1953ColdSummer
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掌編集のしおり
20100125
泳ぐ (初出 20081017 改訂 20100125)
掌編 |
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秋口の夜気にあてられすっかり冷えた体を両手で抱きしめると、そろそろ帰宅して眠ろうかという気になった。廃ビルの屋上、見下ろす満月だけが私が暖気を恋しがっているのを知っている。
ふと、足元に一枚の紙片が落ちているのに気付いた。何気なく拾ってみると、淡白なゴチック体で大きく「水域の人々へ」と書かれてある。
はて、何かの注意報だろうか、と疑問に思う。何やら細々とした文字が並べられているが、月明かりを頼りに目を凝らしてみてもよく読み取ることができない。
――もう随分、雨が降っていないな。
雨雲を当分見ていないことを、紙片の文字と乾いた空気から思い出した。乾燥した街の空気は、ひとりで呼吸するには少し味気が無さすぎた。寝付けない夜が続き、寝返りを打つたびに喉が渇き、気付けばこの廃ビルの屋上に立っていた。
ゴォン……ゴォン……ゴォン……と金属質の振動音だけが夜半の空気を揺らしている。貯水タンクの方からそれは聴こえてくる。
――水域。
この紙片には何と書いてあるのだろう。何故この廃ビルの貯水タンクだけは活動しているのだろう。水域とは。
目を閉じて夜半の静寂と不協和音に耳を澄ませる。胸の奥にじわじわと増殖するこの不安はなんだろう。
ガタン、と大きな音がした。ハッとして目を開くと、屋上を囲う鉄柵が一箇所、千切れて揺れていた。それはキィ、キィ、キィと軋み、ちょうど人間一人通れるほど開けている。
不安は混乱を招き、混乱は恐怖を招いた。自分の足が自分のものではないかの様。上手く呼吸をすることができない。そして、自分のすべてが渇いていることにさらに恐怖する。
振り返ると、巨人のような給水タンクの影が自分に覆い被さっていた。そして闇の中、その表皮に亀裂が入るのが確かに見えた。
どくどくと零れる水。長年蓄積された赤錆や汚物が混じった赤茶けた水。それは徐々に勢いを増して、亀裂から流れ出てくる。
そして人知と現実、夜と闇のすべてとともに、給水タンクは破裂した。
噴き上げられた水が怒涛のごとくこちらに向かってきた。私はたちまち水流に飲み込まれ、方向感覚も平衡感覚も完全に失った……だが、胸の奥の不安も同時に消え、水圧に押しつぶされることもなく、水の中を軽やかに泳いでいた。
顔を上げると、反転した街が水面に揺らいでいる。月光を飛沫と散らすその非現実的な光景こそが自分の本来の居場所だと、本能的な部分で感じていた。
私は水面上に一度、跳ねた。そしてまた潜る。
水没した街の水面から廃ビルだけが突出し、給水タンクは今も街に水を注ぎ続けている。私は水の中、水流の揺籃でまどろむかの様に泳ぎ続ける。










