逃げて淮南の民

明年使於譙、太祖問(蒋)濟曰「昔孤與袁本初對官渡、徙燕・白馬民、民不得走、賊亦不敢鈔。今欲徙淮南民、何如?」濟對曰「是時兵弱賊彊、不徙必失之。自破袁紹、北拔柳城、南向江・漢、荊州交臂、威震天下、民無他志。然百姓懷土、實不樂徙、懼必不安。」太祖不從、而江・淮間十餘萬衆、皆驚走呉。後濟使詣鄴、太祖迎見大笑曰「本但欲使避賊、乃更驅盡之。」
(『三国志』巻十四、蒋済伝)

三国時代曹操の元にいてあの赤壁の頃に合肥を救ったと言っていい蒋済は、赤壁の翌年(建安14年)頃に曹操からこう言われたという。



袁紹と戦った時の白馬の民のように淮南の民を強制移住させようと思うが、どうかな?」




それに対して蒋済はこう答えた。



「その時はこちらが弱く、強制移住もやむをえませんでしたが、今は天下に敵なしで、民も他勢力に移ろうと考えているわけではないではないですか。それに民は本来は住んでいる土地に愛着があり、強制移住を望みませんから、不安をもたらす事になるのではないでしょうか」



果たして、曹操がその意見を無視して強制移住を行った所、多くの民が孫権の元へ逃げたのだという。




十四年春三月、軍至譙、作輕舟、治水軍。
秋七月、自渦入淮、出肥水、軍合肥。辛未、令曰「自頃已來、軍數征行、或遇疫氣、吏士死亡不歸、家室怨曠、百姓流離、而仁者豈樂之哉?不得已也。其令死者家無基業不能自存者、縣官勿絶廩、長吏存恤撫循、以稱吾意。」
置揚州郡縣長吏、開芍陂屯田
十二月、軍還譙。
(『三国志』巻一、武帝紀)

そこで思ったんだが、この淮南の強制移住って、同じ建安14年の「芍陂屯田」への編入を前提としたものなのだろうか?