『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その6

その5の続き。


莽杜門自守、其中子獲殺奴、莽切責獲、令自殺。
在國三歳、吏上書冤訟莽者以百數。元壽元年日食、賢良周護・宋崇等對策深頌莽功徳、上於是徴莽。
始莽就國、南陽太守以莽貴重、選門下掾宛孔休守新都相。休謁見莽、莽盡禮自納、休亦聞其名、與相答。後莽疾、休候之、莽縁恩意、進其玉具寶劍、欲以為好。休不肯受、莽因曰「誠見君面有瘢、美玉可以滅瘢、欲獻其瑑耳。」即解其瑑、休復辭讓。莽曰「君嫌其賈邪?」遂椎碎之、自裹以進休、休乃受。及莽徴去、欲見休、休稱疾不見。
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)

王莽は屋敷の門を閉じて閉じこもった。子の王獲が奴婢を殺すという事件を起こすと、王莽は厳しく責め、王獲を自殺させた。



領国にいる三年間の間に、王莽の無実を訴える上奏が百を数えるほどあった。更に、元寿元年の日食の際には、賢良の周護・宋崇らは哀帝に対し王莽の功績や人徳を称えた。そこで哀帝は王莽を都へ呼び戻した。



王莽が領国へ着任した頃、南陽太守は王莽が外戚で高貴な身分であることから、門下掾である南陽郡宛県出身の孔休を王莽の領国新都侯国の長官(相)とした。孔休は王莽に面会を求め、王莽は礼を尽くして受け入れ、孔休もそれに礼を返した。



その後、王莽が病気になった時、孔休はお見舞いに行った。王莽はその恩に報いるため、玉で飾られた宝剣を進呈して親交を持とうとしたが、孔休は辞退した。



王莽は「貴方の顔には傷跡が残っているようだが、美しい玉は傷跡を治すというから、そのためにこの剣の柄に付いている玉を献上しようと思うのです」と言って、その玉を取り外して与えようとした。



孔休はそれも辞退したので、王莽は「君はこの玉が高価であるから嫌がっているのかな?」と言い、その玉を粉々に砕いて、その破片を包んで渡したので、孔休は受け取った。



王莽が都に呼び戻された時、王莽は孔休にまた会おうと思ったが、孔休は病気と称して会わなかった。



王莽は領国、つまり南陽郡の新都侯国に転居した。これは実質的には都から追い出されたようなもので、王莽はその間大人しくしていたという。



自分の子供である王獲が奴婢を殺害するという事件が起こると、王莽は我が子に自殺を命じた。



普通に考えると「親である王莽の監督不行き届き」「息子には甘い」みたいな批判を受けるような事件であり、自分のイメージを維持するために「我が子に対しても厳しい」という姿勢を示すしかなかったのだろう。





また孔休はその後「王莽に仕えなかった」ことで重んじられた人物なのだそうだ。




元壽元年春正月辛丑朔、日有蝕之。
詔曰「・・・(中略)・・・陳朕之過失、無有所諱。其與將軍・列侯・中二千石舉賢良方正能直言者各一人。大赦天下。」
(『漢書』巻十一、哀帝紀)


「元寿元年日食」というのは、哀帝の元寿元年正月一日に日食という天譴(と当時は解釈された現象)があったことで、哀帝が「朕の誤りを隠すことなく述べよ」と言い、将軍、列侯や大臣級の連中に対して「賢良」などの人材を推挙させ、その人材に意見を求めたことを言うのである。


孔休の例に見られるような形で人心収攬し、また評判が評判を生む正のスパイラルで世間から高く評価されていたことで、哀帝に対して王莽を推薦する者が多数いたのであろう(王莽が裏で直接手を回していた可能性ももちろんある)。