正岡子規と「坂の上の雲」の感想文

寺本匡俊 1960年生 東京在住

和泉そして吉野  (第6回)

 日本海海戦に関連する諸サイトを拾い読みなどしていると、どれもまあ勇壮なことこの上なく、旭日旗Z旗が翩翻とはためいている。こうして戦艦の名をタイトルにしておきながら、私は余り艦船自体には関心がなく、それに乗っている人たちのほうに興味がある。

 それにしても、和泉、良い名である。戦闘開始直前に索敵に駆け回った第六戦隊の一翼であった。和泉の艦長は石田一郎大佐と記録されている。この日この船には、後にA級戦犯になった嶋田繁太郎も乗船しており、ローリングのひどい艦だったという感想を残したそうだ。

 信濃丸の第一報を受けた和泉は、バルチック艦隊との交差予定地点を割り出して、単身、猟犬のように駆け出した。味方を待っている場合ではない。ロシア艦隊に急接近しながら全員、戦死を覚悟したことだろう。実際、敵を発見してからは並走し、その軍容の詳細を打電し続けている。


 ロシア戦艦は黒、煙突は黄色という不思議ないでたちを速報したのも和泉である。戦勝後、東郷司令長官が語ったところによると、「自分は敵艦隊のすべてを、敵に遭う前に手に取るように知り尽くしていた。それは和泉の功績である。」と最大限の賛辞をこの古参巡洋艦に贈っている。

 信濃丸には気付かなかったバルチック艦隊も、さすがに和泉は敵だと認識した。一番打者はバッター・ボックスに入ったのだ。だが、なぜか妨害電波を発することなく、ロシア艦隊の諸情報は日本側に筒抜けになった。ともあれ、この仕事、陸軍ならば騎兵の役割であろう。好古が和泉の捨て身の活躍ぶりを知ったら、膝を打って喜んだに違いない。

 この和泉の調達よりも少し早い時期に、日本が英国から購入した巡洋艦に「吉野」がある。吉野は日本海海戦に参加していない。旅順で僚艦「春日」と接触して沈没し、艦長以下、多数の死者を出した。ここしばらくの老艦物語の最後において、吉野についても触れたい。


 吉野の名は早くも文庫本第一巻の「軍艦」という章に出てくる。富国強兵の時代であった。イギリスに造船を発注し、英国駐在武官加藤友三郎大尉が造艦監督を務め、竣工してからは回航委員を任じた。新品の吉野を受け取るため英国に渡る海軍ご一行様の中に、海軍少尉になったばかりの秋山真之の名がみえる。


 さて、ここからの話は誰かの日記か手紙にでも載っていたのだろうか。海軍が東京における停泊港として使っていた品川に、村田屋という御用達の上陸宿があったそうで、そこで働く「ミス・ネイヴィ」といわれた女中頭、おなおさんという威勢の良い女が出てくる。

 彼女の亡夫は伊予の船乗りだったそうで、同郷の真之が任官一年で英国行きと聞き、「秋山さん、ただごとじゃないよ。将来の参謀だね。」と喜んだ。おそるべき慧眼である。


 この一行をロンドンで迎えた加藤大尉は、ミセス・スタンレーという海軍の定宿に連れて行き、吉野自慢をしている。この店にもエミリーという気のきくチーフ・メイドがいて、こちらも海軍士官たちから、おなおさんと呼ばれている。

 真之が日本語でビールを注文すると、ちゃんと出て来た。日本語が分かるようですねと秋山が言うと、加藤は「古いからね、山本権兵衛さん時代からいるから、海軍にいれば大佐だろう」と再び自慢気である。


 この日英おなおさん同盟ともいうべき両名は、後年、上司と部下になった。しかも職場は決戦間近の戦艦三笠である。参謀総長の重責を担った加藤友三郎は神経性の胃痛を患い、開戦直前には劇薬でもいいから五時間だけ生きていられるような薬をくれと軍医のドクター鈴木に頼んでいる。それなのに上司は泰然自若としているし、部下は豆ばかり食っている。

 さらに海戦の初日は、出撃時から砲撃終了まで司令長官が旗艦のブリッジから頑として動こうとせず、加藤もお付き合いで死地に立ち続け良く長官を補佐した。部下の秋山は事ここにいたって何故かノートにメモを取り始めた妙な姿が、文庫第八巻の表紙絵にも描かれてしまっている。


 ずっと後になって、加藤は東郷よりも偉いと言えば偉い人になった。第二十一代の内閣総理大臣である。その前にはワシントン条約の特命全権も務め、今は知らないが昔は小学校の社会の教科書にも乗っていた軍縮条約に署名している。

 ただし、加藤さんの胃腸は完治していなかったのか、首相の任期途中で病没した。その後任がまだ決まらないうちに関東大震災が起きている。当時は大正天皇もご不調とあって、後の昭和天皇が摂政の地位にあったから、いわば震災は権力の空白期間を襲ったようなものだ。


 摂政は展望を求めて上野の山に登り、かつて官軍と彰義隊が激戦を繰り広げたあたりから、烈震と火災で灰燼に帰した東京を見つめた。西郷さんの像の近くである。加藤の後任は翌9月2日に急きょ決まった。山本権兵衛である。

 山本は真之の「天気晴朗ナレドモ」について、軍事の電報に美文はよくないと批判している。その根拠は、ありのままに書かないと誤解を招きかねないと、何だか子規の写生論みたいなことを言っている。英国で初期のおなおさんの世話になっていたくせにと真之が思ったかどうかまでは書いてない。




(この稿おわり)






近所の公園にて  (2014年7月22日撮影)






今朝の朝顔




















 吉野山風に乱るるもみじ葉は我が打つ太刀の血煙と見よ

                          吉村寅太郎













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