Hatena::ブログ(Diary)
ブログトップ 記事一覧 ログイン 無料ブログ開設

tamuraの日々の雑感 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2017年11月16日

[]第18回社会政治研究会のご案内

下記の要領で、第18回社会政治研究会を開催します。どなたでも参加できます。


日時 2017年11月16日(木)18:00〜20:10


会場 名古屋大学全学教育棟(情報学部)北棟4階406(多目的講義室)

  (www.i.nagoya-u.ac.jp/access左下の「情報学部・全学教育棟」

   北側玄関から4階に上がり、エレベーターを降りて左手へお進み下さい)


《第一報告》

福井康貴(名古屋大学)「長期雇用の時点間比較」


《第二報告》

隠岐さや香(名古屋大学)「社会科学と「蓋然性」(probability)の思想史――証言・実験・数学」


飛び入り参加も歓迎いたしますが、準備の都合上、事前に上村

(kamimura[at]lit.nagoya-u.ac.jp)まで御一報いただければ幸いです。

なお、終了後の懇親会もぜひ御予定下さい。

【運営委員】

大岡頼光(中京大学)、上村泰裕(名古屋大学)、田村哲樹(名古屋大学)、山岸敬和(南山大学

2017年11月11日

[]第26回東海地区政治思想研究会のご案内

 下記の要領で、第26回東海地区政治思想研究会を開催します。どなたでも参加できます。

 前回から少し時間が経ってしまいましたが、この間、運営体制が変わりました。そして、今後は、基本的に年二回(5月ごろと11月ごろの予定)の開催とし、それぞれの開催の際には、二つの報告を行うことにしました。


  • 日時:2017年11月11日(土)14時〜17時
  • 会場:名古屋大学法学研究科本館1階会議室(212室)
  • 報告:

 1)山田祥子(名古屋大学法学研究科院生)「グローバルな正義と平和(仮)」

 2)平田 周(南山大学外国語学部)「クロード・ルフォールにおける民主主義理論の射程(仮)」

  • 終了後、懇親会を開催します。

準備の都合上、懇親会参加希望の方は、できるだけ事前にご連絡ください。

連絡先:長谷川一年(南山大学)kazuhase617[at]yahoo.co.jp


【運営委員】大園誠(名古屋大学)、大竹弘二(南山大学)、田村哲樹(名古屋大学)、長谷川一年(南山大学)

2017年10月22日

[]投票に行くことについての雑感

〔注:以下は、あくまで走り書きの雑感・メモです〕

 投票に行く/行かないということについて、最近、次のような指摘が見られる。つまり、若い世代の中には、「自分は政治についての十分な知識も判断力もない。そんな自分が投票に行くのは、無責任である。だから、投票には行かない。」という考えがあるというのである。

 たとえば、社会学者の富永京子は、ある新聞記事の中で、次のように述べている。「私も学生時代はそうでした。自分が何かを選ぶことで、選ばなかった何かを否定し、「踏みつける」ような気がして怖かった。投票しなければ、誰も傷つけずにすむと思っていました」。この発言が最初に紹介したような「考え」と全く同じことを指しているとは言えないだろうが、それでも、「うかつに判断・選択することが、ネガティブな結果をもたらす可能性を憂慮し、そのような判断・選択を控えることにある種の道理性を見出す」という点では、共通している部分があると思われる。

 富永はあえて「判断を棚上げしているヌルい自分」と書いている。しかし、ここでは「判断を棚上げ」していると言えるのだろうかということについて、少し(ざっくりと)考えてみたい。

 私がこの「投票に行くのは却って無責任」「うかつな判断・選択は無責任」論に接して思い出すのは、大学進学について次のように考える高校生がいる、という話である。最近では、大学進学について、「自分が将来何になりたいかよく考えて、それに適した大学・学部を選びなさい」といった形での「進学指導」がなされる。その結果、「自分が将来何になりたい」のかよくわからない生徒の中には、「私はなりたいものがない/わからないから、大学には行かない」と言う人が出てくる、というのである。このような理由で「大学に行かない(と言う)高校生」と、上記の理由で「選挙に行かない若者」とは、よく似た思考回路を持っているように思われる。

 これらの人たちは、「判断を棚上げしている」のだろうか。私には、このような人たちは、「自分で」考えて「判断」したのだと思われる。そう、この人たちは、ある意味で「自分で」考えて、自分で決めている。

 思い出すのは、ウルリヒ・ベックらの提唱した「個人化」論である。ベックらによれば、かつては人々は判断・選択を行う時に、何らかの集合的な準拠枠組に依拠することができた。「階級」「共同体」「伝統」「家族」などは、その例である。あるいは、それらと重なるが人々が共通に抱いている通念(共有された意味)も、集合的な準拠枠組と言えるだろう。

 「私は労働者階級に属するから、社会主義政党に投票する」とか、「うちのムラではみんな〇〇党支持だから、私も〇〇党に投票する」といった判断は、純粋に「個人的に」行われているのではなく、「階級」「共同体」といった集合的な準拠枠組に依拠することで行われている。「普通は大学に行くものだから」という理由で大学進学や受験先大学を決めるのも、ある種の集合的な準拠枠組に依拠して行われる判断である。

 「個人化」とは、こうした集合的な準拠枠組に依拠することができなくなり、「自分で」判断しなければならなくなることを意味している。それには、メリットもあり得る。集合的な準拠枠組は、個人の「選択の自由」を認めない。私が本当は別の政党に投票したいと思ったとしても、準拠枠組が強力な状態では、それこそ「村八分」を恐れて、「自由な選択」ができないかもしれない。「本当はA大学に行きたかったけれど、学校が強力にB大学をと言うので、A大学を受験できなかった」ということもあるかもしれない。つまり、集合性や集団の存在は、個人にとって抑圧的に作用する可能性がある。これに対して、「個人化」した社会では、個人は文字通り「自分で」決められるようになるのである。(やや誇張気味に言えば)どの政党に投票しようとも、村八分になることを恐れる必要は低減する。A大学に行きたいというあなたの意志は、可能な限り尊重されるだろう。個人の選択は、文字通り個人で行うものとなり、その結果も、個人の選択の結果として尊重される。

 しかし、同時に「個人化」は個人に負担感ももたらす。「自分で決めなければならない」という負担感である。良かれ悪しかれ、集合的な準拠枠組があれば、「自分だけ」で決めなくてもよい。ところが今や、誰かが/何かが決めてくれるわけではなく、すべて「自分で」決めなければならない。しかも、その選択・決定の結果への責任も、「自分で」負わなければならない。しかし、そのように「責任」をと言われても、そもそも「自分だけ」で確信をもって決めることなどできるのだろうか。決めることができないと(自分では)思っているのに、形の上では「自分で」決めたということにされ、さらには、その責任は自分で負うのだと言われても・・・という話にはならないだろうか。ベックらの「個人化」論は、個人の選択の自由を楽観的に礼賛していると見られる時もあるが、決して、そのような議論ではない。むしろ、個人が選択できるようになることに伴う困難も指摘しているのである。

 以上の「個人化」論に鑑みると、「投票は却って無責任」「将来について見定められないので大学に行かない」という人々の考えも、「個人化」社会では大いにあり得ることなのではないか、という気がしてくる。そのような人々は、「自分で決めなければならない」ということを真剣に受け止め、その結果として、「結果に責任を負いきれない」「進学すべき理由は見つからない」と「判断」し、投票の棄権や大学受験取りやめを「選択」しているのではないだろうか。

 以上の話は、もちろんデータ的な裏づけがあった上の話ではない(だから、「雑感」である)。しかし、仮に「もしもそうだとすると」と想定して話を進めると、こういうことになる。投票に行かない/大学進学を目指さない人たちの中には、「個人」で考えるがゆえに、そういう結論を得る人がいる、ということである。そうだとすれば、もしもそのような人たちに、投票/受験を選択させたければ(注:ここでは、投票/受験を必ず選択させるべきだ、と言っているのではない)、「個人の判断」の重みを緩和する必要性があるだろう。もしも投票/受験が「あなただけによる判断」とは言えなくなれば、その結果に「あなただけ」が責任を負う必要もなくなる。そうすれば、「あなた」は安心して、投票に行き、大学進学を目指すことができるかもしれない。

 それでは、「個人の判断」の重みを緩和するにはどうすればよいのだろうか。これまでの議論からすれば、そのためにはもう一度集合的準拠枠組を復活させることが必要、ということになる。集合的準拠枠組に依拠した判断は、純粋に個人的な判断ではない。したがって、その結果も、個人だけが負うものとは言えない(はずである)。たとえば、「労働者階級だから」という理由で政党・候補者選択をした時には、その理由も結果も「労働者階級」としてのものだと考えることができる。「このムラでは」の理由での選択も同様である。「集合的無責任」という言い方もできるだろう。しかし、だからこそ「個人で」責任を負う必要もないのである。

 しかし、かつてのような意味での集合的準拠枠組を、現在復活させることが、可能なのか、また、そもそも望ましいのか、という疑問はあり得る。恐らく、それとは違う何かを考えなければならないのだろう。たとえば、以下のようなことが考えられる。


1)「現在的な」形での、集合的準拠枠組となるような人的つながりの形成

 「階級」「共同体」「家族」などが集合的準拠枠組となることが疑わしくても、もしもそれに代替する、たとえ暫定的であれ人々の集まりがあれば、そこで共有された何かが集合的準拠枠組となる可能性がある。簡単に言えば、「(自分の所属範囲での)『みんな』が行くから」投票に行く、という話である。

2)「個人の選択」を緩和するような共有された意味の創出

 一点目と重なる部分もあるが、集合的準拠枠組は、実体的なもの(具体的な集団)ではなく、「投票」や「受験」についての一定の範囲の人々が共有する意味という形でも成立し得る。そうだとすると、投票や受験の「個人の選択と責任」を緩和するような意味の流通が、新たな集合的準拠枠組となるだろう。

 たとえば、通常は個人の一票は良かれ悪しかれ「決定的な一票」とはならないが、このことを周知していくことは、「個人の選択」を重く捉えてしまう人々には有効かもしれない。選挙の結果は、「あなたの選択」の結果ではなく「わたしたちの選択」の結果なのだと認識できれば、「個人の責任」は相対化できるからである(しかしもちろん、この論法は、「だから投票には意味がないので、行かない」という人々には、あまり意味を持たない)。受験については、「大学・学部選択だけで将来は決まらないのだ」という話を流通させていくことが考えられるだろう。これは、最終的な決定の「先延ばし」だが、そのことによって直近の選択(受験)が可能になる。


念のために言うと、以上の話は、「人々は投票に行くべき」「大学を受験すべき」という立場でなされているわけではない。1)「投票しない」「受験しない」は、「個人化」した現代社会における「個人の選択」の重さの帰結かもしれないということ、そして、2)そうだとすれば、そのような人々が「投票」「受験」を選択するためには、「個人の選択」の重みを緩和することが必要なのだろう、ということを述べたに過ぎない。投票/受験の是非そのものは議論していない。

 

 以上、本当はもう少し目の覚めるようなアイデアがあればよいのだろうけれど、残念ながら直ちに思い浮かぶものはないし、そもそもこの記事は雑感・メモなので、この程度で。

 

 

2017年10月20日

[]頂きもの

 監訳者の木村幹さんから、チョ・ファスン/ハン・ギュソプ/キム・ジョンヨン/チャン・スルギ著、藤原友代訳『ビッグデータから見える韓国――政治と既存メディア・SNSの代は水無我織りなす社会』白桃書房、2017年、を頂きました。どうもありがとうございます。

[][]『熟議民主主義の困難』の刊行

 拙著『熟議民主主義の困難――その乗り越え方の政治理論的考察』(ナカニシヤ出版、2017年)が、刊行されました。熟議民主主義に関する前著『熟議の理由――民主主義の政治理論』(勁草書房、2008年)以降に発表した、熟議民主主義関係の論文8点をまとめ直したものです。

熟議民主主義の困難

熟議民主主義の困難

熟議の理由―民主主義の政治理論

熟議の理由―民主主義の政治理論

2017年10月06日

[]頂きもの

1)共訳者の一人である、日下渉さんから、ジェームズ・スコット(清水展・日下渉・中溝和弥訳)『実践日々のアナキズム――世界に抗う土着の秩序の作り方』(岩波書店、2017年)を頂きました。どうもありがとうございます。僕の最近の関心朋重なるところがあるはずだと思っています。


2)著者の塩原良和さんから、『分断するコミュニティ――オーストラリアの移民・先住民族政策』(法政大学出版局、2017年)を頂きました。どうもありがとうございます。今年に入って二冊目(!)の単著です。


3)生澤繁樹さんから、末松裕基編著『教育経営論』(学文社、2017年)を頂きました。生澤さんは、第10章「教育経営を社会思想・哲学から読みなおす――学校経営の責任と罪とデモクラシー」を執筆されています。

 

 生澤さんからはまた、論文「実践知と政治教育のリアリティ――『構想力』を育む学びに向けて」『学校教育研究』第32号、2017年8月、21-40頁、も頂きました。自分の研究にヒントを得られそうな気がします。


4)榊原千鶴先生から、「明治期女性教育書にみる日本の近代化――第一回『明治孝節録』」『象』第88号、2017年7月、2-12頁、を頂いておりました。どうもありがとうございます。名古屋大学ジェンダー・リサーチ・ライブラリへの寄贈書の紹介・検討を行うものです。

[]お買いもの

↑日本のアマゾンではまだ未公刊となっていますが、既に刊行されています。

2017年10月01日

[][]『ここから始める政治理論』刊行しました

 このたび(2017年4月)、松元雅和さん、乙部延剛さん、山崎望さんとともに執筆した、『ここから始める政治理論』(有斐閣、2017年)を刊行しました。政治学のなかの「政治理論」なる分野についてのコンパクトな教科書です。文体はできるだけ易しく、しかし、内容は高度なものまで含むものとなっています。

ここから始める政治理論 (有斐閣ストゥディア)

ここから始める政治理論 (有斐閣ストゥディア)

2017年09月25日

[]頂きもの

1)訳者・解説執筆者の横濱竜也さんから、ジョセフ・カレンズ(横濱竜也訳)『不法移民はいつ〈不法〉でなくなるのか――滞在時間から滞在権へ』白水社、2017年、を頂きました。どうもありがとうございます。横濱産の解説は、なんと100頁弱(?!)もあり、ほとんど寄稿のようなものです。また、横濱さん+谷口功一さん+井上彰さんによる座談会「危機の時代の移民論」も収録です。


2)著者の仲正昌樹さんから、『ヴァルター・ベンヤミン――「危機」の時代の思想家を読む』(作品社、2011年)を頂きました。「また新しい本を?!}と思ったら,初刷りは2011年3月(2刷、2014年2月)で、私が在外研究の時に刊行されたご本でした。某プロジェクトとも関係のあるはずのテーマで、ありがとうございます。

ヴァルター・ベンヤミン――「危機」の時代の思想家を読む

ヴァルター・ベンヤミン――「危機」の時代の思想家を読む

2017年09月22日

[]お買いもの

スヴェン・スタインモの翻訳本を買っていました。装丁などがやや地味に見えてしまいますが、重要な比較政治学の文献です。