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夏の黙示録 このページをアンテナに追加 RSSフィード



1953ColdSummer
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20091221

 身代わり山羊の錆鉄悪夢 (初出 20070601 改訂 20091221)

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 眠るようにして息を引き取った姉の、あの死に顔の夢をはたと見なくなった。

 その代わりに、山羊の夢を見る。床に就いているときも、入浴している最中にも、昼日中の街中ですらも――山羊の夢を見る。

 否。

 山羊の夢ではなく、これは。

 ――これは、『夢の山羊』だ。

 夢の中、山羊は生きている。生きて、何かに追われている。延々と続く山羊の逃避行。自分は、それを遠目に、或いは近くで眺めている。春先の湿気を肌に感じる。夢の中、自分の感覚が覚醒時と左程変わらぬことに、多少の違和感を感じつつ――。

 ――山羊は、夢の中、延々と逃げ続ける。


※ ※ ※


 姉の夭逝から一年。葉桜が青々と映える季節から、奈津の夢に山羊が現れるようになった。

 山羊はいつも逃げている。夢の中とは思えぬほどの現実味と緊迫した感覚。そして、山羊を追っている何かの方を振り返ったとき――。

 いつも、そこで目が覚める。意識が醒め、頭の中が鮮明になる。

 入眠時だけではない。

 少し気を緩めると、白昼夢のような感覚の剥離に襲われ、何処であろうと、何時であろうと――あの山羊が現れ、奈津の頭の中、逃げ続けている。

 大概の場合は、はっと気付けば現実に戻っている。春一番が吹いたころから現在にかけて、山羊は現われるようになった。

 ――急に暖かくなったから、体調を崩しかけているのだろうか。

 何度もそう思った。もとより、奈津は頑丈な性質ではない。季節の変り目には気を付けるようにしている。

 くしゅんと、くしゃみをした。

 春の風は善いものを運んでくる。だが、同時に悪いものも運んでくるとは誰も言わない。

 悪いもの。

 山羊。

 ぼんやりとした足取りで奈津は自宅のアパートの鍵を開けた。

 外の陽気は駄目だ。あの外気の中に居ると自分が自分ではなくなるような感覚に包まれる。そして――。

 ――山羊が。

 奈津の心が浮き立つのも塞ぐのも、大概は春先である。ここ最近の塞ぎ込み様は間違いなく季節の風の所為であろう。

 不意に人恋しくなった。姉を失ってからというもの、奈津は積極的に人と関わろうとはしていない。ニヒリストを気取りたい年齢ではないが、喪失感は時に、失う以上に得ることを恐れさせる。

 アパート前の狭い路地で暇そうな主婦が二人喋っている。

「……お姉さん、若かったのにね」

「……あの歳で、首を縊るなんてね」

 やめろ。

 姉を、姉の死を、姉の安らかな死に顔を、その下卑た声で世間話にするな。

 気分が悪くなった。鼻腔の奥に饐えた匂いが溜まっている。喉の奥から突き上げるような吐き気が襲ってきた。

 ――山羊が。

 ――錆鉄色の風景の中、山羊が逃げている。

 突然、電話のベルが鳴った。

 奈津ははっと我に帰り、振り返った。脚の間接の軋みを覚えながら、受話器を取る。

「……もしもし」

 聞き覚えのない声。

「失礼ですがどちら様でしょうか」

「亜樹さんの妹さんの奈津さんですね?」

 予期せぬ姉の名前。しばしの沈黙。時計の秒針が進む音。

「……そうですが」

 絞り出すような声でそう言うと、再び沈黙が訪れた。

 ――山羊が。

 「失礼しました。私は亜樹さんの同僚だった倉田と申します」

 ――追われている山羊が。

 受話器を叩き付けたくなった。逃げるようにしてベッドの中に潜り込みたかった。どうして、姉が死んで後、姉に関わることすべての責を私が負わなければならないのだろう。

 奈津が黙っていると、倉田と名乗った男は勝手に話を進め始めた。

 ――ええ、亜樹さんの慰霊会を。

 ――有志全員が、肉親である奈津さんにも参加していただきたいと。

 受話器を戻し、奈津は呆然とした。姉はもう死んだのだ。姉はもうこの世には居ないのだ。姉は――完結しているのだ。

 ――なのに、私を含め、姉を引きずる人間がこんなにも居る。

 腐りきった倦怠感に包まれて、奈津はそのまま突っ伏した。


※ ※ ※


 逃げ続ける山羊。錆鉄の鈍色の光景の中を、何かから走って逃げて。

 でも無駄――だって山羊を追っているのは。

 山羊を追っているのは。


※ ※ ※


 目が覚めた。

 暗い。もう夜中なのだろうか。随分と、長い時間眠っていた気がする。電灯を点け、眉間の辺りを指で揉んで時計を見た。

「……!!」

 秒針が。

 秒針が気が触れたかのような速度で回転している。でたらめな時間を刻み、でたらめな速さで時間が過ぎてゆく。

 ――山羊が。

 ――錆鉄色の風景の中を、山羊が。

 電話が鳴る。驚いて振り向いた奈津は、そこに信じられぬものを見た。

 硝子越しに、煌々としたオレンジ色の光が刺し込み、続いて絶叫がアパートの外から聞こえてくる。

 よたよたと立ち上がった奈津は、鳴り続ける電話の受話器を取った。ただただ頭が混乱していた。何が起こったのだろう。

「……亜樹さんの慰霊会、何故にご出席いただけなかったのですか」

 姉の同僚だとかいう倉田という男の声だった。ノイズが入り混じる受話器越しに、悲鳴と怒号が聞こえてくる

「……亜樹さんは、奈津さんをお待ちのご様子でしたよ」

 奈津は受話器を叩き付けた。カーディガンを羽織ると、勢いよく部屋から飛び出した。

 延々と走り続けた。逃げ交う人々も構わず、息が切れるまで走った。春先の夜とは思えぬ熱気と光が世界に満ちている。

 ――何なの。

 ――何が起こったの。

 どこをどう走ったか、気付けば奈津は姉が眠る共同墓地に居た。頭を振って、冷静になろうと努める。

 しかし、オレンジ色の不気味な光は消えず、人々の混乱の悲鳴も収まることは無い。

(奈津さんですね)

 背後で何かが呟いた。

(少々遅かった模様ですよ)

 奈津は振り向いた。

 声の主の姿は無く、代わりにオレンジに染まった空と、炎上する光景が目に入る。

(亜樹さんは、あなたを――)

 声は途切れ、一際大きな爆発音が大気を揺らした。

「何なの」泣きそうな顔で奈津は呟いた。「一体、何なのよ」

 ――山羊が。

 ――山羊が、振り向いた。

 姉が立っていた。

 生前と違わぬ姿で。

 艶然とした笑みを浮かべて。

「姉さん――」

 そう言うのが精一杯だった。

 山羊――私は逃げ続ける山羊だった。夢の中で、姉から逃げ続けていた山羊は、私だった。

 奈津は一歩後ずさった。意識が遠のいてゆく。世界が錆鉄色に染まってゆく。

(この墓地の地下には不発弾が大量に眠っていましてね)

(我々は、亜樹さんの無念を鎮めて、それを刺激しないようにと考えていたのですよ)

 ――錆鉄色の世界。私は姉から必死に逃げ続けている。自殺に見せかけ殺した姉から、自責の念から、必死に逃げ続けている。

 ――身代わり山羊。

(それにしても、凄まじい光景ですな)

(亜樹さんが焼かれていた煉獄の光景は、きっとこのような感じだったのでしょうな)

 終末の爆音が轟いた。すべての悲鳴が、怒号が、絶叫が一瞬にしてかき消された。

 奈津には最早現実を認識する力は無く、ただ、無音の、錆鉄色の世界に身を落としていた。私は身代わり山羊となり、姉から、罪悪感から、責任から、未来永劫逃げ続けねばならないのだろうとぼんやり考えていた。

 最後の轟音と共に一陣の風が吹き、身代わり山羊の錆鉄悪夢は現世から消え失せた。

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