暴君の名は。

六年夏四月、泉陵言黄龍見。
五月、交阯郡吏呂興等反、殺太守孫諝。諝先是科郡上手工千餘人送建業、而察戰至、恐復見取、故興等因此扇動兵民、招誘諸夷也。
(『三国志』巻四十八、孫休伝、永安六年)

孫晧時、交阯太守孫諝貪暴、為百姓所患。
(『晋書』巻五十七、陶璜伝)



呉の交阯太守孫諝は苛斂誅求を嫌われて遂に反乱を起こされるのだが、この時の呉の皇帝は『三国志』によれば孫休である。



だが、『晋書』では孫晧孫皓)の時のこととして書かれている。





反乱以後の事は確かに孫晧の時代が中心とはなっているが、交阯太守孫諝を任命し野放しにしていたのは孫休であったようなので、「暴政ならどうせ全部孫晧だろ」みたいな偏見がこのような記事にしてしまったという気もしないでもない。