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2003/11/30/Sun

[][]ネットでの儀礼的無関心の可能性

 以下は、特定の具体的な出来事を指した話ではない。たぶん、今日も全世界で繰り広げられているであろうことだ。

 たとえば、ひっそりとネットで日記を書いている人がいる。Aさんとしよう。とくにリンクも張られずに、目立つことなく、だけど、Aさんの日記をひそかに楽しんでいる人もわずかだがいたとする。

 ある日、Aさんはあることについての日記を書いた。それを見たある人がAさんの日記にリンクを張った。さらにそれを見つけた人気サイトのBさんが、Aさんのところにリンクを張った。結果、ひっそりと日記を書いていたAさんのサイトへのアクセスが殺到した。

 Aさんは、目立ってしまう自分のテキストについて驚き、そして当該のテキストを削除してしまった。結果、そのテキストを誰も見ることができなくなり、その後日記そのものをやめてしまった。

 さて、そこでは誰が幸せになったのだろうか──。

 繰り返すが、このAさんに具体的なモデルはいない。ただし、多くの人がこのような一連の経過を見てきたことがあるはずだ。

 そういうのを見るたびに僕が思うのは、ネットにおいて儀礼的無関心は可能なのだろうか、必要なんじゃないか、ということだ。「儀礼的無関心」とは、社会学者のゴフマンが提出した概念で、(物理的な)公共空間において、あかの他人同士が、お互いに一瞥くらいはするもののそれ以上の深入りを避け、無関心を装うような態度のことを指す。つまり、「あえてする無関心(見て見ぬふり)」とでも言うべきもので、これによって僕らの共在の空間と公共性は保たれていたりする。

 これは、電車のなかでの例を出すとわかりやすい。見知らぬ人同士が共有する密閉された空間を、平和に維持できるのは、われわれが無関心を装っているからだ。驚くほどの美人がいて激しく気になっても、けっしてジロジロ見たりはしない。僕らはそういうふうにして公共空間を保ちながら生活している。

 しかしネットでは、先に挙げた例のように、そのような儀礼的無関心が機能せずに、結果として誰も幸せにならない状況に至ることがある。こういう状況になったとき、僕は正直、「なんで無関心を装ってあげなかったのだろうか。気がきかないなぁ」と、Bさんに対して思う。

 一方、Bさんにもリンクを張った論拠なるものもあるはずだ。(アクセスの限定をかけないかぎり)ネットは常に開かれているのだから、それは誰の目に触れてもいいということじゃないか、と。見てほしくないならネット上で公開などするな、リンクフリーという原則こそがこれほどまでにネットを発展させたのだ、と。それは、とても「正論」のように聞こえるし、ネットに明るくない僕にも、それはある程度間違っていない、とも思う。

 だが、結果としては、誰も幸せになっていない──僕がひとつだけ気になって仕方ないのはこの点だ。それを考えると、杓子定規に「ネットの理念」たるものに依拠することの正当性や「正論」にも疑問を覚える。そんなの、ケースバイケースだし、僕らは日常的に(物理空間では)儀礼的無関心という振る舞いをしているじゃないか、と。リンクを張ることでAさんに変化が起こる可能性を、Bさんは想像できなかったのか。もしくは、Aさんに変化が起こる可能性について、どれほどの覚悟があったのか。

 ゴフマンの儀礼的無関心とは、あくまでも物理空間で複数の人々が共在する状況を分析した上でのものだ。だから、それをそのままネットにアプライすることはできない。ネット空間と物理空間では、対面的な相互行為は行われていない。一瞥されたかどうかも、あまりわからない。しかし、だからといって、ネット的な儀礼的無関心というものが簡単に棄却されるわけでもないはずだ。

 しかもそれは、見知らぬ人同士が友好かつ有効な関係性を継続するために、実はけっこう必要されているのではないか、とも思う。しかし、実際のところ、まだまだリンクフリーという「理念」の勢力は強い。

 もちろん僕は、そのようなインターネットの「理念」を単純に否定したりはしない。ただし、同時にそろそろそのようなネット上での相互行為儀礼の可能性も綿密に議論されてもいいような気がする。それは、インターネットというグローバルなシステムのなかで、いかにしてローカリティを確保・維持するか、ということにも繋がる話になるのかもしれないし、もしかするとそれによってっとても政治的な議論が巻き起こるかもしれない、などとも思っている。

 こういう話は、たぶん既にされているのだろうと思う。ただ、3ヶ月前に「テキストサイト」というブームがあったことを知ったような僕にとっては(しかもこのブームは数年前に終わったらしい。さっぱり知らなかった……)、まだまだ新しいトピックだし、同時に毎日のように飽きもせず目にし続けている光景だ。電車のなかでのマナーが荒れてきているように、もちろんこのような公共性が安定化するということもないだろうとは思う。まぁしかし、このあたりのことの議論をあまり見ないような気がするのであった。

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