"Jack Bruce"が亡くなって・・・

自宅で亡くなったそうだ。

「肝臓」を病んでいたらしい・・・。



折りしも、NHKの”SONGS”でツェッペリンの「”回顧”放送」をやったばかりで、それを見ながら私は、「ツェッペリン」は後で追いかけ見直し聴きなおし・・・したわけで、僕はやはり「クリーム」だったんだけれどなぁ〜〜〜・・・・と思いながら「天国への階段」を見ていた。


・・・その後に、FBを開いたら、jack bruceの写真や記事がたくさん取り上げられてた。


始めて「クリーム」を耳にし、その名前を聞いたのは、高校の頃だった。
ジャズを聴き漁っていて頃で、定期試験の勉強をしていた頃だった。
ラジオの番組で、確か・・・「ミッドナイト・ジャズ・レポート」という番組を”ながら勉強”で聴いていた。

確か、毎週木曜の夜1時頃・・??・・にやってた番組だったが、そんなある木曜の晩だった。いつものように、聞いていたら、「今夜は、”クリーム”をお送りします。三人編成のロックバンドですが・・・。」
・・・とか何とか、セクシーなDJのお姉さんの声を聴いていて・・・。

「何!!??3人でロック??!!」と半信半疑で耳を傾けていた。

当時の私のギターの常識では、ロックバンドといっても、アンプを限界までオーバードライブさせたサウンドは、引き出しの中に無かった。


・・・そして、「スプーンフル」が始まった。
そして、クラプトンの弾くギターのサウンドに、”吹っ飛んだ”・・・。


”サティスファクション”のイントロの、いかにも”Fazz”サウンドではない。
後で、アルバートホールのライブのBBCの放送を、NHKで見るまで、どういう楽器をどう使っているか・・?・・なんて解りえなかった。
マーシャルのアンプと、335やSGベースからはじき出されるそのサウンドの”音重量”に唸りながら見入ってしまった。


・・・そして、”クラプトン”への傾倒が始まった。
今の自分のスタイル、フレージングには、クラプトンからの影響がその”幹”にといえる。


今・・・、jack bruceが亡くなって、ブルースがその後、私の目の先に現れて行ったことを思い出す。
その後、友人の勧めで聞き始めた”マウンテン”でも、「イマジナリー・ウェスタン」が現れた。その時、その以前バンド仲間の部屋で聞いたブルースのアルバム、「ソング・フォー・ア・テイラー」の一曲目として私の心を捉えた曲だった。

残念だが、齢71で世を去ったブルースの冥福を祈りたい。

いろいろ・・・やってきました。004

採譜・執筆の仕事が始まり、演奏活動はというと”ソウル・ストラッツ”のステージ、リハーサルなどのスケジュールはそのまま続いた。

そんな中、他にも演奏の機会に恵まれるチャンスは来た。

尚美の時の先輩に武田さんというBsの人がいた。不思議な事に、同じ国立の居を構えており、国立で会うこともしばしばとなった。そんな中で、あるバンドやっているが、付き合わないか??・・との誘いがあった。

そのバンドは、明星大学の学生がやっていた「ファンシー・ハウス」というバンド。
斉藤 恵くん(Gt.Voc.)橋本 洋子さん(Voc.Harp.)を中心にKey.Ds.Bs.という編成で、コレだけで十分なはずなのに、なぜかもう一本のGt.で私。

オリジナルのテープに何曲かの作品が入ったものが渡されてきた。雰囲気としては、「デラニー&ボニー」といったところ。
まっ、斉藤くんが歌いながらギターを弾き、完奏は同然彼が弾く。
私は、その合間を埋めて行く役どころ・・・となっていた。
それはそれなりに楽しかった。



一方の”執筆”の方も、大洋音楽出版→立東社へと紹介されて行った。”大洋”は、飯倉にビルがあったが、立東社はその頃まだまだ世間には知られない会社で、四谷の今の防衛省の前のビルにあった。

あの頃は、「バンドスコア・シリーズ」を発刊しており、海外の版権の取れた新譜をパート譜にするという作業が私の役どころ。「オールマン〜〜」では、ギター譜だけだったが、ここでは、「聞こえている音すべて」ということで、バンド全体をパート譜化するという難作業だった。

ドラムのパートから始まり、次にベース・・・・といった感じで進める作業で、私のデスクには常にスコア用紙が積まれていた。当時は、海外の新譜はマスターテープのコピーで日本に入ってくる。
レコード会社には、”38・2Tr.”で来るわけで、それを日本のプレス会社でレコード盤にして出荷・・・という順序になっていた。

その前の過程で、カセットにコピーされたものが立東社に来て、それが私に渡って来る。
したがって、メディアとしては”カセット”だった。
採譜の作業は、ヘッドフォンで聞かないと他の音と混ざって聞分けが大変であり、勿論ヘッドフォンであれば、昼だろうと夜中であろうと時を選ばず出来る。


しかし、それなりに神経の磨り減る作業ではあり、適当に休憩しないと持たない。
”音楽”を扱っているにもかかわらず、”音楽”的では決して無い作業でありました。



当時、「タブ譜」がすでに出回っていたが、立東社は独自の方法で、譜面に分数で「フレット/弦」という記譜を採用していた。まっ、コレはギターの譜面にだけ付ければよかった。ベースも同じように出来るにもかかわらず、こちらは”おたまじゃくし”のままでよかった。


この仕事が始まった頃、ストラッツのメンバーとの関係で国立に居を構えていた。
国立の街が近いのに、”府中市北山町”が住所だった。
採譜の作業に疲れると、のどかな国立の駅前辺りまで散歩した。いつも覗くのが、駅前の”ミスター・ドーナッツ”だったように思う。

国立の先輩方の中に吉田さんというTp.の方がいて、その方の奥さんがその店で働いていたので、皆、ついついその店に集まってしまう・・・・といった具合だった。
その店を覗くと、必ず他の国立在住のミュージシャンの誰かしらがコーヒーを飲みに来ていた。
そんな中で、新しいバンド活動の話が来たりした。

−続-

いろいろ・・・やってきました。003 [採譜&執筆} 編に至るまで・・・。

自分の過去の経験(実績)を語るのは、やはりあまり好きではないのです。

事実、ここで書く”執筆”についてもそうですが、「過去の自分は捨てて行く。」・・・という信念(?)みたいなものがありました。
したがって、ここでの実績の中心になる”立東社”&”リットー・ミュージック”の頃の出版物のほとんどは、度重なる引越しの際に、部屋の裏の路地に積んで捨てて来たのであります。


まずは、ことの発端であります。


”尚美”の2年半ば、ピアノの授業についていけなくなった私(正直に・・・)は、中退を決意。
赤松学園長も引き止めてくれたものを、ツッパリ??・・・で中退。



”遊んでいる”訳もいかず、測量会社でアルバイトをしました。
その後、友人の紹介で、「キャバレー回り」をはじめて、”その手”の最後の店は、赤坂でした。
小さなコンボで(Sax.Gt.Bs.Ds)韓国の曲を演奏する店でした。バンドリーダーは、今、「テレビ東京」で伴奏をしてブラウン管で皆さんご存知の、クリアトーン・オーケストラのバンドリーダーの岡宏さんでした。


岡さんは、Ten. SaxとSop.Saxの持ち替えでして、譜面は、タイトルがハングル(勿論、日本語のタイトル添え書き付き)で、私が聴いた事のある曲は、ところどころ・・・。
・・・・まっ、この時期の事は、また別の機会に。


 そこが終わって、すぐに、「ソウルバンド」を作る・・・という話が来て、知り合いの知り合いで、Bsの松永君という人とあるバンドのリハに通っておりました。
 しかし、そのバンドは、中途でパンク。

そこへ、松永君から紹介されて、行ったところが、後のロング・ランとなるバンド「ディノ&Soul Struts」でありました。リーダーのディノは、アメリカ大使館務めの日本語バリバリ黒人。

初めてのリハで顔を合わせたのが、今のヒロ小川くんであります。
彼は、まだ法政大学の学生でした。

ドラム:板垣くん・・・等々のメンバーで仕事が始まり、メンバーも様々入れ替わりまして・・・。
ディノは、Ten.Saxで、そのうち、Tp.も入れようという事になりました。
そこに何人かのTp.の人が(コレは、日本人)入れ替わり立ち代わり・・・して、神代さんという国立音大出身の人で、やっと落ち着いてきた頃でした。



基地回りが多くなり、おまけに新宿や横浜BPなんぞという半レギュラーの仕事が続くようになった頃でした。
神代さんから、「阿部君、ギターのレコードを譜面に出来る?」・・・と話をいただきました。


実は、神代さんの大学の友人の江守幸一さんという人が、「大洋音楽出版」に勤めていて、”オールマン・ブラザーズ”の「ギター譜」の本を出すので、ギターの譜面を採れる人を探しているという。

尚美の頃から、ケニー・バレルやラリー・コリエルのソロを研究のために譜面に採ることを、自己啓発の一つとしてやってきたので、即引き受けたのであります。

はじめは、その手の作業が「仕事」になる・・?・・・・ということに半信半疑だったのですが、何曲かの入ったテープを受け取り、採譜し、納品したのであります。



そして、納品し終わって、2ヶ月位経った時に、大洋音楽出版から大きな封筒が届きました。
中には、「ウィッピング・ポスト」?・・・・とか、私の採譜した譜面が、綺麗に印刷された本が入っていたのでした。

その翌月だったか、銀行に原稿料が振り込まれる・・・・という、まるで、本で読んだような生活が始まったのであります。
そして、その後15年に渡る執筆生活の始まり始まり・・・・で、あります。

  • 続-

いろいろ・・・やってきました。002

そんな訳で、当時はまだ”DTM”なんぞ、ありもしない時代でしたので、スコアは書いてもサウンドチェックはパート譜に写譜して、初めて結果の解かる・・・といった具合でありました。

尚美の時代の蛇足ですが、学園内にはJazzを志す先輩が多数いまして、私の入った”基本科”といういわば予備クラスにも、ギターで何人か、サックスに一人・・・と結構歳の行った先輩達もいて、なるほど、順調に年月を過ごして来た私には、少々ショックがありました。

そのサックスの人が、「峰厚介さんの弟子」ということで、銀座のジャンクに連れて行うこともしばしばでありました。・・・というか、アルバイトでジャンクのウェイターをやっていたらしい。
お蔭で、「渡辺貞夫さんの作ったフルバンドのリハ→本番」とか当時大ヒットしてた「菊地雅章セクステット」??のリハなどなどの当時としては、得がたい経験をさせてもらえました。
当時ヒットしておりました「ダンシング・ミスト」の裏舞台を見学できました。


実は、”ジャンク”に何度目か行った時に、日野高校の同級だった宮崎隆信君とばったり。彼もジャンクに勤めていて、やぁやぁ・・・と再会を果たしておりました。
後に、やはり銀座のスウィング・スウィング・スウィングに友人のピアニスト森田潔さんについていった時、宮崎くんはその店の”店長”をやっておりまして、「出世」の姿を見る事が出来ました。

現在は、小岩で”COCHI”というこの世界では名の知れたお店のオーナーになっております。
http://www.jazz-cochi.com/



−続-

いろいろ・・・やってきました。001

高校の同窓会があった。
立川のパレスホテルだった。

そして自分の「歩んできた道」への再確認が、”新たな反省”と、”新たな自信”を生んだ出来事だった。


思い起こすにいろいろやってきた。
最初は、ギターで尚美の門を叩く。

この時点で、中学・高校とやってきた楽譜と楽器論(ごく初歩的・・・)の知識があった。
高校を出た時点で、楽譜に対するある程度の慣れは・・・あった。



”尚美”のカリキュラムが始まって、はたしてどんな内容があるのか・・・?・・・、興味深々だった。
かなりの「期待」とそれを上回る「不安」。



授業が始まると、一週間で見えはじめた。
まず、「和声学」・・・・・コレは、ハマッタ。

そして、「音楽史」・・・これまた、新しい世界の登場。古い音楽の淵源に触れるという、またも無い機会だった。
「音楽美学」・・・・同様に。

「聴音」・・・・コレは、チャレンジだった。
それまで、家で聴いてたレコードやテープを譜面にするということは、少しづつやっていた。

「視唱」・・・・最後まで、不得意・・・・だったが、所謂、初見の譜面で歌うのである。
自分ではイケて入ると思ったのだが、一年・・・振り返って成績は良くなかった。

「対位法」・・・これまた、窮屈な印象。
あの頃、曲を書きたい、アレンジしたい・・・・、という想いが出始めていた頃だった。



管弦楽法」・・・・一番の注目学科でした。当然、成績もクラスの群を抜く内容でした。
教授の後を追い回して、迷惑をかけた思い出ばかり・・・。

「ピアノ」・・・まるで、ダメ。

「ギター」・・・・はといえば、尚美に入ったのだが、期待は裏切られた。
それを穴埋めする意味で、当時尚美の在校生の間でささやかれていた「A.N.JazzSchool」の存在。
早速、門をたたく。
当時のJazzの最新概念・・・、特に、「ハーモニー論」が私の興味をくすぐった。
こちらの師匠は、知る人ぞ知る達人だった。



しかし、「A.N.」に通う頃には、はっきりと自分の目指すものが見え初めていて、Jazz Gtの技術的な側面にはあまり興味がわかなかった。



”ギター”については、クラプトンのそれであり、コリエルのそれだった。


そして、自分でアレンジ用のスコア用紙を持ち始めるのに、時間はかからなかった。
二年先輩に、竹内さんという作曲科の方がいた。
この人が、”憧れ”になった。

”学園祭”で、竹内さんが作ったオーケストラが彼のオリジナルを演奏した。
そこで、ピアノを弾く彼の勇姿に、自分の将来を重ねていた気もする。




ちょうどその頃、高校のブラスバンドの先輩に電話をする事があった。
昭島のアマチュアのオーケストラがあり、そこでサックスを吹いている・・・という。
「コレだ!!」と思い、練習をたずねた。
次の練習から、そのバンドでギターを弾いていた。



それと、そこで知り合った国立音大在学中のTpの人について、国立OBでフルバンドをやるから来てみろといわれ、たずねて行き、こちらも、次の練習からギターで参加した。



そして、自分の”アレンジ業”に拍車がかかったのは言うまでも無い。
昭島のバンドでアレンジをやらせてもらい、そのために書いたスコアを、先輩の竹内さんに見てもらった。

あくまでも、「やる気」だけ。
お粗末な内容のスコアに対して、竹内さんはそれでも目一杯激励を込めて、指摘・指南をしてくださった。

昭島のこのバンドは、現在でも「ABC.Lab.Band」として活動をしている。
このバンドの創始者は関雄策氏で、今でも、バンドの指導に携わっている。



ちなみに、この頃の私のアレンジのバイブルは、渡辺貞夫さんの「Jazz Study」とデルボの「Jazz Scool」。楽器論については、尚美の管弦楽法の本と、別に”音楽の友”のより厚い管弦楽法だった。

その他、様々なジャンルの本を無い金貯めて、買い捲った。
「音楽工学」何種類もの「和声学」・・・等々。



楽器は”ギター”のままで、当時のアイドルは、山木幸三郎さん、杉本喜代志さん。海外では、ラリー・コリエル、エリック・クラプトン、フレディー・グリーンなどなどだった。
杉本さんとは、縁あって、今でも会ってお話を伺う事、一緒に演奏もさせてもらう機会もあった。

  • 続-

むかしむかし・・・・ 005

・・・それで、なぜ”印税”なのかという話だったのだが、失礼しました。
話は、楽器の方に行ってしまった。


清志のがギターを買う時は、必ず、この印税の時らしい。
「帰れない二人」という曲をご存知の方も多いと思う。陽水のアルバムに収まった曲で、実にこの曲は陽水と清志の共作であります。
陽水の大ヒットアルバム「氷の世界」が売れたお蔭で、清志にも印税は入ってきたのであります。

ちなみに、このアルバムではもう一曲「待ちぼうけ」という曲が、二人の共作であります。
アレだけ売れたアルバムである、ギターの一本も買うだろう。

・・・という話は、清志自信から聞いた。
阿部:「えっ!?? 金どうしたの??」
清志:「アルバムの印税・・・なのよ。」
阿部:「どのアルバム???」
清志:「アキミくんの”氷の世界”」
(清志は、時々、陽水をこの呼び方で呼ぶのです。)
陽水=アキミ・・・・、読めるわけでらありまして、本名の読み方は、”イノウエ・アキミ”である。


・・・なるほど・・・である。
私が参加して間もなく、清志は国立の西の方に一軒家を借りて引っ越した。
そこには、何度か遊びに行ったりした。
その時に、たしか、ギブソンES-130だったと思う。セミアコのレトロなデザインのギターもあった。
そのギターも、その前の年の印税で買ったとのこと・・・・。

アレだけ売れたアルバムである、そう安くは無い楽器の一本も買えるというもの。
しかも、どちらもビンテージの本物、時代モノである。