1953ColdSummer
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20091224
狗の生首 (初出 20070623 改訂 20091224)
掌編 |
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梅雨の気配とは無縁な花咲き草萌ゆる日中。
信彦は肯定の右脚を踏み出すと、続いて否定の左脚を踏み出した。そうして歩く内に自分の心の眼が啓いてゆくのがわかる。歩みに肯定と否定の交差を発見した瞬間、自分は異端者であり、正に疎まれるべき彼岸の住人であると確信する。
空梅雨が湿気を醸す、六月下旬の話である。
寓意画めいた田舎の土手を、信彦は無意味に――無意味の中に意味を見出そうとして――歩いていた。観念的な理由付けほど空虚なものは無い。その空虚の外堀を埋め、己が自我とするのが生きることの本質なのではなかろうか――その様な事を考えつつ、自分の逃避的行動や思考のすべての背景には、あの日、一夜を共にしたロシヤ少女が居る事に思い至った。
それは信彦の記憶の中に留まり続け、苛み続けている過去の亡霊である。
信彦の如き俗物にはそれを易々と祓う事も出来ず、その記憶を背負ったまま、信彦は生きたまま心を彼岸に泳がせる事と相成ったのである。
どれだけ歩いたのであろうか。ふと気付くと川縁に子供が集まり何やら騒々しい。
児童の言語が持つ力ほど猛々しいものはない――暴力的ですらあるその騒ぎは、何やら川辺に落ちているものを中心として発せられている。
事を十全の形で捉えようとは思わなかったが、数奇心から信彦は土手を降り、そちらに向かった。
騒いでいる子供達の中心、白濁した目に赤黒い舌を垂らしたそれは、狗(いぬ)の生首であった。
心に背負い込んだ鬱憤はやがて発症へと至り、最悪落命する事まで考えねばならぬ。それを避ける為、人は見なくともいいものを見ず、聞かなくともいいものを聞かないのだ。
――見なくともいいものを見てしまった。
信彦は何よりも先ずそう思った。
頭の中を、万力でこじ開けられる様な感覚が。そして灼けた鉄棒を差し込まれた様な感覚が。鈍痛がゆっくりゆっくりと信彦の脳髄を襲う。
誰がこの様な無残な仕打ちをしたのか。
そんな事は最早どうでも良かった。
――こんなものを、見てしまった事が問題なのだ。
狗の生首はグロテスクな切断面を地面に着け、真っ直ぐに信彦を見遣っている――信彦の目を、見遣っている。
金縛りの様な数瞬の後、その白濁した瞳にあのロシヤ少女の姿が映った様に見えた。
金も無く、職も無く、安酒に溺れていた頃の信彦を介抱し、一夜だけを共に過ごしたあのロシヤ少女の姿が。
彼女は何も告げず祖国に帰った。以来、信彦は来たる虚無に何か意味を探そうと躍起になっていた。
それが、この狗の生首などという形で顕現するとは思いもよらなかった。虚無を覆す為の意味付けとしては、この唐突な狗の生首の出現が湛えている闇は、濃過ぎる様にも思われた。
信彦が腋の下に汗の嫌な感覚を覚えている間にも、児童たちは狗の生首を囲み囃し立てている。
――これはどこの狗じゃ?
――野良じゃろ。
――誰が首なんぞ斬ったんじゃろうの?
――春じゃから、おかしげな人間はたんと居るわい。
咄嗟に、信彦の手が動いた。
軽い平手打ちであったが、児童一人を黙らせるには充分な威嚇行為であった。
頬を張られた児童は小さくうめくと、みるみる泣き始め走り去った。それにつられた他の児童も口々に「このおっちゃん気違いじゃ!」と喚きながら逃げてゆく。「気違い――」という誹謗が永く尾を引いた。
頭上には不変の太陽が燦々と輝いている。
信彦は、狗の生首の前にしゃがみ込んだ。年経た瀬戸物を触る様に、丁寧に、ゆっくりと生首を両手で抱える。
恐怖も、嫌悪も無かった、ただ、狗の生首が持つ弱々しくも強靭な存在感が、今の自分のすべてであるかの様に感じられた。
この生首の口に耳を当ててみると、聞こえてくるだろうか。
呪わしい、あのロシヤ少女の歌が――。










