2008-08-02
■[理論]順列都市、パーフィット、人格の同一性
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「高度に発達したSFはホラーと見分けがつかない」と言われることはないが、優れたSFはときに恐怖に近い感情を呼び起こす。グレッグ・イーガンの近未来SF『順列都市』もまた、そのような意味で恐ろしい作品だ。
物語の舞台は21世紀半ばの世界で、この時代、すでに記憶や人格というものを情報としてコンピュータに“ダウンロード”できる技術が広まっていた。研究者のポール・ダラムは、みずからの研究のために自分自身の〈コピー〉を作り上げる。物語は、この〈コピー〉のポール・ダラムが、コンピュータの中の世界で目を覚ますところから始まる。
〈コピー〉のポール・ダラムは、目を覚ました直後、自分自身の決断の愚かさを強く後悔する。あらかじめ備わっているはずの自殺用プログラムを起動して実行しようと試みるが、その機能は“ダウンロード”のあと、現実世界のオリジナルのポール・ダラムによって消去されていた。死にたくても死ねないからだのまま、〈コピー〉のポール・ダラムは、オリジナルのポール・ダラムによって実験のモルモットにされる。意識や記憶といったものを好き勝手にこねくり回され、ときに自分の複製を勝手に作らされその片方を勝手に消されたりするなど、まさに非人間的な行いをされ続ける。『順列都市』の前半の物語は、一方でこのような、誰かに自分のすべてを操作され続けるという絶望的な被虐の恐怖を描いている。
しかし、『順列都市』前半部の本質は、このようなある種わかりやすい恐怖ではない。『順列都市』が言葉にできない恐怖を呼び起こす瞬間は、物語の中に直接に描写されている部分にはない。本当の恐怖は、物語の始まる直前の瞬間にある。わたしたちは、『順列都市』を読んで、〈コピー〉のポール・ダラムに感情移入し、彼を操ろうとするオリジナルのポール・ダラムに対する恐怖を覚えることはするが、同時に、きっと、このような想像もするはずである。わたしがここにいる、ということは、わたしはかつて、つまりこの物語が始まる直前――〈コピー〉として目を覚ます直前――に、まさに自分自身で〈コピー〉を生成するスイッチを押していた、ということ。自分が今ここにいる直接の原因はまさに自分自身の行為にある。そして、そのことを想像し、今の〈コピー〉の状態が十分に理解したうえで、もしもわたし(ポール・ダラム)があの〈コピー〉を生成するスイッチを目の前にした状態に立ち戻ることができたとしたら……果たしてわたしたちはスイッチを押せるのだろうか、と。
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イーガンのアイデアによく似たアイデアが、デレク・パーフィットの1987年の著書『理由と人格』の第三部として収録された論文の中に登場する。遠隔輸送機の思考実験とも呼ばれるそのアイデアの概要は以下のとおりである。
まず、それは人間の光速の移動を可能とする装置である。たとえばわたしが地球から火星に光速で移動したいと思ったら、その装置に入ってスイッチを押せばいい。すると、わたしの身体のすべての細胞の情報をスキャナーが分析して、その情報を光の速さで火星の同じ装置へと飛ばす。そしてその情報をもとにして、火星の装置の中で、地球にいたわたしと寸分違わないわたしが再構成される。こうして、わたしは光の速さプラスアルファの速さで火星の地へとテレポーテーションすることができたのである。
これはよくSFで見かけるような遠隔輸送機のアイデアであるが、ここでポイントとなるのは、スイッチを押した瞬間に、地球にいたわたしの身体はどうなるのか、である。もしも地球にいるわたしの身体がそのまま残るのであれば、地球で装置のスイッチを押したわたしは、スイッチを押した瞬間に、火星へのテレポーテーションを果たしたわたしと、テレポーテーションに失敗して地球にとどまり続けているわたしとに分裂する。『順列都市』における、〈コピー〉生成のスイッチと同じような効果である。すなわち、『順列都市』におけるスイッチも、そのスイッチを押した瞬間に、〈コピー〉を一方的に研究できるオリジナルのポール・ダラムのままでいられるか、あるいはそれに一方的に研究されてしまう〈コピー〉のポール・ダラムになってしまうかが決定されるのだ。テレポーテーションにせよ、〈コピー〉の生成にせよ、その質の違いはあれど、一方は幸福、もう一方は不幸、といって差し支えのない状態だと思われる。そのスイッチを押したとき、自分が幸福と不幸とに分かれることを理解しながら、わたしは本当にそのスイッチを押すことができるのか。
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『順列都市』の〈コピー〉のポール・ダラムに感情移入したときに感じる恐怖、およびパーフィットの思考実験を読んだときに感じる恐怖はそのようなスイッチを目の前にしたときの恐怖である。スイッチを押したあと、たとえ自分が幸福な自分になることができたとしても――つまり、オリジナルの自分のままでいられたとしても、あるいは無事火星にテレポーテーションすることができたとしても――わたしは、もう一度、そのスイッチを押す必要に迫られたとき(火星にテレポーテーションした場合はいつか地球に戻らなくてはいけないからその機会は必ず訪れるだろう)、わたしは本当にそのスイッチを押すことができるだろうか。もしかしたらうまくいって自分は幸福な自分のままでいられるかもしれない。実際、すでに第一回目の施行では成功したのだから。だけど、もう一度同じ施行を行ったときに、果たして成功する確証はどこにもない。わたしは、そのスイッチを押した瞬間に、テレポーテーションできなかった自分になる可能性があるのだ。その可能性は無限大に続く。失敗するたびにスイッチを押せば、わたしはそのたびにテレポーテーションに失敗する可能性があるし、そのたびにもうひとりの自分が生成されテレポーテーションが行われる。
そのような苦悩を避けるために、一般的にテレポーテーションシステムを考えるとき、転移元のスイッチを押した瞬間に、地球にいるわたしの身体は破壊され、同時に火星にわたしの身体が再構成される、というアイデアが考えられるだろう。それはまさに同時に行わなければならない。わたしが分裂することを許せば、わたしは破壊される側のわたしになる可能性を想像してしまうことになるからだ。常に世界にわたしはひとりでなくてはならない。だが、それはただのごまかしのようにも思える。分裂したことは確かで、わたしはいま幸運にもテレポーテーションに成功したのだけれど、失敗してスイッチを押した瞬間に破壊されたほうのわたし――ほんの一瞬のタイミングのずれで生成されてしまったもうひとりのわたし――になっていたかもしれない……そこまで考えたとき、もはや二度とテレポーテーションのスイッチを押すことはできなくなるだろう。
この感覚は、なにも小説や思考実験の中だけのものではない。実は、このスイッチと分裂の関係は日常的にわたしたちが経験している事態でもあるのだ。たとえばわたしはある日、非常にあわてていて信号機を見ることもなしに横断歩道を渡ろうとしてしまった。その瞬間、側面から鋭いクラクションの音が響いてきて、振り返ると巨大なトラックが今まさに交差点に入り込んでこようとしている瞬間であった。わたしは間一髪そのトラックに轢かれることは避けられたのだが、そのとき、わたしはどうしても想像してしまうことだろう。もしかしたらトラックに轢かれていたかもしれない自分。いまここにこうして無事でいられていることは単なる幸運であって、トラックに轢かれていた自分というのはいくらでもありえたことであったのは確かだ。そうしたとき、わたしはさらに考えをめぐらせてある結論に至ることができる。わたしはつねに、そうした選択肢を潜り抜けてきた。あらゆる分岐を潜り抜けた先で、そのつどわたしは幸福であったのだ。今わたしがここにいる、という点でわたしはすでにかなり幸福である。いくらでもわたしが消滅する可能性があった以上。そしてそのことは、もうひとつの可能性を暗示している。わたしは今までずっと幸福に選択肢を通過してきたが、これから先の未来においては、一瞬の選択ミスが自分を不幸に陥れるのだということを。これは当たり前のことで、今じぶんがここにいるということは自分は今までとても幸運だったということの証明にほかならず、しかしまだ決定していない未来にはいくらでも不幸になりうるのだということ。目に見えないスイッチが常に自分の周りには浮遊していて、これから先の未来を生きるためには常にそのスイッチを押し続けていかなければならないということ。わたしはいつでも、不幸なわたしになる可能性があるのだということ。
この感覚は、基本的には意識されることがない。意識したところで、どうしようもないからだ。人は毎日毎日を精一杯生きていくしかない。スイッチを押さないことを選択することもまた、ひとつの選択であり、それによって不幸になりうる可能性がある以上、わたしたちはスイッチを押すことを拒否することができないのだ。できることは可能なだけその現実を意識しないこと。しかし、『順列都市』のポール・ダラムの物語や、パーフィットの遠隔輸送機の思考実験は、そのようなスイッチの事実を意識させるという点で、単純な一方的な被虐といったようなわかりやすい恐怖だけではない、根源的な恐怖を覚えさせる物語(思考実験)なのである。それがわたしが『順列都市』に抱いた恐怖の感情の正体である。
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以上の考察にいくつか補足する。『順列都市』における〈コピー〉生成スイッチや、パーフィットの思考実験におけるテレポーテーション装置のスイッチは、人間の記憶や人格というものがすべて身体的な要因に還元される、という立場に立った場合にのみ考えられるシステムである。実際には、人間の記憶や人格というものは身体的な要因にはまったく還元されえず、非身体的な魂のようなものがあるかもしれない、と考えることもできる。たとえ身体的な要因にすべて還元されるとしても、そこで重要なのは細胞の状態だけでなくその細胞の存在する座標なども連続的でなければならないかもしれない。とくに、同じ時間上にまったく同じ細胞が存在するとして、それが本当に同じかどうかは定かではない。そういったことを考えると、もしかしたら上の二つのスイッチを押したところで、わたしは常にオリジナルのわたし、地球にいるわたしでしかないのかもしれない。そしてコンピュータ上に生成された〈コピー〉のポール・ダラムや、火星に誕生したわたしの複製は、魂なき木偶人形としてそこに存在するのかもしれない。そのことが決定的であれば、スイッチを目の前にしたときの恐怖というものは意味がなくなるだろう。そう思うこともできるような気がする。
しかし、その事実を検証するためには、第一の実験をどこかで行わなければならなくなる。この第一の実験の被験者が自らの〈コピー〉を生成するスイッチを押さなくていけなくなる瞬間を想像すると、やはりそこには恐怖が存在する。人格が身体的な要因に還元されるのかどうかも定かではない状態で、〈コピー〉の――おそらく実験後破壊される――わたしにわたしがなる可能性の存在を想像しながらそのスイッチを押すことは、おそらくむずかしい。だからこのような実験が行われるとしたら、被験者には一切を知らさないままに彼の〈コピー〉を作り出す必要があるかもしれない。それはテレポーテーションのスイッチを押した瞬間に地球のわたしの身体を破壊するくらいに非人間的でだが、それと同じくらいに被験者(わたし)の感情のためには重要なプロセスだと考えることができる。
また、テレポーテーションにおける、スイッチを押した瞬間の転移元の身体の破壊というのは、スイッチを目の前にしたときの恐怖の感情を最大限抑制するための措置であるわけだが、考え方によってはそれでもぜんぜん別種の恐怖が存在する、と主張することもできる。それはすなわち、火星にテレポーテーションすることが成功したわたしは、わたしのこの身体を振り返って、本当にわたしはわたしなのかと自問する事態である。わたしは記憶的には連続しているが、地球にいたわたしは同時であるにせよ破壊されたのである。今のわたしは地球のわたしと同じ状態を再構成された存在であるにすぎない。わたしは本当にわたしなのか?
いわゆる人格同一性の問題で、そもそもパーフィットの思考実験も人格同一性の問題を考えるために導入された問題である。つまり、パーフィットの場合は、この遠隔輸送機のスイッチを押してテレポーテーションに失敗して地球にとどまり続けることになったわたしが、係員にこのように言われる、という事態を想定している。申し訳ありません、装置に故障が見つかって、どうやらさきほどのテレポーテーションで地球にいるあなたの心臓に傷をつけてしまったようなのです。あなたは間もなく死んでしまうことでしょう……ですが安心してください。これから死んでしまうあなたとまったく同じあなたが火星には存在しているため、あなたは今や二人分の生、特別幸福な生を生きているようなものなのです。一方のあなたが死んだところで、それは特別幸福な生がいたって普通の生に戻るだけのことなのです。それは何ら悲しむところはありません、と。さて、パーフィットのこの事例は、何を意味するだろうか。わたしの間もない死は、本当に悲しむ必要のない死なのか?
スワンプマンという思考実験も存在する。沼のほとりで雷に打たれ死んでしまった男性が、さらに直後に同じような雷が落下し、沼の成分が化学反応を起こして先ほど死んでしまった男性とまったく同じ身体を作り出してしまった、というもの。記憶や人格が身体的な要因に還元されるという立場を取れば、この新しく生まれた存在(沼男=スワンプマン)は、一度死んだ男から記憶や人格を引き継いでいる。そしてこの男は何の問題もなく家に帰り、翌日にまたいつも通り出勤することになるだろう。だが、わたしがこの男であるとして、わたしは果たして一度死んだ男と同一のわたしであると主張することができるだろうか。
しかし、これらの同一性の問題というのは、実は考えるに値しない問題なのではないかとわたしは思う。完璧なタイミングでテレポーテーションに成功したとき、奇跡的な偶然で雷に打たれた後も復活できたとき、再構成されたわたしがかつてのわたしと同じであったことを悩む必要はない。まず第一に、社会的・客観的には、雷に打たれる前のわたしと再構成されたあとのわたしとでは、機能的には変化はないだろう。髪の毛の長さがほんの少し伸びた程度の違いでしかなく、それならば同一であるかどうかを問う必要はまったくない。よって重要なのは主観的な問題なのだろうが、主観的なわたし、わたしの主観にとって、かつて死んだ男と今のわたしとが同一かどうかという問題は確かに重要な問題であるようにもみえるが、実はこれは何らたいした問題ではない。わたしはわたしなのである。わたしが今、ここにいるわたしは、わたしなのである。言ってしまえば、かつて死んだ男はわたしと同一ではないだろう。しかしそれは、わたしにとって5年前のわたしや10年前のわたし、さらに言えば5秒前のわたしですらわたしとは言い難い、その程度の意味である。同一性の問題は、社会的・客観的な問題としてはいろいろと解決しなければならない難問がこれからもつみあがってくるかもしれない。しかし、ひとまず主観的な、実存的な問題だけに限定するのであれば、それは何ら思い悩む必要のない、苦しみを覚える必要のない問題である。わたしとは今ここにいるわたしでしかなく、そのわたしとはトラックに轢かれなかったわたしなのであり、次は気をつけて横断歩道を渡ろうと意志するわたしなのである。大事なのは未来であって過去ではない。5秒前のわたしや、可能性としてのトラックに轢かれていたわたしというのはわたしではない。大切なのは、トラックに轢かれていたわたしと同じようにならないために気をつけることを意志すること、それだけである。
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最後に、蛇足かもしれないが〈わたし〉ということについて。今ここにいるわたしだけがわたしである、というのは大切なことで、主観的現在としてのわたしの存在、主観的未来としての推測と意志、主観的過去としての記憶と反実仮想(以上はすべて、「今ここにいるわたし」の中に詰め込まれている)、客観的現在(t2)としての「わたし」と名乗るAの存在、客観的未来としてのAのt3における状態、客観的過去としてのAのt1における状態はそれぞれ異なる。一般的に時間とか(歴史的)真実というものは客観時間の中に含まれているもので、主観的過去・未来は客観的過去・未来と異なる可能性が常に存在している。今ここにいるわたし、という言い方で、そのわたしには時間の幅がない、という言い方は正しいが誤解の可能性を常にもっていて、そのわたしには確かに客観的時間の幅は存在しないが、そのわたしにも記憶・反実仮想・推測・意志は含まれているからだ。記憶や意志がなければそもそもものを書いたり何かを発言することに意味はなくなってしまうから、それを持たない状態のわたしを想像することはナンセンスである。
マクタガートは時間をA系列とB系列とに分けた。A系列は「過去」「現在」「未来」かといった区分であり、B系列とは先後関係のことである。そしてマクタガートはA系列こそが時間にとって本質的であると主張する。この二系列はそれぞれわたしのいうところの主観的時間(「今ここにいるわたし」の中に含まれる主観的未来と主観的現在と主観的過去)と客観的時間(t1としての客観的過去、t2としての客観的現在、t3としての客観的未来)との分類と近いところがあるかもしれない。というのも、客観的時間というのは、突き詰めてみれば無数の主観的時間の折り合いのもとで形作られた便宜的な真実であって、無数の「わたし」と名乗る存在同士の主観的過去・現在・未来の整合性を合わせた結果としての先後関係の整理に過ぎない。現実的にわたしたちが使用できる「時間」はまさしくこちらの整理された客観的時間であろうが、今ここにいるわたしにとって本当に本質的な時間とは主観的時間、すなわち、記憶や意志といった主観的未来・主観的過去、そして、今わたしがここにいること、今わたしがこうしてトラックに轢かれることもなく存在を維持し続けている幸福な状態としての主観的現在なのである。
わたしは「今ここにいるわたし」という主観を起点にしてものごとを考えることを基本にしているが、それは、あらゆる時間的幅をもたない点としてのわたしを意味するかと問われたら素直に首を振ることはできない。記憶と反実仮想と推測と意志、そして幸福であるという現状認識、それらの主観的時間の要素を併せ持った存在として「今ここにいるわたし」を想定しなければ、思考に意味はない。そしてそのうえで、より適切な意志を模索するため、何を行えばいいのかを模索するために、わたしは「何をすべきか」を常に問う倫理の学を志している。そのうえで、スイッチを目の前にしたときの恐怖、という問題が立ち現れてくるのである。それは「何をすべきか」を問う問題だからであって、「わたしとは何か」を問うような人格同一性の問題はあまり重要だとは思えない。わたしはわたしであって、主観的過去(記憶)の中のわたしと客観的過去(記録)の中のわたしとの違いで思い悩む、という事態は、主観と客観との必要のない混同の結果である。
■参考URL
奥野 満里子「パーフィットの人格および人格同一性の議論について」
伊勢俊彦「道徳はすべての人のために、だがこの私はこの私でしかなく―『理由と人格』を読む―」
■参考文献
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大澤真幸『〈自由〉の条件』
デレク・パーフィットの思考実験やマクタガートの時間論についてはこの論文で知った。
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