郭脩の地位

八月、詔曰「故中郎西平郭脩、砥節窅行、秉心不回。乃者蜀將姜維寇鈔脩郡、為所執略。往歳偽大將軍費禕驅率羣衆、陰圖闚■、道經漢壽、請會衆賓、脩於廣坐之中手刃撃禕、勇過聶政、功逾介子、可謂殺身成仁、釋生取義者矣。夫追加褒寵、所以表揚忠義、祚及後胤、所以奬勸將來。其追封脩為長樂郷侯、食邑千戸、諡曰威侯。子襲爵、加拜奉車都尉、賜銀千鉼、絹千匹、以光寵存亡、永垂來世焉。」
【注】
魏氏春秋曰、脩字孝先、素有業行、著名西州。姜維劫之、脩不為屈。劉禪以為左將軍、脩欲刺禪而不得親近、毎因慶賀、且拜且前、為禪左右所遏、事輒不克、故殺禕焉。
(『三国志』巻四、斉王芳紀、嘉平五年)

蜀の費禕を殺害した郭脩(郭循)は、魏においては「元の中郎」というあまり高いとは言えない官位で記されるが、蜀においては「左将軍」にまでなったとされている。




そうなると魏でよりも蜀でかなりの出世を遂げたことになる。






その理由を考えてみたところ、二つ思いついた。




一つは、彼が西平郡郭氏、即ち明帝の郭皇后と同族らしいということ。




蜀は彼を魏皇帝の外戚とみなし、それに応じた処遇を与えた、という可能性である。



これは敢えて言うなら立場的に夏侯覇が近いか。





もう一つは、彼が涼州西平郡の大姓の出身らしいということ。



蜀は涼州攻めの一環として、地元で影響力のある(と思われる)者を厚遇して道案内や調略に利用しようとした、という可能性である。姜維に屈しなかった、というのは姜維が彼にそういったことをさせようとしたことを言っているのかもしれない。



これは敢えて言うなら立場的に姜維が近いか。






どちらの理由とも違う可能性だってもちろんあるが、断片的に残る記録の間にあるギャップを埋める要素は、そのどちらかというのがありそうなんじゃないか、と思う(両方、という可能性もある)。