『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その30

その29の続き。



策曰、惟元始五年五月庚寅、太皇太后臨于前殿、延登、親詔之曰、公進、虚聽朕言。
前公宿衛孝成皇帝十有六年、納策盡忠、白誅故定陵侯淳于長、以彌亂發姦、登大司馬、職在内輔。
孝哀皇帝即位、驕妾窺欲、姦臣萌亂、公手劾高昌侯董宏、改正故定陶共王母之僭坐。自是之後、朝臣論議、靡不據經。以病辭位、歸于第家、為賊臣所陷。就國之後、孝哀皇帝覺寤、復還公長安、臨病加劇、猶不忘公、復特進位。是夜倉卒、國無儲主、姦臣充朝、危殆甚矣。朕惟定國之計莫宜于公、引納于朝、即日罷退高安侯董賢、轉漏之間、忠策輒建、綱紀咸張。
綏和・元壽、再遭大行、萬事畢舉、禍亂不作。輔朕五年、人倫之本正、天地之位定。欽承神祇、經緯四時、復千載之廢、矯百世之失、天下和會、大衆方輯。詩之靈臺、書之作雒、鎬京之制、商邑之度、於今復興。昭章先帝之元功、明著祖宗之令徳、推顯嚴父配天之義、修立郊禘宗祀之禮、以光大孝。
是以四海雍雍、萬國慕義、蠻夷殊俗、不召自至、漸化端冕、奉珍助祭。尋舊本道、遵術重古、動而有成、事得厥中。至徳要道、通於神明、祖考嘉享。光耀顯章、天符仍臻、元氣大同。麟鳳龜龍、衆祥之瑞、七百有餘。遂制禮作樂、有綏靖宗廟社稷之大勳。普天之下、惟公是頼、官在宰衡、位為上公。
今加九命之錫、其以助祭、共文武之職、乃遂及厥祖。於戲、豈不休哉!
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)

策書にはこう書いていた。



元始五年五月庚寅、太皇太后が前殿に臨場して自ら「安漢公よ、前へ出て朕の言葉を虚心に聞け」と命じた。



これまで、安漢公は十六年に渡って成帝の側仕えを務めて献策して忠誠を尽し、定陵侯淳于長を誅殺することを言上して乱を止め悪事を暴露し、大司馬の位に登って輔政の任に就いた。



哀帝が即位すると側室であった者が僭上の沙汰に及び奸臣が乱の兆しを見せると、安漢公は自ら高昌侯董宏を弾劾し、定陶共王の母(傅氏)の座席を改めさせた。それ以降、朝廷の大臣たちの議論で、経書に基づかないものはなかった。病によって地位を辞して屋敷に戻ったが、悪者たちに陥れられることとなった。領国へ赴いた後、哀帝も誤りに気付いて安漢公を長安へ呼び戻し、哀帝の病が悪化しても、安漢公の事を忘れず、特進の位に就けた。その夜、哀帝が急に世を去り、奸臣が朝廷を占拠し、大変危険な状態であった。朕は王朝を鎮護するなら安漢公が一番妥当であると思って朝廷に招き入れ、即日高安侯董賢を退け、すぐに忠義の策を立てて朝廷の綱紀は粛正された。



綏和(成帝)・元寿(哀帝)と二度も皇帝の崩御に立ち会ったが全て上手く執り行い、禍が起こることはなかった。朕の輔政となって五年、人倫の根本は正され、天地の地位は定められた。天地の神を承り、四季を治め整え、千年間廃れていた明堂を復活させ、宗廟の何代もの間の誤りを正し、天下は和合し、人々は寄り集まった。『詩経』における霊台、『書経』にある洛邑の造営、鎬京や商邑の制度が復興したのである。先帝の功績を明確にし、太祖・太宗の素晴らしい徳を顕彰し、父を天に配置する意義を明らかにし、祖先の大祭の礼を修復し、大いなる孝行を輝かせた。



そうして四海のうちは和らぎ、多くの国々がその義を慕い、習俗の違う蛮夷も召し出すことなく自らやってきて、中国の習俗に同化していき、珍しい宝物を献上して祭事を助けた。古きを尋ね正しい道を重んじ、学術に従い古を重視して成し遂げ、中庸を得た。偉大な徳や大事な教えは神に通じ、先祖の霊も喜んで受け入れる。輝かしく顕彰され、天が下す瑞祥も何度も現れ、麒麟鳳凰神亀、竜といった瑞祥が七百も出現した。礼楽を制定して宗廟社稷の神霊を安んじたという大きな功績がある。天下はみな安漢公だけが頼りであり、官は宰衡となり、上公の地位である。今、九錫を与えて祭事を助け、文武の職を兼務し、その厚遇は祖先にまで及ぼす。ああ、なんと素晴らしきことであろうか!



王莽の功績をまた列挙して九錫を与えるという命であるが、そこでこの列伝中では初出の功績がある。




「矯百世之失」がそれで、注釈で張晏が言う所では、これは皇帝の宗廟の制度を改正したことを言っているのだとか。



その件についてはこのあたりを参照