ありのままに見る世界



 
 
ありのままに見れば良いと思う。
 
 

なのに、難しく考えてしまう。勘繰ってしまう。
 
時には、自分が置かれた環境に、存在しそうなルールや枠組みに習ってしまう。

また時には、格好をつけてしまう。賢さ、物分りの良さを気取ってしまう。


本当は必要無いはずの感情が、知らない所で生まれてくる。

本当は目的に沿わない価値観が、知らない所で生まれてくる。
 
 
そうなると、もはやありのままには見られない。


色々、ありのままに見れない癖みたいなものがついていて、それが生き方を難しくしているように思う。
けれど、ありのままに見る目を取り戻してくれるのが、自分にとっては写真なのだと思う。
だから、写真は自分の生き方にとっても、大切な物なのだと思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

生活=「生きていることを活かす」




生きていることを 活かす と書いて 生活。
と、私は自分勝手に読んでいます。


自分が、生きていることを活かす。
何でもいいので、人のため、自然のため、動物のために、自分が生きていることを活かす。


綺麗事かもしれないけれど、生きている意味が無い人なんていないと思う。
誰だって、生活していますもんね。
 
 
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 

変えれないものは、変えれない。




自分の性格の中で、変えた方が良い所があります。
変えた方が社会で生きて行く上で、有利に生きていけると分かっています。


でも、変えられない。もう、今さら無理。
変えられないから、不利なまま生きるほか無いです。


変えれない所を、どう活かして生きていくのか、考えるしかないです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

大切だと思う事をする場



生きる意味を考えると、その時々で割と答えが違うのですが
今の答えは「自分が大切だと思う事をする」のが生きる意味なのだろうと思います。


大切な事は、仕事としてやることかもしれないし、
家族と共に過ごす時間の中にある事かもしれないし、
お金を儲ける事かもしれないし、お金は必要ないことかもしれないし、
人知れずやることかもしれないし、地球規模でやることかもしれない。


他人がどう思っても、自分が大切だと思っていることをしていることが、
本人の生きる意味だと思います。


それをする場とそして与えられたのが、社会なのかなって思うのです。


「何が大切なのか?」時々、自分に問いかけたいです。
少しでも答えの様なものがみつかれば、安心するものですね。

希望と失望と人




人に希望を与える人間と、残念ながら人に失望を与える人間がいます。


私は、希望を与える人と共にありたいです。
失望を与える人とは、共にありたく思いません・・・。


失望を与える人に、希望を与える人と同じ様な期待は抱きません。
それで傷付くのはもう嫌だし、それで傷つくことは、やはり私自身の責任だと思いました。


そして、私も希望を与えられる側の人でありたいなと思います。

希望の光は、心の中に



絶望して、気力を失う時、不安にのまれる時、何も信用できなくな時。
それを打開する行動すら取れない時があります。


そんな時、希望の光は、やはり自分の心の中にあるように思います。


新聞を読んだり、本を読んだり、料理をしたり、洗濯物を畳んだり、散歩をしたり、人と話しながら、ゆっくり自分の心を探っていくと「あぁ、これかも」というものが見えてきたりします。


落ち込んでいる時はそんな元気も無いかも知れないし、なかなか見つからなくてやる気を失くす事もあるけれど、絶対に何かあるのだと思います。
動けなくなってしまった自分を動かす希望が。


ここ、2ヶ月は色々な事があって、沈んだ心のまま過ごす時間が多かったですが、
自分の心に希望の光があるように思いました。
自分で落ち込んで、自分で希望を作ってって、おめでたい話ですね(笑