読書

下記の『新編 日本のフェミニズム4』所収の村田論文で言及されていた、江原由美子「家事労働を『強制』するメカニズム」小倉利丸・大橋由香子編著『働く/働かない/フェミニズム』(青弓社、1991年)を読んでみる(こんな本も持ってきているのだった)。

働く/働かない/フェミニズム―家事労働と賃労働の呪縛?! (クリティーク叢書)

働く/働かない/フェミニズム―家事労働と賃労働の呪縛?! (クリティーク叢書)

ごく短い論文というか、小倉利丸氏との対談への小倉氏による「補足」へのコメント、という形式の文章なのだけれど、江原氏の鋭い視点がよく表現されている。言及されていた部分だが、この箇所。

男性たちは、女性たちが学んでいる活動の必要度への認知を、けっして真面目には受け取らない。女性から学ぼうとはしない。実のところ、この男性が女性からは何も学ぼうとしないということこそ、男女の権力関係をもっとも直接的に示しているのであるが、学ばないから男性は何もしない。だから安心して任せられる態勢が整わない。だから、女性は自分でやり続ける。その事実をもって男性たちは「女は要するに育児や家事が好きなのだ」といってしまう。「母性イデオロギーにとらわれているからだよ」「家族なんかにとらわれる必要ないんじゃないか?」などと批判する。しかしこのような意見は実のところ自分が家事や育児や介護をするという必要を認知しないことを正当化するものでしかないと私は思う。(同書、120-121頁)

 ここには、その前での小倉利丸氏との対談でも語られているような、労働その他をコミュニケーションとして見る視点が反映している(まあこれはこのコメント文章に限られた話ではなく、江原氏の基本的な視点だが)。もっとも、男性たちが「学ぼうとしない」状況は、安冨歩氏の言葉でいえば、「ハラスメント」なのだろうけど。この「コミュニケーション」には、相手の言動を受けて、リフレクト/学習するという契機が存在しないのだから。
 それはともかくとして、江原氏の議論は、「コミュニケーション」のありかたの中で、どのようにして「やらざるを得ない」という形で「強制」が発生するかを、的確に言い表していると思う。


 江原氏本人の議論からそれたことを書くと、上記の話を、「家族」内における(ハラスメントではない)「コミュニケーション」が重要だ、という話に引き取ることもできるように思う。僕の好みでは、「家族内における熟議」ということだ(もちろん、それをどうやって実現するのか、という話はある)。
 

 ところで、小倉氏の提唱する「個人賃金制」は、この本を読む限りでは、山森亮氏が書いている労働概念の拡張を通じたベーシック・インカムの話とかなり重なっているような気がする。

ベーシック・インカム入門 (光文社新書)

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