2010-08-31
クローズアップ現代「ツイッター」〜分離から融合へ
今日のNHKクローズアップ現代は、「ツイッター “つぶやき”は社会を変えるか?」だった。
正直言って、クローズアップ現代らしくない、ツイッター紹介の域を出ていない番組だったけれど、改めてツイッターについて考えるきっかけにはなった。
1.20世紀は分離の時代
番組の後半では、「ツイッターは共感ツール」ということが、繰り返し語られていた。ここで私の興味をひいたのは、今なぜこんなにも人々は共感を求めているのか、ということだ。
考えてみると、資本主義(あるいは工業化)社会の進展した19・20世紀におこったことは、人々の分離だったのではないかと思う。
- 生産者と消費者が分離
- 働く人は、公私を分離
- 働く人が、それ以外の主婦や学生から分離
- イベントを仕掛ける側と受ける大衆が分離
- 情報を発信する人(マスメディア)と受信する人(大衆)も分離
しかし、今日のクローズアップ現代で紹介されていた事例では、ツイッターは、全て分離されていた両者を、部分的に融合する役割を果たしていた。
生産者と消費者の分離
人々は、モノやサービスを生産し供給する側(企業)と、それを購入する消費者に分離されてきた。
企業は主に規格品を生産し、サービス業さえ「マクドナルド」に代表されるように、マニュアル化を進め、属人的な部分を排除してきた。
それによって、効率化を進めた企業は、利益をあげてきた。
消費者の側も、安くて、それほどはずれのないモノやサービスを歓迎した。
しかし日本のような先進国では、中国農村部やインドなどとは違い、モノもサービスも既にあふれている。
それをなんとか買わせるために、企業は広告によって、消費者の購買意欲を高めようとしてきた。
今の日本の消費者は、企業の広告を見ると、いいことばかり言って、金を取ろうとするのではないか、いらないものまで売りつけられるのではないか、と疑心暗鬼にかられている。
企業の「お客様のために」という言葉を信じている人は稀で、ほとんどの人はタテマエにすぎないと思っている。
そういう状態では、広告や割引セールを見ても、すぐには心が動かない。
公私混同はいけないこと
企業においては、公私混同はいけないこと、という倫理観が広がっていた。
職場に家族を連れてくることは原則禁止。
取引先との会話では、プライベートなことを話すことは、あまり歓迎されない。
働く人々が、消費者でもあることや、企業の論理(儲け主義)以外の顔を持っていることが見えなかった。
会社勤めをする人々は、それ以外の主婦や学生から分離された
人々は、社会人になると、仕事を通じて知り合う人脈が中心だった。それ以外は地域社会や学生時代の友人や、趣味を通じて知り合うなどしか機会がなかった。
学生とビジネスマンが知り合う機会は、それほどなかった。
イベントを仕掛ける側と参加する大衆
イベントは、個人が創り出せるものではなく、ほとんどが受動的に参加する側だった。
マスメディアと大衆
情報を発信するのは、限られた人々に限定されていた。
有名人といわれる人々についても、メディアに演出された情報しか露出せず、さまざまな側面を持つひとりの人間であることが、意識されなかった。
2.ツイッターによる融合
上に書いたような様々な分離によって、孤独感や無力感を深めていた人は、かつてと比べて増えたのだと思う。
加えて、地域共同体は崩壊し、80年代ころまであった会社共同体という意識はずいぶん薄れた。
しかしツイッターは、これまで分離していたこれらの人々を、部分的に結びつけることを可能とした。インターネットが可能にしたという見方もできるが、気軽に双方向でコミュニケーションできるという点では、サイトやブログと大きく違うようだ。
その結果、モノやサービスを提供する側は、顔の見えない、資本の論理(儲け主義)で動いている企業ではなく、ひとりの人間であるということが認識され、信頼感や仲間意識が高まって、消費に結びついたり、知人を増やしたりということにつながったのだろう。
そういう意味では、ツイッターは役割分担が進んでいる社会の中で、全体的な人間性を回復できる可能性のあるツールなのかもしれない。(ちょっと大げさかな?)ただしこれは、使い方次第だと思うし、どんな道具も負の側面があることは間違いない。
もうひとつ、最近は空気を読んで、重い、真面目なコミュニケーションが避けられる傾向があるように思う。けれど本来、強い思いというものは、伝わる力も強いものだ。(だからこそ、時にうっとおしがられる。)
ツイッターは会話と違って相手に聞くこと(読むこと)を強制しないので、その分自由に伝えられるし、広く伝わるので、ごく少数の相手に真意が届く可能性も出てくるのだろう。
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