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2004/01/30/Fri

[][]「ネットでの儀礼的無関心」結

●火付け役からのコメント

 『ARTIFACT』の加野瀬さんが、以下のようなことをおっしゃってます。

 松谷さんは、この「儀礼的無関心」を提案したあと、何回か予告はしているものの、まとめは書かれていません。

[……]

 ただ、こちらで「あれは問いかけであり、結論はない」と、ご自分の日記ではなく、他の方のはてなのコメントで書いているのを見かけました。

 こういう重要なことはご自分のところに書くのをお勧めします。それが議論に参加した人への礼儀でしょう。

 そうですね、「礼儀」はたいせつなので、書きましょう。

 まず、議論に参加なさったみなさん、お疲れさまでした。儀礼的無関心リンク集は、すべて読んでいるわけではないですが、最終的には非常に建設的な提案も出され、他人事のように興味深く読んでいました。

 私としましてはkurosawa31さんのところでこぼしたように、もともと問題提起なので、とくに結論はありません。ですから、なにか私に「結論」なるものを期待していた人がいましたら、残念ですがその期待には応じられません。悪しからず。ただ、以下の方々のテクストは、今回の議論が引き起こしたもっとも大きな成果とも言えるものなので、そちらを読んでいただければ参考になるかと思います。

 もちろん他にもいろいろあるのですが、ここでは要点を絞るという意味で上のふたつにリンクを張っておきましょう。で、それを受けたの加野瀬さんの話も興味深かったですね。

●お二方への反論

 で、以下は、今回の加野瀬さんのテキストにある批判と、「儀礼的無関心」を実践されていると思しき松永英明さんに、コメントしたいと思います。

 まず、加野瀬さんへのコメントです。

 以上から、自分は「儀礼的無関心の可能性」を「サイト運営者はひそかに運営している素人のサイトをこっそり覗き読む権利に配慮して欲しい。特にアクセス数が多く影響力のあるサイトは」という主張だと受け取りました。なお、ここでいう「素人」は「ネットの技術を知らない人たち」という意味で使っていて、以後もその意味で使います。

 そのとおりですが、それだけではありません。

 私は、加野瀬さんの言う「素人」にも配慮したほうがいいと思っています。ここで「みなさん、とても優しいし、暖かい。それには心を打たれました」と書いて一定の評価をしているように、そういう配慮はいいことだと思います。

 つまり、私は自らの権利主張とともに、こっそりとサイトを運営している方への配慮も主張した上で、「儀礼的無関心」の話を書いたわけですね。「どちらか片方」っていうことではありません。そこは、文章の流れをちゃんと読んでいただきたかったし、しっかりと引用していただきたかったですね。これじゃあまるで私が性格悪い奴みたいじゃないですか。まぁ、べつに大した善人でもありませんが(笑)。

 また、そもそも私がなにを目的としていたかは、そんなことはどうでもいいのですよ。逆にいえば、それにこだわることのほうが不明です。この点については、詳しくは後述します。

 「こっそり覗き見して皆で情報を共有するメリット」は「公共の利益」なんでしょうか。これが、掲示板などに参加している人からすれば「そのコミュニティの利益」ですが、特別に相手にコミットせず、覗き見している第三者の利益に公共性はないでしょう。

 この意見はとても疑問です。

 この文章では、掲示板に参加することを「コミット」と表現し、「公共の利益」とはその参加者のみが有していることだと判断しています。つまり、このレトリックにおいて、「参加/非参加」がとても重要なこととして扱われているわけですね。

 しかし、それはちょっとおかしくはありませんか。

 なぜなら、日記などようなものの場合、「参加すること」とは、つまり「(当該のHPを)見る」ことそのものです。逆に言えば、(このようなはてなのコメント欄を除けば)「見る」こと以外の参加はありえません。つまり、「覗き見」という表現をされ続けていますが、これは言い換えれば「ロムのみ」ということで、ウェブではほぼ当たり前の行為です。というか、きっとインターネットユーザーの7割ほどがロムのみの人々でしょう。

 加野瀬さんのレトリックとは、このようなインターネットユーザー7割=「覗き見している第三者」に「その利益の公共性はない」というものになるかと思いますが、それはちょっと飛躍があると思います。なぜなら、静かに読む人の権利もありますからね。それでも「覗き見している読者」に「権利がない」というならば、その論拠を示してみてください。たぶん、できませんから。

 そして、このテキストを真に受けてしまった松永さんのテキスト(『ウェブログ@ことのは』「ウォッチャー」の権利など守る必要はない。儀礼的無関心2」)から以下を引用をします。

 加野瀬さんの文章では「■こっそり覗き読む権利を守る必要性はない」という一節にこの点が詳しく書かれている。つまり、最初に問題提起した人は「ウォッチ対象のサイトが潰れたら覗き見できないじゃないか!」と怒っていたにすぎない。そんな権利は守ってやる必要などどこにもないし、そこに公共の利益など存在しないのは当たり前のことだ。

 「こっそりのぞき見できる可能性が失われ」て困るのはウォッチャー連中だけである。

[……]

 なお、人数が少ないがゆえにうまいぐあいに盛り上がっていたサイトを大サイトがリンクしたがために、変な投稿が増えて、その雰囲気を壊してしまった、という場合は問題が少し違っていて、単にリンクした人が「空気を読めない」ということになろう。

 何が違うのか。ウォッチ対象となっている弱小サイトにリンクしない、というのは、単にウォッチャー側の都合でしかない。影でコソコソ笑われているよりは、のぞいている奴がいるとわかった方がずっといいともいえる。

 しかし、人数が少ないがゆえに盛り上がっているサイトにあえてリンクしないのは、そのサイトの人にとっての利益を守るのが第一義といえよう。

 つまり、ウォッチャーの理論はエゴイスティックなものでしかない。そこに公共の福祉だの社会学理論だのを持ち出すのはおかしな話である。私はそれにすっかり「釣られ」てしまったわけだが。

 この文章では、加野瀬さん以上にその論拠がしっかりと示されていません。ウォッチャーの権利がないと言えるのは、なぜですか?

 たぶん、「ウォッチャーの理論はエゴイスティックなものでしかない」という部分がその理由にあたると思うのですが、これは疑問です。逆に聞きたいのですが、「ちょっとは見られたいけれど、たくさんは見られたくない」と思っている人のその思いは、なぜエゴイスティックではないと言えますか? もしくは、その人に無神経にリンク張った人はエゴイスティックだと言えませんか?

 ……と、ここまで書けば、だいたいおわかりになったかと思いますが、「権利」とは、誰のそれも、原初的にはエゴイスティック(利己的)なものです。そして、個々人がそのエゴに折り合いを付け、そして利益を共有することが「公共の利益=公益」となります。

 この件では、いろいろな人の利害が絡まっています。そこで、前提にしなければいけないのは、「(法を犯さないかぎり)すべての人の、どんな欲望にも、それを希求する権利はある」ということです。これは大前提です。

 ですから、松永さんのように、突然感情的に噴き上がって「そんな権利は守ってやる必要などどこにもない」というのは、思考停止した上でのただの暴論です。論拠もたいして明示されていないゆえに、非常にたちが悪いただの感情論以上のものではありません。

 加野瀬さんの意見は感情論にはなっていませんが、これもなぜか「コミットするか/しないか」が何気なくその判断基準にされています。この理由が不明なのは、先に書きました。

 また、松永さんは、さらに基本的なミスリーディングをしています。以下のテキストがそれですね。

 というわけで、今回の記事は「儀礼的無関心」を言いだしたウォッチャーの人のサイトには「あえてリンクせず」に公開してみる。自分に気づかれないようになんだかんだ言われることがどれだけ気持ちの悪いことか、その人が立場を入れ替えてわかってくれれば、と思う。

「『儀礼的無関心』を言いだしたウォッチャーの人」とはつまり私のことですが、私はすでにそれに気づいているので、あまり気持ち悪くはありません。また、気づかなければ気持ち悪くもならないと思います(これがなにを意味するか、松永さんはよく考えてみてくださいね)。

 ちなみに、そのような松永さんの行為ですが、もちろんそれは「無関心」などではなく(関心ありありですからね)、ただの嫌味です。また、私はそういう方は本来的には無視します。理由は、相手にするのが面倒だからです。

 ここで無視しなかったのは、id:otsuneさんがご丁寧に教えてくださったからで、これはid:otsuneさんへのサービスという感じでしょうか。触れないほうが良かったかもしれませんが。

 さらに、松永さんと加野瀬さんが、根本的にまだこの「儀礼的無関心」の話をいまいち把握しきれていないことについては、あとでもう一度触れます。

●「ちょっとは見られたいけど、たくさんは見られたくない」人

 さて、ここからは、もう一度話を整理して、「誰の権利を優先すべきか?」、もしくは「誰のメリットを優先すべきか?」という話を展開しましょう。それは「公共の利益」とはなにか、ということを考える手だてとなるでしょう。

 その前にまず、最初の私の文章から、この「ネットでの儀礼的無関心」の元ネタを再度引用しましょうか。

 たとえば、ひっそりとネットで日記を書いている人がいる。Aさんとしよう。とくにリンクも張られずに、目立つことなく、だけど、Aさんの日記をひそかに楽しんでいる人(引用者註・Cさん)もわずかだがいたとする。

 ある日、Aさんはあることについての日記を書いた。それを見たある人がAさんの日記にリンクを張った。さらにそれを見つけた人気サイトのBさんが、Aさんのところにリンクを張った。結果、ひっそりと日記を書いていたAさんのサイトへのアクセスが殺到した。

 Aさんは、目立ってしまう自分のテキストについて驚き、そして当該のテキストを削除してしまった。結果、そのテキストを誰も見ることができなくなり、その後日記そのものをやめてしまった。

 さて、そこでは誰が幸せになったのだろうか──。

 これを、もうちょっと短く整理してみましょう。

「ちょっとは見られたいけど、たくさんは見られたくない日記」を毎日書いていたAさんのサイトに、大手サイトのBさんが配慮せずにリンクを張り、「ウォッチャー」のCさんたちも見られなくなってしまった。

ということですね。

 この話題がとても多くの人を関心を呼んだのは、「儀礼的無関心」というキャッチーなネーミングにもありますが(大成功)、この一文をみなさんが“多様に読解”されたことにもあります。その多様な読み方では、A・B・Cさんの3者のうち、だれの権利を優先するかということがよく考えられてきました。

 そして、みなさんご存知のように、今回の話でもっとも優先的に考えられたのはあきらかにAさんです。鈴木謙介さんの提案を踏まえた技術論的なアイデアも、おもに「ちょっとは見られたいけど、たくさんは見られたくない」というAさんのニーズを考えた上でのものでしたし、また、当初から数多く見られたAさんへの配慮を強調する論調も同様です。私が「儀礼的無関心」というタームを持ち出したのは、そのAさんのこと“も”考慮したためですね。

 以上のように、この「ネットでの儀礼的無関心」というトピックは、ほとんどがこのAさんのことを中心に考えられてきて、それは本当にとても実りがあったと私も考えております。技術的なアイデアもさることながら、誰もが気づいていながらも、あまり注目されてこなかったAさんのような存在に注目が集まったことは、とても大きな収穫になったと個人的に考えております。

 Aさんのように、ネットに詳しくなく、旧来の「OPEN TO ALL」というネット原理主義には相容れない「ちょっとは見られたいけど、たくさんは見られたくない」という欲望でネットに参入してくる人たちは、これからも毎日のように現れ続けるでしょう。私はその人たちのことが注目されて本当によかったと心から思います。

 しかし、それでもAさんのような立場に対し、「自己防衛しろ」とか「じゃあネットなどやるな」という意見を呈す方も、わずかながら散見いたします。その意見もある程度尊重したいところですが、しかし、現実的にそれはなんら効果を持つ言説にはならないでしょうし、もっと言いますと、現実認識が甘いという点で、それはとても「素人」的です。いくらそう言ったところで、Aさんのような人が参入してくる現実は変わりません。また、それとは逆に、もしインターネットを参入の敷居の高い世界にしてしまうと、きっとノイズの少ない非常につまらないものになってしまうでしょう。それをも含意していないという点で、この意見は非常に「素人」的です(ただし、私は今回の件で、このような「素人」的な意見が少なかったことに、インターネットのちょっとした成熟を見たような気もしました)。

●『OPEN to ALL』のための『OPEN to A FEW』戦略

 さて、そのような現象は、ある意味でとても皮肉な現象でもあります。というのも、インターネットの基本原理であるはずの「OPEN to ALL」を強めれば強めるほどに、それと逆の効果が生じてしまうからです。

 つまり、「OPEN to ALL」という未来を志向するならば、戦略的に「OPEN to A FEW」を希求する人に一定の配慮をしたほうがいいわけですね。

 今回、鈴木さんの提案を踏まえた、『ishinao.net/mylog』での具体的なアイデアと、さらにそれを参考にしたの加野瀬さんのアイデアは、この「『OPEN to ALL』のための『OPEN to A FEW』戦略」の具体的な考案として、とても高く評価できるアイデアだと思っています。

 なかでも加野瀬さんの言う「一定多数になるとクローズしてしまう技術」というのは、それなりにニーズがあるものでしょう。ただし、そこでの問題は、「ちょっとは見られたいけど、たくさんは見られたくない」人が、その技術を簡単に使えるかどうかということと、それ以前にその技術の存在をどのようにして知るか、ということです。つまり、具体的な実行と、そのプロモーションの問題が浮上してくるわけです。

 加野瀬さんはそのために教習所の話を提案していて、それはおもしろいアイデアではあります。つまり、インターネットを使う前に、いろいろと勉強が必要だ、ということですね。それはそのとおりです。

 これですが、実際のところは、すでに公教育でそれらの学習はある程度はなされている“はず”です。とくに現在二十歳以下の人は、小・中・高のどこかの段階で、学校でインターネットについて学習している“はず”です。私が当初のテキストで「時間が解決する問題なのだろうか」と書いたのは、これを含意したものです。

 ただし、問題はその内実です。しつこく「“はず”です」と書いたのは、どれほどのレベルで教育がなされているかが、あまり楽観できないからです。きっと地域・学校・教員での格差が、そうとうあることが予想されます。ただ、その実情があまりよくわからないので、もし二十歳以下で、学校でインターネット関連の授業を受けた方がいましたら、それがどのような内容であったか、ここのコメント欄で教えていただければと思います。また、こういう教育にまったく期待しない向きもありますが、それもまた短絡です。教育の恩恵は誰もが大なり小なり受けています。もちろんその弊害がトラウマになっていたり、あまりいい思い出がない人もいるかと思いますが(私もそのひとりです)、だったらより学校教育のレベルを上げることを考えてもいいかな、と思います。

●「マナー(作法)」ではなく「他者といるための技法」としての「儀礼的無関心」

 さて今回は、かようにAさんについて、その注目が集まり、私は非常に満足しています。たとえ、そこでマナー論が多々見られたとしても、それを踏まえて技術的なアイデアが提出されたことがとても良かったように思えます。

 そこでひとつ気になったこととしては、一部で過剰に「マナー」を嫌悪する論調が見られたことです。とくに前半で「マナー」論が盛り上がり、後半は、それを否定する文脈で技術論が盛り上がったという流れに見えます。

 実際、私はたんじゅんにマナーとして「儀礼的無関心」の話を持ち出しているわけではないのですが(後述)、今回は「儀礼的無関心というスローガンを!」と言う人も現れたりもしていて、正直私もそれには引きました。

 それにしても、なんで私は引いてしまうのでしょうか?

 やはりそれは「ネチケット」という言葉が妙に重ーい雰囲気をかもし出すように、なぜかネットで「礼儀(マナー、エチケット)」を出されるとイヤな感じがします。私も今回加野瀬さんに、臆面なく「礼儀でしょう」と言われたのでノコノコ出てきましたが、正直「なんかウゼー」なんて思いました(笑)。「サービスしてくれ」という表現をしていただければ、もっとスッキリ出てこられたのに。

 今回の「儀礼的無関心」もそういう意味合いで受容されていて、たしかに最初のテクストにそういうふうな側面がなかったとは否定しませんが、私としては「作法(マナー)」というよりも「技法=儀礼(テクニック)」の話をしていたつもりです。実際にゴフマンがそうだというのもありますし。

 それがマナー、エチケット問題として受容されたのは、私の書き方(「だれが幸せになったのだろうか?」)にも問題あるのでそれじたいはとくにおかしいことではないのですが(これについてはすでに言及しました)、「儀礼的無関心」とは、「(見知らぬ)他者といる技法」のことであって、それが「他者の思いやった上でのマナー」かどうかは、実は中心的な問題ではありません。内面がどうこうという話をしているのではないわけです。

 実はですね、松永さんが激怒りされているのは、ここで私に裏切られたと思っているからなんでしょう。「その出歯亀行為を『公共の利益』にすり替えて議論が進められていた」と書いていますが、つまりこれは「松谷はAさんを思いやってると思っていたが、実は自分の都合だった。だまされた!」というものですね。しかし、残念ながら私にいわせれば、それは加野瀬さんと松永さんがちゃんと読んでいなかっただけですし(たとえば、id:kurosawa31さんは、そのあたりの事情を見事に看破しているからこそ、私は「現状把握としては見事」だと述べたわけです)、さらに言えばそういう言い方もいまだに的を射ていません。つまり、いまだにちゃんと読めているとは言えません。

 簡潔に説明しましょう。

 私はたしかにAさんのことも思いやってこの話をしましたが、同時に自分(Cさん=ウォッチャー)のメリットも要求しています。つまり、AとCのメリットをBは潰すな、BはAとCに「儀礼的無関心」しろよ、と言っているわけです。つまり、“AさんとCさんの関係”をスポイルするな、と言っているわけですね。

 ただ、実際のところは、ほとんどはAさんに対してだけ、Bさんは「儀礼的無関心」すべしだ、と語られました。それは私の書き方がそういうふうになっていたからなので、まぁ仕方ないことでもあります。なぜなら書き手の私はCさんなので、あまりそこを強調してなかったですからね。

 ただ、私は途中で「いい人扱い」されてしまい、それが痒くなって、ある程度話の可能性を広げることを目的に、いくらかヒントを示唆したつもりです。加野瀬さんはいまになってなぜかそれをピックアップし、そして松永さんがそれを受けて噴き上がった、という流れです。

 でもね、問題はお二方が指摘する、そんなところにあるんじゃないんです。Bさんに「儀礼的無関心」を要求する理由は、ひとつではないんです。それは、Cさんのメリットを維持するためであり、同時に、Aさんの立場をくむためでもあり、そして、この両者の関係を維持することにあります。

 加野瀬さんと松永さんが、いまだ読めてないと思うのは、Bさんへ「儀礼的無関心」を要求する理由が「ひとつしかない」と、きっと考えているからですね。ハッキリ言いますが、それは短絡的です。

 繰り返しますが、AさんとCさんの関係の維持も大切なんです。私が当初書いたように「儀礼的無関心」とは、「見知らぬ他者が共在するための技法」ですからね。

 もちろん、多くの人はこれをAさんへの「マナー論」だと考えているようです。だから、松永さんや加野瀬さんの認識はそれなりに一般的なものです。まぁ、それもアリでしょう。だけども、当初から明示していたように、私がこの話を書いたのは、同時にCさんのメリットを維持するためでもあり、そして、A&Cさんの関係の維持を目的にするものでもあります。これらの複数の可能性を考えて、最初のテキストを書いたわけですね。さらに、それが予想通り「多様な読み」をされたために、これほどまでに人口に膾炙するトピックになったわけです。

 以上が、ヒットする秘訣……ではなく、ちょっとしたネタバレです。

 でもまぁ、私(作者)がなにを考えていたか、とかそんなのはもはやどうでもいいんですよ。ここまで広がって、そして実りのある話題になったのだから、言いだしっぺの意見なんてどうでもいいのです。「儀礼的無関心」で記事を書く人がいたら、私に一言断るなりなんなりして、ついでにコメント出すからお金くれると嬉しいなって思ってるくらいであってね(笑)。ま、それは冗談にしても、誰が言い出したことくらいかは明示してほしいかな。

 だから、加野瀬さんや松永さんが、私が当初なにを考えていたかというのに重点を置くのが、はっきり言って不明です。しかもしっかり読めてないし。そんなことはどうでもいいし、わかる人はすでにわかっていることです。なんで私のことなんかにこだわっているのかがわかりません。そんなに私のファンなんだろうか、とか思ってしまう。なんてね(笑)。ま、作者の主体なんてどうでもいいんですよ。そういう日本独特の「作家論病(文学病)」(作者の動機を重視する文芸批評の方法)以外にもテクストの読み方はありますからね。私からは「テクストよりもコンテクスト」(by赤川学)という一言をお勧めします。ひとまず、お二人の私への批判は、ほとんど実りがないのですよ。

●AさんとCさんが共存共栄するための技術的アイデア

 さて、ここからは、ちょっと具体的な話をしましょう。

 加野瀬さんなどが提案している、「ちょっとは見られたいけれどたくさんは見られたくない人」のための技術論的アプローチの可能性について考えてみましょう。

 私が具体的に思うのは、この「はてなダイアリー」でけっこうそれに近しいことができるよな、ということです。この「はてなダイアリー」には「プライベートモード」というのがあるんですが、これはその日記の書き手が許して登録した「はてなユーザー」しか見られない、というものです。これは「閲覧可能ユーザー」という欄にその人の「はてなID」(私なら「TRiCKFiSH」)を登録していくんです。つまり、読者を選別できるわけです。

 ただこれだと、O+nというものなので、基本的には人数は限られてくる。もちろんたくさんの人を登録すればべつですが、ちょっと面倒くさい。つまり、本当にごく少数向けのモード=プライベート・モードなんですね。

 でも、たとえばですが、このプライベートモードの閲覧可能ユーザーに「All of Hatena」なんてあったら面白いですよね。つまり、はてなユーザーなら全員が見ることが可能なものです。「内輪」とよく語られるはてなを、システム的に内輪化してしまうわけですね。

 たぶん、現状のはてなは、まだ拡大期なので、きっとそんなことはしないでしょう。すでにある「内輪化」という指摘(実際には大して内輪化していないと思います。そう見えるだけで)を実際に推進することになるので、きっとやらないはずです。ただし、技術的にはそれほど難しいとは思えないので、時期を見てやるような気がします(ひとまず「はてなダイアリーへの要望」として、はてなの人が見られるようにしておきましょう。「要望」ではないですが)。また、そういう需要もあると思います。「はてな」ユーザーの以外の見知らぬ人に見られたくない、という欲求はある程度あると思うんですね。

 ただ、これでも解決できない問題もあります。それはこのアイデアでは、閲覧する側、つまり読者が「はてなユーザー」であるのが条件となります。そこでは「閲覧者の匿名性」は低いわけです。加野瀬さんの話が優れているのは、「閲覧者を匿名のまま、閲覧者を制限するシステム」を考察しているところです。これはとても重要な指摘です。

 というのも、これは先の話でのAさんだけでなく、Cさんの立場も尊重するアイデアだからです。つまり「こっそり見続けること」を可能にするアイデアだからです。加野瀬さんはこれを「副産物」と言いますし、実際に加野瀬さんはそれを主要な目的にしてはないようですのでたしかにそれは「副」なのですが、実際にはAさん&Cさんの権利を尊重した画期的なアイデアだと思います。

 その具体性については、技術的な話になるので私がどうこう言う話ではないですが、このアイデアが出てきたことを私は高く評価し、そして、技術者の方々にその可能性について考えていただきたく思います。

 

●「素人」や「弱者」はだれなのか?

 さて、話は変わって、以下は私の友人の例をあげます。

 若い女友達なのですが、彼女は自分のプロヴァイダのサーバにHPを持っており、それとはべつに無料レンタルできる非ブログの日記サイトを持っていました。日記の内容は、恋人や友人、バイト、好きな音楽の話とか、いわゆるよくあるものです。ちょっと赤裸々で、ハッキリ言って「自意識丸出し恐怖新聞」的な内容でもありますが、とりあえず身分を特定されるようなことはない、という感じです。

 そこには、単純アクセスのみのカウンターも置かれているのですが、ある日以降、その数値がどんどん高まったそうなんです。だけど、どこかにリンクされているかどうか、調べてもわからない(というよりも、レンタルサーバということもあり、調べようもない)。で、彼女は不安になってその日記を閉じ、同じ無料レンタル日記をべつのメールアドレスで登録して借りて、また新たに日記を書き始めました。

 しかし、今度彼女は、自らのHPからその日記へリンクで飛ぶ際に、IDとパスワードを入力するような設定をしました。そして、自分が日記を読んでほしい人のみ(ここに私も含まれるのですが)にそのIDとパスワードを教えて「読め」と言ってきたわけです。

 すでに、この出来事はすごく混乱しているのに気づかれている方もいるかと思います。

 まず、彼女は自分のHPから日記へリンクで飛ぶ際にはパスワードをかけているのだけれど、日記そのものは無料レンタルですので、そこに直接カギをかけているわけではないのです。つまり、玄関には厳重にカギをかけて、裏口は開放している状態なんですね。それならば、最初からその無料レンタルの日記のURLをみなにメールすればいいだけなんです。

 次に、彼女はHPから日記へリンクで飛ぶ際にIDとパスワードをつけるという技術的努力をしているのにもかかわらず、自動日記生成プログラムを借りてきたりするようなことはせず、また「はてな」を借りて「プライベートモード」を使うという知識もないんです(ただし、「はてな」は先に述べたように閲覧者の敷居があるので、それを考慮したものかもしれません)。

 いまだに彼女はその無料レンタルのサーバで、自分が許した友人のみが見ていることを前提に(しかし誰に見られているかはわからない)、日記を書き続けているようです。ちなみに、私はそんな閉じた日記は興味なく、内容も私言うところの「自意識丸出し恐怖新聞」なのでとても気持ち悪く(友人がやっていると嫌なもんです)、最近はアンテナからもはずし読んでいません。

 ただ、こういう人は確実にいますし、こういう人のニーズをいかに満たし、そして、そうじゃない人といかに共存共栄していくかということを考えることは、これから幾度となく話題になることでしょう。

 そして、その際にもっとも考えなければならないことは、このようなAさんのニーズをただただ満たすことを考えることではありません。AさんのニーズとともにCさんのニーズも満たすことも留意すべきなのです。公益とは、その場のより多くの人のニーズを満たすことにあって、たんに「弱者」救済ではありません。その場、その状況においての、各人の権利をすべて包含した上での、バランスのことをさします(ですから、この点でも加野瀬さんと松永さんは間違えています)。

 このような彼女の行為は、友人としては非常に困惑しました。しかしながら、一部の方が「素人」とか「弱者」と呼ぶ方がまだまだいるのがインターネットの実状です。もっと言うと、リンクを張ったときに、張られたサイトがそれを察知できることを知っている人は、どれほどいるかと思います。

「はてなダイアリー」は、キーワードで自動リンクが張られます。加野瀬さんが意図せずにリンクし、当該のテクストを削除してしまった方は「はてなダイアリー」利用者のようで、その一件について加野瀬さんは以下のように述べています。

 その方のサイトには、無断リンク禁止とは書かれておらず、はてなダイアリーというリンクがしやすいシステムで書かれているのだから、リンクをしても問題ないと判断しました。

 私は、その削除された方の日記がどのような内容かは知らないので、この件については判断はいたしません。

 ただ、ひとつだけ述べておきますと、はてなやブログのシステムを熟知してそれを使っている方が、どれほどいるかということにはとても疑問に思っています。つまり、「弱者」や「素人」(私はこのような呼び方は嫌いですが便宜的に)だからこそ、なにもわからずにそのようなシステムに参入したりもします。そして、それへの配慮をまったくできないことも、「弱者」かつ「素人」的な所作であると僕は思います。ですから、先にも書いたように、そこで原理主義的な論を振り回すのは、現状認識が乏しいとしか思えません。相変わらずそういう方が散見されますし、その立場にも一定の尊重はいたしますが、しかし、もはや現状では時代錯誤的にしか思えません。

●最後に

 さて、以下は余談です。

 まず、今回多くの方が私の最初のテキストにリファーされました。先に述べたように、私はこのすべてを読んでいるわけではありません。

 ただ、そのなかのお一人に興味深い行動をなされる方がいました。まず、その方は、あるときコメント欄で、私にとって文脈不明のことを書かれました(だれかを特定されないために具体的なその内容は書きません)。私はなにを言っているのかわからなかったので、適当にコメントをしておきました。すると次にその方は、「勘違いしていました」という旨のコメントをされました。それでも私はなにがなんだかわからないので、適当なコメントをしてきおきました。

 これはあとになってわかったのですが、その方はどうも私のテクストにリンクを張って批判的なコメントをし、そのあとでそれを撤回していたのです。で、それを僕が読んでいることを前提にして、コメントをされていたわけです。

 この現象を私はとても興味深く感じました。一言でいえば、その方が自意識過剰とも言えるのですが、細かく書くと、その方は「リンク張ったら読むのが当然」という「常識」を持っており、私にはその「常識」がなかったということになります。

 この齟齬が、私には自分のこととは言え、とても興味深く感じられたのです。

 それは、私に「応答」する「責任意識」が希薄だったのでしょうか。

 それとも「応答」などする義務などやはりないのでしょうか(現状ではそう考えていたりします)。

 はたまたそれは「責任」などの水準で考えず、加野瀬さんのおっしゃるように「応答」を「礼儀」として捉えるべきなのでしょうか。

 そして、私には「あなたの存在は知らなかったです」ということは、言えないのでしょうか──。

 今回の一件で、このことについてはちょっと考えさせられました。

「繋がること」を前提としたコミュニケーション作法を持っている者と、それを持っていない者の齟齬──この断層はとても大きく感じます。人を抑するアーキテクチャーは、どこに向かっているのでしょうか。北田暁大さんの「責任(論)雑感」というテクストを読みながら、私はそれについていまだに考えておきます。

 以上、長くなりましたが、最後に書いたことを少しでも解消するためにも、この件について私に質問等ありましたら、ここのコメント欄でお応えしたいと思います。すべてにお応えできるかどうかはわかりませんが、時間の許すかぎりお応えしようかと思います(ただし、なるべくわかりやすく、感情的にならずに書いていただけると幸いです)。

 以上の点、宜しくお願いいたします。

追記

 そういえば、このコメント欄は、はてなユーザー以外は書き込むことができない設定にしているのでした。なので、もし「私のところを読んでコメントください!」っていう人がいましたら、上のメールアドレスに個人メールでもいただければと思います。時間の許す限り、この「追記」のあとにコメントをいたしたいと思います。ただし、あまりにもくだらなかったり感情的な場合にはお返事しないかもしれません。悪しからず。