武王

及劉賈入楚地、圍壽春、漢王敗固陵、乃使使者召大司馬周殷舉九江兵而迎武王、行屠城父、隨劉賈・齊梁諸侯皆大會垓下。立武王布為淮南王。
(『史記』巻八、高祖本紀、高祖四年)

周殷反楚、佐劉賈舉九江、迎武王黥布兵、皆會垓下、共撃項籍。
(『史記』巻五十一、荊燕世家、荊王劉賈)

上記の記事を読む限り、かの英布(黥布)は「武王」と呼称されていた時期があったように思われる。




もしかすると、英布が項羽に背いてから淮南王に立てられるまでの期間、漢の側では彼の事を「武王」と通称していたのかもしれない。