を目指そうと言う気は起こらなかった。
会社の考え方、文化はいいものだと思った。
システムもきちんとしている。
でもなぜだろう。
たとえば社員になれたとして、どこか遠くの店でドリンクを作るようになれば、
また半年で自分は辞めてしまいそうな気がした。


  今の仕事で、一軒一軒  個店をまわり、
シェフやソムリエ、
レストランの人々と時間をかけて話すことを楽しんでいる自分に気付くたび、
私は岸野さんの言葉を思い出す。
私は、レストランの人とじっくり
話すと言う面においては、
この仕事が性に合っているのかもしれない。