表記について思うこと。
「とんかつ」という言葉をぼくは何気なしにひらがなで書いているのだが、同時に「トンカツ」「豚カツ」「豚かつ」という表記も並行して存在している。しかしとんかつ屋で、ひらがな以外の表記で「とんかつ」としているお店は、少なくともぼくの記憶にはない。このねじれについて少し考えてみる。
googleで「とんかつ」と検索すると約5,290,000件と出る。同じく「トンカツ」は約1,270,000件、「豚カツ」約254,000件(「もしかして」で「とんかつ」と出る)、「豚かつ」約51,200件である。とするとやはり「とんかつ」とひらがなで表記するのがメジャーなのかと思うと、この検索結果の上位はとんかつ屋かここを含む食べ歩き系サイトである。ということは、専門家(という言い方が正しいのかどうかはよくわからないが)がひらがな表記をするということが言えると思う。対して「トンカツ」ははてなでの登録単語に、「豚カツ」ウィキペディアのそれとなっていることから、これら表記もかなりメジャーであると考えられる。
ではまず、なぜこのように表記が揺れるのかを考えてみたい。そもそもフランス語のcoteletteという言葉がとんかつの語源であり、これは子牛や豚などの骨付きロース肉のことである。豚のコートレット(カットレット)イギリス風がポルトガルを通じて日本に入ってきたときに(ちなみに浅草に「リスボン」というとんかつ屋さんがある)「とんかつ」といつしかなったものである(詳しくは岡田哲『とんかつの誕生 ―明治洋食事始め 』(講談社選書メチエ)など参照)。まぁ当然のように西洋料理であることから、カタカナ表記というのは肯けるものである。これが「ひらがな」に移ったということはどういうことを意味するか、というのがおそらくここでの論の肝になるのだろう。ぼくは歴史言語学を全く知らないので、全く憶測の域を出るものではないのだけど、洋食であった「トンカツ」が和食の「とんかつ」へと変わっていったという考え方が一番素直であるように思う。そうであればまたさらに、どこの店が最初にひらがな表記の「とんかつ」を始めたのか、というのも調べなくてはならないだろう。このように洋食から和食へと、ほぼ完全にスイッチした料理というものもなかなかないだろう。ウェイター/ウェイトレスさんがとんかつを運んでくるなど、想像すらできない。だからこそ、ひらがな表記の「とんかつ」をお店の側は使うのだろうし、それに意識せずとも準拠する形で食べ歩き系サイトの人たちはひらがな表記を使うのではないだろうか。
ただしかし、カタカナ表記の「トンカツ」は昔の名残としてあるだけなのだろうか。あるいは「豚カツ」や「豚かつ」は? これについてはまた、先に挙げた調査するべき事項と共にこれ以降検討していきたい。ほんとにやるのかどうかはわからないけれど。

TONKATSU2007-10-22

あざみ野駅前の「とん吉」でロースかつ定食1500円を。
ノーマークのお店でしたが、大当たりといった感じ。
価格帯的にそこまで高級なお肉は使えないのだろうけど、
それを肉の味を殺さない程度の、しかししっかりした下味付けでカバーしています。
何もつけないでもそのまま食べれます。
揚げ方も非常に上手なもので、きれいなキツネ色で衣も立っているし、
ちゃんと肉にも火が通っている。
ソースはこれもまた市販のやつとは違ったもので、
あまりドロっとはしていなくて、なんかゴマとか混じってる、少し辛目のものです。
これもまたぼくの好みに非常に合っていて嬉しかった。
みそ汁、ご飯、漬物はいたって普通だったのだけど、キャベツはシャキッとしていたし、
この価格帯でこれだけのものが出されていれば十分でしょう。
近くに行ったときはぜひオススメしたいお店です。

行ってきました山形国際ドキュメンタリー映画祭
初めての山形映画祭、幸運にも10/4-11の期間、全ていることができました。
で、印象に残ったものなどを少し。

王兵監督『鳳鳴-中国の記憶』
今回の大賞のロバート&フランシス・フラハティ賞受賞作。なんというか、大賞の選考はこれの一択だったように思う。ほかの全てのコンペ作品を見たわけではないのだけど、相対的にでも大賞を与えられるべき作品は、ぼくの見た限り、圧倒的にこれ。
3時間ほとんどキャメラを固定して同じ構図で、ワンカットが20-30分程度。それ以外のものが映るのはわずか一瞬。和鳳鳴というおばあちゃんが、中国の激動期に自らに降りかかったことを、淡々としゃべる、それだけの映画。本当にそれだけでインタビュー映画を成立させようとさせる意識の持ち方はすごいのだけど、だからといってこれがよかったかと言われると、少なくともぼくは判断を留保したい。構図はおばあちゃんを中心に彼女の居間を少し広めに見せる感じで、ドアなども画面に入り込んでいることから、そこからの映画の展開を期待してもよさそうなのだけど、まったく展開しない。延々と同じ構図で、変化はおきない。『鉄西区』がDVの機動力と安価に長時間撮影することを突き詰めたとすれば、わずか7日間で撮られたこの作品は、DVがフィルム撮影よりも物理的にワンカットを長く撮れる、それを生かすための作品とも言える。その意味でやはりこれは、『鉄西区』からの彼のDVの実験の延長線上にあるはず。しかし『鉄西区』の第三部で王兵をただの石ころのようにしか見ていなかったであろう少年が父親が連行されたときに突如としてキャメラに向かって泣いて訴えるような、時間の厚みがその一点に収斂されてゆくような瞬間、それがこの作品にはなかった。このような瞬間をぼくは好むのだけど、そこら辺が判断の留保の理由。まぁしかし、マイミクのエビちゃん氏が映画祭の期間中よく使っていた、「俗情との結託」(大西巨人だろうか)という言葉とは最もかけ離れていた作品だろう。審査委員長の蓮實氏の選考の基準はおそらくそのようなところにもあったはずだし(というのも、どっかで観客の反応を考慮するかという質問に対して、大衆というものは、安倍前首相への支持を見てもわかるとおり、あてにならん、よってそういうものとは全く関係ないところで選考を行う、と言っていた)、そういった意味でも、これが大賞受賞はまぁ妥当だったのかな。受賞作なしでもよかったような気もするのだけど。あと選評で蓮實氏が選考会議は五時間にわたった、と言っていたのだけど、文学賞の選評や選考会議録みたいに、それを公開してほしい。
ほかのコンペ作品については特に書くことなし。明らかにテレビ的、客寄せパンダ的な作品も散見されたし、全体的に質は低かったように思う。参考までに見た作品を挙げておくと、『アレンテージョ、めぐりあい』(最優秀賞)、『彼女の墓に花をそえるのはわたし』、『リック・ソルト―僕とばあちゃん』、『僧院物語』、『ミスター・ピリペンコと潜水艦』(市民賞)、『革命の歌』。

・アジア千波万波
全然見れなかった。サブ企画ばかり見ていたせいだ。見たのは『ビショル・ブルース』、『バックドロップ・クルディスタン』、『雲の彼方に』(特別賞)の三本のみ。せっかくなのでこの三本についても少し。
市民賞と奨励賞受賞の『バックドロップ・クルディスタン』。あるクルド人家族を難民として受け入れない日本への彼らの抵抗と、それがなんであったのかを知るために監督がトルコへ飛ぶ映画。前半は原一男的なドキュメンタリーで、一般受けはこちらのほうがよいはず。と言っても、原のように被写体のケツを叩くようなことはしないのだけど、それだけで魅力的な被写体の面白い部分を撮るという部分で言えば、同じだ。それはやはりスペクタクルの映画なのだし、これを見て運動に参加した気になって、
それで観客を満足させてしまうような、そういう類のものだった。ここの部分だけ独立させたら、最悪の一本だったようにも思う。だからぼくは、前半部はあくまで導入部であると主張したい。これは、その運動の「傍観者」であった監督の野本氏が、最も近くにいた「傍観者」であったからこそ、彼らとその運動が何であったかを知るために、トルコの中心部からクルド人たちの地域まで出てキャメラを回し続ける。クルド人と同じ国に住む人や、クルド人の共同体の中で生活している場面を撮って、そこで前半部を参照することによって初めて、この映画が面白くなる。前半部のテンションの高さから一歩引いて、あれはなんだったのか、と考えながらトルコでクルドのことをさまざまな人に聞くという、一種の体験の共有みたいなものが、この映画にはあったのではないかな、と思う。
『ビショル・ブルース』は、インド東部のイスラム神秘主義修行僧(フォキル)の語りと歌とを、これもかなり淡々と撮っていた作品。ドキュメンタリーとして面白いか、ということに関して言えば別に、という感じもする。けど、イスラム神秘主義にとっての歌の在り様を少しでも知っていれば、これはかなり面白く見ることが出来るのではないだろうか。ぼくはインド西部以西のカッワーリーまたはそれに類するものしか聴いたことがなかったので、彼らの信仰と歌とを、非常に興味深く見ることが出来た。彼らの信仰はひたすら外へと向かってゆくため、かなり歌自体もそのような、つまりジプシーミュージック的なバイブレーションを持つようなものになったのではないか。ヌスラット・ファテ・アリ・ハーンに代表されるようなカッワーリーは、それ自体非常に個人と神との合一を目指す内省的な信仰の中で生まれた歌であり、そうであるからこそオペラ的な歌になったのだろうと、この映画を見て思った。そういう意味でちょっとした収穫はあった作品。
『雲の彼方に』は、台湾に住む監督=母と娘、フランスに住む父との三角関係を撮った、ある意味かなり典型的なプライベート・ドキュメンタリー。娘は目の、特に目じりの辺りがフランス人っぽくてその他は東洋系な感じで、まだ2歳くらいながら今後かなりの美人になってゆくこと間違いない。でもぼくはこの映画はだめでした。全然面白く見れなかった。うじうじして、どうにも解決策が見出せない、
その意味で典型的なプライベート・ドキュメンタリー。これを評価する人の意見をぜひ聞いてみたい。ただ、この関係がイヤになっていて娘をフランスへ引き取りたくて仕方ない父親は、娘に嫌われ、ひたすら娘を撮るだけの母親にいらだっているのだけど、最後のシーンで母親のことを「キャメラちゃん」と愛嬌を込めて言い、キャメラにキスをするシーン、あれには少し救われた気がした。

・ドラマティック・サイエンス!〜やまがた科学劇場〜
小品の良作が大量にあり、それをいちいち書いていくとキリがなくなる。ので、フランスの科学映画の泰斗ジャン・パンルヴェの特集と、ドイツはウーファ社の科学映画の特集との比較が面白かったので、そのことを。
やはりフランス人とドイツ人は仲が悪くて当然のような気がした。パンルヴェタツノオトシゴのフォルムの美しさや液晶の色彩の妙を撮って、実は科学啓蒙にほとんど役に立たないような(笑)作品を作るのに対して、ウーファはきっちりかっちり「科学」の映画を撮り、その中からどうしても滲み出してしまうドイツっぽい気持ち悪さがある。別々のプログラムであったし、続けてみることは出来なかったのだけど、やはり国民性みたいなものを、この対比は実感させてくれる。例えばウーファの作品で『レントゲン線』というものがあって、動く人にX線を投射してそれを撮ったりするのだけど、それは今考えるとあまりにもやばいし、なんか気持ち悪い。ただX線がどれだけすごいかはよくわかる。そしてそれをやるのがドイツっぽいところ。パンルヴェは『吸血コウモリ』でムルナウの『ノスフェラトゥ』の映像を引いてきたり、『ウニ』ではウニに人文字ならぬウニ文字をやらせてみたり、よくわからないジョークのようなものをいっぱい散りばめて、きらびやかだ。科学映画一つとってもこれだけ違いが出るのは面白い。あと樋口源一郎の作品は、相変わらずとてもよい。いつ見ても、よい。『真性粘菌の生活史』と『女王蜂の神秘』は何度見ても傑作だと思う。

・交差する過去と現在―ドイツの場合
ドイツのドキュメンタリーは面白くない、そして素晴らしい。まったくスペクタクルというものが入り込む隙がない。このような国民性ゆえに、何かがあると逆の方向に一気に振れてしまう、そんな感じがする(笑)。この企画で10本見た。今回の山形の企画の中で最も多い。ぼくは今回、ドイツ映画を見に行くために山形に行ったようなものではないか、とかなり反省しているけれど今更どうしようもないことだ。
最も面白かったのは『ブラック・ボックス・ジャーマニー』。1989年に暗殺されたドイツ銀行の有力者のヘアハウゼン、その事件の犯人と目された(つまり確証はない)ドイツ赤軍メンバーのグラムス、この二人を周辺の人のインタビューによって浮かび上がらせるのだけど、何が面白いかといえば、この二人の結節点があるようなないような、思わせぶりな見せ方をしておいて、最後にこの二人の関係は、少なくとも現段階において、ない、と言ってしまう点にある。対照的な人生を歩んできたこの二人を結びつけることができれば非常に面白いものになるだろう、という思いは働いてはいるのだろうけど、それでもなおそこをぐっとこらえて違う方向にもっていってくれた。観客の期待を見事に裏切るという点において、この作品が今回の山形で見たものの中で最も素晴らしかった。しかしこの監督の最新作である劇映画の『キック』、ぼくはあまりこの作品を評価しないのだけど、見た人の中でも評価が分かれていた。非常に演劇的に作られた劇映画で、これを映画として見せるというのは、単に演劇だと多くの人に届かないとかそういう理由なのだと思う。だとしたら、もっと映画として作るべきであって、このような形でやるのであればいさぎよく演劇としてほしかったし、ぼくはそれであればとても見てみたい。ただいかにもなドイツ演劇っぽさというのはよく出ていて、「演劇」としてみた場合、ぼくはこれはとても好きになれそうだと思う。
ほかにもYIDFF'99優秀賞の『掃いて、飲み干せ』や『壁』、『人民の愛ゆえに』など良作をたくさん見ることができた。この企画が、今回の山形での、ぼくの最大の収穫だったように思う。

で、そのあと一緒にとんかつを食べた方々と法政の昔学生会館のあった場所にある建物へ。
HOSEと灰野さんはとてもよかった。ライブなんて久しく行っていなかったけれど、たまにああいう場で灰野敬二の音を聞くと、彼のすごさがわかる気がする。暴力的な音の塊を投げつけられているようで、一つ一つの音を聞こうと集中すればするほど、全体の音の密度の濃さが際立ってきて、どこからどこまでが一つの音域であるのかの判別が出来なくなってくる。シャウト一つとってもそうなのだから、やはりこれを30年以上続けられる彼は偉大と言うほかない。
HOSEもいいです。きちっと構成された管二本+太鼓+ギターが、穏やかな音でしかし激しい展開を繰り返しながら、暴力的なベースの音とシャウトがコミカルにしかならない形で絡む(あるいは絡まない)。落ち着いていて楽しくて、しかしとても真剣な感じがしてとてもいいです。ああいう大人になりたい。

TONKATSU2007-09-23

本日は秋葉原の丸五にて、特ロースを定食で。
headzの某バイトさんが、とんかつ好きのHOSEのみなさんととんかつでもどう?
と誘ってくれたので、去年の五月の新装開店後、初めて行ってきました。
前回秋葉原に行ったときとの駅前の変わりように驚き、
丸五の店の構えも大きく変わったように感じました。
しかしとんかつの味は相変わらずです。
ここでの選択肢はもう特ロースしかないように思います。個人的な好みをいえば、丸五の非常にフルーティーで自己主張の強いソースは、ロースとは相性が悪いように思えて、ここのようないい肉を使っているお店ではいつも塩で食べることにしているのですが、そうすると肉の味の違いがはっきりしてくるということもあり、やはりここのロースは美味い、と改めて思うのです。それになんと言っても衣の美しさでしょう! 綺麗に立ったパン粉が食欲をそそるキツネ色に揚がっています。肉汁がじゅわっと染み出るとんかつも好きなのですが、それが出過ぎると食べている途中で衣がふやけてしまうのです。しかし丸五のとんかつはそこまで肉汁があふれ出てくるわけでもなく、最後まで美しいサクサクの衣で食べることが出来ます(肉汁ジューシー系の一押しは、代官山の「ぽん太」です)。最後まで衣の美しさを殺さずに、しかも美味しく食べれる丸五、やはり都内有数のお店であることは確実です。美味い。ぼくが食べ歩きを始めた原点でもあるので、未だにトップの写真は一番最初に食べたときの丸五の特ロースです。
あと最近、いつも湘南カラーの大洋ホエールズの帽子をかぶっているのに、いままで突っ込まれたことが一度しかなく、今回もやはり突っ込まれなかったことには一抹の寂しさを覚えました… あとheadzのバイトさん(あとから聞いたら、既に「元」バイトとのことでしたが)と共に来ていたheadzの社員さんも知り合いだということに、別れてから気づきました。頭が働いていない。

平出隆氏の20年ぶりの新詩集がこういう形になったそうです。
http://kgs-tokyo.jp/human/2007/0910/index.htm
京橋のギャルリー東京ユマニテでの展示、
加納光於《止まれ、フィボナッチの兎》で
「詩画集 雷滴 その研究」を壁面展示という形だそうな。
加納氏のインタリオ13葉と平出氏の詩13篇。

 映画『マリア・ブラウンの結婚』は既に何度か見たものなのですが、それでも新しい発見が幾つか。というよりきっと、見直すたびに何かしらあるのだろうけど。音の使い方の不自然さが、今回は非常に印象に残りました。いきなりバシャーン、と音楽が鳴るわりに、そこまで大げさな場面転換などが起こるわけでもなく、「俗っぽさ」をものすごく感じました。他にも細かいところで幾つか面白い発見があったり。いつ見ても非常に疲れる映画なので、見れる機会に見ておかないと、自発的にはなかなか、ね。


 で、演劇の方ですが、これはとても面白かった。もともと演劇を多くは見ていないので演劇に関する云々、というのはぼくはあまりできないのですが、感想文でも書いておこうと思います。あらすじとかはめんどくさいから書かないので、興味持ったら論創社から出ている「ドイツ現代戯曲選」の『ブレーメンの自由』を買って読むことをお薦めしときます。以下ネタバレ注意です。もっとも、大したことは書けないですが(苦笑)
 今回の上演は舞台に大道具小道具そのほかを全く置かないで、俳優の体と三つないし四つの譜面台に置かれた台本とだけが舞台の上にあるようなリーディング公演でした。スタニスワフスキーシステムのような、俳優にも観客にも舞台への感情移入を求めるような演出方法にはこれはあまり合わないように思うのですが、異化的な効果を狙うのであれば非常に効果的な演出ではないかな、というふうに思いました。ファスビンダーブレヒト的な異化とは多少違うやり方で異化効果を狙っている、という話を上演のあとで渋谷先生がおっしゃっていましたけど、そういう意味でもこの演出はとてもよかったです。あと、暗転と暗転との間に一度、主役の女性が舞台の上になぜか置かれてあった水を飲むためだけに、舞台に上がりました。これも演出の一環なのだろうけど、どういう意味があったんだろう。そこが明らかに舞台であることを強調するためだけに上がったのだろうか。そこまでやる必要が…? うーむ、ここはちょっと謎でした。あと俳優さんのしゃべり方、特に最初の方での主役の女性のしゃべり方などが非常に不自然で、これも異化的な効果を狙ったものだと思います。あくまで「フィクション」にこだわり続けるファスビンダー的なやり方ですね。
 まず上演に先駆けての注意事項の説明のときに、一緒に女優さんが一人出てきて化粧をし始めます。これはたぶん、彼女が「女性」である(もしくは「女」になる)ということのメタファーか何かなのでしょうか。この『ブレーメンの自由』という戯曲のテーマからすると、そんな感じがしてなりません。この戯曲は女性が男性的な支配の秩序から抜け出し、暴走し、最後には捕まる、という話なのですが、渋谷先生もおっしゃっていたように、某政治化が「産む機械」とかなんとか言っていたことを思えば非常にタイムリーでした。ファスビンダーの態度はフェミニズムに一定の理解を示しつつも、あくまでそこへの批判も忘れない点で、政治的にはどこからも嫌われる性格のものであると思います。これは「市民悲劇」である、と渋谷さんが『ブレーメンの自由』の解説で書いていましたが、ポリティカルコネクトとしてある言説が、日常的なレベル(日常は「いつもの日の続き」であり、いつだって保守的です)においてはまだまだ論争を呼ぶものであるのですが、そういうギャップから生まれてくる悲劇が、この「ブレーメンの自由」の中心テーマの一つ、というかファスビンダーの中心のテーマの一つなのでしょう。あくまでこれを、感情移入を排した異化的な演劇として抉り出すことによって、われわれにまざまざと見せ付ける、いやったらしいったらありゃしない(笑) 異化的であることによってわれわれはこのことを、自覚せざるを得なくなってしまうのですから。そこでまた、冒頭に主役を演じる女性が化粧をしていたことの意味が生きてくるのだと思います。終演後にこのことを思い出すことで、女性であることの意味をわれわれに考えさせるような意味を持っているように思いました。
 そういう点であまり日本では行われてこなかったファスビンダーの戯曲の上演を企画し、その意図をみごとに演出し、演じ、観客に提示して見せた青年団の今回の上演は素晴らしいものだったと思います。いやぁ、見に行ってよかったです。


 渋谷さんの講演も、ぼくの取ったメモを元にちょっと再構成して書いておきます。できるだけ彼の話した順に書いていこうとは思いますが、あくまでぼくが再構成したものであることを考慮に入れて読んでもらいたいです。また、註はぼくがつけた注釈であって、渋谷先生がおっしゃったことではありません。
 もともと戦後におけるドイツの演劇は、ナチ支配からの反動で、過度の感情移入を嫌う傾向にあった(註1)。もちろんそれ以前からブレヒトの演劇はあったのだけど、ファスビンダーブレヒト的ではないやり方で異化を行ってみせた。ブレヒトはその作品の中での社会的な構造を詳細に示し、その問題点を明らかにし、その上でその回答を示すと言う非常に知的で教科書的なやり方で異化を行うのだが、ファスビンダーはあくまで書かれたものが「虚構」であることを強調することによって異化を実現する(註2)。『ブレーメンの自由』においての男性上位の時代からの女性の自立という問題を、生々しいと言うか、気持ち悪いまでの強調によって際立たせると同時に、それがあくまで虚構であることも主張している。またそれに対して積極的な解決策を全く示そうともしない、というところから、問題意識を持ちつつも、その問題そのものとこの場合であれば女性が自立することによる問題との両方の負の側面を強く意識させるものである。
 ファスビンダーの作品に対する違和感というのは、二つの点から言及することができる。一つは、ブレヒトのようにその作品を取り巻く環境を意識させない点、もう一つは描かれているのは日常の情景のはずなのに、それを受け取る感じとしては非常に非-日常的である点である。前者は前段落で述べたようにしてあるのだが、後者はあくまでファスビンダーが作品の構造を知的に示すようにして作品を作るのではなく、人間の感情的な面に焦点を当てつつも、それをずらしていくことからくるものである。まずポリティカルコネクトという「正論」を日常に持ち込むことによる悲劇がある。ファスビンダーが描くのは人々のプライベートな側面での、そのようないろいろな厄介ごとである。その日常に持ち込まれたポリティカルコネクトが引き起こす戦いを、非常にミニマルに見せることで、日常的な繰り返しとその差異を強調するようにして作品を提示して見せるのだ。
 ファスビンダーは日本では一般的に映画監督だと思われているが、ドイツでは映画人としてはもちろんだが、それと同時に演劇人としても知られている。映画はその特性上、そこにあるものを撮影することによって具体的な文脈が見えすぎてしまう、ということが言える。ファスビンダーの「市民悲劇」の持つある種の普遍的な抽象性は、演劇という、何かをそのまま写し取るのではない、圧倒的な「フィクション」によってこそ、その本懐を垣間見ることができる、ということが言えるだろう。彼の戯曲での台詞の作り方は、台詞の細かな言い換えに関してはあまりうるさく言うやりのではなく、細かいなディティールを持たずに、いつでも時代に併せて変更可能なやり方で行われている。その意味で彼の舞台に必要なのは、俳優の身体と声だけなのである。
 彼の態度はアンチ-ビルドゥングス・ロマンということが言えるだろう。彼にとっては「人間は成長しない」のだ。ミニマル的に延々と堂々巡りをし続ける人たちを作り続けてきたということが言えるだろう。例えば今回の『ブレーメンの自由』で言えば、主人公であるゲーシェは口では「いろいろ仕事も経営も覚えて、わたしは成長した」とは言うものの、しかし彼女の行うことは同じことの繰り返しであるし、非-成長的、自閉的にしか見えない。彼女の態度はそこから非常に欝病的に見え、そこにファスビンダーの感情的なものへの接近が見て取れるのであるが、逆説的な言い方ではあるが、それは同時に観客が感情移入しにくくなる理由の一つでもあるはずだ。つまりファスビンダーブレヒトのような知的な方法ではなく、頭を使わせないで異化を行ってみせたのだ。しかしまた、ただ単に頭を使わせないで鬱々とした作品を見せたのでは人は全く面白がらず、いやな感じだけが残るのだろうが、彼は自らの作品にスペクタクル的な要素を非常にうまく取り込んでいる。彼はメジャーなものを作れるマイナー作家であるのだ。更に、彼は作品を量産することで観客にそれを常に提示し続けられた、という点でも、メジャーに非常にうまく使えていただろう。彼ほど、メジャーであることとマイナーであることの両方を上手く取り入れていた作家は世界を見渡してもあまりいるものではなく、その意味でもファスビンダーの作品を演じ、見ることはとても重要であるはずだ。


1:このことはベンヤミンの言う「政治の耽美化」を思い出してもらえれば、感情移入が全体主義的なものをある程度含んでしまう危険性を持っていることがわかると思います。
2:これは60年代後半から活躍し始めた土本典昭小川紳介ら、日本のドキュメンタリストにも通じる態度のように思います。またドキュメンタリストの森達也の著作である『ドキュメンタリーは嘘をつく』というタイトルでも、ドキュメンタリストがこのことを非常に意識していることがわかります。