夜に香る

仕事を終えた帰り道は、会社の最寄り駅から地下鉄で2駅分を歩くことにしている。一日中デスクワークで運動不足なため、少しは動かないと、という約45分間の自己満足タイムなのだ。毎日なるべく違う経路で歩くようにしているため、新しい発見もある一方、とんでもない方向に行ってしまい交番に道を尋ねることもしばしば。
「いま私はどこにいるんでしょう」と聞くと、たいていの警官は「ん?」と怪しい人物を見るような目付きで見られてしまう。そりゃそうだ、迷子とは言えない大人だし、いかにも仕事帰りという格好をしているくせに自分の居場所が分からないなんて。そして目的の駅名を聞くとどの警官も「ここからだとかなり遠いよ。歩く距離じゃないよ」と言いながら住宅地図を出して説明してくれる。だって長距離を歩くのが目的なんだもん、と思いながら「大丈夫です。ありがとうございました」と言って交番を出る。
まあ、いろいろあって、夜の散歩もなかなか楽しい。


そんな昨日、夜の散歩の終点である地下鉄"江戸川橋駅"入り口が目の前に見えたところで、ふわーっといい香りが飛び込んできた。
江戸川橋交差点は非常に大きな交差点で、私の歩いている目白通りも、真上を通る首都高5号線も、車の走る音が凄まじい。そんな夜の都会の喧騒に似合わない優しい香りだ。「香水かなぁ」と思ってキョロキョロしてみたが周りには人が居ない。
ふと右を向いた時、川沿いの江戸川公園入り口に沈丁花が車のライトを浴びて白っぽく光っているのが見えた。



香りの元は、暗闇で咲き誇る沈丁花だった。1年ぶりの春の香りだ。会社の近くの沈丁花はまだまだ蕾なのだが、この公園の沈丁花はみごとに咲いて、香っていた。

高校2年の時、花が好きな男の先生が居て、古典の授業の枕時間にオネエ口調で沈丁花の話をしてくれたことを思い出した。「今朝ねぇ、駐輪場の前の沈丁花が、とーってもいい香りだったの。みなさん、気付いたかしらぁ?」と。周りの生徒はかなり引いていたが、私はその先生が大好きだったので、それからは毎年、春の沈丁花を楽しみに待つようになった。

都会の排気ガスの中、誰も居ない公園の暗闇で、香りだけがその存在を知らせていた。