Naming(その1)

かつてはあくびをしながらでも簡単にできたのだけど、いつからか難しくなってきたことがある。それは、自分でも気恥しくなるような瑞々しい文書を書くこと。
せっかく会社員を辞するのだから、これからは瑞々しい文書を書くように努めていきたい、という表明をしてみよう。
そういうわけで、そんな文体を取り戻すためのささやかなトレーニング。たぶん、最初からうまくはいかないだろうけど。
 
さて、「名付け」をテーマに、いっちょチャレンジしてみようと思う。
結構長くなってしまいそうなので、前後編にわけて。
 
名付けといって真っ先に思い出すのは、やはり子供の名前。名前の変更は、まあそれなりの手順を踏めば不可能ではないらしいけれど、やはり生まれてくる子供のために失敗のない名前を授けたいというのが、親になる準備をしている人々の正直なところだろう。
この件については色々なところで話をしたことがあるので、或いはもう聞き飽きたという方もいるかもしれないけれども、まあ自分の偽らざる本心だから仕方がない。今回もいつもと同じことを語ることにしよう。
 
でもその前に、あなた自身のスタンスを決めてほしい。子供の名前をつけるという行為は、結局のところ極めて個人的な行為で、名前をつける本人の決断に委ねるところが多い。つまりは僕自身が責任を負いかねるナーバスな問題なのです。もし、名付けについて思いを馳せる人がこの文書を読んでいるのであれば、これ以降の部分については、あなた自身の中に揺るがざる方針のようなものを据えてから読み進めていただきたい。
 
 
 
 
準備はオーケー?
 
僕が子供の名前について思いを馳せていたのは、もう7年も前のこと。子供をこの世に迎え入れる準備をしている親たちの大抵がそうであるように、僕自身も子供の名前についてはとてもとても悩んだ。
 
最初に決定したのは、「日本語の名前にしよう」ということ。もし、このコンセプトを当たり前のことだと思った方は、機会があったら小学校の連絡網を眺めてみることをお勧めします。敢えて実例を出すことはしないけれども、僕の感覚では、現代の小学生の半分は日本人じゃない。
それ自体を良いとか悪いとか言うつもりはないけれども、学童児の名簿を作成するにあたって、半数以上の子供達の名前が読めないという状況の中、我が子には「漢字で書ける」「見た目で読める」「外国で聞いても日本人が日本人だとわかる」名前を付けようと決めた。
 
次に決めたのは、「こうあってほしい」という思いを名前に載せないこと。
昔、たぶん学校の宿題かなにかだったのだろうけど、名前の由来(僕の名前は「崇」と書いて"たかし"と読む)を親に聞いた時に、「山よりも高い心を持った人になって欲しかったから」という答えにひどくがっかりしたのを覚えている。親の思いそのものではなく、自分の名前に意味がついていたことにショックを受けたのです。
その当時既に自分の名前にはそれなりの愛着を感じていたし、変名するなんて思いもしないけれども、今でも自分自身の名前に親の思いが載っていることには少しだけプレッシャーを感じていたりする。
そんなわけで、子供の名前に親の希望だったり期待だったりといったものを感じずに済むような名前にしようと決めた。
 
三つめの条件は、上記二つの条件を満たした上で、兄弟姉妹が生まれた時にも通じるようなコンセプトというか連作性を持たせること。名前と同様に、兄弟姉妹だって一生変わらない関係なわけだから、名前を通じて自分達が繋がっている感覚を持って欲しいと思ったのです。
 
そして最後の条件が、最終決定は実際に生まれてきた子供の顔を眺めてからにすること。実際に呼んでみて、しっくりこない名前をつけてしまいそうで怖かったのだ。
 
このあたりをベースに据え、一人目も二人目も、まあ悩んだ悩んだ。
 
しかし実際には幾つかの失敗が重なり、上に掲げた名付けの条件全てを満たすことは叶わなかった。
 
(つづく)