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2010/06/03/Thu

[]『ヒーローショー』監督:井筒和幸(2010年)

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 07年『パッチギ! LOVE&PEACE』以来の、井筒和幸監督の新作。吉本興業の若手芸人コンビ・ジャルジャルを起用したバイオレンス映画だが、不良・ヤンキーを描いた『ガキ帝国』などと異なり、いわゆる“DQN”を題材としている。作中で描かれる出来事も、実際に4年前に起きた事件をモデルとしており、そこでのDQNの論理の描写は、『シガテラ』など、古谷実の一連の作品に匹敵する水準である。

 お笑い芸人を目指し上京してきた鈴木ユウキ(福徳秀介/ジャルジャル)は、お笑い養成学校の先輩で、元相方の剛志(桜木涼介)に誘われて、ヒーローショーのアルバイトを始める。しかし、剛志は恋人の美由紀(石井あみ)を同僚で大学生のノボル(松永隼)に寝取られたことに怒り、ショーの最中に大乱闘を起こす。剛志は、友人の鬼丸兄弟(阿部亮平、ジェントル)に頼んで、ノボルとその友人の勉(米原幸佑)を袋叩きにし、100万円を要求する。やられた勉は、兄の拓也(林剛史)に仕返しを頼む。拓也は、千葉・勝浦に住む元自衛官で配管工の友人・石川勇気(後藤淳平/ジャルジャル)に頼み、徹底的な仕返しをしようとする。

 出だしは軽妙な印象ではあるが、上映開始30分以降はタイトルやトレイラーとは大きくかけ離れた内容だ。中盤は、非常に陰惨な暴力が繰り広げられる。そこに登場する若者は、関西を舞台としたこれまでの井筒監督の不良映画『ガキ帝国』や『岸和田少年愚連隊』、『パッチギ!』で見られる、旧来型の不良像ではない。いわゆる“DQN”と呼ばれる存在だ。

 わかりやすく例えるならば、それは辰吉と亀田一家の違いだ。暴走族や不良・ヤンキーとは異なり、DQNはその集団に明確な規範がない。言うなれば非体制的であり、集団の外郭も明確でないゆえに継承される文化もない。たとえばヤンキーたちの「タイマン」は、彼らの道徳と美学を象徴するものだったが、DQNの暴力に美学はない。彼らがもっとも重視するのは、面子を軸とした仲間同士の繊細な関係性だ。亀田父親やその子供たちの無作法と試合における反則などは、不良やヤンキーの風上にも置けない非常にDQN的なものだった。

 この映画が注力するのは、DQNたちによる陰惨な暴力が生じてしまうまでの、ひどくどうしようもないプロセスである。ジャルジャル演じる主人公のふたりにそうしたDQN性には乏しいが、あの惨劇を引き起こしてしまうほとんどは、不良やヤンキーの経験もないDQNたちであり、しかも現役の大学生や地元の名士の子どもふたりがその中心だ。

 主人公のふたりは、名前は同じであるものの対照的な存在だ。福徳演じる鈴木ユウキは、東中野のボロアパートに帰り、ギャルゲーの妹に挨拶するような青年だ。お笑いの舞台でも緊張し、ネタを忘れてしまうような気弱な性格だ。

 一方、後藤演じる石川勇気は、母親(結城しのぶ)が自分と同世代の若い男(永田彬)と同棲しており、そうした状況に嫌気がさしている*1。恋人でバツイチのあさみ(ちすん)と同居するためにアパートを借り、将来は石垣島に渡ってレストランを開こうと考えている。しかし、そんなときあさみに6歳の子供がいることが判明し、そこに拓也から電話がかかってくる。鬱屈していた彼は、拓也との信頼関係やストレス解消を目的としてかその誘いに乗るといった感じだ。

 こうした設定は、吉本芸人を使った井筒監督の不良映画『ガキ帝国』と『岸和田〜』の系譜にあるかと思いきや、まったくそうではない。それらとは異なり、ノスタルジーにも浪花節にも浸らず、鬱屈するDQNたちを描き込んでいる。

▼▼▼▼以下ネタバレあり▼▼▼▼

 気づくひとは気づくと思うが、中盤に描かれる暴力のシークェンスは、06年に起きた東大阪の集団リンチ殺人事件をモデルとしている(→事件の概要1同2)。恋愛をめぐる些細な衝突を発端に、復讐が復讐を呼ぶプロセスは非常によく似ている。細かい部分では、穴のなかで動けなくなっている剛志に対し、ユウキに命令して石を投げさせるところが酷似している。ユウキのモデルとなった被害者のひとりに、加害者側が金銭を要求後に解放するのも同じだ。もちろん、登場人物の背景や、途中でひとり逃げ出すなど、細かい部分は異なるが。

 この事件は、被害者1名と加害者2名が大学生だった。こうした重大事件で、大学生が加害者となることは割合的には稀なことだ。結果的に二人が殺され、勇気のモデルとなった21歳の実行犯リーダーに、死刑判決がくだっているほどの事件だ。それは、むかしの学生運動団体の内ゲバや、不良・ヤンキーの縄張り争いで生じた事件とも異なり、恋愛における嫉妬をもとに突発的に生じたからこそ衝撃的だった。彼らのなかには、暴力団の関係者のような存在もいたが、そのほとんどがごく一般的な存在だった。

 この映画は、そうしたごく一般的な若者があのような凶行に走るプロセスをちゃんと描いており、さらに事件にかかわる個々人の背景も追っている。たとえば、事件の首謀者である拓也とその弟の勉。彼らの父親は、市長選に立候補する地元の名士で、彼らが両親と接するシーンで見えたのは、彼らのどうしようもないバカさ加減などではない。彼らの生育環境の生々しさがある。

 そして、このプロセスにおいて、もっともフィクショナルで、同時にこの一件の杜撰さを示すのは、勇気がユウキを車で延々引きずり回したあげく、金も奪わずに解放してしまうところだ。実際の事件の詳細は不明だが、映画では引きずり回してた過程で、恋人やその息子と接するユウキに情が湧いてしまったと描く。ただし、それでもユウキが警察に駆け込めば事件は発覚するし、彼らは終わりだ。だからこそ、首謀者の拓也は勇気を怒鳴りつける。

 その後、勇気はユウキを東中野のアパートから、千葉の剛志を生き埋めにした現場に連れて行く。そのシーンも、フィクションだからこその結末だった。ユウキは、自分が殺されることを想像をし、それがフラッシュ・フォワードのように挿入される。

 結果的に、ユウキは殺されないが、あそこは映画の閉じ方として非常に判断が難しいところだ。そこでは、以下のようなパターンが考えられた。

〈1〉ユウキと勇気がいっしょに逃げ出し、ともに生き延びる

〈2〉ユウキと勇気がバラバラに逃げ出し、ともに生き延びる

〈3〉ユウキは殺され、勇気は生き延びる

〈4〉ユウキは生き延び、勇気は殺される

〈5〉ユウキも勇気も殺される

 この映画が選択したのは、〈4〉だった(勇気が死んだかどうかはハッキリとは描かれないが)。一方でユウキは、唐突に地元に戻って両親に会い、平凡な日常で生を実感する。ユウキの見るフラッシュ・フォワード的な想像は、「そうなるかもしれない最悪の未来」であり、勇気がそうなってしまうからこそ、ラストに出てくるユウキの平凡な日常が対照的に機能する。

 しかし、このオチが、どれほど井筒監督の本意なのかはわからない。この作品は、シネカノンで企画され、同社の経営が傾いた結果、吉本興業と角川映画が引きとって完成・公開に至ったからだ。

 そして、この作品について、井筒さんは、いろいろなインタビューでアメリカン・ニューシネマ*2の影響について触れてもいる。いまの予定調和が蔓延る生ぬるい日本映画界にこの映画を投じたといった主旨の発言もしている。

 アメリカン・ニューシネマは、ベトナム戦争が激化し、キング牧師ロバート・ケネディが暗殺された、60年代後半の頃から始まる。具体的には67年の『俺たちに明日はない』から始まり、スピルバーグとルーカス登場前の70年代前半まで続いた。そこで見られる特徴は、設定はロードムービーやバディムービーが多く、アンハッピーエンドが目立ったことだった。旧態依然としたオールド・ハリウッドが、斜陽化して表現コードを緩めたこともその一因だった。

 『俺たちに明日はない』や『イージー・ライダー』では、主人公たちが死で幕を閉じるが、この映画はそのタイプの結末を選択しなかった。それらよりも、同じくアメリカン・ニューシネマの代表的な作品である『真夜中のカーボーイ』や『スケアクロウ』の結末と似たタイプだ。二人のうち片方が悲惨な結末となり、残された者は敗北と孤独、それゆえの生を痛感する。あの「起こるかもしれない未来」としてのフラッシュフォワードも、アメリカン・ニューシネマでよく見られる手法だ。

 『ヒーローショー』のラストは、これらアメリカン・ニューシネマの傑作と比べると、やはり突き抜けてなさを感じてしまう。もちろん、あえて過剰さは抑え、あのフラッシュフォワード的描写で上手くフォローしているようにも思えるのだが。

 が、しかし、そうならば勇気のフラッシュフォワードも挿入しても良かったのではないか。石垣島で、勇気が恋人とともにレストランを経営し、恋人の息子も含めた3人で仲むつまじく生活する未来だ。だがそれは、彼のストレス発散から生じた事件によって完全に失われた。ユウキと勇気をより対照的に描くためには、ユウキの「そうなるかもしれない最悪の未来」と、勇気の「そうなるかもしれない最高の未来」を対置させれば良かったはずだ。この映画で惜しいのは、この点にある。

 とは言え、DQNたちの生々しさやその論理、そして、ごく一般的な存在が重大な事件に巻き込まれていくプロセスをここまでしっかりと描いた作品は、他にはなかった。それは、やはりしっかりと観賞者にインパクトを与える現代的なものだし、十分に一見の価値はある。

 なお、ジャルジャルファンと思しきギャルがちらほら目立った劇場は、完全に凍りついていたことを最後に付記しておく。

監督:井筒和幸/チーフプロデューサー:岡本昭彦/プロデューサー:片岡秀介、仲良平、山本恭史、増田悟司/エグゼクティブプロデューサー:大崎洋、椎名保/脚本:吉田康弘、羽原大介、井筒和幸/撮影:木村信也/美術:津留啓亮/衣裳:星野和美/編集:冨田伸子/音楽:藤野浩一/演出補:武正晴/照明:尾下栄治/録音:白取貢/シニアプロデューサー:水谷暢宏/出演:後藤淳平(ジャルジャル)、福徳秀介(ジャルジャル)、ちすん、米原幸佑、桜木涼介、林剛史、阿部亮平、石井あみ、永田彬、結城しのぶ、大森博史、太田美恵、水澤紳吾、千葉ペイトン、黒柳康平、ジェントル、落合扶樹、松永隼、巨勢竜也、飯島洋一、筒井真理子、木下ほうか、升毅、光石研/製作:吉本興業、角川映画/制作プロダクション:よしもとクリエイティブ・エージェンシー、ユニーク・ブレインズ/配給:角川映画/2010年5月29日公開/134分

ガキ以上、愚連隊未満。

ガキ以上、愚連隊未満。

*1:この設定の元ネタは、7、8年ほどだったか、日本テレビの番組(タイトル失念)に出ていた、「親友が母親と結婚しました」という一家だ。母親は40歳くらいで、息子と若い夫は20歳くらい。母親は外見が明らかに元ヤンで、いつも口すぼめて話し、とても大人しい印象だった。そして、一瞬大笑いしたときに前歯がないのが見えた。

*2:アメリカン・ニューシネマは日本でおける呼称で、海外では"New Hollywood"という。