2010-06-09
■[小説]平野啓一郎『ドーン』
- 作者: 平野啓一郎
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2009/07/10
- メディア: 単行本
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■舞台となるのは2036年10月のアメリカ。大統領選挙のクライマックスを目前に控え、人類史上初の有人火星探査を終えた直後である。宇宙船《ドーン DAWN》クルーの一人であった日本人・佐野明日人、民主党候補の選挙PRの制作を依頼された映像作家の一人ウォーレン・ガードナーなどを主人公に据えた、群像形式で物語は進行する。描かれるのは《ドーン》のミッションとそのクルーたちの現在・過去における煩悶・決断、あるいは大統領選挙の過程とその背後で動くさまざまな人間の思惑などである。
■本作における重要かつ未来的な設定は、《ドーン》と、民間によって全域化した監視システム《散影 divisuals》*1くらいであり、しかも後者は、《分人 dividual》と呼ばれる独特の現象から求められた設定である。
《分人》とは、《分人主義》という述語で語られもする。それは、必ずしも未来的なテーマというわけではない。それは本作における政治描写*2とも同様、現代から続く問題のある一面を純化して描いているという印象を受ける。イーガン的な(あるいは東浩紀、伊藤計劃的な?)複雑な未来技術設定などは少なく、現代を戯画化するような手触りは読みやすくわかりやすく共感しやすい。全体として伊坂幸太郎の『ゴールデンスランバー』に近い印象を抱くが、舞台の中心をアメリカに移したことによって、身近さは若干失われたものの、特に政治における描写は、日本のそれと比べて(よくもわるくも)「面白く」なった。
そして政治とは別に、現代から続く、そしてより純化された形で描かれた中心的な(社会的)テーマとして、《分人》は登場する。それは、情報技術の発展によってとりわけ進行した、個人 individual のさまざまな(対他者的、社会的な)人格、ペルソナ、キャラクターへの分裂の事態に対する名称である。作中で説明されているとおり、それは従来のペルソナ、キャラクター論とは異なり、基本的に主人格としての統一的「個人」は存在しない。ただし多重人格のように完全に分断され記憶のつながりまで失われていたりするわけでもない。ごく自然な、友人知人や上司同僚の前でそれぞれ異なった「顔」を見せる、という当たり前の事態がより当たり前に進行していく現実に対して肯定するか否かを「主義」という形で(作中における)「現代的問題」として取り扱うのが《分人主義》である。《分人》の存在が当たり前になってくると、目の前の人物が別の場面ではどのように振る舞っているのかがより気になり、さらに社会的責任も分断化されてしまい、倫理観が磨耗する危険性があり、それを防止する手段も求められる。それらのニーズに応える形で、本作における監視システム《散影》は用いられている。従来の監視社会論は、ある一部のアーキテクトが、全市民の自由と引き換えに安全と利便性を供給する、というモデルが描かれていた。本作においては監視社会のイメージを、そこから一歩進んで、全市民による全市民に対する「相互監視」によって、上記のような倫理的危機を(草の根的に、共同体主義的に)乗り越えるという、宮台真司のいうアメリカ的共和主義の具体化の一例として描いてもいるというわけだ*3。
《分人》は現代から続く社会問題である。多様化するコミュニティにおいて、振る舞いが多様化することは避けられない。無理に統一しようとすれば、混乱をきたしてしまう*4。しかしだからといって、完全に分断されているわけでもない。本作の後半で語られていたように、すべてのディヴィジュアルはすべてのディヴィジュアルに影響を及ぼしうる。何かホストのような最上位の統一人格というようなものはないけれど、バラバラな人格によって構成された「人間」は、個々の人格の些細な変化がその「人間」全体を変化させうる。それは最近の生物学において主張されている物理的人間観に近いところがあるし、それこそ本作で描かれているような「政治」「国家」「共同体」もまた、バラバラの人格によって構成された、しかしそれぞれの人格が別の人格に影響を及ぼしうるような、分化‐統一システムなのである*5。人間とは共同体的存在である、という言葉は、まさにそのような(共同体と相似た)バラバラな人格の分化‐統一システムとしての「人間」を言い当てている言葉であると思う。本作の《分人》アイディアは、この人間というものの現実を――それこそけっして未来的でも空想的でもない現実を――純化された形で丹念に描き出した概念であると言える。
■同人誌『PLAY BOX vol.2』に掲載された中沢忠之氏の論文の言うとおり、SF(などのジャンル小説)はある種、「プロットを作りこむことによって物語を作成する」ものであると思われる。物語設定によって登場人物がどのように描かれるか、そこからどのような問題があぶりだされてくるのか、を描くのが主流のSFであるとしたら、本作『ドーン』は、そのような意味でのSFの枠にはけっして囚われていない。独創的な科学技術設定などは本作においてあまり登場してはいないが、しかしその代わり、(本来、純文学が描くべきなのに昨今のそれではあまり描かれていないようにも思える)普遍的な「人間」というものを、本作はきわめて丁寧に描き出しているように思える。エンタテインメント性(単純な「面白さ」)、現代性(アクチュアルな問題設定)、そして(純文学的?な)普遍性、これら物語に必要なすべての要素を、本作は兼ね揃えた完璧な作品だったと言える。傑作中の傑作であった。
*1:民間・公共を問わずあらゆるところに設置された監視カメラ等の映像をすべてリンクし、〈顔認証機能〉を用いた検索機能によって誰もが、(ほぼ)すべての場所におけるすべての人間のある一面を簡単に検索し収拾することのできるインターネット上のサービス。
*2:イラク戦争を彷彿とさせる東アフリカ戦争や、オバマやネオコンを彷彿とさせる人物、思想の描写など。
*3:本作における「共和党」が、そのような「共和主義」に対してどちらかというと批判的である、というのは少々面白い。
*4:本作における《ドーン》は、まさにその無理な統一の舞台として機能したわけだ。そうなると、本作で用いられたSF的な設定はいずれも(《ウィキノヴェル》すらも)、《分人主義》という、本作の特徴的な(しかしけっしてSF的ではない)アイディアに結びついている、ということとなる。
*5:アメリカの政治にも良し悪しはあるだろう。しかし少なくとも、このような全市民の意思の構成物としての政治、という物語が信じられるだけ、アメリカの政治は魅力的であることは間違いない(本作369ページ末から375ページにかけて語られる、アメリカの政治とコミュニケーションそしてdividualismとの関係についての叙述は非常に感動的である)。『ゴールデンスランバー』のように日本の政治を取り扱っても、それは否定的にしか描かれえない。さもなければリアルではないと感じられてしまうのが今の日本の政治の現実である。
2010-05-13
■[法哲学]大屋雄裕『自由とは何か』
- 作者: 大屋雄裕
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2007/09
- メディア: 新書
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自由とは何か。哲学者の間でもときおり話題にのぼるこのテーマについて、法哲学者である著者が挑む。
最終章では研究室の後輩であり、主要な論敵でもある法哲学者・安藤馨氏を取り上げて問題を考える。安藤氏は自由(の価値)などフィクションであり、より大きな利益もたらしてくれるのなら捨ててしまってすらいいものであると考える。著者は、この安藤氏の主張に一定の理解を示しつつも、しかし安藤氏の言う意味での自由がすべて捨てられたあと、再び新しい自由が生まれ出てくる可能性について期待を寄せている。それは、責任によって生まれる自由である。
安藤氏の想定は、アーキテクチャという存在によって社会(国家)がすべての個人の自由と引き換えに幸福をもたらすという理想である。しかし著者は、フランス革命直後の思想家コンスタンを引用しつつ、社会の手から零れ落ちた人びとが、自らの幸福のためにも(たとえ社会に反抗してでも)自分ひとりで立ち上がり、幸福へと向かうという自由を夢見る。社会設計の面で見れば、「最大多数の最大幸福」にもとづく一般的な功利主義的立場をとる安藤氏のほうが現実的であることは確かかもしれない。しかし私は、同じ功利主義的立場を支持する者としても、より個人に寄り添う著者の自由観に共感を抱く。社会の規則としてはたしかに安藤氏の想定はより有用かもしれないが、個人の生き方としては、責任から生まれる自由という安藤―コンスタンの理想が魅力的に感じられる。どれだけたくさんの人びとがアーキテクチャの発展によって幸福になろうとも、その救いの手から零れ落ちるかもしれない人びとがいるかもしれないし、また私自身がそのような人となりうるかもしれないのだから。
2010-05-12
■[哲学]野矢茂樹『無限論の教室』
- 作者: 野矢茂樹
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1998/09/18
- メディア: 新書
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論理学に定評のある著者による、「無限」についての物語仕立ての講義。
無限については、それが実体として存在するかのようにみなす「実無限」派(たとえば、1メートルの中には無限の点が含まれているとする立場)と、それはどこまでも繰り返すことができる規則を表しているにすぎない、無限とは可能性にすぎない、とする「可能無限」派(たとえば、1メートルは無限に分割することが「できる」とする立場)とがあるという*1。アリストテレス以来、長いあいだ後者、可能無限派が優勢であったのだが、19世紀末から20世紀初頭にかけて、カントールというドイツの数学者によって実無限の立場から現代の無限集合論が作られた。現代の数学界ではこの無限集合論にもとづいた実無限の立場が主流となり、高校数学などでもこの立場によって無限の解釈が教えられているという。
しかし本書の著者・野矢茂樹氏は、この実無限の考え方に対し真っ向から反対する。彼は可能無限の立場に立つのだ*2。だから、本書は、実はもっとも一般的な無限論について解説するわけでもないし、無限論についての「入門書」でもない。この本が数学者から評判が悪いという話も聞いたことがあるが、この部分がまさにその理由なのかもしれない。
野矢氏は数学者ではなく哲学者であり、この本も数学についての本というよりは、「数学の哲学(数理学?)」についての本というのが正しいであろう。読む際には、野矢氏の語り口を絶対のものとして盲目に信じるのではなく、ではなぜこの考え方が主流になりえないのだろうという部分についてもよく考えながらじっくり読むといい。それが「哲学の本」の読み方なのだから。
*1:可能無限の立場からは、円周率πとはある複雑な規則によって導き出されるという仕組みを表す記号であり、3.14……と無限に続く数字が人間の手によって(スーパーコンピュータの手によって)発見される前からすでに決まっている、というふうには考えない。そういうふうに考えるのがまさに無限を実体と考える実無限の立場であり、1メートルの話では自然と可能無限の立場に立つ人も、円周率πについては自然と実無限の立場に立っていたりする。本書の登場人物の一人もまさにそのような感覚を持っている。
*2:正確には、本書の登場人物の一人である「タジマ先生」がそのような立場に立っている。とはいえ、おそらくは野矢氏もそのような考え方だとは思うのだが……。その当否について考えながら読むこともまた、本書の面白さである。
2010-05-02
■[倫理学]加藤尚武『現代倫理学入門』
- 作者: 加藤尚武
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1997/02/07
- メディア: 文庫
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■歴史的な倫理学説の紹介、というよりは、現代、問題にされやすいさまざまな「倫理学問題」、およびそれに対するさまざまな意見の紹介、という形をとっている。倫理学入門書、というよりは倫理学問題集、といった感じ。『動物からの倫理学入門』や『倫理とは何か』の方が自分にとっては入門書、という感じがしたがそこはそれこそ好みによるのかもしれない。本書もまずはカントの「嘘をついてはならない」という絶対的な決まりごとが正しいの?間違ってるの?とか、サバイバル・ロッタリーだとか、常識的な疑問点からいわゆる倫理学問題に招き入れる形となっているので、ある人にとってはむしろ先の本よりも入門書になりうるだろう。自分は知識が欲しかった、ということと、そもそも善悪って何、とか個人的な善悪と社会的な善悪との違いとかに興味を持っているので、その点で、本書は自分の趣味とは合致していなかった。
■面白かったのは、完全義務という形で古典的な倫理を確立しようとしたカントと、現代的な倫理の基礎となっている功利主義とを、その両方を結び付けようとしたミルなどを中心に検討している、と思われる部分。本書を貫くある思想的なテーマがあるとしたらこの部分かもしれない。8章から14章が面白かった。
2010-04-28
■[倫理学]永井均『倫理とは何か』
倫理とは何か―猫のアインジヒトの挑戦 (哲学教科書シリーズ)
- 作者: 永井均
- 出版社/メーカー: 産業図書
- 発売日: 2003/02
- メディア: 単行本
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■野矢茂樹『論理トレーニング』などで有名な哲学教科書シリーズの一冊。プラトンからアリストテレス、社会契約説から功利主義、メタ倫理学まで、M先生の講義という形で倫理学理論の歴史を紹介しつつ、毎回それらのテーマについて二人の学生と猫のアインジヒトが討論方式で検討する、という、特殊な構成をとっている。普通の倫理学入門書としても読めるし、また永井氏独特の哲学観にも触れることができる。とは言っても、倫理学理論紹介の部分は永井氏にしては珍しく中立的な見解をしているとは言え、それでもやはり独特で、省略されている部分も多く、入門書として本当に十分であるとは言い切れない。しかし、後述する本書一貫して語られるテーマは倫理学というものを考えるうえでの重要な切り口の一つでもあり、また永井氏自身それに対する反論を自ら用意しているので(永井氏はこういうところがうまい)、講義で知識を得て討論に参加することで自分で考える、という、大学哲学教育の基本(だが、専門でもない限りなかなかやる機会のないこと)を本書で実践することができる(この点は『動物からの倫理学入門』も同様)。その意味で理想的な倫理学入門書でもある。ほかの入門書と並べて読むことをお勧めする。また、氏の著書で似たような構成を持つものとして、『転校生とブラック・ジャック』というものがある。こちらは独在性、すなわち氏の十八番として一般的に有名な〈私〉をめぐる問題について講義と討論という形式で論じている。こちらも興味ある人は手に取ってみるといい。
■さて、本書は先述したとおり倫理学の入門書として理論の紹介を柱としているのであるが、ただ無機質に理論を紹介するのではなく、本書全体を貫く一本のテーマに沿ってもいる。そのことが本書の、入門書としては偏りがある部分であるのと同時に、ほかの入門書にはない魅力と面白さにも繋がっている。そのテーマとはすなわち、「道徳的な価値がそれ以外の直接的な価値とはまったくちがう種類の価値であること*1」だと言える。より踏み込んだ言い方をすると、「道徳的に悪いことって、必ず、自分にとっては善いことだ*2」ということでもある。プラトンはグラウコンを使ってこのことを述べ、かつソクラテスを使ってその真実を覆い隠す道徳(=倫理)を作り出そうとした、というふうに「アインジヒト」は見ている。このような理解は決して珍しい理解ではないだろう。そして永井氏は、このような問題意識が古代より連綿として繰り返されてきた倫理学的問題意識であると捉えている。すなわち、個人の善と社会の善(倫理)との違い。社会契約説や功利主義はそのような二つの善を結び付けようとした試みであったが、傍論として語られるニーチェが、そのような試みは不可能であることを指摘していた、とも永井氏は言う。氏自身はやはり倫理においても〈私〉の特別性についても強いこだわりがあり、ともすれば現代の倫理学はその〈私〉の特殊さを忘却してしまう考え方でもあると警鐘を鳴らしている(ように思われる)*3。
■本書最大の山場はやはり最終章の、アインジヒトとM先生の直接対決である。倫理学理論の紹介という本書の目的の一つからは外れるが、テーマであった個人の善と社会の善(倫理)との対立とも取れるし、そのことを踏まえたうえで実践として倫理をどう扱えるか、というメタ的な視点についての対立とも読める。アインジヒトだけに喋らせると彼に「洗脳」されてしまいそうになるが、このようにして明確な対立を演出させられると、ふと立ち止まって自ら思考をめぐらせてみたくなる。最終章全体が「倫理とは何か」に対する永井氏自身の答えともなっていると同時に、私たちに対する多くの問題提起でもある。場合によってこの最終章だけを読んでも、本書のエッセンスの多くの部分を堪能することができるだろう。

