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2007-12-05 OVERDRIVE『キラ☆キラ』 感想 ネタバレ!

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感想というよりは、きらりEDについての覚え書きです。自分の中では一定の結論に達しているのですが、大変読みにくく理解しにくいかと思います。あと、ネタバレ全開です。

■ストーリー

受験勉強にも身が入らず、アルバイトに明け暮れ無感動に毎日を過ごす「前島鹿之助」は、無敵の貧乏少女「椎野きらり」と出合ったことから、パンクバンドを組むことになる。それも、女装してガールズバンドを。

家庭の不和を抱える幼馴染「石動千絵」、病弱なご令嬢「樫原紗理奈」らと組んだバンドは、文化祭で大成功をおさめる。そして、インディーズの雄「STAR GENERATION」に認められたことからライブハウスに出演、さらにはオンボロワゴンに楽器を積み込み全国ライブ行脚に出ることになる。ロックの夏が始まる、そして夏が終わったとき……。



きらりルート」、とくに最後にプレイすることになる最終ルートは、ドストエフスキー罪と罰』をモチーフとしています。きらり一家の境遇やきらりの「就職」、そして鹿之助の果たす役割、このあたりは、はっきりと『罪と罰』をもとにしていると言えるでしょう。

きらり=ソーニャ(家族を救うため娼婦となる。アルコールに溺れる父、幼い弟妹などの設定も共通)

鹿之助=ラスコーリニコフ(良いことだと信じながら殺人(見殺し)を犯す)

また、きらり最終ルートにおいて、自己犠牲と罪の告白というテーマが現れるのも、『罪と罰』から。プロットを下敷きにしている以上、当然ではありますが。

ただし、『罪と罰』をモチーフとしているということを、それほど重くとらえる必要もないかと思われます。設定が共通しているからといってラストまで同じだとは限らない、むしろ、はっきりとオマージュを打ち出しているからこそ、異なったメッセージが込められていると思われます。

言うならば、ドストエフスキーに対するアンサーソングになっているわけです。

※ ※ ※

テニスでの挫折のエピソードは、鹿之助が自分の幸せにも不幸せにも興味がもてない、人格障害的な要素を持っていることを示しています。一時的に掴んだキラキラしたものに固執し破滅していく、そうすることしかできない、そんな人間。

きらりBADルートは、この鹿之助の病巣をより強烈なカタチであぶり出し、さらにその苦しみを超克し自分の中にキラキラしたものを見つけ出す話になっている。

そんなことを考え始めると、物語前半や他ヒロインルートの鹿之助も、楽しそうな幸せそうな演技をしているだけで、アパシーに囚われたままなのではないか、なんてふうにも思えて来ますが、これはさすがに穿ちすぎでしょう。

千絵ルートや紗理奈ルートでは、ヒロインと触れあい、他者を愛することによって問題を回避できたということなのだろうか。

鹿之助は、他者の内の「キラキラしたもの」を肯定し、それを助けることで生きていく。そして、その「キラキラしたもの」を体現するヒロインを失ってしまえば、BADルートのように、その脆さが露になってしまう。

苦しみばかり求め、幸せを掴めない鹿之助の名前が、

願わくば、我に七難八苦を与えたまえ

という台詞で有名な山中鹿之助から取られていることも、偶然ではないでしょう。

自己犠牲というテーマが、ゲームの随所に見え隠れしているのだから。

※ ※ ※

このゲームで一番不思議なのは、きらり最終ルートで、「聖女の無償の愛と自己犠牲によって救済され、魂の高揚を得る」という、流れからして必然的とも言える、そしていかにも瀬戸口廉也らしい、『SWAN SONG』と同質のエンディングが描かれなかったこと。

この最終ルートでは、鹿之助がきらりに罪を告白する公園のシーンから、突然描写が他人事のようになり、きらりの想いも鹿之助の想いも語られることはない。ただ、きらりがシンガーとして成功し、鹿之助との関係も続いているという事実が分かるだけ。

これについては、紗理奈ルートが補助線となりうるかもしれない。

樫原一族の悲劇は、モチーフ的にきらりルートと共通する部分が多々あります。


紗理奈の父(健一)=きらりBADルートの鹿之助(恋人を失い、希望を見失う)

紗理奈の祖父(正次)=きらり最終ルートの鹿之助(善意から他者を見殺しにする)

紗理奈の母(康江)=きらり

このように、紗理奈ルートはきらり2ルートの縮図のような構造を持っています。

ここから、きらり最終ルートを解釈しようとすると、紗理奈ルートのラスト、「祖父が救済されたかに見えるシーン」が問題となってくる。この老人との渓流釣りは、いわゆる名シーンってやつで、ついつい音楽と文章の力で押し切られてしまいそうになりますが、祖父が鹿之助に心を開いた理由は、はっきりとは描かれていない。正次老人にとって、紗理奈と鹿之助を認めることは、かつての自分、ひいてはこれまでの人生すべてを否定すること。しかも、2人を認めた先に待っているのは、かつて見殺しにした夫婦への悔恨。簡単に認められることではない。

しかし、紗理奈が指摘するように、老人はすでに息子夫婦を認めている。

……お爺様が、お父さんたちのことを喋るときは、いつも『あいつ』じゃなくて、『あいつら』なんです。わかります?

キラ☆キラ

鹿之助と紗理奈による粘り強い説得がきっかけになり、正次老人は、罪を受け入れる。鹿之助が、「無償の愛と自己犠牲」を発揮する側に回ることにより、絶望にとらわれた老人に罪を償いながら生きる勇気を与え、かつての感情を取り戻させた、と言うこともともできるでしょう。

きらり最終ルートも、これと同じ構造なのだろうか? 自己犠牲と罪の意識からの救済というテーマについては共通のものと見ることができる。しかし、単純に「きらりの献身によって鹿之助が救われた」というお話ならば、あのような、プレイヤーを突き放すような演出にする意図が見えない。

※ ※ ※

瀬戸口廉也が、これまでの作品で繰り返し用いてきたイメージとして、「キリスト教」がある。

キリスト教的な考え方で行くならば、人間の力では罪を償うことはできない。人の罪を贖うことができるのはただキリストのみ。

鹿之助の告白を聞き、突然、それまで否定してきたデビューを受け入れるきらり

彼女は、「みんなが元気になるような歌」を歌いたいと言う。

これは、幼少期から求め続けた普通の幸せを、自分の幸せを諦め、罪をおかしながら生きる「みんな」のために生きるという宣言だろう。さきほど持ち出した、キリスト教の例で言えば、人であることを辞め、聖者となる道を選んだ、ということになる。

きらりは、歌を通じて人間社会の罪を贖い、鹿之助はきらりの一部として生きる。2人が一心同体となり、罪を贖う。だから、ラストシーンでは、2人の人としての喜びや悲しみは描かれない。

無償の愛をもってしても、罪は消えない。ただ贖い続けることができるのみ。そんな、わりと救いようのないラストだったのではないだろうか。

※ ※ ※

ラストの描写が異常なまでにあっさりしていることについては、もうひとつ理由がある…と思う。それは、『罪と罰』の対比。

罪と罰』のエピローグは、めったやたらと歓喜に満ち溢れている。

 二人は何か言おうと思ったが、何も言えなかった。涙が目にいっぱいにたまっていた。二人とも蒼ざめて、痩せていた。だが、そのやつれた蒼白い顔にはもう新生活への更正、訪れようとする完全な復活の曙光が輝いていた。愛が二人をよみがえらせた。二人の心の中には互いに相手をよみがえらせる生命の限りない泉が秘められていたのだった。

 二人はしんぼう強く待つことをきめた。彼らにはまだ七年の歳月がのこされていた。それまでにはどれほどの堪えがたい苦しみと、どれほどの限りない幸福があることだろう! だが、彼はよみがえった。そして彼はそれを、新たに生まれ変わった彼の全存在で感じていた。では彼女は――彼女は彼の生活をのみ自分の生きる糧としていたのだった!

ドストエフスキー罪と罰』下巻 新潮社文庫(工藤精一郎訳)p.483

しかし、正直なんでこんなにハイテンションなのか、罪を犯したラスコーリニコフがなぜ救済されたのかは、正直よくわからない。あまりちゃんと読んでないせいもあるのだろうけど、まったく分からないと言ってもいい。いや、ソーニャとの愛だってのは書いてあるから分かるのだけど、それ以上はさっぱり。刑が思ったより軽かったからか?(違う…と思う)

最終エンドにおいて、心理描写を排除し、むしろバッドエンドのような寂寥感を演出して見せたのは、この『罪と罰』で描かれる一種異常なまでの高揚に疑問を呈するためではないだろうか。罪から、また罪の意識から逃れることの難しさを強調するために、むしろバッドエンドのような寂寥感を演出して見せた、そんな風に感じられた。

つまり、あのラストシーンには、『罪と罰』へのアンチテーゼが込められている…のかもしれない。ロシア文学に造詣が深いわけでもないので、曖昧にさせてください。

とにかく、『罪と罰』のエピローグと『キラ☆キラ』のそれは、プロット的には同じような構造持ちながら受ける印象が180度違う。この落差は、何かの意図が働いた結果のように感じられます。

ドストエフスキーやらキリスト教やらで、きらりエンドに一応の意味づけを行ってみました。しかし、もちろん、上記のような図式化・モチーフの解釈は、作品の根幹にはなんらかかわるものではありません。そこは、プレイして感じたことがすべて。

内容をこのような短文にまとめてしまうことができるのなら、ゲームをプレイする意味もなくなってしまうでしょう。

daktildaktil 2007/12/09 20:47 こんにちは。『罪と罰』のエピローグは、それまでの熱気のこもった文体から急に憑き物が落ちて枯れた文体になったような印象をもっていたので、Suppeさんの見方は新鮮でした。そう見るなら確かにきらりルートの終盤は『罪と罰』とは対照的かもしれないですね。なんだかんだいって神を支えとしていたドストエフスキーと、どうにも神を見つけられそうにない瀬戸口氏と。『罪と罰』をモデルにしたのといえば島崎藤村の『破戒』が有名ですが、エロゲーでもそういうのが出てきたことは嬉しいですね。といっても、キャラの設定をなぞってみたという程度のような感じもします。カーニバルのキリスト教要素もそうだったけど、意匠という程度で、何か新しい言葉を言ってやろうという気は今のところあまりないような気がします。エロゲーというジャンルが許してくれないのでしょうかね。偉そうなこと言って失礼しましたが、好きな作品ですし、Suppeさんの力の入った感想にも感心したので思わず書き込ませていただきました。

SuppeSuppe 2007/12/10 23:37 いま、ブログのほう拝見させていただいたのですが、某批評空間にも投稿されてますよね? 上の文章を書くにあたって、大いに参考にさせていただきました。
僕は、『罪と罰』のエピローグが、なんというか納得がいかなかったのです。逮捕されることで、母親に心労をかけて死に追いやっているわけですし、そんなに突然幸福になれるもんだろうかと。(『罪と罰』を否定しているわけではありません。こういった疑問を引き出したのもドストエフスキーの筆力なのでしょう。)
そこで、プロット的に似た構造を持ちながら、むしろ否定的な印象を抱かせる『キラ☆キラ』に、ドストエフスキーへの批判を感じたわけです。批判というよりは、世紀末のロシア人にはなれない現代人の哀しさ、みたいなものかも。
あらためて、daktilさんの文章を読んでいて気が付いたのですが、『キラ☆キラ』のエピローグと『罪と罰』のそれは、どちらも突然に神の視点的な文体にチェンジしているわけで、「あえて書かない」という手法についても『罪と罰』に倣った、と考えることもできますね。
余談ですが、確認のため読み返すと、ラスコーリニコフよりもスヴィドリガイロフの弱さ(とそれを隠すための邪悪さ)が気になってしまいました。

daktildaktil 2007/12/11 00:28 批評空間へも投稿しています。あちらは期待していたほどキラ☆キラが盛り上がっていないようでちょっと残念ですが、これからなのでしょうかね。
確かにロシアの小説には家族愛はそれほどメインで書かれないような気がしますし、特にドストエフスキーの登場人物なんて、家族などよりも形而上的な信念とかと対話している方が多そうなくらいですね。その意味では、エロゲーではあまりに家族愛が頻出しすぎて、元ロシア文学系の自分などには、かえって奇異に映るほどです。『家族計画』を引くまでもなく、今の僕たちの社会では家族が解体されていっているからこそ、こういったフィクションで補填されているのだ、なんていうのも安易かもしれませんが。
個人的に、ロシア文学とキリスト教には割と関わりをもったことがあるエロゲーマーなので、瀬戸口氏のようなライターは貴重です。先に「何か新しい言葉を言ってやろうという気は今のところあまりないよう」だなんて書きましたが、キラ☆キラでも名前が挙がっていた遠藤周作も言っていたかどうかは知りませんが、日本という空間でキリスト教をやろうとしても、なんだかうまくいかないことが多いわけですから、キリスト教を「深く」扱えないということ自体が意味深いわけで、その点瀬戸口氏の控えめなやり方は正直で適切なような気もしますね。あ、スワンソングは未プレイなので、的外れでしたら失礼。
なにやらエロゲーの話から離れていってしまいましたがあえてこの調子で続けると、「デビューするきらり=象徴としてのアイドル=聖母」という連想をしてしまうということは、読者としての立ち場から人間としてのきらりを殺してしまうのではという疑念がすぐに浮かぶという点で、ヒロインとあくまで想像的?に向き合おうとするエロゲーというジャンル、萌えというシステムはなかなかうまく出来ているのかも知れないなあ、なんて思いました。強引なまとめですいませんが。

SuppeSuppe 2007/12/11 01:29 「日本という空間でキリスト教をやろうとしても、なんだかうまくいかない」というのは、分かる気がします。ご覧になっているか分かりませんが、ラース・フォン・トリアーの映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』なども、身の回りではキリスト教的なメッセージがまったく理解されておらず唖然とした覚えがあります。
瀬戸口が、日本における「キリストの不在」を逆手にとって何らかの表現をなしえたとしたら、それだけでも十分に価値のあることだと思います。
『SWAN SONG』は、『キラ☆キラ』や『CARNIVAL』と比べても、極端に瀬戸口廉也らしい作品だと思いますので、機会があればぜひプレイを。好みで言えば、まったく異質な桑島由一のテイストが加わった『CARNIVAL』が一番かもしれません。

takutaku 2008/04/30 09:07 感想拝見しました。
私はこの業界で唯一文章や構成が一般的に通用している作者は二人だと思うんですね。
田中氏と瀬戸口氏ですが、正直有名な奈○氏の文章は『悪文』の代表格のような気がします。ノベルゲームの時点で矛盾しているかもしれませんが……
瀬戸口氏の初期の作品でパンク的な要素も出てきていましたし、様々な意味でぴったりとはまったかもしれませんね。やはり着眼点とセンスは繋がってると思うので、音楽センスもいいような気がします。
日本人のファジーな部分がオタク的な意味のない世界観や思想を作り上げている。そういう作品を『文学』だと勘違いしている方も多いですが、瀬戸口氏の文章は筋がしっかりして、まるで文章にトーンがあるような感じです。
キラ☆キラがきっかけで沢山の人の目に触れるといいと願ってます。

SuppeSuppe 2008/04/30 23:01 ノベルゲームのシナリオについて、文章の上手さは絶対的な基準ではないと思いますが、瀬戸口氏の文章は魅力的ですね。…すでに引退宣言が出ておりますが、どこかでまた氏の作品と出会えることを願って止みません。http://www.close-channel.net/archives/2008/02/post_61.php

aa 2011/10/14 16:57 すごいいまさらなんですが、たまたま目についたので、ちょっとだけ反論を。
「罪と罰」、確かに瀬戸さん読んでそうですし、もしかしたら外観はモチーフにした可能性は無くはないです。
でも、「キラキラ」はキリスト教的なものとは、大きく異なる物語だと思うんです。
「罪と罰」は、「君と僕」の物語です。
世界には、たった二人だけ、「君と僕」の関係性しか存在しなくて、それはつまり、キリスト教的世界観が、世の中を「キリストと自分」の2者だけを描くものと論旨を一にします。
「神と自分」との真摯な対話を通じて、世界を表現しています。

キラキラの世界には、「君と僕」以外にも、多く描かれるものがあります。
それは、仲間であり、友達であったり。
村上が、「俺たちずっと、友達だからな」って言ったように。
一神教と多神教と表現するのは少し陳腐かもしれませんが、
まさに「キラキラ」の世界には、自分だけでもなく、神だけでもなく、様々な人間・生命・存在が息づいて、「僕」の目には見えないけれど、それでも皆懸命に、生きているのです。
それを描くための、「ロックの旅」であり、様々な人との「出会いと別れ」なんじゃないでしょうか?

「世界」は広大で難しいです。
きらりが言ったように、「世の中って難しい」
樫原祖父みたいに、偉くなったって思い通りにはいかない。
ロック仲間はみんな、七転八倒のその日暮らしで、将来も見えない。
半田みたいな、飄々とした生き方にだって、それなりの苦労もある。
なにより、人間は意外と、「いくつになっても成長しない」。

「キラキラ」の一番のテーマは、もちろん、青春です。
ここで描かれる青春とは、この上なく「青臭い」ものです。
無鉄砲で向こう見ずで、ノーフューチャーで、だけどだからこそ輝く、「一瞬のスパーク」。
それはこの上なく大切で、半田などは「人生の意味」とまで言っているけれど、一方で、それを追いかけている人たち(ロック仲間)は、みな、報われているとは言い難い。むしろ不幸です。
そこが、「世の中の難しさ」であり、その悩みに折り合いをつけ、一歩先へと進んでしまったものたちが、大人として描がかれます(五年後のチエ姉とか)。
でも、そんな大人になってしまった奴らだって、心の奥底には、青臭かった時代の残滓を残している。

「青臭さ」とは、世の中の不条理に対する真正面からの抵抗でもあります。
「わたしの周りの人たちは、みんな優しい人ばかりなのに、みんな傷ついて苦しんでいる」
そんな問題に直面した時、キリスト教世界では、神に祈りを捧げるでしょう。
では、絶対者たる「神」のいない、現在日本では?
世の不条理を、安直に「神」に押し付けられないなら?

そんな時、きらりは、鹿之助は、「ロック」を歌うのです。
ただの人間にすぎない彼らに、救済の力はないけれど、「がんばれって言ってやる」ことは出来るから。
時に怒りながら、時に面白おかしく、そっと、ほんの少しだけ、「勇気」を分けてあげるのです。

ただの人間である彼らも、ときに罪を犯すけれど、そんなの大したことじゃないよと、まだまだ大丈夫だよと、許してあげるよと、「大きな声で」言ってあげるのです。 
ブルーハーツの歌みたいに。

PANKには、青臭いって訳があります。
世の中の不条理と、上手に折り合いをつけることが大人だというのなら、ロックなんて金にならない音楽にいつまでも拘ってしまう鹿之助は、まだ「子供」なのでしょう。
でも、そんな青臭いことを、まっすぐに、真摯に、歌ってみせる奴が、いたって良いじゃないか。
「生きる」ってことを恥ずかしげもなく、無知なままに真面目な顔で、語ってみせる奴がいたっていいじゃないか(村上みたいに)。
怒られたら素直に謝るから。ピエロみたいに、笑ってくれたらむしろ上等。
そんな青臭さもまた、青春の素晴らしさ。
「一生懸命に生きる」ってこと、なんだと思う。

aa 2011/10/14 16:57 すごいいまさらなんですが、たまたま目についたので、ちょっとだけ反論を。
「罪と罰」、確かに瀬戸さん読んでそうですし、もしかしたら外観はモチーフにした可能性は無くはないです。
でも、「キラキラ」はキリスト教的なものとは、大きく異なる物語だと思うんです。
「罪と罰」は、「君と僕」の物語です。
世界には、たった二人だけ、「君と僕」の関係性しか存在しなくて、それはつまり、キリスト教的世界観が、世の中を「キリストと自分」の2者だけを描くものと論旨を一にします。
「神と自分」との真摯な対話を通じて、世界を表現しています。

キラキラの世界には、「君と僕」以外にも、多く描かれるものがあります。
それは、仲間であり、友達であったり。
村上が、「俺たちずっと、友達だからな」って言ったように。
一神教と多神教と表現するのは少し陳腐かもしれませんが、
まさに「キラキラ」の世界には、自分だけでもなく、神だけでもなく、様々な人間・生命・存在が息づいて、「僕」の目には見えないけれど、それでも皆懸命に、生きているのです。
それを描くための、「ロックの旅」であり、様々な人との「出会いと別れ」なんじゃないでしょうか?

「世界」は広大で難しいです。
きらりが言ったように、「世の中って難しい」
樫原祖父みたいに、偉くなったって思い通りにはいかない。
ロック仲間はみんな、七転八倒のその日暮らしで、将来も見えない。
半田みたいな、飄々とした生き方にだって、それなりの苦労もある。
なにより、人間は意外と、「いくつになっても成長しない」。

「キラキラ」の一番のテーマは、もちろん、青春です。
ここで描かれる青春とは、この上なく「青臭い」ものです。
無鉄砲で向こう見ずで、ノーフューチャーで、だけどだからこそ輝く、「一瞬のスパーク」。
それはこの上なく大切で、半田などは「人生の意味」とまで言っているけれど、一方で、それを追いかけている人たち(ロック仲間)は、みな、報われているとは言い難い。むしろ不幸です。
そこが、「世の中の難しさ」であり、その悩みに折り合いをつけ、一歩先へと進んでしまったものたちが、大人として描がかれます(五年後のチエ姉とか)。
でも、そんな大人になってしまった奴らだって、心の奥底には、青臭かった時代の残滓を残している。

「青臭さ」とは、世の中の不条理に対する真正面からの抵抗でもあります。
「わたしの周りの人たちは、みんな優しい人ばかりなのに、みんな傷ついて苦しんでいる」
そんな問題に直面した時、キリスト教世界では、神に祈りを捧げるでしょう。
では、絶対者たる「神」のいない、現在日本では?
世の不条理を、安直に「神」に押し付けられないなら?

そんな時、きらりは、鹿之助は、「ロック」を歌うのです。
ただの人間にすぎない彼らに、救済の力はないけれど、「がんばれって言ってやる」ことは出来るから。
時に怒りながら、時に面白おかしく、そっと、ほんの少しだけ、「勇気」を分けてあげるのです。

ただの人間である彼らも、ときに罪を犯すけれど、そんなの大したことじゃないよと、まだまだ大丈夫だよと、許してあげるよと、「大きな声で」言ってあげるのです。 
ブルーハーツの歌みたいに。

PANKには、青臭いって訳があります。
世の中の不条理と、上手に折り合いをつけることが大人だというのなら、ロックなんて金にならない音楽にいつまでも拘ってしまう鹿之助は、まだ「子供」なのでしょう。
でも、そんな青臭いことを、まっすぐに、真摯に、歌ってみせる奴が、いたって良いじゃないか。
「生きる」ってことを恥ずかしげもなく、無知なままに真面目な顔で、語ってみせる奴がいたっていいじゃないか(村上みたいに)。
怒られたら素直に謝るから。ピエロみたいに、笑ってくれたらむしろ上等。
そんな青臭さもまた、青春の素晴らしさ。
「一生懸命に生きる」ってこと、なんだと思う。

aa 2011/10/14 17:20 追記。
ロシア文学に詳しいっわけじゃないんですが、娼婦って基本的に、キリスト世界では許されざるものだと思うんです。
「娼婦はキリストに守ってもらえない」みたいな表現を、他のどっかでも見かけた気がします。
でも、そんな娼婦に身を落としたきらりを、それでも鹿之助は許した。
そんなところからも、「きらり=聖母」説は、ちょっとしっくり来ません。
きらりはあくまで、ただの人間なんですよ。
それっぽく言うなら、原罪を宿してる。

そんなただの人間のきらりだからこそ、人の心を打つ応援歌が歌えるんじゃないかと、そう考えもするんですが、どうでしょう?

SuppeSuppe 2011/12/16 01:37 ものすごくいまさらですが・・・コメントありがとうございます。

書いていただいたことへの回答にはならないかもしれませんが
(簡単に答えが出せるようなコメントだとも思いませんし)
キラキラって「青春とその後」の物語だと思うんですね。
かっこよくキメて愛のあるセックスをして、
エンドロールが流れ緞帳は落ちた、でもテメーらの人生は続いて
行くんだぜ? さあ、どうする? ってなところ。

そんなキラキラ輝いた時期とその後を語るに、ロックというのは
うってつけのモチーフなんだろうなと。
実際、「俺は音楽で行くぜ」って決めちゃった人たちにはそれ相応
以上の苦労がのしかかるわけで・・・特に若くなくなると。

あと、これも答えとしてふさわしいのかは分かりませんが、
罪と罰の時点で、「ソーニャ=マグダラのマリア=罪の女」
ってモチーフになってるんじゃないかと思います。
僕はそう読んだ。ここは、きっと専門家たちが語りに語りつくして
いると思うけど、そこはよく知らないです。
でも、そう思いません?