曹叡の兄

封建されなかった曹叡の弟 【曹蕤】http://d.hatena.ne.jp/AkaNisin/20110405/1301929457

曹叡、字は元仲 【曹協】
http://d.hatena.ne.jp/AkaNisin/20110406/1302007574


id:AkaNisin氏の鋭い指摘。


どういうことか、以下にまとめてみることで手抜き記事を作る

曹丕の男子は九人。

一般に明帝曹叡が長男だと考えがちだが、氏が指摘するように彼の字は「元仲」。次男なんじゃないのかということになる。


そこで氏は曹協が長男じゃないのかと指摘しているのだ。なるほど。

贊哀王協、早薨。太和五年追封諡曰經殤公。青龍二年、更追改號諡。三年、子殤王尋嗣。景初三年、筯戸五百、并前三千戸。正始九年薨。無子。國除。
(『三国志』巻二十、賛哀王協伝)

曹協は、早死にしたという割に子がいたことになる。つまりそれなりの年齢(どう少なく見積もっても15歳前後)にはなっていたことになるのだ。
でありながら、彼は生前諸侯王や列侯になっていた形跡がない*1

これはどういうことか。


つまり、彼こそが曹丕の後継ぎと目されていたのだろう。
後継ぎは将来本家の爵位を相続するので、そうとわかっているなら別の爵位や領土を貰わないのが一般的と思われるのだ。例えば曹丕がそうである。
ということは、おそらくこの曹協が曹叡の兄なのだろう。


ただ彼は太子に立てられることなく死んだらしい。
曹丕の即位前後には死んでしまったのだろうか。



また、そのあとに曹丕が後継ぎと考えたのが曹蕤だとAkaNisin氏は指摘する。
彼もまた曹丕在位時には爵位を貰っていない。

北海悼王蕤、黄初七年、明帝即位、立為陽平縣王。
(『三国志』巻二十、北海悼王蕤伝)

彼の場合は幼年であったからという可能性も無くはないが、曹叡が即位すると即座に諸侯王に立てられているのは少々怪しい。
爵位の無い皇子という後継ぎっぽい身分のままにはしておけないということではないだろうか。
おそらくは、正式に皇太子に立てられる前に死んだ曹協に続いて曹丕が後継ぎにしようと考えたのが曹蕤なのだろう。
彼は長子ではないが本人か母が曹丕のお気に入りだったのだろう。



曹丕は東海王霖などを寵愛していたという*2が、これは曹叡の地位を脅かすのではなく、曹協や曹蕤の地位を脅かすものだと考えられる。

そして、曹叡が平原王から平原侯に格下げされたというのも、「廃嫡」ではなく、実母に代わって郭皇后を母とせよという父の命に従わなかった曹叡を実子扱いしないという形で罰したということなのではないだろうか(曹操曹丕の実子は王や公になっている。この時代に列侯にとどまるのは実子扱いされていないということになる。)。
嫡子ではないのだから、「廃嫡」とは呼べないと言うことだ。



先日の自分の何気ない記事がこのような鋭い指摘につながったのだとすればうれしい限りだ。

*1:曹叡が15歳で列侯になったのは有名である。

*2:http://d.hatena.ne.jp/T_S/20110404/1301842857参照。