2010-08-27
工業を大切にせよという反動イデオロギーは発生するか
雑記 | |
知の巨人、故・梅棹忠夫氏の「情報の文明学」を再読し、今更ながら、同氏の先見性に驚嘆した。
「情報の文明学」は、1963年、今から約半世紀も前に書かれた論文を中心にまとめられた書物。
- 作者: 梅棹忠夫
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 1999/04
- メディア: 文庫
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この本で一番有名なのは、産業の発展段階の歴史
農業 → 工業 → 情報産業
を、生物の発生段階になぞらえた点だ。
農業:食糧生産=消化器官系を主とする「内胚葉産業」
工業:物質・エネルギー生産=筋肉中心の「中胚葉産業」
情報産業:シンボル操作=脳や神経系の「外胚葉産業」
「内胚葉産業」と「中胚葉産業」は、人間も動物も持つ機能を産業化したにすぎない。
(いやむしろ、食べ物を消化するとか、走るとかいったことは、人間よりも動物のほうが、得意かもしれない。)
しかし「外胚葉産業」は、人間を他の動物と区別する最大の特徴である脳の活動を産業化したものであり、これこそ人間本来の自己実現につながり、もっとも可能性に富んでいる。
以上が梅棹氏の主張の骨子で、初めて接するとその独創性に驚く一方で、確かにそうだと納得させる説得力がある。
今回再読して驚いたのは、同氏が、近代社会は工業の時代に対応して、社会の制度を変えてきたので、本格的な情報産業社会が到来したときに、工本主義(工業本位主義)が反イデオロギー化するおそれがあると、繰り返し書いていたことだ。
(いったい、今まで何を読んでいたのか・・・と悲しくなるが、それよりは新たな気づきを大切にしよう。)
考えてみると、最近いろいろなところで言われている日本企業の限界などは、ほとんどがこの工本主義体制からもたらされているように思える。
(あとは、戦前の国家総動員体制の名残を加えると、今の日本企業の特殊性がほとんど説明できると思う。こちらについては、別な機会にゆずることにする。)
この点について、梅棹氏の主張をまとめると、以下のようになる。
- 「農は国の礎(いしずえ)」という農本主義のイデオロギーは、江戸末期から昭和にかけて日本で主張され、それが日本の近代化に対して、大きな反動的役割を果たしてきた(米価問題、農作物の関税など)。
- 次は「鉄は国家なり」と言われた。鉄は工業の象徴である。
工業化は、近代化とほぼ同義語といえるほど、人間の環境を変え、制度、組織を変えた。それは価値観の一大転換をもたらした。
そして工業の時代に、農業は保護産業となった。
- 新しい情報産業の時代において、情報は人間の制度、組織にいっそう根本的な変革をもたらすであろう。
そのとき、「工業こそは国の礎」という反動イデオロギーが発生する可能性がある。そして、工業は保護産業となり、国家の手厚い保護育成によって、かろうじて生存できるようになるのではないか。
さて近年、「モノづくり」とか製造業の危機というようなことがいろいろといわれるのは、まさに梅棹さんが主張している、工業を大切にせよという反動イデオロギーではないか、という気がする。
工業が重視するのは、規格化と囲い込みだと思う。
ややステレオタイプになるけれど、工場では、
みんなで、
同じ時刻に、
同じ場所に集まって、
同じことをする。
工場設備などを独占する大組織のもとで、資源配分、資源確保が重要になる。
均質な品質が要求されるから、ルールと規格を重視。
ボトルネックの解消が大切。
良いところを伸ばすのは、あとまわし。
異質な物は排除する。
改善で、一円でも安く作る。
そのためには、粒がそろった規格化された労働力を必要とした。
人材も、これに対応して、新卒を一括採用して社内で教育し、年功序列、終身雇用で人材を囲い込んだ。
護送船団方式の行政も、工業時代にあった体制だ。
しかし情報産業時代は、差異が重要。多様化とオープンであることが求められる。
なお、梅棹氏のいう情報産業は、シンボル操作であって、出版、放送から教育、宗教、デザイン、レジャーまで幅広い。情報産業はコンピューター産業ではない、とわざわざ言って、五感の産業化という表現を使っているくらいだ。
もちろん、農業がいまだになくならず、工業化の時代に生産性を向上させ、最近は高付加価値化という情報産業の流れにのっているように、工業もまた情報化の時代にあわせて、単なる大量生産ではなく、多品種少量生産や高付加価値化を進めている。
しかし、日本企業や日本社会のシステムに、まだ情報産業時代の根本的な変革はおこっていない。
だからこそ、最近になって新卒一括採用の是非や、解雇解禁などが問われているのだと思う。



