1953ColdSummer
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20100102
ループ・ザ・シープ・モンタージュ (初出 20071019 改訂 20100102)
掌編 |
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がさごそとポリバケツを漁っていた手を止める。早朝の鴉の断続的な鳴き声が途絶える。
毎朝乞食は、路地裏の朝靄に似合わぬ人影を見て、しばしの静思に至った。
――この界隈では見ない少女だが。
幽冥の境から現れ出でたが如き少女のシルエット。ボーイッシュな赤いフリースのジャケットが、体のラインを隠しているが、その体格、童顔は紛う事無き少女のそれである。
きょろきょろと辺りを見回し、足元を注視したかと思うと次には上空を見上げている。その足取りは、何かを探しているのかと安易に推測させる。
芝居小屋の女道化の様だ、と毎朝乞食は思った。清冽な朝の冷気が、少女の不思議に溶けてゆく。
近付いてきた少女の目を見て、毎朝乞食はふと胸がつまる様な思いを感じた。ずっと昔、とうに行方も知れなくなった妻と娘のイメージのフラッシュバック。別れる時、幼かった娘が、あの様な目をしていたのではなかったのか。
「おじさん」
唐突な呼びかけにハッとした。いつの間にか近くに来ていた少女が、腕を後ろに組み毎朝乞食を見つめている。
「……何かね?」
「これ、あげる」
少女が差し出してきたのは割れた板チョコだった。破いたばかりの銀紙が甘い匂いを放っている。柔らかな、幼い右手が香りによく似合っていた。
「ありがとう」
特に断る理由もなく、毎朝乞食は両手でチョコを受け取る。剥き出しのチョコを懐に入れておく訳にも行かないので、その場で口にする。
甘い。
刹那、世界が裏返った様な陶酔が背筋を中心に全身に広がる。
咀嚼し終えてみれば、そこはいつもの路地裏。繁華街の店々のポリバケツが並ぶ、毎朝乞食の縄張りだった。
「悪趣味な名前だね。このお店」
少女の視線の先、自分が背にしている酒場の看板を見る。ピンク色の雑なリボン・フォントで『バタイユ』と書かれている。
――確かに悪趣味だ。
普段は注目する事などない店名。毎朝乞食は専ら、捨てられた残飯の量や質でしか店を判断していなかった。
「自分の名前が変な名前だからさ、こういうの、人一倍気になっちゃうんだ」
少女は歌う様につぶやく。
自分の様な物乞いが初対面の少女に問いかけてもいいものかと逡巡するものの、募る好奇心が勝り、毎朝乞食は極力感情を込めない声で少女に訊いてみた。
「どういう名前なのかな」
「アリヨシ」
『バタイユ』の看板を眺めたまま、少女は即答した。
「有名の有に、吉田さんの吉。それで、有吉」
女の子なのに有吉。と、少女は括る。
女性にしては珍しい名前ではある。毎朝乞食は、別れた自分の娘の名前を思い出していた。由美。美しさの理由。有吉なら差し詰め、吉事が有るという意味か。
「だから、学校では『アリョーシャ』ってあだ名で呼んでもらってるの。ロシアの有名な文豪……ええと、誰だったっけ」
「ドストエフスキーの事かな」
こんな年端も行かぬ少女が、ドストエフスキー文学の登場人物の名前を引用している事に毎朝乞食は感心した。自分も若い頃はロシヤ文学に傾倒したものだが、内容はもう殆ど覚えていない。
名前を訊ねたついでだと思い、この少女を目にした時から抱いていた疑問をふとぶつけてみた。
「早朝から、こんな路地裏で何を探しているのかな」
きょとんとした表情で、少女は『バタイユ』の看板から毎朝乞食の顔に視線を動かす。
「うんと、ユメと、アイと、キボウと、ヤサシサ。この四つを探してる」
今度は毎朝乞食がきょとんとした。そして、そのメランコリックな答えにプッと吹き出す。
「何だい、それは」
「鍵だよ」
「鍵?」
「うちのお姉ちゃんの、眠りを覚ます鍵。それがユメとアイとキボウとヤサシサ」
何かの暗喩なのだろうか。毎朝乞食には、少女の言う事がいまいち理解出来なかった――現実からかけ離れた言葉遊び?
作り笑顔も消え、自分が眉間に難解な皺を寄せている事に気付く。
「何か、深刻な病を患っているのかな。答えたくなければ無視してくれていいが」
「ううん。お姉ちゃんは眠ってるだけ。もう一年間起きてこないけどさ」
「だから、ユメと、アイと、ええと……」
「キボウとヤサシサ。毎日探してるの。ここまで探しに来たのは今日が初めてだけど」
不可解な事を言っているのに、少女の口調はどこかほっとする。一年間眠り続けている姉とやらの話も信頼に値しそうだと、うっかり思ってしまう。だが、少女の話に対する返答の勘所が掴めない。答えに窮するまま、毎朝乞食はきょろきょろしている少女を見つめていた。
自分の人生を前提としない、解放された探求。
ふと、そんな思いが浮かぶ。自分が人生のレールから降りてしまった人間だからこそ、自由めいた立ち振る舞いをするこの少女の姿が、真に解放されたものの様に目に映える。
解放の条件は、大切なものと遠く離れること。そしてそれに近付こうと足掻くこと。
ただひたすら、少女が羨ましく思えた。
「見つけた」
ハッと気付くと、自分の顔のすぐ近くに少女の顔があった。溢れる喜悦に瞳は潤み、頬が薄く紅潮している。
「やっと一つ見つけた」
長年に渡り、毎朝乞食を苦しめていた虚無感――人生に対する諦観と同義になっていたそれが、解きほぐされる様に失せてゆく。
「――。」
この路地裏に射す陽光の黄金に、少女の言葉が溶ける。
そして奇跡の瞬間は去り、世界は再び凪いだ水面の如き穏やかな様相を呈した。
少女は、その場にたたずんでいる。毎朝乞食の手が届く範囲に。声が届く範囲に。
「もしかして」毎朝乞食は、問いかけずには居られなかった。「もしかして、眠り続けている君の姉の名は――」
少女は、悪戯を発見された子供の様にどこか照れた笑いを浮かべ、「由美」と言った。
「うちのお姉ちゃんの名前は、由美」
妻が自分と別れた後、引き取られた由美には妹が出来ていたのだ。
こんな素敵な妹が。ユメとアイとキボウとヤサシサを探求する妹が。
毎朝乞食は、自分の心臓に火が燈ったかの様な感情を覚えた。ああ、眠り続けている由美! その目を覚まそうとする妹、有吉!
自分が物乞いになる前には、確かに明日があった。振り向けば昨日があったし、足は今日を踏みしめていた。それが、人間としての感覚だった。当たり前すぎて、気付くことの出来なかった感覚。
長らく忘れていた感覚を取り戻し、毎朝乞食の頬に一筋の涙が伝った。
少女――有吉が、首をかしげ、慈母の様な微笑みを浮かべる。
「あと三つ」
歌う様に有吉が言う。
「あと三つ、残るはアイとキボウとヤサシサ」
くるりと、踵を返す。
雀の合唱に送られる様に去ってゆく有吉のシルエットを、毎朝乞食は、慈しみと寂しさの混在するままに見送った。
明日からは――いや、今日からは何をしよう。生きることに胸が燃える。思えば昔、由美を布団であやすたびにこんな幸せを噛み締めていた。
これからは、時間も夢も尽きることは無い。すべてを取り戻すことが出来る。いつかまた、由美に会える。そして、有吉にも――。
年甲斐も無い高揚感に身を伸ばし、毎朝乞食は思いっきり朝の空気を吸い込んだ。










