自分が楽しいと思っていること、それを伝えればいいのに。「どうして勉強しなくってはいけないの?」への答えとして。

http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20070121/1169414343
http://d.hatena.ne.jp/oredoco/20080519/1211157475

日本では、社会に出ると勉強の大切さや面白さに気付くものですが、子供から「どうして勉強しなっくてはいけないの?」という質問に対して、自分の素直な気持ちを語れないものでしょうか。

働き始めると、ビジネス書やら講談社α文庫やら新書やら……色んな本を読みますよね。内容を把握、理解して、実践しようとしながら、次の本を読んでさらに取り込んで、試行錯誤して自らの生に活かそうとするのは、非常にスリリングで興味深い体験です。社会人になってから、「学生の時にもっと勉強してば良かった!」と後悔するのは、そういう面白いことを見逃していたことへの後悔です。大人はそういう事を語ればよろしい。
語っただけでは実感させられないので、そういう体験をさせればよろしい。本を読ませて、わからないところには前提となる知識が在ることを教えたうえでその知識を与え、子供が理解するまで段階を押し下げる。知識は自然と学校教育で知られる知識まで下がるはずです。(というかそうなっていてくれ)
事実、自分が興味の発端となるキーワードは、大抵小中高の間の教科書に載っていた事項(国語、歴史、数学、化学、物理、道徳、保健体育、美術、音楽……なんでもです)から始まっている。南京問題も、聖徳太子も、フラーレンも、逆二乗の法則も、教科書にヒントが書いてあったから、今になって興味を抱ける。
理想論でなく、実感として「勉強は面白いんだよ」と伝えればいいし、そうする事の不都合を自分は感じない。

別に本に限らなくなって構わないんです。自分が好きだと思っていること、楽しんでしていること、どうしてそれを続けているのか、を語るだけでいいんです。
今ビジネス書を読んでいるお父さん。お子さんと一緒に読んだらいかがですか? きっと興味深い知的体験が出来ると思いますよ。


と、もし俺に子供がいたら、そのように伝えたいと思っている独身男です。
あくまでも、勉強する事への純粋な疑問として、その質問をぶつけられた時の話ですが。逃げる子供への説教としては、通じないと思います。


P.S.
id:oredocoさんの

理系では意識的に、言葉の定義をしてから議論することがすくないというかないと思うので、オレドコ分からないんですね。どうも文系では言葉の定義をきちんとしてから、議論をしてるようです。

には是非とも反論したいです。四則演算の各操作に対してさえ定義をする(時には真面目に、時にはおちゃらけとして)のが理系体質というものなので、理系は厳密に用語を運用しようとします。理系というよりは、物理学、数学、情報学辺りの特徴かもしれませんが。
何かへの皮肉として書かれたものでしたら、すみません。謝罪します。

と、これが一番言いたかった事かもしれない。笑。

追記

oredocoさん、コメントありがとうございます。

>議論する前に、いちいち確認しないで、そういう前提が当然あるべきものとして進める傾向にあると思ってます。

数理モデルプログラミング言語という、厳密に定義されているものを用いて議論をする前提があるから、確認しないのだと思います。その点では、一つ一つの議論毎に定義しない、と言うのは認識は正しいです。

文系では、自然言語という曖昧なモノで議論しなければならないので、だから議論の最初に言葉を定義するのかもしれません。周りには理系人間ばかりなので、推測でしかないですが。
アカデミックに厳密な議論をしていくには、言葉の曖昧性や二義性を排除していかなければならない、のだと思います。理系とか文系とか、関係ないのかも。