さかのぼり前漢情勢10

そろそろみんな飽きてきたかもしれないhttp://d.hatena.ne.jp/T_S/20100211/1265815377の続き。


元帝の時代を通じて実権を握っていた宦官の石顕。
彼は元帝の即位以来何度か失脚の危機に遭いながらも、それを退けてきた。

及宣帝寝疾、選大臣可屬者、引外屬侍中樂陵侯史高・太子太傅望之・少傅周堪至禁中、拜高為大司馬車騎將軍、望之為前將軍光祿勳、堪為光祿大夫、皆受遺詔輔政、領尚書事。宣帝崩、太子襲尊號、是為孝元帝。望之・堪本以師傅見尊重、上即位、數宴見、言治亂、陳王事。望之選白宗室明經達學散騎諫大夫劉更生給事中、與侍中金敞並拾遺左右。四人同心謀議、勸道上以古制、多所欲匡正、上甚鄉納之。
初、宣帝不甚從儒術、任用法律、而中書宦官用事。中書令弘恭・石顯久典樞機、明習文法、亦與車騎將軍高為表裏、論議常獨持故事、不從望之等。恭・顯又時傾仄見詘。望之以為中書政本、宜以賢明之選、自武帝游宴後庭、故用宦者、非國舊制、又違古不近刑人之義、白欲更置士人、繇是大與高・恭・顯忤。上初即位、謙讓重改作、議久不定、出劉更生為宗正。
(『漢書』蕭望之伝)

蕭望之は宣帝の時代からの大臣であり、元帝にとっては学問の師でもあったため大変重んじられ、元帝が即位すると領尚書事となった。
彼と周堪は劉更生、金敞といった者を元帝の側近として元帝の周りを固め、石顕に対抗したのである。

だが肝心な元帝は日和りがちであり、曖昧な態度に終始した。
蕭望之らの主張するように中書宦官の制度を改めることにも消極的だが、さりとて石顕と外戚史高を全面的に信頼するにも至っていない。
結局、石顕らにより蕭望之は失脚し、罷免されたのちに自殺へと追い込まれた。


また、地位こそ低かったが京房も石顕を脅かした。

(京)房因免冠頓首曰「春秋紀二百四十二年災異、以視萬世之君。今陛下即位已來、日月失明、星辰逆行、山崩泉涌、地震石隕、夏霜冬雷、春凋秋榮、隕霜不殺、水旱螟蟲、民人飢疫、盜賊不禁、刑人滿市、春秋所記災異盡備。陸下視今為治邪、亂邪?」上曰「亦極亂耳。尚何道!」房曰「今所任用者誰與?」上曰「然幸其瘉於彼、又以為不在此人也。」房曰「夫前世之君亦皆然矣。臣恐後之視今、猶今之視前也」上良久乃曰「今為亂者誰哉?」房曰「明主宜自知之」上曰「不知也。如知、何故用之?」房曰「上最所信任、與圖事帷幄之中進退天下之士者是矣」房指謂石顯、上亦知之、謂房曰「已諭」
(『漢書』京房伝)

元帝に対して今の世は乱れていると断じ、その原因を信任する人物にあると説いた京房は、この大胆な発言で元帝の目に留まった。元帝は彼の考案した新たな官吏の評価システムに興味を持ったが、結局は石顕の横槍が入り、京房は命を落とすことになる。

是時、元帝被疾、不親政事、方隆好於音樂、以顯久典事、中人無外黨、精專可信任、遂委以政。事無小大、因顯白決、貴幸傾朝、百僚皆敬事顯。顯為人巧慧習事、能探得人主微指、內深賊、持詭辯以中傷人、忤恨睚眦輒、被以危法。
(『漢書』石顕伝)

石顕(および前任者弘恭)は元帝に信任され、本来なら皇帝がするはずの判断を任されていた。
弁舌が巧みで法令に明るく、口に出されていない主の意向を良く汲み取ったというから、元帝からすれば有能でしかもよく気がつく秘書のようなものだったのだろう。
だが先述の京房のような反抗分子が現れると、裏で政敵の攻撃材料を探して失脚や処刑に追い込むのである。

顯與中書僕射牢梁・少府五鹿充宗結為黨友、諸附倚者皆得寵位。民歌之曰「牢邪石邪、五鹿客邪!印何纍纍、綬若若邪!」言其兼官據勢也。
(『漢書』石顕伝)

また石顕らは尚書令や少府となった五鹿充宗などとも結んで朝廷にも同盟者を増やし、尻尾を振る者は厚遇した。
まあ、これらはどんな種類の権力者でも大なり小なりあることで珍しくは無い。

だが、元帝は「中人無外黨、精專可信任」(宦官なら同盟者もいないから周囲に惑わされず自分に対し忠実で信任できるだろう)と思っていたというから笑い話である。


元帝の時代とは、病気がちとはいえ得意なのは音楽くらいで政治向きのことは臣下に一任してしまう皇帝と、保身と政敵排除には異常に長じた宦官によって支配されていた。
ただでさえ明るくなさそうな世相を更によどんだものにしていたかもしれない。


ただ、この時代はそれだけではないもう一つの面がある。
それは儒者が次々と高位に就き、秦以来の旧制度を改めていくという、制度史的には後の時代にもつながっていく面である。

次回へ続く。